笛の音響くこの空に・十二
<
『彼を悪意によって殺すことはほぼ不可能でしょう』
<赤旋風>。
不吉な赤の光を引き連れて、命を一陣の風が掻っ攫い、血煙がまた赤い風となって消え去る。
理不尽を行う<魔人>の中にあって最も理不尽、狂える知性で平和願う聖者。
常時発動されている凌駕解放
<
交渉できる相手ならばまだやり様はあった。騙すこと自体は容易いだろう。しかしそれは下策なのだ。<赤旋風>の歪な知性は、追えるつもりでいて、読めるつもりでいて、まるで外れてしまう。思いもよらぬ引き鉄一つであらゆる論理や必然を飛び越えて唐突に、言葉も通じぬ抹消者と化す。
あの<
<
『彼を殺せるのは圧倒的な力か、あるいは善意です。善意ですよ』
<赤旋風>を斃す方法は限られるが、突き詰めれば凌駕解放
まずは戦いの中で攻撃に意識を割かせ、その隙を突いて一撃で仕留める方法。
これは完全に虚を突き、本当に一撃でなければならない。僅かにでも違えば<赤旋風>は即座に退散してしまう。
あるいは、領域型の凌駕解放による干渉で
ただ、凌駕解放を会得している者すら稀であるのに、その中でも領域型は更に少ない。おそらくは世界中を探しても両手の指を超えるかどうか。その上で
理屈としては思いついても、実現するのは難しい。
そしてもう一つだけ、それも容易く倒せるであろう方法が存在している。
人間のような脆いものを守らせればいいのだ。<魔人>の攻撃ならば掠めただけでもただでは済まず、直撃すれば木端微塵。そこから無事に保護するために要求される力は、同じ<魔人>を守るときとは桁が違う。いとも容易く浪費させることが出来る。
ただしこれもまた、成立すればの話になる。
<赤旋風>は
それこそ、守ってやってくれと友達に頼まれでもしなければ。
予想だにしない善意の歯車が、笑えるほどにぴたりと合ってしまった。
だから今この時は、二度とは来ないかもしれない機会なのだ。
黒服たちもそれは理解していた。彼らもまた<
魔神、<反逆>のリュクセルフォンによって<魔人>となった者は必ず<トレイター>の
「誰が落とすか競争しようぜ」
「分かってないなあお前。囲んでボコる方が楽しいだろー?」
浮かぶ表情は、愉悦。個である彼らはこの期に及んでも効率を優先しない。護衛などという詰まらない役割を与えられていた鬱憤を晴らすかのように、口々に奇声を上げて疾走する。
その快が曇るのに、さほどの時を必要とはしなかった。
木々の間を行く。
街を選ばないのは
その行く手が遮られることはない。速度が落ちることはない。
背後からは死を告げる砲弾、光弾が降り注ぐ。森が壊れてゆく。
だというのに、当たらない。全ての攻撃が逸れてしまう。
最初は遊んでいるからだと思った。次に、偶然かと思った。
しかしどうしても当たらないのだ。
「くっそ、話が違うぞ……」
「合わせろ、逃すのはさすがにまずい!」
「合わせるのはお前の方だ!!」
怒声に焦りが混じる。
<
思考に疑念も混じる。
気づく由もない。
そもそも、
そして、<赤旋風>もまた成長するのである。
たとえ自覚はなかろうと、環境に合わせて生物が適応するように、より効率よく力が振るわれるようになる。追っ手はなるほど、全ての<魔人>を思えば実力者ではあるのだろう。しかし今の<赤旋風>にとっては、弱点を突かれてなお『リベリオン』ごと凌げる程度でしかない。
黒服たちはなおも追い、傷一つつけられず、狂乱の熱に冒された思考のままに行って。
不意に次々と殴り飛ばされた。
木々を破砕しながら側方の小さな崖に叩きつけられてようやく止まり、眩む頭を振る。
「誰だっ!?」
一人が誰何の声こそ上げたものの、気付いた者から背を凍てつかせた。
僅かに見えたのは夜を行く巨躯の影だけだが、それこそが答えだった。
「奴も来てたのか……!」
舌打ち。黒服たちは一斉に熱を失っていた。進路上にいなかったおかげで被害を受けなかった者も、次々と集まって来ては顔を見合わせて肩をすくめ合う。
「アホらし」
「
グラシャラボラスとは、ソロモンの七十二柱のひとつに数えられる悪魔であり、総裁にして伯爵とされる。グリフォンの如き翼を持つ犬の姿をして、ひたすらに殺戮を好む。
<
彼らを統括するのは十二の翼の一つ、<
とはいえ傍目にも鎖を引き千切らんとする猛りが垣間見えてならず、近くに寄るのも躊躇われる。
それがついに解き放たれたとなれば、殺しにおいて自分たちの出る幕はもうないのである。
「どうする、折角陸に上がったんだから遊んででもいくか?」
一人が冗談めかして言う。半ば本心でもあった。半端に燻る熱を何らかの形で発散したい。
もちろん、言葉通りに遊ぶわけではない。何か凄惨なことがいい。ひとまず街に出て、適当に道行く少女でも捕まえて。
「ああ、いいな、何かあっても船まで逃げれば安全なわけだし」
財団派領域は<
夜が深かった。これから向かおうとしている街の明かりは遠かった。見下ろす星々もまた遠く、闇は深い深い海底にも似て。
何かが動いたように思えた。人間を遥かに超える<魔人>の瞳にもそれは捉え切れなかった。
「そうと決まれば……」
そう口にしようとした黒服の頬に浮かぶ笑みは下卑て、言葉の終わるよりも早く、それを揶揄するかのように生暖かい液体が降りかかった。
鉄錆びた臭いは一瞬のこと。濡れていたのも一息の間のこと。死した<魔人>は残らない。
目の前にいたはずの同僚の姿がなかった。
替わりに見知らぬ東洋人の姿があった。
二十代半ばと思しき容貌は見目好いものではない代わりに悪くもない。日本人男性として長身に分類される背丈はオランダ生まれの黒服からすると平凡に過ぎない。
しかしコートは目立つ。暑さもまだ完全に引いたわけではないというのに色褪せたロングコート、それも右袖だけ異様に大きく広がった奇妙な仕立てになっているのである。
「殺せ!」
黒服は、さすがに<
もっとも、何もかもが既に無駄であったが。
応えはない。同僚たちは死に絶えていた。
ほんの数秒もなかったはずだ。言葉を交わしていたはずだ。なのに、夢から醒めてしまったように、自分こそが最後の生き残りであるという現実だけが叩き付けられた。
そして次の言葉を口にする猶予も与えられなかった。巨大な籠手を嵌めた右拳が、空気を吐くべき肺を胸部ごと貫き破砕していた。
死の瞬間に視線が合った。気力に欠ける、義務を果たすだけの瞳だ。
こいつは何が楽しくて生きてやがるんだ、そう思いながら黒服は死んだ。
その疑問も無意味に消えた。
ロングコートの姿は海の方角へと視線をやり、低く呟いた。
「ただ強いだけの獣と奴らの拠点。これは船とやらが優先か」
夜に身を躍らせる。
暗闇の中に沈んだ。
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