笛の音響くこの空に・十三




 <災>と魔神が現れるより以前、今と変わらぬ不幸の多くは世に散りばめられていた。

 親のなきがゆえに、あるいは売られて、犯罪の末端を担わされる子供はかつてよりあった。

 ほとんどは使い潰されて命を落とし、実力と利口な立ち回りを身につけた僅かが生き残り、次の子供を使う。

 だから『彼』は稀有な存在だった。欧州の都市でただひたすらに、示された標的を殺し続け、飯にありついた。

 ちょうど魔神の現れた年に、齢六つで初仕事を行って以来、一度も仕損じなかった。大きな負傷こそあれど、死ぬことはなかった。

 元々は一度だけの、文字通りの鉄砲玉のはずだった。人が人を殺すのにさほどの技術は必要ない。標的の前まで行って真っ当に銃を撃てさえすれば、あとは年齢が油断を誘ってくれる。

 当然、死ぬか捕まるかするはずだ。後者であったときのために余計な情報は一切与えていない。

 なのに『彼』は思わぬところで接触を取って来た。そして次の標的を要求した。六歳児が爛々と目を輝かせて。

 幸いにも担当の上役は聡明だった。心の読めぬ丸い双眸に猟犬を読み取った。ならばそのように扱えばよい。

 それからはそれで上手く回った。仕事を与える、替わりに生活の保障はする。彼の殺害遂行能力は空恐ろしいもので、長じてからは護衛の付いた政府の重鎮すら暗殺してのけたものだ。

 上役は聡明だった。自分の扱っているものは猛獣であると認識し、細心の注意をもって接した。

 上役は確かに聡明だったのだ。気付ける者などほとんどあるまいから、仕方がなかった。

 『彼』にとって義務と報酬とがまったくの逆であるなどとは、それこそ狂ってでもいなければ思いつくまい。

 上役は十年生きられた。












 まだ暑かったはずの大気が急速に冷える。

 攻撃の質が変わった。

 そのことは鏡俊介も察していた。先ほどまでのものを乱射される拳銃だとすれば、今は狙いを付けたスナイパーライフルだ。数は大幅に減ったが恐ろしさは上がった。

 左右に回避行動をとる。急激で強力な慣性変移から腕の中の少女を守りつつ、かつての情景が僅かに脳裏をよぎっていた。

 このように抱えはせず、手を引いてではあったが。

 結局みんな死んだ。大人も子供も一切の区別なく。

 何かが背を抉った。

 死にたくない。そう言っていた。

 何かが脇腹を抉った。

 仕方がない。そう言っていた。

 何かが頬をかすめた。

 誰も皆怖いのだ。傷つきたくないのだ。しかし他者が何を考えているのかなど分かったものではない。だから傷つく前に排除しようとするのだ。

 彼もまた。

『フゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!! どうしたどうした逃げるばかりか!!』

 怖いのだ。満ち足りていないのだ。

 そう思って、逃げながら穏やかに言葉をかける。

『今夜はいい天気だね。星が綺麗だ』

『ハ……狂ったか? いや、いやいや、そういや狂ってんだったな。遺言は「お星さま綺麗」でいいか? ハハハハッハハハハッハハハハハハッハハハハッ!!』

 <殺戮獣>グラシャラボラス九号ノナは手の中に小さな刃を創生し、数個まとめて投射する。クラウンアームズ<ケルベロスファング>、正確にはそれを元にほんの数秒間だけ実体化させた投擲武器だ。刃渡りは5cmにも満たないが、標的から強制的に逸らされて周囲に撒き散らされたそれは大地に巨大な墓穴を掘り返し、木々を爆散させた。

『お前はどんな血を撒き散らす!? 残念だなあ、<魔人>の血は消えちまう。一瞬で消えちまう。だがそのガキは違う! 啜らせろよ飲ませろよ!』

『お腹に悪いよ』

 声を残し、少女ごと鏡俊介の姿がぼやける。

 歪む視界、遠くなりそうになる意識に九号は吠えた。

『なめるなッ!』

 同時に投擲した一撃がまともに背を貫いた。次いでそのまま五連撃、うち一つは吸い込まれる。

『殺すッ! 殺すッ! 殺すッ!』

 殺意を形とし、一念ひたすらに撃ち出す。現実の変容を数で凌駕する。

 風が、虚空が唸る。

 加速、加速、加速。それでもまだ捉まらぬ。亀に追いつくこと叶わぬアキレウスのようで、しかし九号は意思なき仮定の存在ではない。

『オオッ! オオオオオオオオオオオオオオオオオオゥッ!!』

 こじ開ける。開けた先に足を踏み入れる。

 <殺戮獣>グラシャラボラス殺戮コロシに魅せられた存在である。理由はない。美学はない。自らの破滅も厭わず突き進む。

 少しずつ、本当に少しずつ近づいて行く。衝動が彼我の距離を縮める。

 一方で、俊介は落ち着いていた。

 主観においてはいつものことである。いつだって追い詰められている。今まで運よく攻撃が外れたり大きな怪我には繋がらなかったりしているだけだ。

 鏡俊介は今でもただのフルート吹きである。

「困ったね。どうにか諦めてくれないかな」

 腕の中で眠る少女に呟く。

 時折刃が身体を削る。

 随分と傷を負ってしまったように思う。このままではもう長くは凌げない。何とかして少女を安全な場所に逃し切らなければ。

 周囲の様子を把握する。

 海から遠く離れ、山も奥深い。

 何か目くらましになってくれるようなことが起これば――――




 そう望み、そして<僭神>ヤルダバオトは実現する。




 山肌が浮いた。

 鏡俊介が駆け抜けるのを見送った木々が、蹴り捨てた土砂が舞い上がり、九号の視界を覆い尽くす。

『虚仮嚇しをッ!!』

 吼える。凡百の<魔人>ならば通じたかもしれないが、九号にとってはこの程度のものなど妨害にもならない。

 『彼』の遂行能力を支えていたのは執念だ。何にかじりついてでも大好きなものを手に入れようとする執着が超人めいた忍耐や閃き、行動力をもたらしていた。そしてそれは<魔人>となった今も変わらない。

 視覚も聴覚も嗅覚も土砂に攪乱させられようと、勘とともに直進する。

 振り払うことすらない。全てを浴びながら、力の限り前へと進む。己がどうなろうと構いはしない。死を、血を全身で堪能したい。

 <殺戮獣>はその名に反して獣ではない。獣ならば己の身を一番に守る。あるいは仔を。

 <殺戮獣>は狂えるヒトである。本能に抗うことを知ってしまったヒトが、替わりに狂気を祭り上げてしまった。

 手を伸ばす。

 手を伸ばす。諦めず、もう少し、もう少しと。

 刃ならず、もはや針にまで鋭化した感性が捉えた。

 一本の線がかつてない威力をもって、ついに過たず鏡俊介の胸を後ろから貫いた。



 

 山肌を捲り返すなどという大干渉を行い続けていた<僭神>ヤルダバオトに、守りまでも発揮する余力はなかった。

 そして鏡俊介も、己が不死身であるとは思っていない。偶然外れていたのならば、偶然当たることはある。

 貫通した一撃が少女に傷を負わせることだけは避けた。

 足がもつれる。

 初瀬光次郎の<曙光>アマテラスによる生命減少は重い。<僭神>ヤルダバオトはあれ以来、そもそも命をも繋ぎ続けていたのだ。

 かつての死の記憶が再び、鏡俊介に死を想起させた。そのことが生命維持をやめさせる。

「……っ、せめて、君だけは……!」

 自分の命は諦めた。だが腕の中の少女のことは諦めない。

 強く踏み込み、大きく弧を描くように反転。降り来る刃は全て外れる。

 一歩ずつ、僅かに死へと近づいてゆく。替わりに逃走速度はこれまでに倍する。

 ヒト一人に出来ることなど高が知れている。

 音楽は世界を繋ぐ。正義を貫ける強さを鏡俊介は望んだ。

 音楽は世界を繋ぐ。それは大仰なことではない。

 自分は一端であればいい。それが正義であるならば、誰かが連綿と受け継ぎ続けてゆくはずだ。

 今は友との約束を果たす。

 咳き込む。息苦しい。

 <魔人>であればおかしなことだ。肉体由来であれば、そのようなものは即座に是正されるはずだ。

 <僭神>ヤルダバオトの万能の力は客観的に都合のいい現象ばかりをもたらすわけではない。俊介がこうであるはずだと思えば、そうなる。

 それでも<殺戮獣>を遥か後方へと引き離してゆく。全力で逃げに徹した<僭神>ヤルダバオトに追いつける<魔人>は存在しない。

 生温い大気を引き裂き、逃走は続く。

 夜明けはまだ遠い。

 この子を救うためには――――






 雨雲もなくして雷鳴が轟く。

 それは遠くまで届くだろう。












 少女が微睡みから浮上する。

 揺れている。

 誰かの顔が見えた。

 しかし。

「まだ眠ってた方がいい」

 労わる声。

 それは愛玩動物に向けたものであるがゆえに、誰よりも優しい。

 少女は再び微睡み、夢なき深みに意識を沈めた。



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灰白世界の<魔人>たち 八枝 @nefkessonn

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