カルナの夜
七町藍路
カルナの夜
あのカルナの夜のことを、私は今でも鮮明に覚えている。
小学生の頃、私は夏休みと冬休み、そして春休みを祖母の家で過ごした。小学校が長い休みに入ると決まっていつも、母は私を田舎の祖母の家に預けた。物心が付いた時にはすでに父親はおらず、母は朝から晩まで働きに出て私を育てた。父は忽然と姿を消したのだと母は言った。私が生まれてすぐに消えた。だから私は父の顔を写真でしか知らない。写真の中の父はどれも柔らかな笑みを浮かべていた。妻子を残していなくなるような人には到底思えなかった。それは母も同じで、どれほど忙しい生活を送っていようとも、母が父のことを悪く言うことはなかった。
私の中で親戚とは父方だけで、母方の祖父母に関して、私は一切の情報を与えられていなかった。すでに亡くなっているのか、それとも母とは疎遠になっているだけなのか、幼い私にはおおよそ関与が出来ない範囲のことだった。同様に、母方の親戚という人々も、私の人生には登場しない。母がどんな人生を送ってきたのか、他人の評価を私は拒んでいたし、何より、顔も名前も知らない人を大切な家族だと思えるほど、私は出来た人間ではなかった。私の家庭環境は複雑で可哀想だと他人は言う。けれども、母と、父方の祖母さえいれば、家族というものはそれでよかったのだ。
田舎の祖母は父の母にあたる人で、物静かな人だった。私は祖父の顔もまた写真でしか知らない。祖父は私が生まれるよりも随分と昔に亡くなっており、平屋の農家に祖母はずっと一人で住んでいた。そこは山間の小さな集落で、田畑と山々の間にひっそりと人間が暮らしているような場所だった。過疎化と高齢化が進む、典型的な田舎の土地だった。自治体が管理している小さなバスが日に三往復する以外は、私と、そして郵便屋さんだけが外部との交わりを持っているように思えた。この土地で生まれ育ったわけではない私や母は、言ってみれば余所者だったはずだが、誰一人として私たちに冷たく当たる人はいなかった。私の両親を悪く言う人もなかった。この休みもまた孫がやってきた。そういう扱いをされていたようにも思う。終業式が終わると私はすぐさま家に帰り、父が残した大きな旅行鞄に衣服や宿題を詰め込んだ。祖母への土産も忘れなかった。その日の夜には祖母の家に到着し、母は一泊してから私を残して帰って行った。休みが終わるころにまた迎えに来ると言い残して。水色の小さな車が見えなくなるまで私は手を振り続けた。私の姿を一目見ようと、集落中の住人が祖母の家に集った。私は集落の人々を聴衆にして、学校での武勇伝を声高々に披露した。私は学級委員にでもなったような気分で自慢話をしたが、そんな私を皆が優しく見守ってくれた。のどかな景色、穏やかな人々に囲まれ、私はとても伸び伸びと育てられた。
しかし、そんな集落にもただひとつだけ、奇妙な気配があった。
それは時々、私が訪れる休みには一度か二度、やってきた。祖母は夜になると家中に植物の枝葉を撒くことがあった。理由も分からないままに私はその奇妙な行事を手伝った。
「カルナが来る」
祖母はそう言ったが、それ以上は何も教えてはくれなかった。この集落に伝わる風習らしいことは大人たちの会話から察することが出来たが、その正体は依然として謎のままだった。しつこく尋ねてみても、祖母は一向に答えようとはしなかった。詮索してはいけないのだと子供心にも分かっていたが、当時の幼い私は溢れんばかりの好奇心を抑えることが出来なかった。
「あれは、おまじないだよ」
私の疑問に答えてくれたのは郵便屋さんだった。郵便屋さんはこの集落出身のお兄さんだった。私が小学校に上がってから集落に戻ってきた人で、郵便屋さんになる前は大学に通うために集落を離れ、都会で一人暮らしをしていたらしい。私とは一回り以上も離れていたが、それでも最も年齢の近い人だった。私にとって郵便屋さんは集落で一番の友人だった。郵便屋さんは集落の皆から郵便屋さんと呼ばれており、胸元の名札に書かれた漢字は小学生の私には難しく、私も皆と同じように郵便屋さんと呼んでいた。郵便屋さんの瞳はとても綺麗だった。夜の闇のように真っ黒で、星空のようにキラキラと輝いていた。まるで黒い宝石のようだった。けれども私が知っているどんな宝石よりも、ずっと深い黒色の美しい瞳だった。その瞳で見る世界は、どんなものだろうか。私は夜空を見上げて想像した。そして、これから先も、郵便屋さんほど綺麗な瞳をした人に出会うことはないだろうと考えていた。私にはそんな自信があった。
吸い込まれそうなほどに黒い瞳と同じくらいに印象的だったのが、左頬の傷跡だった。火傷の跡のようなその傷跡は、礼儀正しく社交的な郵便屋さんに、少しばかりの翳を与えているようだった。傷跡は桜の花びらのような形をしていたが、花びらよりもずっと大きく、左頬一面を覆い尽くしてしまうのではないかと私は時々不安になった。私の不安は夢となって寝苦しい夜に現れることがあった。左頬の傷跡は次第に全身へと広がってゆき、やがて郵便屋さんは粉々に砕けてしまう。砕けた欠片はそれぞれが花びらのような形をしており、突然吹き抜けた風に舞い上がって、踊りながら消えていく。私はそんな夢を時折見ることがあった。
「悪いことが起こらないようにするために昔から続いているんだ。カルナが来る夜は、家の外へ出てはいけないよ」
点々と立つ家々のポストに手紙を配達する郵便屋さんの後ろを付いて歩くと、私も郵便屋さんになったような気分になる。集落中で集配を済ませると、郵便屋さんは集落の外にある郵便局へと戻っていく。郵便局は役場の前にある。祖母の用事で訪れるたびに、壁一面に飾られた色とりどりの切手を眺めながら、私は祖母を待っていた。
カルナがいつ来るのか、私には分からなかったが、集落の人たちには分かるようだった。長年、そこで暮らし続けているからだろうか。私には感じ取ることの出来ない微妙な変化を集落の人たちは間違えることなく感じ取っていた。それは風の声かもしれなかったし、雲の流れかもしれなかった。私はいつになればカルナが来る夜を察することが出来るようになるのだろう。郵便屋さんの後ろで野草の花束を振り回しながら、私はいつも考えた。集落の人たちには分かるカルナの気配が私にはまだ分からない。そのことが、とてももどかしく、自分だけがこの集落で一人前として認められてはいないように感じた。
「あれは桃の枝だよ」
そう教えてくれたのはクロの飼い主のおじいさんだった。クロとは犬の名前だ。その名の通り黒い犬で、足の先だけが白い雑種の犬だ。私が田んぼのあぜ道で花を摘んで遊んでいると、いつの間にか私の隣に寝そべっている。私が移動するとトコトコとついてきて、私が祖母の家に帰るとクロも自分の家に帰って行った。クロはそういう犬だった。クロのおじいさんは、おばあさんと二人で暮らしていた。庭に建てられたクロの犬小屋の横には鶏小屋があり、私が傍を通りかかるとコココと鳴いた。
「縄張りね。つまり、ここは私の場所ですということを示しているんだよ」
クロのおばあさんはゆっくりと言った。クロは首を傾げ、鶏はコココと鳴いた。私は両手いっぱいの野菜を貰って祖母の家に帰った。
桃かも知れない、私はそう思った。郵便屋さんの頬にある傷跡のことだ。あれも、もしかすると、郵便屋さんが郵便屋さんであるという証なのかもしれないと思った。
カルナが何なのか、どうして桃を撒かなければならないのか、誰も教えてはくれなかった。カルナは目に見えるものではない。夜中にやってきて、朝には去っているもののようだった。付いて行ってはいけないと祖母や集落の皆が言ったけれど、見えないのだから付いて行きようがないと私は思っていた。けれども同時に、もしもカルナが見えていたならば、付いて行くだろうとも思っていた。どれほど奇妙なおまじないであっても、私にとっては好奇心の対象であって、恐怖の対象ではなかった。カルナが来る夜は桃に囲まれた布団の中で、姿の見えないカルナに思いを馳せた。
想像を巡らせてみる。私が思い描くカルナは、大きな黒い蛇だった。白い蛇は縁起が良いと母から聞いた話が頭の片隅にでも残っていたのだろう。カルナが悪いものならば、白蛇とは逆なのだろうと単純にそう考えていた。黒い体で夜の闇に潜む。聞こえてくる風の音は、本当はカルナが地を這いずり回る音だ。追いかけていけば、丸呑みにされてしまう。山々のどこかに住んでいて、時折、山から里に下りてくるのだ。そんなことを考えているうちに私は眠っていた。朝になって目を覚ますと桃の枝葉を片付ける祖母の背中が見えた。
あとになって思えば、祖母は私がカルナを怖がることを望んでいたのかもしれない。私をカルナから遠ざけたかったのだろう。そんな祖母の思いとは裏腹に、次にカルナが来る夜を私は心待ちにしていた。
私が小学四年生の夏休みのことだった。私はいつものように夏休みを祖母の家で過ごしていた。再開発が進む街の片隅にある私と母のアパートは、少し古いが、たしかに便利な立地ではあった。駅が近くにあり、バスが街中を走っている。買い物をする場所はいくらでもある。しかし、便利ではあるものの、星のない街だった。それに比べて祖母の家からは夜になると頭上に広がる満天の星空が見えた。祖母の家の縁側で目を閉じれば、星の声が聞こえるような気がした。田舎の星空は賑やかだった。ショッピングセンターはなくとも、星空の広がる集落での暮らしが私は好きだった。
三毛猫のメアリーは集落の入り口にある家の猫だ。道の真ん中に寝転がったり、スズメを追いかけて走ったり、集落のあちこちで目撃される自由気ままな猫だった。私がメアリーと猫じゃらしで遊んでいると、メアリーの飼い主のおばさんが三角形に切り分けたスイカを持ってきてくれた。私は庭の岩に腰かけて甘いスイカを頬張った。足元ではクロとメアリーが仲良く寝そべっていた。
「今夜はカルナが来るから、暗くなる前に帰りなさいね」
メアリーのおばさんの言葉に私は頷いた。当時の私は祖母の手伝いをしたくて仕方のない年頃だった。小学校生活も半分を過ぎ、私は一日でも早く大人になりたかった。大人になって母を助けたかった。郵便屋さんのような素敵な人との出会いに憧れていた。
本当のところ、私は郵便屋さんが好きだった。同級生の男の子たちは郵便屋さんと比べると、当たり前だが子供で、私は退屈していた。一方の郵便屋さんはとても物知りで、必要以上に喋ることもせず、自慢話をすることもなく、黒い宝石のような優しい眼差しを絶やすことはなかった。私が虫の名前を尋ねても、植物の名前を尋ねても、郵便屋さんは丁寧に答えてくれた。けれども決して私を甘やかすことはせず、危ないことや悪いことをしようとしている時には、きちんと注意してくれる人だった。始業式の日には同級生たちが休み中の思い出話に花を咲かせる。遊園地や水族館に行ったことも、遠く海の向こうで過ごしたことも、私にとってあまり面白い話ではなかった。祖母がいて、母を待ちわびて、集落の皆に囲まれて、郵便屋さんと歩く。ただそれだけの日々が私にとっては何よりも心躍る時間だった。同級生たちは、私の休暇をつまらないものだと思っていただろう。私は郵便屋さんのことを同級生には話さなかった。それは幼い嫉妬心からで、郵便屋さんが他の誰かの憧れになることを嫌っていた。
集落には手紙を書く人が多く、夏休みになると暑中見舞いの葉書を手に、郵便屋さんは忙しそうに動き回っていた。年賀状もお中元もお歳暮も、集落に届く荷物はそのほとんどを郵便屋さんが届けていた。郵便屋さんは集落と郵便局とを一日に三回、黒い自転車で往復する。大きな荷物がある時には、郵便局の赤い車の時もあったけれど、郵便屋さんは自転車のほうが好きなようだった。朝晩の出勤と帰宅、午前中の集配、午後の集配。黒い自転車が畦道を走る姿を見るたびに、私も郵便屋さんに手紙を出そうと思うのだが、いつも書いている途中で恥ずかしくなり、結局、私が郵便を出したことは一度もなかった。
私は午後の集配中の郵便屋さんに大きく手を振って祖母の家に入った。クロはトコトコと帰って行った。家の窓から外を見ると、郵便屋さんとクロが競争している姿が見えた。私は夕飯の支度をする祖母の代わりに桃の枝葉を撒いていく。この頃になると私は随分と要領を心得ていた。桃は使い捨てではなく、何年も使い続けているため、カラカラに乾燥していた。これにどれほどの効果があるのか疑いながらも、私は手際よく桃を撒いた。踏むとパキッと軽い音を立てて枝が折れる。カササと葉が粉々になる。この集落では一体何を恐れているのだろう。私は少し馬鹿らしくなったが、わざと桃のない空間を作ってみるほどの勇気もなかった。
その夜、私は郵便屋さんの夢を見た。夜の闇の中、私は集落に流れる小川の辺に座って、こちらに向かって歩いてくる人影を見ていた。それが郵便屋さんだった。郵便屋さんが一歩進むごとに、パキッポキッという音が夜の闇に響いた。月明かりに照らされて、郵便屋さんの左頬の傷跡が見えた。近付いてくる郵便屋さんの姿が、左頬から少しずつ崩れていくのが見て分かった。ボロボロと崩れた欠片は桜の花びらに形を変えて、ひらひらと舞い踊りながら夜空へと消えていった。私はその様子をただ黙って見守っていた。
「二度目はないよ」
そう言ったかと思うと、郵便屋さんは完全に形を失った。辺りにはパキッポキッという音だけが残された。鳴り響くその音が現実のものだと気付いたのと、私が目を覚ましたのは同時だったように思う。暗い部屋の中で私は耳を澄ませてみた。パキッ。確かに聞こえてくる、桃の枝が折れるような音。こんな夜更けに、祖母は一体何をしているのだろう。隠し事をしていることが私は無性に腹立たしく感じた。私は布団の中から這い出し、足元に注意しながら音のする方向へゆっくりと近付いて行った。音は玄関の外から聞こえてくるようだった。私は息を殺して玄関の引き戸を少しだけ開けた。キィと高い音を立てながら出来た小さな隙間から私は外の様子を窺った。家の前の小道に何かがいる。私は目を凝らす。それは、たくさんの人だった。私は息を呑んだ。ぼんやりとした明かりの中に、人の行列が見えた。いや、正確には人ではなかった。ゆらゆらと蝋燭の炎のように揺らめきながら、それは列を成してゆっくりと歩いて行く。
カルナだ。これが、カルナだ。
私は一目見ただけで、それがカルナだと悟っていた。カルナが、ひとりひとりのことを指しているのか、それともこの集団を指しているのかは分からなかったが、とにかく私の頭の中には、カルナを見たのだという興奮が渦巻いていた。もっと近くで見たい。皆の言いつけなど、頭の片隅に追いやられていた。奇妙な好奇心が湧き上がった私は、パジャマ姿のまま裸足で家を抜け出した。カルナの正体を確かめたい。まるで、今までずっと秘密にされてきたことに対する当て付けのようだった。家の前の植木に隠れて私は行列をじっと見た。
体格も年齢も性別も、それぞれが異なっていた。歴史の教科書に載っているような古い姿の者もいれば、スーツ姿も、作業着姿も見える。皆ぼんやりとした青白い明りの提灯を持ち、ゆっくりと進んでいく。どれもが提灯の明かりと同じように青白い顔をしていて、とてもこの世のものとは思えない。一歩、一歩、進んでいくたびに、パキッポキッと音が響く。その足元には何もない。桃の枝もなければ、照らされているはずなのに、そこにはカルナの影さえもなかった。途端に私は怖くなり、はやく家の中へ戻ろうと思ったが、どういうわけか足が動かなかった。カルナから目が離せない。ガタガタと小刻みに震えながら、それでも私は気付かれないようにと、出来るだけ小さくなって息を潜めた。枝を折るような音は絶えず響き渡る。私はカルナが通り過ぎるのをただひたすら待つしかなかった。夜が明けるまでの辛抱だと自分に言い聞かせて、静かに祈っていた。
パキンッ。
一際大きな音が鳴り響いた。右肩にひんやりとした感覚がある。私は振り返った。そこには私を見つめニンマリと笑う鎧姿のカルナがいた。私は悲鳴を上げることも忘れて植木の陰から飛び出した。燕のように身を翻して家へと走る。しかし、いくら押しても引いても、玄関の引き戸はびくとも動かなかった。祖母を呼んでみても返事はない。後ろに迫りくるカルナの気配に耐え切れず、私は庭へと走った。夏のこの時期には縁側が開いているはずだった。そこから家の中に逃げることが出来る。そんな私の希望は見事なまでに打ち砕かれた。庭にはすでに何人ものカルナがゆらゆらと歩いていた。勢い余って転びそうになりながらも、私は庭の植木を掻き分けて敷地の外に走り出た。
どこへ向かえばいいのかも分からずに、私はただただ闇雲に走った。畑を突っ切り、畦道を駆け抜け、私はカルナのいない方向へ、青白い光のない暗闇へと走った。立ち止まればすぐそこにカルナが迫っているような気がして、立ち止まることも出来なかった。私は走り続けた。自分がどこを走っているのかも、もう分からなかった。生い茂る草に足を取られて転んで、初めて私は同じ場所をぐるぐると回っていたことに気が付いた。私は木々の陰に隠れるようにして座り込んだ。疲れが全身に溜まっていく。裸足のままの足の裏が痛む。帰りたい。帰りたい、ただそれだけだった。私は言いつけを守らずに家の外へ出たことをひどく後悔していた。自分がどれほど愚かだったかを嘆いた。膝を抱えて耳を澄ませば、遠くのほうで桃の枝が折れるようなあの音が聞こえた。私はしばらくの間、じっと動かなかった。
不意に何かの気配を感じて、私は慌てて辺りを見回した。暗闇からゆっくりと現れたのはクロだった。クロは私の周りをくるくると回ってから、私に寄り添うようにして座った。私はクロを優しく撫でた。少しだけ不安が和らいだ。次第に落ち着きを取り戻していく。私は深呼吸をして、これからどうするべきなのかを考えた。
カルナがどこから来て、そしてどこへ向かっているのかは分からなかったが、朝になるといなくなることは確かだった。しかし、朝日が昇るまでここでじっと待っていることが得策だとは思えなかった。カルナの音も明かりも近付いてはいないが、いつ見つかるかも分からない。もしもここで眠ってしまったら。目覚めた時にカルナに囲まれている想像が、疲労と眠気に抗う私を支えていた。目を閉じれば、カルナの顔が鮮明に蘇ってくる。青白い顔。のっぺりとして、まるでお面のような顔。瞳には白目がなく、すべてが真っ黒だった。それは黒目だったのか、それともぽっかりと開いた穴だったのか。思い出すだけで寒気がした。ニィと笑った口は細い月のような弧を描き、耳までも届きそうなほど大きかった。桃の枝が折れるようなあの音は、どこから聞こえていたのだろう。道には桃の枝を撒いてはいない。しかし、カルナがゆらゆらと一歩進むたびに、パキリとあの音が響いていたのだった。
しばらく休んでから、私は木々の陰からこっそりと辺りの様子を窺った。カルナの姿は見えない。今なら大丈夫だろう。走り回って喉が渇いたので、私は小川を目指すことにした。集落を流れる小川の水は澄んでいて、農作業はもちろん、直接飲むことも出来る。街の水は不味い。一度ここの水を飲めば、店で売っている天然水さえも、どこか物足りなく感じた。周囲の安全をもう一度確認してから、私は小川のほうへと歩き始めた。私のすぐ横をクロがトコトコと歩く。私はとても頼もしいボディーガードを引き連れている気分になった。クロがいるだけで随分と気持ちに余裕が出来た。小川までの途中、何度かカルナを見かけたが、そのたびに私たちは上手くやり過ごした。ぼんやりとした明かりを掲げながらカルナは暗闇を歩いて行った。私のことを探しているようだったが、隠れる私に気が付く様子はなかった。
小川は月明かりの下で静かに流れていた。私は喉を潤し、泥だらけの足を洗った。少し離れたところにカルナの明かりが見えた。私は小川の辺の草むらに座って夜空を見上げた。その日は満月の夜だった。月が明るすぎて、いつもよりも見える星が少ない。それでも雲のない星空はとても綺麗だった。デネブ、ベガ、アルタイル、夏の大三角形。蠍座のアンタレス。覚えたばかりの星座を探す。しかし、どちらが北なのかも分からない私には、広い夜空の中から星座を見つけることが出来なかった。
昔から、夜空を見上げるのが好きだった。闇に瞬く星は郵便屋さんを思い出すからだ。ブラックホールというものが広大な宇宙のどこかにあるのだと私は小学校の図書館に並んでいる事典で読んだ。そこは、酷く暗い場所らしい。一面が闇で、光を反射せず、すべてを飲み込んでしまう。同じ黒でも、郵便屋さんの瞳とは違う、冷たい黒だ。郵便屋さんの瞳の色は、とても澄んだ黒をしている。黒という色にも様々な印象があるのだと、そして、透き通った黒があるのだと、私は郵便屋さんの瞳に教えてもらった。
星を眺めていると私は寂しくなってきた。早く家に帰りたい。私はクロを撫でた。祖母は今頃どうしているだろうか。私がいなくなったことに気が付いているだろうか。夜が明けたら私を探してくれるだろうか。私は母のことも思い出していた。このまま私が戻らなければ、母は嘆き悲しむだろう。涙が枯れ果てるまで泣いて、そして壊れてしまうかもしれない。父がいなくなった時には私がいたから、なんとかここまでやってこられた。けれども、私までもが消えてしまえば、母は何を希望にして生きていけばいいのだろう。朝から晩まで働いて家の玄関を開けても、静まり返った部屋の中で孤独が待つだけ。そんな生活を想像しただけで私は悲しくなった。私は母に会いたかった。
伏せていたクロが突然起き上がり、耳をそばだてる仕草を見せた。私も辺りの様子を窺った。しばらくそうして注意を払っていると、暗闇の中を誰かが歩いてくるのが見えた。月明かりに照らされたその人は、郵便屋さんだった。私は夢を思い出した。夢の中でもこうして郵便屋さんの姿を見ていた気がする。あれは正夢だったのだろうか。郵便屋さんは私に近付いてくると、身を屈め、声を潜めた。
「カルナの夜には家から出ちゃダメじゃないか」
そう言った郵便屋さんの姿は私の夢のように壊れることはなく、左頬の傷跡もいつも通りだった。私は何度も頷いた。私が心から反省していることが分かった郵便屋さんは、クロとは反対側に座った。
「カルナは死者の行列なんだ」
郵便屋さんの言葉に、私は驚くことなどなかった。あの生気のない顔。揺れるような歩き方。青白い光。きっとそうだろうと思っていた。カルナに付いて行くとは即ち、死を意味するのだろう。私が本能的に逃げ出したことは間違いではなかったのだ。
「行列、と呼ぶのは少し語弊がある。あれはひとりでもカルナだし、集まっていてもカルナだ。死者は単位の概念が違うのかもしれない」
難しい。私が首を傾げると、郵便屋さんは優しく微笑んで言葉を変えた。
「生きているものとは、数え方も呼び方も違うんだよ」
私が頷くと、郵便屋さんは話を続けた。
「こうして時々、集落の中を歩き回るんだよ。起源は分からない。僕のおじいさんも、そのまたおじいさんも、ずっと桃の枝を撒いてカルナから逃れてきたんだ。だけど、時には家の外へ出てしまう人がいるんだよ」
私は俯いた。耳が痛くなるほど分かっていた。郵便屋さんは怒るわけでもなく、悲しむわけでもなく、いつものように優しい口調で話を続けた。
「もし、家の外へ出てしまったら。もし、カルナに見つかってしまったら。そんな時に助かる方法はただ一つ。それは、助けてもらうこと。誰でもいいわけじゃない。一度、同じようにカルナに会ってしまった人じゃなければダメなんだ」
どういう理屈があるのかは分からないと郵便屋さんは言った。ただ、昔からそういうルールがあるのだ。まるで、ドミノ倒しだと私は思った。カルナに会った誰かは、カルナに出会う誰かを助ける。その誰かもまた、別の誰かを助ける。次々と倒れていくドミノのようだ。カルナから逃げ切ることは容易ではないということを郵便屋さんは説明してくれた。家から出てしまえば、夜が明けるまで建物の中に入ることは出来ない。安全な家の中からカルナの領域に出てしまったからだ。カルナは生きている人間を探す。捕まれば向こうの世界に引きずり込まれ、カルナになってしまう。カルナは集落の外に出ることはないが、私たちも集落の外に出ることは出来ない。私は鬼ごっこを思い出していた。郵便屋さんが教えてくれる知識は、集落の中でひっそりと語り継がれてきたものなのだろう。私は黙って話を聞いた。クロは首を傾げて私の膝に湿った鼻を押し当てていた。
「さあ、行こう」
遠くにあったカルナの明かりがゆっくりと近付いてくるのが見えた。郵便屋さんは立ち上がると私の手を引いた。私たちは手を繋いで歩き始めた。クロもトコトコと付いてきた。カルナに捕まることは怖かったが、こうしてカルナから逃げる時間は、私にとってはある意味でとても幸福な時間だった。郵便屋さんと手を繋いで歩くことが、私の心を強くした。大丈夫だと私は自分自身に言い聞かせた。郵便屋さんとクロに守られている。私が外に出た時よりもずっと、月は傾いていた。助からなかったらどうしようという不安よりも、きっと助かるだろうという自信のほうが大きかった。糠喜びと言うのかもしれなかったが、その時の私にはそこまで考えられるほどの消極的な気持ちはなかった。繋がれた手のぬくもりが、私の心を穏やかにした。私たちはカルナを避けながら集落の中をぐるぐると移動した。
カルナという名前の由来は諸説あるのだと郵便屋さんが教えてくれた。たとえば、名を狩るから、カルナ。名とは、名前であり、名誉であり、ただ一つしか存在しないものであり、命でもある。それを奪うから、カルナ。名前を借りるから、カルナという説もあるらしい。またあるいは、カルナヴァル。カーニバル、謝肉祭。こんな田舎の集落には似合わない異国の響きだったが、いずれにせよ始まりが曖昧になるほど古くから続いているものだということだけは確かだった。鎧武者も貴族もサラリーマンも、一人また一人とカルナに取り込まれていったのだろう。この世とあの世が繋がる、こんな奇妙な夜に。
東の空が次第に白み始めた。もうすぐ日が昇る。気が付くと私たちは小川に戻ってきていた。草むらに隠れながら、あともう少しの辛抱だと郵便屋さんは私を励ましてくれた。クロも尻尾を振った。カルナの動きは遅くなっていた。ゆらゆらと揺らめくような行列も、響いていた枝が折れるような音も、その勢いは静まりつつあった。
ふと、一人のカルナが目に入った。私は草に隠れてそのカルナをじっと見た。まさか、と心の中で否定する。だけど、と私の頭の中は肯定した。
お父さん。
間違いない。見間違えるはずもない。その姿、形、雰囲気。何度も繰り返し写真で見たその姿は、確かに父だった。私は愕然とした。父は、カルナになっていたのだ。母と私を置いて出ていったわけではなかった。どこかで生きているわけでもなかった。父は生まれ育った故郷で、こうしてカルナになって彷徨っていたのだ。母は知っていたのだろうか。祖母は、集落の人たちは。父の死をこんな形で知ることになろうとは夢にも思っていなかった。私はしばらくの間、父の姿を見ていた。
生きていたならば、どんな生活があっただろう。家族を残して去ることは無念ではなかっただろうか。私の中で様々な感情が浮かんでは消え、浮かんでは消えた。父が去ってもなお、私の心は父を追いかけていた。息を吐いた。溜息にも似たその息は、夜風に攫われて消えた。
郵便屋さんが私の手を取って歩き始めた。これが最後だろうと私は思った。空の色が変わり始めている。月が沈み、星が見えなくなる。もうすぐ夜明けだった。私たちは何も喋らずに歩いた。夜通し歩き続けた疲れが限界まで達していた。それでも私たちは止まることなく歩き、集落の入り口までやってきた。
「カルナの夜には、外に出てはいけないよ」
唐突に郵便屋さんがそう言った。私は郵便屋さんの顔を見上げたが、黒い瞳はどこか遠くをぼんやりと見つめていた。
「僕がカルナになったらきっと、家々を訪ねて回るだろう。いつも郵便を配っているようにね」
郵便屋さんの手のぬくもりが、次第に遠のいていく。確かに手を繋いでいるはずなのに、そこに郵便屋さんがいるという感覚が、私の手の中から消えていく。
「窓から僕の姿が見えるかもしれない。君は、きっと僕を見つけてくれるだろう。でも、家から出てはいけない。何があっても、誰がいても」
私は立ち止まり、郵便屋さんの手を両手で握った。力いっぱい握った。
「いいかい、大事なことだから、よく覚えていてほしい」
郵便屋さんはそう言って、ようやく私のほうを見た。屈んで私と目線を合わせる。郵便屋さんは私と話をする時、少しだけ屈んで私と同じ目線になってくれる。こうして私の見ている世界に来てくれるところが、私はとても好きだった。だからこそ早く大人になって、今度は郵便屋さんの見ている世界を見てみたいと思っていた。
「二度目はないよ。二度目はないんだ」
夢の中でも聞いた言葉を郵便屋さんは繰り返した。郵便屋さんは私の両手に、繋いでいないもう片方の手を重ねた。大きくて、優しくて、温かい手だったが、それが私にはもう分からない。私の隣でクロが悲しそうに鼻を鳴らした。
「だから、次に外に出るカルナの夜は、誰か大切な人を助ける夜なんだ」
手を繋いだまま、屈んでいた郵便屋さんは立ち上がって背筋を伸ばした。私は繋がれた手を見つめたままで、顔を上げることが出来なかった。郵便屋さんの顔を見ることが出来なかった。私たちの手の上に花びらが降ってくる。それでも私は、顔を上げなかった。失われていく体温を守る術もなく、幼い心に秘めた思いを伝えることも出来ず、ただ黙っていた。ただ、黙っていた。
「ご覧。太陽が昇る。朝が来たよ」
その言葉に私が顔を上げたのと、郵便屋さんの形が失われたのは、どちらが先だっただろうか。繋いでいた手も、優しい笑顔も、綺麗な瞳も、全てが頬の傷と同じ花びらへと形を変えて、朝の風に攫われていった。カルナは消えていた。
嘘のように静かな朝だった。
カランと軽やかな音を立てて、私の足元に何かが落ちた。それは、郵便屋さんの名札と、桃の枝だった。だからカルナの夜には桃の枝を撒くのだと、私はその理由を悟っていた。けれどもそれを言葉にするよりも先に、祖母の家へと駆けだすよりも早く、それまでずっと耐えていた涙が私の瞳から零れ落ちた。溢れる大粒の雫は留まることを知らず、私の泣き声は静けさを破って集落中に響き渡った。いつのまにかメアリーが足元に擦り寄ってきて、ニャアと鳴いたけれど、それでも私は泣き止まなかった。どれだけ泣き叫んでも、喚き散らしても、何もかもがもう遅いのだと思い知った。
あの時、家を出たあの時にはすでにこの結末が用意されていたのだ。私は自分の愚かさを呪い、郵便屋さんの優しさを少し憎んだ。別れの言葉を交わすことなく去って行った。きっと父も同じだったのだろう。メアリーのおばさんが家から駆け出して、泣き続けている私を抱きしめた。集落中の人々が続々と集まってくる。その中に祖母の姿もあった。私は何度も繰り返して謝った。泣き疲れて眠るまで、ずっと謝り続けた。しかし、誰一人として私を責める人はいなかった。
目を覚ましても、そこに郵便屋さんの姿はなかった。
「誰もが死者に憧れるものだよ」
クロのおじいさんは私にそう言った。過ぎ去った人に会いたいと、皆が心のどこかでいつも願っているのだと。幾度も別れを繰り返し、その悲しみを乗り越えたつもりでいても、大切な人と過ごした日々の輝きは細い光の筋となって、心の奥深くに差し込み続けるのだ。その光の筋に縋りつきたい時、この世のものではない何かに強く惹かれるのは、きっと、そういうことなのだと。
私は曖昧に頷いた。次のカルナの夜に、私は行列の中に父の姿を探すだろうか。郵便屋さんの姿を探すだろうか。会いたいと願う気持ちが強くなるほど、カルナは近い存在になるのかもしれない。会いたいと、いつか必ず私は心深くから願うはずだ。けれども近くなれば近くなるほど、桃を撒いてカルナを遠ざけようとする。誰もこんな終わり方を望んではいないからだ。私は父のことを祖母に尋ねてみた。祖母は父がカルナになったことを知っていた。母も知っていた。集落の人たちも、みんな知っていた。知らなかったのは私だけだったのだ。父は誰かに助けられ、そして誰かを助けたのだ。そのことが誇らしいと思う一方で、やはり、その優しさを少し憎んだ。
私の左の掌には、傷跡が残った。それは火傷の跡のようで、桃の花びらの形をしていた。手を開き、閉じては開き、私は繰り返しその傷跡を眺めた。これは、私が郵便屋さんに助けられた証であり、郵便屋さんが私を助けた証であり、そして、いつか私が誰かを助ける証だった。私は郵便屋さんのことを忘れはしないだろう。たとえ他の誰かを好きになっても、決して忘れることはないだろう。私はきっとカルナの夜が来るたびに、窓から郵便屋さんの姿を探し、繋いだ手のぬくもりをそっと思い出す。満天の星空のように、黒く、煌めく、澄んだ瞳のあの人のことを。
本当は、父が助けた人は郵便屋さんだったということに、私は気付いていた。穏やかに笑う父の首筋に咲く花が、残された写真にははっきりと映っていた。けれども私は、そのことに気が付かないふりをしていた。父に助けられたから、代わりに私を助けた。たとえばそんな理由があったとしたら、それは私の幼い恋心に、何の意味も持たないからだ。年の離れた妹のようだったとしても構わない。郵便屋さんにとって私自身が少しでも特別な存在であったということを私は願っている。郵便屋さんは大切な人を助けて消えたのだということを私は祈っている。そのことが残された私の心を強くした。
大人になった私は祖母の家へと戻ってきた。かつて私を可愛がってくれた人たちの多くは既にこの世を去った。クロもメアリーも、その生涯を終えていた。祖母は随分と年を取ったが、元気に暮らしている。大学を卒業した私は、星のない街を離れ、母とともにこの集落へと移ってきたのだった。もうすぐ私はあの人と同い年になる。あの人が見ていた世界を私も見ることが出来るようになる。左手の傷跡を見るたびに思い出す、初恋の痛みを抱いたまま、私はここで生きていく。生きていくのだ。たとえ夜の闇の奥に、おぼろげな光を見つけたとしても。
私は物置部屋から桃の枝を取り出し、家中に撒いていく。悪いことが起こらないようにするための、おまじないだ。ここに私がいるという、証明だ。台所では祖母と母が並んで夕飯の支度をしている。朝から降り続く雨は、夜には雪へと変わり、眠る集落に静かに積もるだろう。
今夜は、カルナの夜だ。私にも届くようになった。薄闇に紛れながら集落に溶けるカルナたちの声が。
「カルナの夜には、外に出てはいけないよ」
冬の夕暮れ。風に乗って、どこからともなく、懐かしい声が聞こえた。
カルナの夜 七町藍路 @nanamachi
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