【12月刊試し読み】水神の契り

角川ルビー文庫

第1話

一、



 陽が沈もうとしている。

 純白のシーツや壁、包帯が赤く染まってゆくのを、天音<あまね>はただ見つめた。

 天音は愛らしい子どもだった。同じ年齢の子どもたちより小柄で、手も足も細い。子どもにしては整った顔立ちは、おとなたちの間で秘かに天使のようだと評されている。でも今は見る影もない。

 天音が座っているのは病院のベッドの上だった。

 今朝まで生き生きと輝いていた大きな黒い瞳に光はなく、伸びやかに成長しつつあった四肢はほとんどが包帯に覆われている。 

「天音くん、一体何があったんだい?」

 病室にはママとお医者様もいて、忍耐強く天音から話を聞こうとしていた。

 天音の折れそうに細い首が少し傾く。

 何が、あったか?

 ほんの少し思い出そうとしただけで恐怖が怒濤のように押し寄せてきて、目の奥が熱くなった。天音は小さな拳で、泣きすぎて赤くなった目元を擦る。

 ――言ってもきっと、信じない。

 朝目覚めた時、天音はとても幸せな心持ちだった。

 今日は土曜日で小学校はお休み。空は真っ青で、朝ご飯は大好きなフレンチトースト。大きな公園に遊びに行きましょうとママが言ってくれて、天音は朝食を平らげるとボールを入れた鞄を肩から斜めに掛けた。

 大きな公園、大好き。明るくて、いつも犬を散歩させてる人がたくさんいる。

 でも、公園に着いてみると、犬は一匹もいなかった。その代わり、同じようにママに連れられてきた友達がいたので、天音はみんなとボール遊びをした。

 てんてんとボールが逃げる。

 友達の輪から抜けて、走って、走って、追いかけて。ボールが飛び込んでいったベンチの下を覗き込んだら、強い陽射しが作る濃い陰の中に『変なの』がいた。

 異様におおきな目がぎょろりと天音を睨めつける。形は人のようだけど、猫くらいの大きさしかない。裸で、腹がぽこりと膨らんでいる。『変なの』は骨に皮を張ったような手足を、最近ママがはまっているヨガのポーズみたいに折り曲げベンチの下に収まっていた

「ママ……」

 『変なの』がいる。そうママに訴えようとして、天音は危ういところで口を噤んだ。

 天音が『変なの』を見るのはこれが初めてではない。物心ついた頃から天音には『変なの』が見えた。

 『変なの』はそこら中にいた。排水溝の格子の下や公園の遊具の中の暗がり、それから夜の中。よくガラスにぺたりと掌を押し当てて、窓の外からじいっと天音を見つめてる。

 でも、ママは『変なの』なんていないって言う。くしゃくしゃに丸められた新聞紙や壊れた人形が目の錯覚でそんな風に見えるだけだって。

 ベンチの下の『変なの』は人形にしては薄気味悪かったけど、ママが嘘つくわけがない。

 ――それに『変なの』がいるって言うと、ママがいやな顔をする。天音はママを怒らせたくなかった。

 いつものように気にしないことにして、地面に膝を突く。片手で座面を掴んでベンチの奥へと手を伸ばしてみたけれど、『変なの』は身じろぎもしない。

 平気だってわかってるのに、『変なの』に近づくと天音はいつも緊張してしまう。だいじょうぶ、めのさっかくだものと己に言い聞かせつつ、更に身を乗り出して。

 あと少しでボールに指先が触れそうだっていう時だった。『変なの』がいきなり咆哮を上げた。

 ――――え?

 反射的に身を引こうとしたけれどもう遅い。鋭い痛みに天音は悲鳴を上げる。

 もがいていたら誰かがベンチの下から引っ張り出してくれたけれど、陽光の下へと引きずり出された天音の腕には『変なの』がしっかりと食らいついていた。

 ねえ、ママ。『変なの』なんて、目の錯覚じゃなかったの?

 肉を食いちぎられる痛みに天音は泣き叫び、地面を転げ回る。

 びっくりしたママや公園にいたおとなたちが飛んできてくれたけれど、誰も『変なの』を引き剥がしてくれない。そうして天音はようやく気づいた。皆には『変なの』が見えないんだって。

 『変なの』が見えるのは、天音だけ。

 どうしよう。どうしたらいい?

 天音は思い切って『変なの』を地面に叩きつけた。何かが折れたようないやな音が上がり、『変なの』がようやく離れる。これで諦めてくれればと思ったけれど、『変なの』はすぐに撥ね起き、天音に向かって歯を剥いた。

 誰か助けて。

 『変なの』が殺意に目をぎらぎらさせて天音の喉笛を食い破ろうと隙を窺っているのに、おとなたちは騒ぐだけで何もしてくれない。

 だから。

 天音は両手を握り締めた。ママやお医者さんにどんなにもう大丈夫だとなだめられても、いまだ手の震えが止まらない。極度の緊張に強張った躯がぎしぎし軋む。

 ――誰も僕を助けてくれなかったから、だから、僕は両手で『変なの』を受け止めざるをえなかった。

 気がつくと手の中に『変なの』の細い首があった。『変なの』の細い首はプラスチックの人形のようにひんやりとしていたけれど、無機物の玩具ではありえない弾力があって――。

 どうしよう。吐いちゃいそう。

 天音はただでさえ小さな躯を丸めてえずく。石鹸をつけて洗ったしママが大丈夫って握り締めてくれたのに、あの細い首の感触がどうしても掌から消えない。

 ノックの音が聞こえた。

「失礼します」

 スライド式の扉が開く。力なく見遣った先にパパの姿を見つけ、天音の気分は少しだけ浮上した。

「パパ……!」

「包帯だらけじゃないか。何があったんだい、天音」

 大股にベッドに近づいてくるパパはスーツ姿で、黒い重そうな鞄を手に提げていた。遠くでお仕事しているパパには滅多に会えない。とても嬉しかったのに、ママは金切り声を上げた。

「どうしてあなたがここにいるのよ!」

「息子が怪我をしたんだ。心配して駆けつけるのは当たり前だろう?」

 パパが鞄をキャビネットに置く。

「誰が知らせたのよ。――わかった、公園にいたママの誰かね。まったく、油断も隙もありゃしないんだから」

「誤解だ、変なことを考えるな、百合」

「誤解なわけないでしょう! 顔のいい男って皆こうなのかしら? 相手かまわず誘惑して」

「いい加減にしないか、子どもの前だぞ」

「なら、出てってよ!」

 見かねた医師が割って入る。

「奥さん、ちょっと廊下に出ましょうか」

 パパの手が優しく頭を撫でた。

「ごめんな天音。すぐ戻ってくるからな」

 一連の騒ぎには目もくれず、天音はじっとパパの鞄を見つめていた。

 サイドポケットの中で何かが動いてる。

 おとなたちがぞろぞろと病室から出て行くと、それは待っていたかのようにポケットから半身を覗かせた。

 白い蛇だ。でも、赤く光る目には知性があった。

 普通の生きている蛇じゃない。

 『変なの』だ。

 『変なの』が、部屋の中にいる。

 天音は悲鳴を上げた。



    +



 その夜は病院に泊まることになった。

 看護師さんが個室の灯りを消して出て行くと、天音はシーツを頭の上まで引き上げた。

 公園で噛まれた傷がまだずきずき痛む。そう深くないのになかなか出血が止まらず、お医者様は首を傾げていた。さっき巻き直してもらったばかりの包帯にはもう赤が透けている。

 看護師さんたちは天音にやけに優しかった。大きな硝子のコップを両手で支えて痛みを消すための白い錠剤を飲み下すと、上手ねと頭を撫でてくれる。その声が他の子たちに対するものよりことさらに甘く聞こえたのは気のせいじゃない。

 パパとママの仲があんなに悪くなっていただなんて知らなかった。

 廊下で喧嘩する二人を、看護師さんたちは見ていたに違いない。家に帰った二人は今頃どんな話をしているんだろう。想像すると、胃までしくしく痛みだす。

「トイレ……」

 どうにも眠れなくて、天音はベッドを抜け出した。

 パパの鞄から出てきた『変なの』は、悲鳴を聞いて駆けつけた大人たちの足下を擦り抜けどこかへ消えてしまっていた。暗がりから襲ってこないとも限らないと、天音はきょろきょろ見回しながら薄暗い廊下の中央を歩く。

 無事に用を済ませ部屋に帰り着いた時にはほっとした。でもやっぱり眠れそうになくて、ぺたぺたとスリッパを鳴らして窓辺へ歩み寄る。

 夜景が見えるはず、それが駄目でも星が見えるに違いないと思って、カーテンを引く。

 でも、何も見えなかった。視界は黒っぽいものに覆われている。

 変だなと思って何気なく上を見たら、巨大な目玉がぎょろりと動いた。

「――――!」

 声にならない悲鳴を上げて飛び退こうとし、天音は尻餅をつく。

 『変なの』がいた。窓を覆うほど大きな『変なの』がガラスにぺったりと張りついて、天音を目で追っている。

 その顎は唾液で濡れていた。おいしそうなご馳走が目の前にあるかのように。

 動転のあまり立ち上がれなくなってしまい、天音は窓の方を向いたまま必死に床を蹴った。尻を引きずって少しでも『変なの』から遠ざかろうとする。

 でも、小さな背はすぐ何かにぶつかり止まってしまった。

「おや、なんてうまそうな人の子だ」

 悲鳴を上げて振り返った天音の視界をきらびやかな色彩が埋める。すぐ背後に美々しい和装に身を固めた男がいた。町で稀に見る地味な男性用着物とは全然違い、神主さんのように丈の長い上着の下に光沢のある華やかな色彩の袴を重ねている。とても背が高くて、尻餅をついてしまっている水葵の位置からは顎しか見えない。

「まだこのような妖が生きながらえていたとは。やっかいなものに目をつけられたのう、おぬし」

「……っ、だ、誰……?」

 天音は思わず男の袴を握り締めた。

 この人にも、『変なの』が見えてるの……?

 でも、待って。この人は僕の事、うまそうな人の子って言った。

「あ……あなたも、『変なの』、なの? 僕に噛みつく……?」

 つっかえつっかえ尋ねれば、男はくつくつと喉で笑った。

「私をあのような下郎と一緒にするでない。しかし『変なの』とはまた可愛らしい呼び方だな」

 男が動くと、長い髪がさらさらと天音の頬を擽った。

 窓の外の『変なの』は中に入ろうとして窓ガラスに阻まれ、ぐるぐると唸っている。でも、きっとほどなく突破することだろう。その証拠に額を押しつけられた窓枠が内側へと撓んでいる。

 みしりという音が聞こえた。

 逃げなきゃ。

「おにいさん、お願い、退いて……」

 男を避けて後退ろうとする天音の顎を背後から伸びてきた手が包み込むようにして捕らえた。仰け反らされた白い首筋に男の鼻が寄せられる。

「なぜだ?」

 みしみしという胸が悪くなるような音が大きくなる。天音はもう、窓から目を離せない。

「なぜ……? おにいさんにも、あれが見えてるんでしょう……?」

 すでにガラスには無数のひびが入っていた。いまや格子状に入っている黒い線のおかげでかろうじて形が保たれているだけだ。

「下品な『変なの』だな。私はああいう輩は好かぬ」

 そういう問題じゃない。

「あれが入ってきたら、僕、死んじゃう……っ」

 『変なの』は動物園で見た象より大きかった。猫ほどの大きさの『変なの』にも酷い目に遭わされたのに、あんな大きな『変なの』にかかったら天音など頭から一口で噛み砕かれてしまうに違いない。

「ふふ。あれから助けて欲しいか?」

 するりと頬を撫でられ、天音はこくこく頷いた。

「望みを叶えてやってもよいが、よもやただで私を使役できるとは思っておるまい?」

 天音は必死に考えを巡らせた。

「ええと、お礼、すればいいの……?」

 今月のお小遣いはもうあまり残っていない。

「……ママは肩叩き券とかあげると喜んでくれるけど、それじゃ、駄目だよね……?」

 男は楽しそうに笑い出した。

「肩叩き券か! なるほど愛いが、それでは足りぬな」

 大きな音が炸裂し、天音は思わず身を竦めた。

 『変なの』が両の拳を振り上げ、窓ガラスを粉砕したのだ。

 硝子の破片が部屋の中に降り注ぐ。もう一刻の猶予もない。

 天音は後先考えず叫んだ。

「何でも欲しいものあげるから! だから、お願い、助けて!」

 男が待ってましたとばかりに頷いた。

「おぬしの願い、聞き届けてやろう。今の約定、ゆめゆめ忘れるでないぞ」

 たった一度殴りつけられただけで、部屋の窓硝子は粉みじんになり、『変なの』は残った窓枠を掴んで病室へと入ってこようとしていた。

「や……や……!」

 天音は無我夢中で己を抱き込んでいる男にしがみつく。

 男が片膝を突き床近くに手を差し伸べた。

 滑るように近づいてくる白いものを、天音の目が捉える。

 昼間見た、小さな蛇だ。

 男の手の中に身を滑り込ませた刹那、蛇は長い日本刀へと変じた。天音を片腕に抱えこんだまま男が刀を一閃させる。すると、窓から身を乗り出していた『変なの』の首が消えた。

「え……?」

 見る間に躯の方も崩れ、溶け流れてゆく。まるですべて幻だったかのように。

 男が血糊を払おうとするかのように軽く振るうと、次の瞬間には刀が消えていた。

 天音は瞬く星が見えるようになった外を凝視する。

 あれはいなくなったの? 僕は助かった……?

 じわじわと湧いてきた実感に、天音は男の胸に縋りついたまま静かに泣きだした。緊張の糸が切れてしまい、心にも躯にも力が入らない。

 ただ、ただ、怖かった。

 なんで?

 なんで『変なの』は天音を襲ってくるの? なんで『変なの』が見えるのは天音だけで、他の人には見えないの?

 わからない。だからこそ、よけい怖い。

 泣き続ける天音の目元を男の指先が拭った。

「さて。何でも私の欲しいものをくれると言ったな?」

 ――――あ。

 気がつけば、男の顔が首筋に埋められていた。すんと音を立て、男が天音のにおいを嗅ぐ。

「たまらぬな。おぬしの魂は果実のようだ。甘く芳醇な気を放っている」

 やけに熱いものが首筋を這い上がった。それが男の舌だと気づき、天音は仰天する。

「な、舐めちゃだめ……!」

 気持ち悪いのになんだかどきどきしてしまう。天音は男の腕から逃れようともぞもぞした。

「知っておるぞ、この味。おぬし、贄の血筋だな。おそらく、母御がその血肉をもって妖や神々と契約を成してきた一族の末裔だったのであろう。せっかく只人と変わらぬ暮らしができるほど血が薄くなったのに、父御の血筋と交わったことによって、おぬしというとんでもなくうまそうなはいぶりっど種が生み落とされてしまった、というところか」

 なに、それ。

「僕、本当に、うまそうなの……?」

「ああ、とても」

 男がくすくすと笑う。

「え……?」

 陰った視界に目を上げると、男が身を屈めたのだろう、白い顔がすぐ近くにあった。でも、近すぎる距離と涙のせいで、どんな顔立ちをしているのかは見て取れない。

 おまけに唇に何かが押し当てられ、天音は目を見開いた。

 引き結んだ唇の上をちろりと濡れたものが滑る。

 これは舌だ。口にくっついているのは、男の口だ。

「ふむ、まだ青いな」

 落ち着き払っている男とは反対に、天音は茹で蛸のように真っ赤になった。

「な……な……なんで、ちゅうするの……?」

 キスは、好きな人と心が通じ合った時だけできる特別なもの。

 天音は子供らしく、キスにロマンティックなイメージを抱いていた。それなのにどうだろう、その記念すべき第一回目を、助けてくれたとはいえこの男に断りもなく奪われた。

 ひどい。

 天音は男から離れようと虎の子のように暴れ始めた。男に触れている背中がやけに熱くて汗まで浮いてくる。でももちろん貧相な子どもの足掻きなど、男は歯牙にもかけない。

「ちと味見したまでのことであろう。おとなしくしておれ」

 肉色の舌がちろりと唇を舐め、天音の味を反芻する。

「ふむ、十年もすれば熟れ、どんな妖もおぬしの血肉を欲しがるようになるであろうな。よし、決めたぞ。十年経ったら礼におぬしをもらいうけよう」

 天音は青くなった。この人も自分を食べる気なのだ。

「嘘つき……! 噛みつかないって、言ったのに。僕、おいしくないよ。きっと、ピーマンみたいな味がする」

 男が笑い出した。

「ぴーまんか。そも、ろくに考えもせず人外のものに言質を与えたおぬしが悪いのだ。これに懲りたら二度と迂闊な事を口にせぬよう気をつけることだな。私が迎えに来るまでその身、誰にも触れさせてはならぬぞ」

 暴れる天音の顎を後ろから片手で掴み固定すると、男は指先で額に触れた。手探りで、文字のようなものを書く。最後に何か唱えると、視界が明るくなった。

 額が、光った?

 そんなことあるわけないのにそんな気がして、天音は混乱する。

「やはり力が足りぬな。これが限界か」

 男が月光を遮るように手を翳した。だが、月は消えない。男の手の向こうに透けて見えているのに気づいた天音はぞっとした。

 男の躯が消え始めていた。

「お、おにいさん……? 消えちゃうの……?」

 不安そうな声を発した天音の髪を、男がくしゃりと掻き回す。

「うむ。だが、十年経ったら礼をもらいに来るゆえ、それまで死ぬでないぞ」

 拘束していた力がふっと消えた。勢いよく背後を振り返ったものの、そこにはもう誰もいなかった。割れたガラスが散乱する暗い部屋は、何事もなかったかのように静まりかえっている。

 割れた窓から入ってくる風が冷たい。忘れていた痛みが急に蘇ってきて、天音はぎこちなく立ち上がった。



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