笛の音響くこの空に・十




 甲板には何もなかった。

 人が立って歩くには不足ない程度に平坦な装甲が視界を埋めるほぼすべてと言って差し支えない。

 強いて挙げるならば、内部へと続いているのであろう小さな出入口が夜闇と霧に紛れてはいるが。

「ようこそ、我らが巡洋要塞ウェパルへ」

 十名の黒服を従え、にこやかにそう繰り返したのは白色人種の男だった。

 スーツを着こなした姿は年嵩に見えるが、おそらくはまだ十代なのだろう。海外ドラマなどで覚えのある高校生役と大人役の印象を反芻すればそう思えた。

「自己紹介しておこう。<金星結社パンデモニウム>傘下の<スィトリ>を統べる一人、東アジアの総責任者だ」

 達者な日本語であるとともに、実に堂に入っている。慣れ切った仕草と台詞だ。

 そして告げられた内容に改めて息を呑んだ。この物々しい船の存在から<金星結社パンデモニウム>の本気のほどは予想していたが、わざわざ部門のトップが直接乗り込んで来ているとは、ましてや素性も知れぬ自分と顔を合わせようとは夢にも思っていなかった。

 彼は続けた。

「本来なら中に案内して歓待するところなのだろうが、この船は重要機密というやつでね。この殺風景な甲板で失礼するよ」

「…………商売の話といこう」

 言葉遣いをどうしたものかと迷いはした。本当にこれでいいのかなど、自問しすぎてもう考えたくもない。

 攫ってきた少女は、いまだ眠ったまま腕の中にある。

 どうでもいいとばかりの投げやりな言葉が咎められることもなく、ただ、男の口許に張り付いていた笑みが歪みを秘めて大きくなった。

「ああ、そうしようか。言うまでもないことだろうが、どんな子を連れて来たかで君の評価は変わる。精々気張って売り込みプレゼンテーションを行うがいい」

 烈火は少女の丸い顔を見下ろした。ここまで船に揺られ、甲板までなど跳躍して連れて来たというのに寝息は穏やかだ。

 何の罪もないこの子はこれから地獄を見る。何がどう転んだとしても、それは覆らないだろう。

「言うことなんてそんなにねえよ。名は佐々木愛花、満十一歳。こいつの父方の祖父さんは元財務省高官で、今も幾つかの大企業の特別顧問をやってる。政界にも財界にも、良くも悪くも、まあ……しがらみの強い爺さんだ。あんたらなら上手く使えるんじゃないか。少なくとも代金以上の金は回収できるはずだ」

「ほう、たとえばどうやって?」

 試すための意地の悪い質問だ。答え如何では大して意味もなく殺されるかもしれない。

 しかし不思議と怯えは浮かばなかった。

「俺はただの人攫いだ。専門家はそちらさんだろ」

「なるほど、それならそれでいい」

 少なくとも想定していた反応の一つではあったのだろう。男の声に変化は感じられない。

 さて俺は一体どう扱われることになるのかと、片眉を上げて少しばかりの時を流そうとしたときのことだった。

 甲板を駆ける甲高い足音とともに、未だ名も知らぬ同業者が泡を食ってやって来た。烈火がクルーザーから此処までを直接跳躍したのに対して、タラップを上がったのだろう。

「おい、お前! 俺を通さずに話進めてんじゃねえ!」

「ナニサマだよ、てめぇ」

 溜息混じりのぼやきは果たしてその耳に入ったか否か。

 同業者はすぐに<スィトリ>へと向き直り、まくし立てた。

「どうだ、こいつの腕は確かだ。頭も回る。悪い買い物にはならないはずだ! さすがに日本のこの現状で支援なしはきついが、バックアップしてくれれば確かな足掛かりを作れる男だ!」

 目を血走らせ、声には微塵の余裕もない。推測するまでもなく自らの生命、進退を賭けているのだろう。

 異常なほどに静かな気持ちで同業者を、その生き足掻く様を見る。

 <魔人>としてごくごく並の力しか持ち合わせないということは、平和に日々を暮らしている分には問題ないだろうが、自分たちのように悪行に身を沈めれば常に身を脅かされることになる。必死で生きなければならない。

 楽しいことに誤魔化され、楽なことに流されて来た自分とは違う。

「それに俺はあちこちにシステムを作り上げてる。これも使わなきゃ腐っていくだけだが、力を貸してくれれば稼働させられる! 俺たちを使わない手はないはずだ!」

 なるほど、力がない分は頭を使って手広く人売り稼業に精を出していたということだ。

 烈火はもう一度少女の顔を見下ろした。

 同業者はまだも己の売り込みを行っている。一方で、<女衒スィトリ>の心は張り付けた笑みが覆い隠して。

 理解した。もう聞いていても仕方がないだろう。不意に腹の底から笑いが漏れた。それは大きめの吐息としか聞こえなかっただろうが。

 そうこうしているうちに進展があったようだ。

「いいだろう。君を<スィトリ>の一員として迎え入れよう。この国での勢力拡大に大いに働いてもらうことになるが」

 <女衒スィトリ>が頷く。

 その瞬間、喜色満面に同業者はこちらを振り向いた。

「どうだ、俺は一歩進んだぞ!」

 かつて言っていたことだ。

『こいつは賭けだ。本当に<竪琴ライラ>がくたばるかどうかなんて、蓋を開けてみなきゃあ分からない。だが震えて暮らしたっていいことなんざ何も起きるわけがない。そうだろ? そんな腰抜けを誰が省みるんだ? 俺は弱い。弱いからこそ一歩先に進んでおく必要がある。いつだって賭けなきゃいけない』

「覚えておけ、未来を切り拓くのはいつだって意思だ。俺はこれからもこいつで進み続けてゆく。お前もついてこい!」

「……そういえばお前の名前、まだ知らんな」

 少女を抱いたまま、歩み寄る。

 自分がどのような表情をしているのか、烈火には分からなかった。誰も特別な反応をしないということは、どうということのない顔なのだろうか。

「おいおい、俺の名は」

「要らん。死ね。これ以上振り回されてたまるか」

 下位とはいえクラウンアームズである愛剣を顕現させ、片手だけで容易く斬り捨てる。脱落はしたが元剣豪派、ただの<魔人>と比較すれば、膂力も速度も剣才も経験も遥かに勝る。

 声もなく宙を舞い既に消えつつある首に告げる。

「俺らみたいな悪党に一番必要なのはな、力だ。お前の未来を切り拓く意思とやらは、お前を斬ってすっきりしたいだけの俺のクッソ下らん衝動に負けた」

 聞こえているかどうかも怪しいが言わずにはいられなかった。

 同業者にも計算はあったのだろう。よもやこんなところで、こんな段階で害は為すまいと。丸きりの、狂気の沙汰となるからだ。

 そう、これは頭のおかしい行動である。

「最も必要なものは力。それについては大いに賛同できるところだが、これは我々に対する宣戦布告に等しい。言った通り、彼のことは仲間として迎え入れるはずだった」

 <女衒スィトリ>の笑みは微動だにしない。

 こいつには果たして中身が入っているのだろうか。益体もない思いを思考から振り落とすように、烈火は頭を振った。

「おたくら、あいつの言うことなんてまともに聞いちゃいなかったろ。後ろの奴ら、何人か欠伸噛み殺してたぞ」

 どうにももやもやとした、これまで言語化しづらかった感覚の答えをここで得る。

「そうだ、アレだな。ゲームのシナリオで立ちグラ使い回しのモブの台詞を機械的に送ってる感じだ。まるで本気を感じない。最低限のデータだけ流し見て、とりあえずキープしとくか処分するかだけ気分で決めて、すぐに忘れる」

 不思議な高揚を覚えた。自分は今、破滅の扉を蹴り開け、踏み出している。誤りと承知している答えに命を賭けた。

 合わぬ歯の根を、鳴らんとする歯の音を、力づくで抑え込み、歪に口角を上げた。

「で、後で思うわけだ。――――何だこれ? 要らん、捨てとこう。――――おたくらにとっての俺たちは、その程度のもんだ。違うか?」

「ふむ……」

 <女衒スィトリ>が初めて困ったような顔になった。

「いけないね。そんなに分かり易かったのか。だが頑張って演じるほどの価値もなし、そこは仕方がない」

 全肯定である。

 しかしすぐ、面白げに、あるいは嘲るように小首をかしげて見せた。

「もっとも少しばかり解せない。訊いてもいいかな?」

「何だ」

「君は一番意味のない行動をしている。おそらく我々のことを最初から危険視はしていたんだろう? なら、なぜ律儀に標的を浚って来た? 脅しでもかけられたのだろうが、無視すればよかったろう。あるいは、もうここまで来てしまったなら、適当に合わせて帰ればよかっただろうに」

 正鵠を射てはいる。

 射てはいるが、下らなかった。

「俺にはそのとき見えてることしか見えねえんだよ。凡人だからな、流される。気分で動いたり理屈で判断したりする。後出しでなら何とでも駄目出しできるんだろうがな」

 出した刀は仕舞わない。これはこれから酷使する。

「そうだ、キープと言ったが、あれももう既に間違いだ。このウェパルとやらを見た俺を生かして帰すわけがない」

「つまり、間違えたことに気付いたから力づくで逃げ出そうと?」

 <女衒スィトリ>が合図すると、背後の黒服たちがクラウンアームズであろう武器を一斉に構えた。

「ここに立っている中で、君より弱い可能性があるのは私くらいだ。そのくらい察してはいるのだろうがね」

「言われるまでもない」

 右手には刃、そして左腕には少女を未だ抱えている。

 <魔人>の膂力をもってすれば重くはないが嵩張りはする。盾としたところで躊躇なくまとめて殺しに来るだけだろうし、脆過ぎて紙切れに等しい。

 放り出すべきなのだろう。不幸にはなるだろうが殺されはすまい。むしろこうして抱えている方が危ない。

 そもそも売るべく拐かして来たのは自分なのだ。今更何の偽善を、偽善にすらならないことを行おうというのか。

 黒服たちがゆっくりと半円状に広がり、こちらを取り囲む。その一方で<女衒スィトリ>の前は三名が塞ぎ、強襲に備えている。

 背後はもちろん海だ。

 それでも捨てられない。また無意味なことをしている。間違え続けている。

「間違いで、それがどうした! てめェらも! <竪琴ライラ>も! 見下してンじゃねェぞ!!」

 腹の底に冷たくあった澱みを、その更に奥の灼熱が沸騰させ、飛び散らせる。

 それは安い自尊心だ。

 皆は笑うのだろう。小悪党が何を言っているのかと。身の程を知れと。むしろ負け犬の遠吠えが似合っているとでも。

 だがそうであっても、吠えずにいられないのだ。ここにいるのは『烈火』と名乗る<魔人>なのだと。名もなき背景などではないと。

 同業者を名を知らぬままに殺しておいて、それでも己はと憤る。

 この場この時、その身に訪れるのは確かな破滅であるはずだった。




 ――――閃光。

 視界を奪う霧を裂き、逆さに星が流れ去った。

 その光の奔流が何であるのかを烈火が知る由もない。だが夜が見え、月が見えた。道が開けたかに思えた。

 黒服たちがざわつく中、<女衒スィトリ>の表情がない。すべてが抜け落ちた虚ろを覗かせ、やがて作り物めいた気味の悪い笑みを露わにした。

『あれはいい。ただの流れ弾だ。それよりも来るぞ、理不尽が、血塗れ聖者が。我々デヴィルを憐れみに、赤い旋風が!』



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