【12月刊試し読み】富士見二丁目交響楽団シリーズ外伝 ブルームーン・ラプソディー
角川ルビー文庫
続・咲く日まで
子どもの能力というのは、すばらしい。
僕はそれを、幼い押しかけ弟子とのつき合いの中で、日々に実感している。
沢野壽人、五歳。富士見東幼稚園カンガルー組の年中児で、バイオリン歴は約一年だが、耳で覚えて自主練習でモノにしたレパートリーが、すでに十曲を越えている。もちろん初心者用の短い練習曲ばかりだけれども、どの曲も、付きっきりの手取り足取りで教え込んだわけではないところが値打ちだ。
彼が最初に弾いた《きらきら星》は、僕のたった三回だけの模範演奏を聞き覚えた彼が、弦をキーキー軋ませずに鳴らす工夫から始まるいっさいを、独学で成し遂げた。二曲目の《メヌエット》もそれ以降も、僕はほぼ、その曲を彼に弾いて聞かせてやっただけ。
だから、手がけてはみたもののマスターできない曲も当然あった。たとえば、彼のつもりではレパートリーの二曲目にするはずだった《犬のおまわりさん》は、全曲を弾き通すには複雑すぎて長過ぎて、ラストの「いぬーのーおまわりさん こまってしまって わんわんわわん わんわんわわん」の部分だけに端折らざるを得なかった。
僕が演奏会用に練習していたのを聞いて、「それすき!」とチャレンジを申し入れてきた、モーツァルトの《バイオリン協奏曲 第五番「トルコ風」》の『終楽章ロンド』については、もはや何をか言わんやだが、壽人は、実際にやってみて自分でダメだと悟るまでは諦めない。
よって僕は、請われるままに何度でも黙って弾いて聞かせてやり……たしか二週間ほどだ、毎日。僕らルールにより、一回には三度ずつ……彼が(ボクには無理だ)と諦めたようすを見せるまで、彼が弾けそうな新曲の提示もしなかった。
幼児相手に人が悪いと非難されそうだが、言わせてもらえるならば、僕は、彼の意志と選択を尊重しただけだ。なにせ彼には厳然とした自分の意志があるのだし、「したい・したくない」の意志がある以上、「まだがんばる」か「やめる」かを選ぶ権利があると、僕は思うので。
ちなみに代案として弾いてみせて、「あっ、それ好き!」という釣り上げに成功した曲は、圭が《トルコ行進曲》の一節をアレンジして壽人用に編曲してくれたもの。十二小節のその小曲の贅沢さを、当人はむろんまったく知らない。
僕の同居人であるノッポのおじちゃんが、世界的に名を知られた天才指揮者で、自分で創ったオーケストラのオーナーで、近年はさらに作曲や編曲の仕事でも頭角を現し始めている、クラシック音楽界の有名人・桐ノ院圭だなんてことは、壽人は気づいてもいないから。
ちなみに僕らがただの同居関係ではなく、同性結婚のパートナー同士であることは、もしも万が一ばれてしまうまでは、教えるつもりはない秘密だ。
圭が僕にとって最良の協演相手であることは、いずれ彼が演奏会に招いてやれる歳になったときには、知ってほしいと思うけれども。
それというのも、今朝ちょっとしたトラブルがあったからだ。
幼稚園は休みの土曜日で、壽人が十時過ぎに「せんせー、こんにちはー」とやって来たとき、僕らは、桐ノ院オーケストラの次の演目に決めた《ベトコン》の下練習で大揉めしていた。
もちろん、いつものことである。オケとソリストは対等の立場で切磋琢磨することで、理想のコンチェルトを追求するべきだという僕らの主義によれば、練習の初期はとにかく揉める。
僕は圭の造り出す音楽が大好きで、おなじベートーベンでも交響曲ならば、黙って下駄を預けることに何の痛痒もない。彼を支える助手であるコンサート・マスターの席に座っていられるのは、やり甲斐の篤い光栄な喜びだ。
でもコンチェルトとなると話が違ってくる。僕には僕なりの音楽センスがあり、それはしばしば圭のそれとは食い違う。おたがい長いつき合いだから、まったく反りが合わないというほどかけ離れることはなくなっているけど、おたがい自分の演奏に関しては完璧主義なので、微妙な合わなさでも気持ち悪くて、修正しようとして揉めるんだ。
壽人がやって来たときに喧々諤々でやり合ってたのは、第二楽章の冒頭のテンポの件。足して二で割れば解決するってもんじゃなく、圭はベートーベンには特に思い入れが深い。また僕は僕で、ずっと薄々思ってきた、自分の演奏が圭ナイズされてるんじゃないかって危機感があって退けない。結果として、圭は弾いてるピアノをいまにもぶん投げそうなほど頭に来てた。
そんなところへ「こんにちはー」と壽人が入って来て、僕らの怒鳴り合いに目を丸くしたけど、こっちはかまってる余裕なんかないから放っておいた。壽人はしばらくドアのところで固まってたけど、いきなり叫んだ。
「けんかだめ!」
振り返ると顔を真っ赤にしていて、両手でグーを作ってきゃんきゃんと言ったのは、
「せんせーいじめちゃだめ! だめよ、あっちいけ! けんかはだめなのー!」
そして必死な顔で圭を睨みつけたまま、ワーンと泣き出した。
可哀そうなのは圭だ。一方的に悪者にされた男は、じつは僕よりよっぽど子ども好きで、壽人のことを可愛がっている。僕の生徒だからと一歩引いた関わり方でいるけれど、壽人がピアノに興味を示すなら喜んで手ほどきしてやっているだろう。壽人のための《トルコ行進曲抜粋バイオリン初心者バージョン》だって、頼んだわけじゃないのに楽しそうに作ってた。
ついでに言えば、壽人がいつ訪ねてきてもいいように、留守中と夜以外は玄関にカギをかけない習慣を作ったのも圭だ。
嗚呼それなのに、揉めてたわけを知りもしない壽人から「いじめちゃだめ!」と頭ごなしに非難されて、たぶん内心は相当がっくりきたと思う。
ふだんからポーカーフェイスを常用している男だから、顔には出さなかったけど、
「少し頭を冷やしましょう」
と言い置いて、そそくさ出て行ってしまったのは、ショックのせいもあっただろう。
僕は壽人に、「言い合いはしてたけど、喧嘩じゃないんだ」と説明し、「お仕事の大事な話をしてたんだから、今日はもう帰りなさい」と言い渡して、帰る前に圭おじさんにあやまるようにと言いつけた。
「だって、いじめてた」
壽人は逆らった。
「僕はいじめられてない」
と反論した。
「大きな声を出してたのは、どっちもだったろ?」
それでも壽人は言い逆らう。
「でもせんせー、おこってた」
「怒ってたのは、圭も僕もどっちもだ」
きっぱり言ってやって、つけくわえた。
「それでもあれは喧嘩じゃないんだ。曲作りでぶつかって、おたがいに言い分を怒鳴り合ってただけ。壽人が心配しなくても、あとでちゃんと仲直りするんだ。ああいう言い合いは、壽人が知らなかっただけでしょっちゅうやってるけど、でもいつもは僕らは仲良しだろ?」
う~ん、五歳児にはむずかしい機微ってもんかな。理解できないでもいいから、呑み込め。僕らはそういう仲なんだ。
「とにかく僕は、圭にあやまってほしい。おじさんは壽人に怒られるようなことはしてない。壽人だって、自分はちっとも悪くないのに叱られたら悲しいだろ?」
「…………」
「ああ、そっか、壽人も悪くないよ? 圭おじさんが僕をいじめてるって、思い違いをしただけだ。壽人は間違えて怒っちゃっただけだけど、おじさんは壽人に叱られて傷ついた。だからあやまってあげてくれないかな? 先生はそうしてほしい」
まだ納得はしていない顔ながら、しぶしぶうなずいた壽人が、僕を見上げて言った。
「圭せんせーよ」
「ん?」
「おじちゃんってよぶの、いやって。圭せんせーっていいなさいって」
「あ、あはっ。オッケ、了解。圭先生ね」
「うんっ」
「じゃァね、圭先生に『間違えて怒ってゴメンナサイ』って言ってから帰りなさい」
壽人の返事は、
「あした、きていい?」
懲りないケロリンパぶりに笑っちゃいそうになった顔を引き締めた。
「うーん、明日もまだやってそうだけど……あ、じゃない、明日はいない。あげたカレンダーにバツ印つけてあったろ?」
明日は桐オケのマチネー公演が入ってる。
「月曜日ならいいよ」
ということにしよう。僕らはオフで、ゆっくりしたいところだけど、壽人は幼稚園があるから、来るのは三時半以降だ。圭も文句は言うまい。
「わかった」
そう頭を振って、タタッと部屋を出て行った壽人は、台所に向かったようだ。
「圭せんせー!?」
と呼んだところを見ると、台所にはいないらしい。二階かな?
「圭せんせー!」
壽人は二階に上がってはいけないルールなので、階段の下から怒鳴ってる。
降りて来るかな? たぶん来るだろ。
そう踏んで、僕は台所にお茶を入れに行った。ああ、いや、紅茶にしようかな。一時休戦のティーブレイクだ。
やがて階段を下りてくる足音が聞こえて、壽人が力いっぱい「圭せんせ、ごめんなさい!」と叫ぶのが聞こえた。圭の返事は低くて聞き取れなかったけど、何か話し合ってる壽人の声の調子からして、仲直りができたようだ。
少人数用の小さなヤカンがシュンシュン沸き始めたころ、
「せんせー、さよーならー!」
と壽人が帰って行き、僕はティーポットにダージリンの茶葉を入れた。よく沸かしたお湯を注いで、味と香りが充分出るまで待つあいだにティーカップの用意。残ったお湯でカップを温める。
圭が戸口にやって来る足音がしたんで、
「とんだ水入りだったね」
と声をかけた。
「ついでに休憩しよう。クッキーでもつまむ?」
返事がないんで、まだしょげてるんじゃないだろうなと思いながら振り向こうとしたら、後ろから抱きしめられた。
「はいはい。子どもの言うことで落ち込むなよ」
「べつに、そういうわけでは」
「じゃァなに? あ、そろそろいいかな」
向きを変えて紅茶を注ぎに行こうとしたけど、圭は放してくれなくて、正面から抱き直される格好になった。
「え~? なんだい、どうかした?」
圭は両腕で僕の背中を抱いたまま二、三秒ためらってから、沈んだ声音で言った。
「なにがきみにああまで意地を張らせているのか、わかりません」
「んん~? 曲のこと、だよね?」
「きみとの《ベトコン》はこんどが三度目です。初回は時間が足りなくて不満が残りましたが、二度目の前回は満足の行く出来に仕上げられたと、僕はそう評価していました」
「うん……」
「その返事は、異存があるということですね」
「いや、そうじゃない。あのときは、あれが最高だと思った」
「ということは、その後に心境の変化が?」
「ん~~~……っていうか、今回改めて取り組んでみて、直したいところが出て来たっていうか……」
「もしや、パリで協演したポントワイユ氏の影響ですか?」
「あー……いや、たぶん違う。彼はソリストを立てるタイプの指揮でやってくれたから」
「しかし、多少の影響は受けたのでしょう。今回ああした食い違いが起きるということは」
「いや、でもさ、前回って四年前? いや、もう五年か?」
「四年と七か月前ですね」
「あっそ。どっちにしろ短くはない時間だから、そのあいだにおたがい変化して来たってことじゃないのか?」
成長したって言いたいところだったけど、圭が不満がってるってことは、自分では前へ進んでいるつもりで横道に逸れちゃってたのかも知れなかった。だから控え目に『変化』って言い方にしたんだけど。
「僕の振りは、前回どおりです」
「ん?」
「完成したレシピとして、前回どおりに演っています」
ちょっと待って。
「変わったのは、きみの演奏です。ですので原因を究明したいと」
「ちょいタンマ。せっかく入れた紅茶が冷めちゃう」
ってのは口実だったけど、僕には喉湿しと考える時間が必要だった。
四年以上前の演奏を、すべて記憶してる? ああ、いや、脳みその記憶野がスパコン仕様の圭には可能なんだろうけど……そういうこだわり方って丸か?
「だし、座って話そうよ」
まずは放してもらって、蒸らしてあったままの紅茶をカップに注ぎ分けた。
「出過ぎちゃってるよ。ミルクティーにしようか」
「いえ、僕は」
「濃すぎて渋くなってるぞ」
「かまいません」
はいはい、紅茶どころじゃないわけね。僕の分には冷蔵庫から牛乳を出して注ぎ足して、テーブルについた。ほんの少々の時間稼ぎだったけど、よし、準備はオッケーだ。
「はい、お待たせ。で、きみは、僕の《ベトコン》が変わったのは、ポントワイユさんの影響じゃないかと疑ってる、と」
「まあ、端的に言えば」
「百パーセントないとは断言できないね」
言ってやって、続けた。
「自覚はまったくないし、影響を受けるほど彼の指揮に心酔した覚えもないけど、稽古を含めて三日間・2ステージをご一緒したわけだし、相性は悪くなかったから、彼の感性にまったく影響されてないかって言われれば、厳密にゼロだとは言い切れない。
でも僕は、僕の演奏が四年七か月前とは変わっているなら、そのあいだのいろんな経験や勉強の成果だと思いたいね。そもそも演奏っていうのは、変わっていく面もあるもんだろ? じゃなきゃァ、デビュー当時は若気の至りみたいな演奏をしていた人間が、年輪を重ねて円熟の境地に到達するなんて、あり得ない」
そこまでしゃべって、息継ぎついでに紅茶を一口すすったが、圭は傾聴する態度のまま反駁の口をはさんでは来なかった。言いたいことをぜんぶ言わせてから、おもむろに反論を繰り広げるのが、近ごろの圭のやり方だ。よって僕は話を続ける。
「だから僕は、きみのスーパーコンピューターが記録してるのは『三十代前半だった僕らの完成形』であって、いま目指すべきなのは『三十代後半の僕らの完成形』なんだって説を推奨するよ。
っていうか、昔そっくりの演奏じゃないと変だっていう、きみのその感覚のほうが、僕としてはどうかと思うけど? きみの《ベト七》とかは、いつ聴いても(これがベストだ)って思わせるってことは、演るたんびに前よりベターってわけだろ?」
そしてハタと思いついたのは、さっきちらりと考えた危惧。
「あー…………もしかして、僕の演奏には成長がない? どころじゃなくて、迷走とか後退してるとか? だったら……大問題なんだけど」
圭は答弁を練るかのようにうつむいて、手をつけていなかった紅茶を一口含んだ。ギョッとしたのがわかり、無理やり飲み下そうとした喉仏が苦しげにうごめいた。
「ほらァ、渋かったろ? 牛乳、いる?」
「いえ」
それ以外の解決法とばかりに、カップを遠くに押しやって、圭は僕に目を向けた。
「すみません、くだらない杞憂でした」
「ん?」
「白状します。きみの演奏に、かつてはなかったまろやかさが目立つようになったのは、誰か第三者の影響ではないかと、疑心暗鬼がもたらす妄想で嫉妬しました」
やれやれ、きみって男は……
呆れ気分のため息を思いっきりついてやって、言ってやった。
「あのね、ポントワイユさんって悪い人じゃないけど、欧米人種じゃない僕との仕事はけっこうおざなりな感じで、中年太りで腹は出てるし、はっきり言って醜男のたぐいだぞ?」
「なるほど。安心しました」
「あっそ」
「おざなりな仕事をするような相手を、きみが認めるわけはない」
「まあね。ベテランだから、無難に合わせてくれて楽だったけど、刺激を与えてくれるようなステージにはならなかった。それでもスピーギ氏みたいに一から十まで喧嘩腰で来られるよりはましだから、相性は悪くなかったことにしただけさ。
でも、まろやかさってのは……角が取れた感じ? それとも」
「むろん、いい意味です。角が取れた、というのとは少し違いますが、あー……音色のことですので」
「前よりいい感じ?」
「きみが嫌う言い方で申しわけありませんが、色香が増したと」
「それがポントおじさんのせいじゃないかって疑ったなら、家庭争議だぞ!」
怒ったふりで人差し指を突き付けてやると、冗談だとわかってる圭は余裕の苦笑を浮かべてみせた。
「まさかそこまでは思いません。ただ近ごろは、海外に出かけるきみを見送るばかりで、いささかならずフラストレーションは溜まっています」
「じゃァこんど、都合つけて一緒に行こう。向こうのファンたちは待ってるよ? サムソンのディビッドさんに言えば、喜んでツアーだろうと組んでくれるだろうし。そろそろ海外遠征も解禁でいいんじゃないかい?」
「桐オケの世界デビューですか?」
「あー……それはどうだろう。和製オケの海外公演って、かなりハードル高くないかい?」
「まずは日本の地理的条件からして、渡航費用が莫大になりますから。償却できるだけの興行収入を稼ぐには、それなりの知名度がありませんと」
だよね。それに僕が言いたかったのは、
「単身で客演ってのは、きみ的にはペケ?」
「留守を任せる副指揮者が必要になります」
「あー、まあね」
年収の当てにできるような大口の寄付や補助金はなしの、独立採算でやってる桐ノ院圭オーケストラは、三週間の有給盆休みがある以外は年間フル回転。代振りの指揮者は置いていない現状では、圭はオケを離れられない。
「貞光はけっきょくバイオリンに落ち着いちゃったしなァ」
僕が大学講師だったころ、最初の生徒の一人だった由之小路貞光は、圭のコンサートに連れて行ってやったら一目惚れして、指揮を習いたいとフジミにやって来た。熱心に通い詰めて、いつの間にか圭の代理を務めるようになって、定演の舞台を振ったりもしたが、あくまでもフジミでのことだったし、いまは渡欧してバイオリニストとしての修業中。
彼の名前を出したのはただの思いつきで、深く考えてのことじゃなかった。
「いまから弟子を取って留守を任せられるようになるころっていうと、五年や十年はかかっちゃう? 客演で誰か頼むとか?」
いまの桐オケなら、喜び勇んで振りに来るプロ指揮者がいくらでもいそうだけど、
「そもそも僕のオケですから、やたらな他人に預けたくはありません」
……だよねェ。きみにとっては一から磨き上げてきた掌中の珠だ。
「じゃァ、僕が向こうへ仕事しに行ってるあいだに、きみは休暇取って飛んできて、ウィーンとかでデートする手かな? それできみのフラストレーション解消になるんなら、だけどね」
「……考えてみます」
ぼそりと言って、圭はつけくわえた。
「桐オケでの活動に不満があるわけではないのです。ただ時折、ウィーンの旧市街の街並みなどが無性に恋しくなったりする」
「うん、わかるよ。そういうときは遠慮なく休み取って行きなよ。たまにはクラシックの本場の風に当たってきたほうが指揮もますます冴える、って口実でいいんじゃない?
まあ、毎月あんなぐあいのスケジュールをかいくぐって、休みを取るのはたいへんだけど」
壁のカレンダーは今月もほぼ埋まっている。黒のペンで書いてるのは桐オケのスケジュール、僕の予定は青ペンで、赤は特記事項の書き込みだ。
「独りで行ってもつまりません」
「いいよ~? 僕はいつだってつき合うぜ? きみが休みさえ取れれば」
「計画します」
と圭は言い、
「楽しみだ」
と僕は笑った。
桐オケの結成から丸九年、僕らはそれこそ馬車馬のように演奏活動に励んできた。圭には、創設したオーケストラを理想どおりに育て上げる愉しみと不可分に、楽員たちの生活を保障できるだけの健全経営を持続する義務があり、また趣味の範疇とはいえ誠実に取り組み続けているフジミの指導という役割もある。圭の盆休みは定演前の特訓に充てられる。
ちなみに圭がかつて常任指揮者を務めたМ響は、MHKホールという本拠地を持った日本有数のプロ・オケとして、毎月十公演前後のコンサートを提供しているが、桐オケも月に数公演はこなす。運がよければ月間2ツアー、十~十二公演という実績を作り上げてきた。それも全国に足を延ばしての地方公演が多いので、一ヶ月の半分は出張中というのもめずらしくない。
そんな多忙な(冗談好きの某団員によると貧乏暇なし)スケジュールを縫って、大黒柱の圭がまとまった休暇を取るなんて、ほぼ無理だってことは重々承知している。
でも馬車馬にはニンジンが必要だし、圭はそろそろ一息ついてもいいころだ。
だから、ヨーロッパの風を味わいに行く休養ツアーを、僕は全面的に支持する。
あとはどうやって実現するか、だ。
「やっぱり、副指揮者を置くってのも考え時じゃないかと思うけど……問題は、きみが代振りを立てる決心をしても、お客さんが納得してくれるかどうかだよね。
桐ノ院圭フィルハーモニー交響楽団のコンサートをきみ以外の人間が振るなら、きみと同等か近いぐらいのイケメン指揮者を用意しないと、金返せって言われるぜ」
「美女を当てるという手もあります」
しゃあしゃあとした顔で、圭はびっくりすることを言った。
「女性指揮者かい!?」
「まだまだ表舞台で活躍している諸君は少ないので、話題性は充分です。後進に門戸をひらくという意義もつけくわえるなら、チャンスの少ない女性の登用を考えてもしかるべきかと思いますが」
「若いイケメンなんて入れたくないのが本音だろ」
からかってやったら、圭は澄ました顔で、
「ええ、当然」
とかわした。
「けど真面目な話、そろそろ副指揮者を置いてもいいんじゃないかい?」
「由之小路くんに声をかけてみます」
「う~ん、どうかなァ」
桐オケの立ち上げを手伝ったあと、僕の恩師でもあるエミリオ・ロスマッティ先生の内弟子に入った彼は、バイオリニストとしての実績作りに励んでいる。
「だいいちイタリア住まいだよ、彼は」
「持ちかけてみるのも反対ですか?」
「……そうは言わないけど。いまのところ指揮者・桐ノ院の唯一の弟子だしね」
やたらな他人じゃない彼に、白羽の矢を立てたい気持ちはわかる。
「けど僕としては……由之小路貞光は、いいバイオリニストなんだ。同業の僕としては、そっちで大成してほしいよ。去年エミリオ先生にお会いしたときも、がんばってるっておっしゃってたし」
でも圭は諦める気はないようだった。
「むこうは演奏家の層が厚い。演奏機会も多いですが、椅子取り競争は熾烈です。そろそろ日本に帰りたい気持ちになっているかもしれない」
「だからって指揮者に転向する気があるかどうかは別問題だし、それ以前に通用するのかい?アマチュアのフジミを振るのとはわけが違うだろ」
「訓練は必要ですが、素質はあります」
つまるところ、貞光を引っぱり込む気満々ってことらしい。
「念のために言いますと、コン・マスのサードを作る気はありません」
「そんな心配はしてない。っていうか二足のわらじは無理だろ。指揮のことはわかんないけどさ、スコア一冊だって半端な勉強量じゃないだろ?」
「専念してもらうことになりますね」
あたりまえだという顔で圭は言い、ついに本音を言わざるを得なくなった。
「僕は反対だ」
「そうですか」
圭は言って、押しやってあったティーカップを手に立ち上がった。
「練習に戻る前に、口直しのコーヒーはいかがですか」
「あ、うん」
さっそく取りかかりながら、圭が肩越しに言った。
「さきほどのテンポの件は、とりあえずきみに合わせます」
「ありがと」
「それといまさらですが、一度通しで聴かせてください」
「あ」
「当然そこを出発点にするべきでした。面目ない」
「いや、僕も三度目だって頭があったから」
「第一楽章からやり直しますかね」
え……貞光の話はもう終わりかい?
なんとなく釈然としなかったけど、こちらから蒸し返すことでもない気がする。僕が反対する理由は、圭もわかってるから、まあいいか。
それにしても、四の五の言ってたのが、あんなふうにいきなり乗り気になるって、それだけ欲求不満が溜まってるってことかな。だったら僕も真剣に対策を考えなきゃな。
壽人に邪魔されたのは、さいわいだったかもしれない。僕なりに練ってあったソロ・パートを弾いて聴かせてから、二人での下練習を再開して、やたらと順調に午前の部を終えた。
「朝からとは打って変わっていい感じだったけど、もしかして僕に合わせてない?」
塩焼きそばにすることにした昼ごはんを、二人で作りながら言ってみた。
「いえ、べつに」
という返事だったけど、
「そうかなァ」
と僕は思う。
「心の壁を取り払った結果です」
「きみの嫉妬深さは、何年たっても変わらないねェ」
「愛している証拠ですので」
「うふっ。はいはい」
でも、そういえば……と思い出した。
「……意地になってたところは、あるかも」
と切り出したら、隣でキャベツを刻んでいた手がピタと止まったんで、笑いそうになった。
「第三者は関係ないよ、僕の問題。なんていうか……昔っからの僕の課題の一つなんだよね。きみの影響が怖いっていうのは」
「…………ほう」
「この話、したことなかったかな」
「どうでしたか……」
圭はキャベツ刻みを再開しながら、考え込む顔を作ったけど、ごまかしてる感じがした。たぶん、そうたいした問題には思えてなかったんだ。
でも僕にとっては重大なことなんだよ。
「僕は音楽家としてのきみを尊敬してるし、もちろん愛してるし、きみが作り出す音楽は文句なく魅力的で、大ファンだ。だからこそ、自分の演奏がまるっきりきみ色に染まってしまいそうで、すごく怖い。
あはっ、不満そうだね」
「…………」
「それのどこが悪いのか、わからない、って顔かな、それは」
「ああ、いえ……」
「きみ色に染まって、きみが(自分で弾くならこうだ)って思う演奏を、僕の両手が実現する、ってのが、もしかしてきみの理想?」
圭はこんどは本気で考え込み、つまりはそれが答えだった。
「愛し合ってるんだからって言いたいかもしれないけど、その希望には添えないよ。きみを愛してるし尊敬もしてるけど、僕にも『僕』っていう自分がある。
でもじっさいは、かなり染まってるんじゃないかとは思うけどね、客観的に見れば」
人と人とが影響し合う、それは良くも悪くもつねに起きることで、いい影響を得られるならば忌避することじゃない、とは思う。思うけれども、だ。
「くやしいのは、きみが僕色に染まるってことはないんだよねェ。ま、最初っから負けちゃいたけど。ああ、いや、勝ち負けなんかじゃないけどさ、こういうのは」
まだ考え込みながら、流しの下から中華鍋を取り出した圭が、ガスレンジに火をつけながら口をひらいた。
「花嫁の結婚衣装が白なのは、従順な妻となって夫の色に染まる覚悟を意味すると言いますが、現代の結婚観から見れば、家父長制下で生まれた男尊女卑の遺風というべきものでしょう」
「僕は白の花嫁衣裳なんて着なかったけどね」
焼きそばにごま油を使うのは、圭の主義だ。中華風の料理なんだからって説になるほどと思ったから、以前はサラダ油でやってた僕も真似てる。うん、いい香り。
「きみを僕好みに仕立て上げたいと思ったことがあるかどうか、自分に問うていました」
よく焼けた鉄鍋に具が投げ込まれると、ジャンっといい音がした。肉と野菜を手早く炒め上げていく、圭の手つきはプロ裸足だ。
「麺をお願いします」
「は~い」
炒め始めたら、僕が参加するのはここだけ。茹で麺の袋をあけて、ざっとほぐして投入して任務完了。あとは、中華鍋を片手で振れる腕力シェフに一任する。
「バイオリニストであるきみを、そうしたふうにあつかったことはないと思いますが」
「それ以外については、僕も心当たりが重々あるよ。でなけりゃ恋人関係にはなってなかった」
「きみの音色は、初めて耳にしたときから僕の理想を具現していた」
「僕だけの音を捕まえたあのときも、きみは関わってなかった」
それでひとつ思い出したのは、
「それを言うなら、福山先生もだな。こういう音で弾け、みたいな直接的な指導じゃなくて、おまえはそれでいいのか? それがおまえの最高の音か? みたいなけしかけ方で誘導してくださったんだよな。もちろん、いろんな影響はいただいているんだけど……」
おっと、出来上がりだ。お皿、お皿~。
盛りつけの済んだ皿をテーブルに運んで、お冷も用意して席についた。
「うん、うまそう。いただきま~す」
「味つけが薄いかもしれません。塩胡椒はそこに」
「ん? いや、ちょうどいいよ。美味しい」
しばし無言で食べてから、圭がさっきの話題を持ち出した。
「僕の影響を恐れながらも、コン・マス席に就くことには抵抗はない?」
「うん。あそこにいるときは、僕はきみの楽員だから。ちゃんとすなおにタクトに従ってるだろ? でもコンチェルトだとねー、守村悠季はソロ・リサイタルもやらせてもらってる一本立ちの演奏家だ。そのプライドを曲げるわけにはいかないから、きみも楽はできない。ごめんね」
圭は食べかけの箸を止め、にらむ目つきで僕を見た。
「僕が楽をしたがっていると言うんですか?」
僕は、何の気なしに口から出た言葉を検証してみて、言った。
「昔のレシピがそのまま使えるからラッキー、とか思わなかった? チラッとでもさ」
「そんなことはっ」
気色ばんだ顔に、僕は(あらら)と思い、ムキになった自分に気づいて絶句した圭を抱きしめに行った。立ち上がってテーブルをまわって、がっくり落としてる大きな肩を後ろから抱いて、ぎゅっと力を込めた。
「疲れてるんだよ。馬車馬くん、働き過ぎ」
それも、かなり深刻にだ。
カレンダーに目をやって、すばやく検討した結果を提案した。
「急々だけど、こんどの火曜と水曜を臨時休業にすれば、月曜からの二泊三日で旅行できる。ヨーロッパは無理だけど、近場の温泉でのんびりするってのはどう? つぎの公演は再来週の金曜からだから、二日ぐらい稽古を休みにしたって何とかなるよ。な? 久しぶりで温泉デートしよ?」
うなずかない圭のこわばらせてる首筋に、チュッとキスしてやって続けた。
「きみは桐ノ院王国の王様だ、義務もあるけど権力もある。たまにはワガママしたっていいじゃないか。それともコン・マス権限で命令しようか? きみには取り急ぎ休養が必要だ、って」
圭は黙して答えず、ここは押し切ってしまうべきだと感じた。
「箱根はどうだい? 新宿からロマンスカーに乗ればすぐだ。ちょっとは紅葉してるかもしれないし、美術館もいくつかあったろ。芦ノ湖の遊覧船も」
伊豆の養老施設にいた圭の師匠たちは、二年前に相次いで天の楽団に招聘された。箱根と伊豆は近いから、天寿を終えた二人が昇っていった空を遠望することもできる。
「ね? 行こうよ。留守番を頼むことになる芳野さんは、僕が説得するから」
ほらほら話に乗れよと、唇の端に誘惑のキスをしたら、
「月曜は約束を作ったでしょう」
と言い返された。
「ん? ああ、壽人か。いいよ、僕にはきみのほうが可愛い。そもそも、僕のほうから誘ってる貴重さをわかってるかい? デート費用は僕持ちでいい、ってまで言わないとだめ?」
やっと笑った圭が、腰に来るバリトンで僕の耳に吹き込んだ。
「では明日の公演を終えたら脱出しましょうか」
「いいよ、そうしよう。で、箱根で三泊三日? それとも、ほかに行きたいとこある?」
「いえ」
オッケー、決まりだ。
「泊まりの予約は任せていい? 僕は澤野家と芳野さんに電話する」
「お願いします」
というわけで、まるっきりの突発事態ながら、三日間の特別休暇がスケジュール入りした。
ほんとならあり得ない急遽さだけど、ここを逃すとチャンスは年が明けてからになる。思いきって決行してしまったほうがいい。
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