笛の音響くこの空に・十一




 巡洋要塞ウェパルが眠りから覚める。

 全長1キロメートル超、呆れるほどの巨体が鋼鉄の軋みとともに稼働を始めた。

 ここに及んではむしろ邪魔だということか、霧がかき消すようにして散る。

 探照灯サーチライトは要らない。<魔人>の目でなくとも見えるだろう。赤が、不知火を思わせて揺らめいているのだ。

 烈火の頭上、中空に六つの穴、横向きの奈落が口を開けた。そしてそこから突き出したのは砲だ。それも口径が子供の背丈ほどもあろうかという。

 蒼い燐光がそこから覗く。それは初めて目の当たりにする、しかし虚構の上では慣れ親しんだ現象。

 荷電粒子砲。

 兵器としての実用性はないものの理論的には現代の科学技術でも可能、とはされるが、これは異なるだろう。<魔人>の行う理不尽の一種だ。力の投射を兵器のように見せかけている。

 解き放たれたのは目をかんばかりの蒼と白の奔流。大気の焦げつく臭いとともに赤へと殺到する。

 しかしそれは捻じ曲がった。四つは空へ、二つは海へ。海水がごっそりと消え去り海面が大きく割れる。その最中さなかを不吉なまでの赤い旋風が舞うのだ。

 烈火は見た。長剣の纏う赤光しゃっこうに照らし出されるのは見知った顔。暗い海、その水面みなもを大地であるかのように縦横に駆け、鏡俊介が向かって来る。

 次々と放たれる砲撃は、しかしやはり当たらない。回避行動以前に強制的に逸らされてしまう。

 鬼気迫る顔、視線がこちらを捉え。

 烈火は姿を一瞬見失った。

 掻き消えたのだ。空間を転移するように、あるいは世界を縮めるように、位置そのものが百メートルは移り変わっていたのだ。それを幾度も繰り返し、瞬く間に巡洋要塞ウェパルにまで到達してしまった。

 最後に黒服たちが悪あがきとばかりに叩き込もうとしたサブマシンガンの弾は、夜半のそよ風と消えた。

 音もなく甲板に降り立ち、俊介はにこりと笑った。

 そして開いた口から流れ出たのは流暢な英語だった。

『さすがに場所がないから、ここに立たせてもらうよ』

 <女衒スィトリ>も黒服たちも何も言わない。いつでも襲いかかれるように身構えている。

 すると俊介は小首をかしげて言葉を変えた。

『フランス語がいい?』『それともドイツ語?』『イタリア語も』『スペイン語も話せなくはないよ』『アラビア語はちょっと厳しい』『見た目からして中国系じゃないとは思うけど』

 まさに言語を次々と切り替えながら呼びかけ、反応を待つ。

 烈火は呆気にとられていた。最初のものが英語のようだと察せたくらいで、あとはまるで理解できていない。

 これは<僭神>ヤルダバオトのもたらしたものではなく、かつて俊介が世界を回っていたときに身に着けていっただけの言語能力であるのだが、知る由もない。

 最初に応じたのはやはり<女衒スィトリ>だった。

『私に限って言えば出身はイタリアになるが、英語でいい。全員が分かるのはそっちだ』

 相も変わらぬ張り付いた笑み、こちらもイタリア語から英語へと遷移させ、軽く手を挙げた。

 それは合図だったのだろう。黒服が戦闘態勢をひとまず解いた。とはいえ意識としては最大級の警戒を維持したままであるが。

『さて、何か御用かな? 招かれざるお客様』

『烈火は僕の友達なんだ。物騒なことはやめてもらえるかな』

 怯懦など欠片もない声、柔和な表情。そこに一切の偽りはない。鏡俊介はいつも本気で生きている。太い針のような殺意、研ぎ澄まされた刃の如き敵意を受けながら、返すのは友好を望む言葉だ。

 皮膚が粟立つのを黒服たちは抑えることが出来ない。情報としては知っていても、先ほどのでたらめな力とこの隙だらけの姿との乖離のもたらす違和感が肌の裏側を逆撫でするような不快を与える。

 だから、応えることが出来たのはやはり<女衒スィトリ>だけだった。

『さて、困ったね。本当に困った』

 それは本音だった。

 <女衒スィトリ>は<無価値ベリアル>より鏡俊介についての情報を得ている。

 しかしその上で、どうしようもないのだ。意に添わぬくらいならばともかく、相容れないことを口にしようものなら以降は怪物モンスターとして認識されて言葉が通じなくなってしまう。口八丁を武器とする者にとってそれだけは避けなければならない。

『ふむ、ならば……』

 二人まとめて逃してしまおうと、そう決断する。<スィトリ>にとって烈火など塵芥、生かしておくよりは始末してしまった方がいい、程度のもので、放置したとて大して問題ではない。巡洋要塞ウェパルのことを広めたくはないが、ここで<赤旋風>とやり合うよりは遥かにましである。

 だから烈火はただ傍観しておけばよかったのだ。そうすれば無事に帰ることが出来た。今後どうなるかはともかくとして、この場は切り抜けられた。

 だが、烈火には自分の心しか分からないのだ。その瞳の映す景色は、耳の捉える声は、俊介が自分のために死地に飛び込んできたようにしか思えなかった。

「……頼みがあるんだ、俊介」

「どうしたの?」

 さすがに<女衒スィトリ>から視線は外さずにだったが、俊介からはいつもの通りの明るい声が返って来た。

「俺が馬鹿だった。こいつらは糞だ。この子に酷いことをするつもりだ。だからこの子を連れて逃げて欲しい」

「それじゃあ烈火はどうするの」

「俺は……」

 死ぬ。そう決めていた。これ以上流されるよりも、終わらせる。

 最後に自分がここに生きていた証を刻み付けられればそれでいい。

 もうたくさんだ。もう、救いの手を求めようとは思っていなかったのに、どうして来てしまったのだろうか。本当に間が悪い。

 狂人ではあるが善良でもある俊介を巻き込みたくはない。

「こいつらを足止めする。その間に行ってくれ。巻き込まれるだけでこの子は簡単に死ぬだろ」

 ふと口許に笑みが浮かんでしまったのは、お約束のような台詞だったからだろう。ここは任せて先に行け。一度は口にしてみたい言葉ではある。

 あとは、この異常で、お人好しで、狂っている男に不思議な親しみを覚えてしまったのだ。

 偽善ですらない、ただ自殺には巻き込まないでおこうとだけ、烈火は思っていた。

 僅かな沈黙。俊介の迷いの現れだろう。

「……僕は烈火を助けに来たんだけど」

「追いつくさ」

 こともなげに噓をつく。死ぬと決めてしまった今、爽快だった。

 その嘘は見抜かれたのか。

 見抜かれたのだろう。

「分かった」

 少女を受け取った俊介の声はひどく穏やかだった。死ぬ行く者を見送る響きを帯びていた。

「いつまで続くんだろうね、こんなことは。終わらせなきゃ」

 少女を抱き、跳躍する。海上を踏みしめ疾駆する背はすぐに消えた。

 そして、<女衒スィトリ>も動いた。

 表情は変わらなかった。しかし張り上げた声の響きは、今までからは想像もつかぬほど異様な圧を発していた。

『全力で追え! 千戴一遇のチャンスだ! これを逃せば二度はないと思え!』

 叫びの意味は烈火に理解できるはずもなく、唯一分かったのは黒服たちが自分など無視してタラップを降り、接舷していたクルーザーに乗り込んだこと。それから、今までは物陰に隠れていたらしき大男も続いたことくらいだった。

「俺程度、自分独りでも片づけられると?」

「ああ、その通り、その通りではある」

 謡うように、<女衒スィトリ>。

 また余裕のある音になっている。

「なぜなら、君は愛しくなるほどに愚かだからね」






 爆音が夜の海に溶けてゆく。

 本当に、黒服たちが全員行ってしまった。

 勿論、まだ隠れている可能性はあるが、少なくとも視界内には<女衒スィトリ>独りである。

 烈火は愛剣を青眼に構え、感覚の糸を周囲へと伸ばした。

 <女衒スィトリ>は動かない。戦闘態勢すらとらずに突っ立っている。

 余裕を通り越して油断にしか見えない。自分は強くないと言っていたはずなのだが。

 ともあれ睨み合って時間を浪費すれば不利なのは自分の方だ。追うことを諦めた黒服がいつ帰って来るやもしれない。

 甲板を蹴る。極端に前傾した姿勢、<女衒スィトリ>の足元まで一息に踏み込む。

 命を既に捨てたからこその己を顧みぬ一歩。

 そこから伸び上がるようにして斜めに切り上げる。

 何をされようと死ぬ前に殺す。烈火の剣は今、冴えに冴え、剣閃は一条の光としか映らない。

 夜半の小さな月は標的の姿を抵抗なく断ち割った。

 身体の芯が冷える。あまりにも手応えがない。

 烈火の視界の中で<女衒スィトリ>が拡散した。霧となって、薄れ、消える。

「幻影……? 最初から偽物ダミーか!」

 呻く。

 当然と言えば当然だ。違和感自体はあった。仮にも幹部とあろう存在がわざわざ危険に身を晒す方がおかしい。何かの絡繰りなのか異能なのかまでは分からないが。

 もう一度構え直す。

『あれは君よりも、誰よりも弱いとも。ただの幻像だからね』

 声が先ほどまでと同じように響く。

 その音の出処は分からないが、本体はおそらくこの巡洋要塞ウェパルの中であろうことは想像に難くない。

「このクッソでかい船のどこにいるのか見つけ出せってか。冗談きついぜ、かくれんぼの鬼なんてもう十年くらいやってねえぞ」

 軽口はまだ出てくれた。

 いつになく血の巡りがいい。俊介を迎撃したときの荷電粒子砲もどきを覚えている。あれが<魔人>の所業であるならば、放っていたのはほぼ間違いなく<女衒スィトリ>だろう。

 あれが今度は自分に向けられる。そのことを予見していたからこそ、回避は淀みなかった。

 眼前に突き出された砲門。眩い光。躱してなお、熱が頬を焼いた。

 思考が縦横に駆け巡る。

 どこから侵入する? 奴はどうやってこちらの位置を正確に把握している? 本当に船内か? たとえば姿を隠して甲板のどこかに突っ立っているということも充分に考え得る。

 留まらない。甲板を不規則に移動し続ける。

 極太の輝きが危うい位置を薙いでゆく。足を止めれば終わりだ。

『いつまで逃げていられるか、見ものではあるね』

 やはり正確に過ぎる。船体に被害が及ばぬよう射出方向の限られているおかげで避け続けられてはいるが、集中が切れた瞬間が終わりの時だろう。

 俊介のような超感覚が欲しかったところだがないものねだりをしても仕方がない。

 やはり外か。

 烈火はそう結論付けた。

 違和感を探せ。感覚を広く開放しろ。失敗など恐れる必要はない。既に放棄したこの命など、どうなろうと変わりないのだ。

 偽粒子砲が向けられない場所はどこだ? 水平に放たれるときでも安全な場所は?

 光を幾度搔い潜ったろう。腕が焼き切られたのは二度だ。

 目まぐるしい、眩暈を禁じ得ぬ逃避舞踏の果て、烈火の意識の中には安全地帯が構築されていた。

 強く甲板を蹴った。

 残った右脚が焼かれたが即座に復元、空白地帯へと飛び込み、受け身から跳ね起き、力の限りの五閃を加えた。

 音が消えた。

 その理由を、烈火が理解することはなかった。

 中空に開いた穴より、全方向から打ち出されたのは子供の胴ほどもある冷たい杭だ。七基の杭打機パイルバンカーが、肉片も残さぬとばかりに徹底的に烈火の肉体を破り、裂き、貫いた。

『君は』

 声は既に届かない。死した<魔人>は、烈火は消滅している。

『本当に愚かだ。ああ、だが、誰も彼もが愚かなのだよ。全てを旨く運べる者などいようか。誰も彼もが盲目で、手探りで喘いでいるのだ』

 再び現れた幻影は、薄い笑みを張り付けていた。

『さて、誰か帰って来られるものか』

 夜は更に深く、奈落の空に逆落とす。

 何も見えなくなった。





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