旅の始まり
林先太朗
旅の始まり
隣には初老の夫婦が住んでいるが、さらにその隣は、よく知らない。
もうじき、私が東京に生まれて20回目の春が来る。浪人してようやく入った大学は、それなりに満足できる日々と、膨大な時間を私に提供してくれていた。しかし一年が経つ頃、徐々に色彩が薄れていく毎日の中で、そこはかとなく湧き上がる焦燥感と、言い知れぬ倦怠感が私を襲った。一体、何をして生きていきたいのだろう。無情に過ぎていく時間の中で、私はどうすればこの底なし沼のような生活から抜け出せるのかを、悩んでいた。
ある日、駅前で高校時代の友人と鉢合わせ、そのまま二人で飲みに行った。互いの近況や思い出話に花を咲かせたが、まだ酒の飲める量も分からなかった友人は、いつの間にか眠ってしまった。居酒屋のカウンターでぐっすりと眠る友人をよそに、またこうして一日が終わる、と一人で飲んでいると、同じく一人カウンターで飲んでいたハンチングを被った小粋なおやじが話しかけてきた。彼はどうやら独身の、世界中を旅する写真家であった。私は少し戸惑いながら話していたが、自分だけの時間を存分に楽しんでいる彼の旅の話を聞いていると、次第に心の奥で未だかつてないほどの高揚感が込み上げてきた。
その日の帰り道は不思議だった。今まで出口のない一本道のように見えていた毎日通る駅からの道が、少しだけ広く感じた。去り際に彼は、今度沖縄の離島に行く予定だと話していた。以前そこで撮ったという写真を見せられた私は、それ以降、その島の名前が頭を離れなくなった。
波照間島、果ての琉球(うるま)が名前の由来と言われるその島は、日本最南端の有人島である。石垣島から高速船に乗ること1時間、外海の激しい波に幾度も吐き気をもよおしながら、私はその島に辿り着いた。船を下りた瞬間に吹いた生ぬるい風に、まだ寒さ厳しい3月、ここが南国であることを感じた。
この日宿泊するのは、絵に描いたように古びた長屋の民宿だった。案内された部屋には6畳の畳の上に布団が置かれているだけで他には何もない、空調も、ドアの鍵すらそこには存在しなかった。もとより人口も少なく、島を往復する船は日に2,3本だけのこの島では盗難などないのだろう。何かあるとすれば、宿の主人のお節介だろうか。それほど良く話しかけてくれ、私を受け入れてくれた。初めての一人旅で不安もあった私には、その温かさが何よりもありがたかった。
テレビや写真でしか見たことが無い景色が、この島には確かに存在した。ある人はそれらの映像は加工されていて実際に見ると違うと言う。しかし私の目の前に広がる光景は紛れもなく、こうも美しく存在している。島を自転車で一周していた私の目の前には、沖縄でも随一のきれいさを誇るニシ浜、路傍に広がるサトウキビ畑、そして雲一つない空から濁り一つない海へと沈む夕陽が、代わる代わる姿を現した。それらが映像でみたもの以上に美しく感じたのは、もしかしたら島の風や風の運ぶ香りによって私の見た景色が加工されていたからかもしれない。
島の南端、日本有人最南端の碑に辿り着いた私は、少し離れた荒々しい岩場で一人、夕陽を眺めていた。あの居酒屋で見た美しい夕焼けが実際に目の前にあることに、もはや言葉を失くして見入っていた私は、突然、身震いをした。気づけば日が落ち行く中で気温はだいぶ下がっていた。あたりには見渡す限り誰もおらず、よくよく考えてみれば宿を出てからここまで、誰にも会うことがなかった。「なるほど、ここが端の端か。」思わずそう呟いた私は、今まで自分の生きてきた環境がいかに物や人で溢れていたか、何もないと感じていたことが実は何でもあったのだということを思い知った。たとえ今ここで私が死んだとしても、見つかるのはいつになるのか分からないと思うほどの孤独感に、人間一人がいかに小さく非力であるのかを思い知らされた。美しい風景のあふれるこの島は、人間より自然の力が勝っていると感じた私は、急に一人でいることを怖く感じ、日が完全に落ちる前に宿に戻ることにした。
沈みゆく夕日、風が刻々と冷えていくのに伴って、私の中の寂しさも一層募っていった。
努力も空しく、宿に着く頃にはあたりは真っ暗になっていた。宿の主人は今日の仕事を終え、縁側でのんびりと三線を弾いている。買ってきた晩飯を共有スペースで一人食べていると、同年代らしき男がやってきた。軽く会釈をすると、彼もそこで夕食をとり始めた。一人焦りながら帰ってきた私は、未だ落ち着かない脈拍の勢いそのままに彼に話しかけてみた。すると彼も同じく単身の旅行者で、私より少し前からこの島に来ていたらしく、偶然持っていた波照間名産の泡盛を一緒に飲もうと誘ってくれた。今日は人と話す機会が少なかったせいか、旅先の心の解放感からか定かではないが、話は大いに盛り上がった。私はいつもよりも饒舌になっていたが、今日初めて出会った後腐れの無い相手だからこそ話せたこともあったのだろう。全くつながりのない相手との偶然の出会いに私は、旅の大きな醍醐味を感じていた。
年齢も近く、すっかり意気投合した私たちは、彼の誘いで星を見に行くことにした。聞くとこの島は気象条件が揃っているため、日本で唯一南十字星が肉眼で見える場所らしい。外に出てみると、先ほどまで寒く孤独感のあった島の夜も、何故だか少し暖かく感じられた。
満点の星空の下、ほろ酔いの私の耳に、遠くから三線の音が聞こえてくる。今にも落ちてきそうな星空を眺める私は、これまで思い悩んでいた得体のしれぬ沼から抜け出すと同時に、心躍る新たな沼へとはまっていく自分を、確かに感じていた。
旅の始まり 林先太朗 @koby
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