カルネアデス

七里田発泡

カルネアデス

 目を開ければそこに灰色の空があった。


 肌を舐めるような不快さを伴いながら凪いでいる風は、路傍に散らばっていたゴミと砂埃と腐敗臭を一緒くたに巻き上げ、彼方に消え去っていった。


 この日、新田広子の命は終わりを迎えた。


 彼女はその生命の灯が吹き消される前に弟のことを思い出していた。


 思い出だけは死の間際になっても色褪せることなく、まるで昨日のように思える。


 弟とはいつも一緒だった。


 決して幸福とは言えない毎日だったが、それでも2人で共に過ごした日々は宝石のように煌めき、何よりも代えがたく尊いものだった。


 一緒に旅をして、一緒にドラム缶の風呂に入って、一緒に食料を調達して、一緒に寝て。笑ったり、泣いたり、怒ったり毎日が忙しかった。黒く塗りつぶされた日々が少しだけ、ほんの少しだけその時は明るく光が差し込んでいるように感じた。


 弟と一緒ならどこでもやっていける。どんなに辛く険しい未来が待っていても乗り越えられる。そう思っていた。


 口の端からは涎のように血が垂れ流れ意識が朦朧としている彼女は、この世に生を留めているのがやっとだった。とてつもない倦怠感が彼女を徐々にすり減らしていく。


 幾度もの苦痛を強いられた彼女の肉体は既に限界を迎えつつあった。身体中に張り巡らされた血管は破裂し、穴という穴から血を垂れ流し続けている彼女はやがて訪れる死を待つばかりの塵芥も同然だった。


 ふと腹部に掻痒感を覚え、その後すぐに激痛が彼女を苛む。


 内臓が水分を吸ったスポンジを絞るように捻じ曲げられ、食道に粘着性の強い液体がせり上がる。胸を断ち割り、素手で肺を弄られているような窒息感に悶え、痛みにのたうった。


 仰向けになっていた彼女は吐血した。


 口から赤黒い液体が噴き上がる度に彼女の身体は痙攣を引き起こし、まるで見えない糸で操られている人形のように跳ねた。


 度重なる出血で血にまみれたこの荒れ狂う内臓をまるごと洗浄することができたらどれほど良いだろうか。吐血するのは口と内臓を結ぶ経路があるからだ。経路である食道を引っ張り出してしまえば自分は楽になれるに違いない。


 正気の沙汰ではない妄執に捕われた広子はおおよそ人間性を失いつつあった。今の彼女は最早、人でも獣でもなく蠢く肉袋でしかない。


 艶やかな髪に整った顔立ちは見る影もない姿へと変わり果てていた。病魔は何一つ取りこぼすことなく彼女が持ち合わせている全てを根こそぎ簒奪し、その命さえも奪い去ろうとしている。


 死とは万人に訪れるものであり、形ある物全てが辿る平等な結果だ。しかし死に至るまでの過程は決して平等なものではない。


 神が人と共におられるのであればどうして善人が報われず、悪人が蔓延るような世の中の仕組みを創造されたのだろうか。


 ウイルスという姿の無い殺人鬼によってじわじわと真綿で首を絞め殺されるように嬲り殺しにされている理不尽を与えた神を広子は呪った。


 彼女が感染した正体不明のウイルスは免疫系撹乱のデコイを放ち生体防御機構をすり抜けてしまう性質を持つ厄介な代物だった。そして血液中の白血球を意のままに操作し健全な細胞を異物と誤認させ攻撃させる。


 免疫系を操作し血管を食い破り、果てには臓器不全や大量出血によるショック死を招くこのウイルスの感染経路を人はまだ把握できていなかった。


 ウイルスはいつだって人間の天敵であり続けた。さもそれが自然の摂理であると言わんばかりに。


 人は閉じた輪の中で負のサイクルを続けるしかない。いくら優れた叡智を授かろうとも、人は死の呪縛から未だに逃れることはできなかった。


 ふと彼女の脳裏に古い記憶が蘇る。


 映写技師がフィルムを映写機にセットし、スクリーンに映像を次々と映し出すように鮮明なビジョンが浮かび上がった。


 金色に彩られた稲穂が風に揺られている心象風景。黄金色をした広大な海原が広がっている。そこは彼女の生まれ故郷である辺境の片田舎の麦畑だった。


 いつか弟と彼女が帰る場所。2人で一緒に帰ることを毎晩のように夢見て、時々、無性に悲しくなって泣いてしまうこともしばしばあった。


 夢にまで見たあの故郷が今、眼前に広がっている。


 これは神様からの最後のプレゼントなのだろうか。映像の中の広子が小麦畑を区切る畦道を歩いている。その後ろから背丈が小さい弟の洋一が彼女に追いつこうと小走りで駆け寄って来た。洋一はもうこの世にはいない。死にいく広子の脳が見せるただのまやかしだ。


 横に並んで細い真っ直ぐ伸びた畦道を歩いた。手を繋いで歩いたあの夏の日を思い出す。陽気に鼻歌を歌いながら歩いたあの道を思い出す。繋いだ手は柔らかくて小さくて、暖かかった。手を通して洋一の体温が直に伝わってくる。命がそこにあった。奪われてはいけないはずの洋一の命が。


 厚い灰色の雲に覆われた空が霞む。視界が涙で滲み世界は歪んだ。


 プレゼントなんかじゃない。これは罰だ。彼女の目の前には幸福をそのまま体現させたような光景が釣り糸に垂らされた餌みたいにぶら下げられている。彼女はそれを掴もうと、必死で手を伸ばした。


 伸ばした手は真っ赤な血に濡れ、震えていた。あと少し。もう少しだというのにその手はむなしく弧を描くように空を切っただけだった。


 そこにいるのはあるはずのない未来に惑わされ、縋りつこうとする愚かな自分だけ。報われることのない魂には相応の末路というほかなかった。


 広子は思った。私は誤った選択を選びとってしまったのだと。それに気づかぬまま更なる間違いを重ね続けてしまった。だから洋一は死んだのだ。


 無数に提示された選択を選ばないと人は前に進めない。停滞は死を意味するから否応にも選択することを強いられる。そして自らが意思決定を下した選択には責任が必ず伴ってくる。


 幼い弟の命の責任を背負うには、新田広子もまた幼過ぎた。彼女はまだ16歳の少女でしかないのだから。


 寂しさと怒りと罪悪感と諦観と、様々な感情がぐちゃぐちゃに綯交ぜになって、胸の中がいっぱいになって、どうしようもなくなって……



 不意に痛みが消えた。


 あれほど苦しんだ痛みは鈍く麻痺したように消え、視野も徐々に狭まる。真っ暗で静かな海の中にゆっくりと自己が埋没する。外界からの刺激が緩慢に遮断されていく。


 ――わたし、もうすぐ死ぬんだ……


 永遠に続くと思ったこの痛みからようやく解放される。苦しまなくて済む。もうこの目で見るべきものはこの世界にはない。自分の家族や全てを奪った憎むべきこの世界に未練なんてあるはずがない。


 だから広子は目を閉じる。閉じられた瞼から流れ落ちる涙は赤い色をしていた。涙腺からも血液が噴出していた。


 彼女はもう自分が涙を流して泣いているのだろうかどうかさえ分からない。


 ――ごめんね。洋一。


 再び弟に対する謝罪の言葉を彼女は口にした。今度は余った力を全て振り絞り、喉を震わせて。


 小さな、今にも消えてしまいそうな微かな声が小さく響き彼女は糸の切れた人形になって、その命を終えた。


 懸命に絞り出した彼女の最期の言葉を聞いた者は誰もはいなかった。彼女は孤独に死んでいった。


 しばらくすると、そこに安全保健機構(SHO)の職員の乗ったトラックが彼女の無残な遺体の傍に近づいてきた。


 肌を外気に晒さぬように無骨な防護服に身を包んだ職員が2人、トラックから降りる。


 そして広子の遺体に近づきながら右手で十字を切りながら祈りの言葉を口にした。


 血みどろの彼女を抱きかかえ簡易遺体収納袋の中に収めるとジッパーを閉じ、トラックの荷台へ投げ入れる。


 肉がひしゃげる嫌な音がした。


「ふぅー、腕がきつくなってきたな」


 彼女の遺体が入っている袋は白地の上から墨汁を一滴、二摘と垂らしていくように袋は赤く、血で滲み始める。


 トラックの荷台は死の臭いで充満していた。


 遺体袋は数えきれないほど積み上げられていた。


 トラックは動き始めタイヤが砂利を踏みしめる。車体が激しく揺れ振動すると、ミミズが蠕動運動しているみたいに袋の中の死体達は踊りだした。


 奇妙な方向に関節が曲がって、四肢を折りたたんだりしながら狭隘な空間に自分の居場所を見出そうと躍起になっている。


 昼夜問わず市内のあちこちで火葬による煙がもうもうと上がっていた。黒い煙は街全体を包み込み、この街で起きているありとあらゆる物事を全て覆い隠していく。


 広子の遺体が積まれたトラックがセントラルアヴェニューを通る。その路傍は死屍累々たる有様だった。


 SHOの職員は死体の数に対して圧倒的に数が少ない。更に言うならば今まさに彼らがこうして職務を全うしている間にも死人は増え続けている。回収が追い付かないのは至極当然のことだった。


 それでも遺体が腐敗し、更なる感染源の引き金にならないようにするためには死体を回収を続けていくしかない。


 回収部隊は指定された場所に遺体を運び込み、死体の山を築き上げる。処理部隊は肉の山を一気に火葬するという極めて事務的な作業を淡々とこなす機械となることが求められた。全ては効率化のためだ。


 天に逆巻くように昇っていく黒煙と燃え盛る炎を見つめ哀悼の意を表する余裕などとうに誰も持ち合わせてはいない。


「派遣されてからもう1年が過ぎたか……」


 指定ポイントの1つである中央広場に向かってハンドルを握っている職員がぽつりと呟くように口を開いた。


「お前も俺も、この仕事がすっかり板についちまったな」


 助手席に座っているもう1人は、そんな彼の言葉に反応することなく前から後ろへと流れる風景をぼんやりと眺めていた。車の窓によって四角く切り取られた外の世界は現実感に乏しく、遠く離れたどこか別の世界での出来事のように思えた。


 死体。死体。死体。


 夢を見ている気がする。それは決して覚めることのない夢だ。夢の中の登場人物の1人として現れる自分は、SHO職員として化学防護服とウェアラブルコンピュターの両機能を有する『パナケイアスーツ』を装着し、死体を黙々と荷台に積む単調な仕事に従事している。


 荷台の中に積まれた袋の中に人の死体がある。それは紛れもない現実であるはずなのにどこか別の世界で起きている絵空事のように大岸には思えてならない。


 人が死んでるからってどういうんだ。遅かれ早かれ人は死ぬじゃないか。悲しむ必要なんてない。死体を悼む必要すらもない。だって死体は回収して燃やさないといけないんだから。ゴミ収集と何ら変わりない。


 人命を救うために情熱を注いでいた若き日の在りし自分はもういない。


 救える命などここにはありはしないのだから。


「おい。大岸、聞いてんのか?」


「え?」


 助手席のスライドドアにもたれかかり頬杖をついていた彼は、呆けた顔をして自分を呼びかけた相手に振り向いた。


「大丈夫か?何度呼びかけても反応がなかったぞ」


「あぁ。すいません」


「おまえ最近ボーっとしていること多いな。気を付けろよ」


「……」


 運転している佐藤は大岸が精神的に疲弊しているのではないかと気にしているようだった。


 それは最近、精神疾患を発症する職員が多くなってきているからだ。彼らは多くの不幸を見てきた。理不尽を見てきた。これまで信じてきた神が人に罰を与えていることを知り嘆いた。


 幸せが程遠いものであることを嘆いた。

 いっそのこと狂ってしまえば楽だろうか。

 目を潰し、口を縫い付け、耳を塞ぐことができればどんなにいいだろう。


「僕は大丈夫ですよ」


 大岸はそう言うと小さく溜息を吐いた後、再び窓の外に視線を写す。


「ただ疲れたというか、慣れてしまったような気はしますね」


「人が死んでいくのに……か?」


 大岸は何も答えなかった。


 細められた瞳の中の水晶体は今もなお、老若男女の死を映し出しているのにも関わらず、眉1つ動かすことはなかった。


 尊いはずの命がこうも無下にされているのだ。人の命は本当は尊くとも何ともなくて無価値な塵芥に過ぎないのではないかとさえ思う。


 人命救助の立場でありながら酷く不道徳な思考回路に陥っている自分は職員としても人間としても失格だ。


「いろいろあったからな。リンチに強奪、レイプに殺人。何でもありだ」


 橋の下にロープで吊り下げられている数多の死体を端目に大岸達のトラックは北へ向かっている。


 最早この町で苦しみから逃れる方法は彼ら彼女らのように自分で自分の命を絶つ以外に残されていないのかもしれなかった。


 近頃、台頭してきた新興宗教による教義がその下支えとなり、住民たちはあんな風にいとも簡単に自殺することができるようになったのだろう。


 神は誰も愛してなどいない。されど信じる者は救われる。あの世があることを信じ、神の寵愛を信じているからこそ人は安心して身を投げることができるのだ。


「あんなの見せられたら人間の尊厳なんて最初から存在しなかったような気もしてきますね」


「お前は期待し過ぎだ。ヒトも動物なんだぜ。畜生と何も変わらねぇよ。ホモサピエンスの歴史は虐殺の歴史なんだからな」


「そうですかね……」


 大岸は人の善意を信じたかった。それはただ美しい物が見たいという単純な動機から生じるものだった。


 心がどれだけ摩耗しようとも、他人から後ろ指をさされ笑われようとも構いはしなかった。彼が思う美しさとは穢れの中に垣間見ることができ、何者にも侵すことができない神秘性を帯び、精錬されていない粗削りな原石のようなものだった。


 手が加えられておらず自然発生的に現れるものこそが美しい。だから法なんてなくても人は助け合っていけると信じていた。


 どうしようもない八方塞がりの、ままならないこんな世の中だから心の依代となる一筋の光明を大岸はいつの間にか無意識下で求めるようになった。


 大岸がそのことを自覚したのはつい最近のことだった。


 だけどもう遅いのかもしれない。自分は既にまともな神経の持ち主ではなくなっている気がした。


 抗い難い感性の大きなズレが生じ、ずっと前から自分は壊れてしまっているのではないかと不安になった。


(僕は狂っているのか?)


 果たして美しいものを美しいと判断できる感性が自分にまだ残されているのだろうか。不安だ。何かに追い掛け回され続けているような焦燥感に駆られている。


 怖かった。たまらなく恐ろしかった。

 言いようのないこの不安はどうすれば払拭されるのか。恐れ続ける毎日がいつまで続くのか。怖くて怖くて仕方がない。


 多くの人の死に触れ、何とも思わなくなった自分自身を何よりも大岸は恐れていた。だから彼は光を求める。今の彼は、まるで光に吸い寄せられ身を滅ぼす浅ましい蛾そのものだった。


「なぁ大岸。昔の偉人がな、人は発達しすぎた科学によって自らを滅ぼすことになるって言ってた人がいたんだけどよ。誰だったか覚えてねぇか?」


「知らないですね」


「本当にそいつの言うとおりになったな。まったくいやになっちまうよ。ある程度予想がついてたのに人ってやつは、宇宙開発なんてロマンチックな夢に惹かれやがってよ。てめぇの身体のことさえ分かっていないのに世界の仕組みを知ろうだなんておこがましいことこの上ないよな」


 佐藤は嘲るように笑っていた。釣り上げられた口角が不自然に引きつっている。それは無理をしてつくられている微笑みだった。その笑みは、彼の胸の内に秘めた本当の心情を隠すための偽りの仮面としての役割を担っていることを大岸は知っている。


 職員たちの誰もが多分、傷ついている。けれども弱音を吐かないのは、目の前で助けを求める人に手を差し伸べることができない無力さと罪悪感からだった。


 そうやって逃げ場を失った負の感情が滞留し、心は蝕まれていくのだ。それはさながらウイルスのように。


「夢や希望は必要ですよ。人が人らしくあるためには」


 今の自分達にはそれがない。だから、職員はみんな死人のような生気の欠片もない顔をしている。


 強奪や意味のない暴力が蔓延し、明日も生き抜くために必死に生にすがり付く町の住人の方が瞳に爛々とした光を宿しているのはなんと皮肉なことだろう。


「そうだな。確かに夢は必要かもしれねぇ。けど大抵、夢っていうのは呪われているものなのさ。夢のせいで人は命を投げ捨たりもするし、他人に醜い嫉妬心を抱いたりする。そもそもの話、どっかの頭のイカれてる教授がヒトの免疫系から逃れる人工ウイルスの培養なんて夢を抱かなけりゃこんなことにはならなかっただろ?」


「危険性の高いウイルスを量子AIで予測し、逆遺伝学的アプローチをかけることで将来的にパンデミックを抑え込む計画が極秘裏であったという噂のことですね。本当のところはどうだったんでしょうか?」


「本当のことなんじゃねぇの?人間よりもずっと賢い人工知能様は遠い将来のことばかり見据えて、目と鼻の先にある未来は予測がつきませんでした。だいたいそんな感じだろ」


 カオス理論が現実世界で実証可能である限りは絶対に安全な状況など生まれない。サイコロを振って出る目の数を完全に予測することはできない。その出目はカオスだ。


 人の命もサイコロみたいなもの。振って出た数の目が凶と出たら人が死ぬ。神はサイコロを振らないなんて悪い冗談だ。


「クソだよな」


 精悍な顔立ちをした佐藤の双眸に瞋恚の炎が浮かび上がり、揺らめく。常日頃笑顔を絶やすことなく軽口ばかりを叩く彼は時々、こういった情に厚い一面を見せることがあった。


 しかしそれは束の間のこと。一瞬、垣間見えた激情はすぐに諦めきった人間の顔つきに変わる。何の感情も抱いていない無機質な瞳の鈍光だけが残り火のように尾を引いた。


「大きな舟が重みで沈まないように、感染してしまった人間を海に捨てて軽さを得る。カルネアデスの板みたいな話ですよね。今のこの状況って……」


 感染した人間は死ぬしかない。SHO職員は時に感染者に直接手を下すこともある。病魔に悶え苦しむ者に死という安らぎをもたらすのだ。


 睡眠薬として流通しているバルビツール酸系の薬を静脈内投与することで全身麻酔のように意識消失させる。自分たちは永遠に覚めない眠りへと誘う死神だ。


 この手にかけるか、見殺しにするか。二者択一迫られていた。SHOは医学神を象徴とした旗を堂々と世界に対して掲げているくせに誰一人救うことができないみっともない無能の集まりでしかない。呪いと絶望をばら撒くことしかできない死の商人である。


 ここの住人を除く地球上に住む全ての人が街の全滅を願っている。ウイルスと共にこの世から根絶することを望んでいる。この街に未来はない。


 佐藤が運転するトラックが中央広場に到着した。


「ご苦労様です」


 大岸と佐藤は中央広場にいる遺体処理部隊に軽く挨拶し、死体の山を引き渡す。 処理部隊は携帯放射器のホースを荷台から引きずり下ろした死屍累々に向け、トリガーを引いた。


 背中に背負ったバックパックには可燃性の高いゲル状燃料を噴射し炎を投射する。 地を這うように真っ直ぐ伸びた炎は肉と骨を炭素に変えていった。


 新田広子の肉体も溶解し、目尻の皮膚が焼けて雨だれのように爛れていく様はまるで彼女が泣いているように見えた。


 彼女だけではない。みんなそうだ。死体達は泣いているに違いなかった。


「狂ってる……」


 火葬の過程を茫然と見ながら立ち尽くしていた大岸が静かに口を開いた。


「何だって?」


「いえ、別に……」


 大岸は空を見上げた。鉛色の空に裂け目が少しずつ広がり、薄明光線が地上へ放射状に降り注いでくる。


 桔梗色をした透明感あふれる紺碧の空が微かにその隙間から見えた。 きっと厚い雲の向こう側には目が痛くなるほど青い広大な海原が広がっているのだろう。


 佐藤は何も言わなかった。 大岸と同じように空を仰ぎ、渦巻く黒煙が雲の間に残された群青の空に飲み込まれていくのを見つめた。そうして数多の命の残骸が消えていくのをじっと眺めながら、遠くで誰かが呻き声をあげているのを聞いていた。


 いま彼らがこうしている間にも、重篤な症状に晒されている人々は救いを求め、苦しみもがいている。やらなければならない仕事は山のようにあった。


「なぁ大岸いつまでもボーっとしてないで次行くぞ次」


 足早に運転席に乗り込んだ佐藤はシートベルトをいそいそと装着する。声に急かされた大岸は相変わらずの無表情だった。空を見上げていた彼の表情はどこか悲哀に満ちた表情をしていたように見える。彼は何食わぬ様子で助手席に座った。


 アクセルを踏み込み、さきほど通ってきたセントラルアヴェニューへとトラックは再び引き返す。


「俺らがやってる仕事はロクでもない仕事かもしれないけどよ、少しは誰かの役に立っているはずだ。それに全部終われば俺らはまた元の生活に戻れる。この地獄はあと少しで終わりなんだ」


 そう思わなきゃやってらんねぇだろと佐藤は呟く。それは紛れもなく佐藤の本音であった。飾り気のない本心から発せられる心情を吐露したのだ。


「もし、そんな日が来たら……どこか遠くに行きたいですね。どこか遠くに」


 大岸がそう言ったその時、空が轟いた。頭上では鋼鉄の塊が重苦しい大気を切り裂きながら南に向かっていた。きっと、ここからずっとこのまま南に行けば楽園があるに違いなかった。


 エメラルドグリーンの海がある南国の島。燦燦と容赦なく照りつける太陽の下。そこには誰もいない静かな砂浜があって、砂を掻き分けると大きな貝殻がその流動に埋もれて眠っている。


 拾って耳に近づけるときっと波の音が近くで聴こえるはずだ。海から離れても。ずっと遠い所にいても。どこにいたって必ず聴こえるだろう。


「ここではない何処か遠くへ……」


 何だか急に胸が締め付けられるような気がして、呼吸が上手くできなくなって、何もできない自分を恨めしく思って、職務を放棄して自分だけここから逃げ出したいと思っているその浅ましさ。


 無性に泣きたくなった。今まで必死で堪えていた何かが激流となり襲ってきた。視界が滲む始める。泣いたら終わりだ。そう思っていても止めどなく溢れ出す情動を抑えきることはできなかった。


「何だ、風邪でも引いたか?」


 パナケイアスーツで顔を覆われていては相手の表情を伺うことさえできない。


「ええ、そうみたいです」


(強がりやがって)


 佐藤は知っていた。大岸が本当は誰よりも繊細で人の死に過敏であることを。この仕事を始めた時。彼がどれだけ自分の無力さを嘆き、苦しんでいたか。


 歴史は一部の人間に改竄され、闇に葬り去られてきた。今回も恐らくそうなるだろう。


 だけどそれでは人は許されない。

 永遠に許されないと思う。


 自分達はどこに向かっているのだろうか。どこに行けば許されるのか。


 南の楽園。

 

 そこは誰もが幸せになれる場所。この世で最も天国に近い場所。


 大岸の手元に貝殻はない。

 波の音はどこからも聴こえてこなかった。


 ここから南の島はあまりにも遠い。


 了

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