笛の音響くこの空に・九




 初瀬光次郎は<魔人>となる以前の記憶がない。

 一般的な知識は保持しながら己のことを何も覚えていない、全生活史健忘である。

 眩暈のしそうな黄金の満月を見上げながら小川の脇にひっくり返っていたのが、今へと続く最初の記憶となる。

 そして二番目の記憶は、面白そうに見下ろして来る男の顔だ。

『よい月じゃのう』

 おかしな男だった。

 洋服なのか和服なのか、大雑把に混ざり合った装いを着崩して、陽気に笑う。

『まあ、来い。飯でも食わんか』

 そう言って連れて行かれた先、極めて広い庭を持つ平屋の日本家屋の縁側にやる気なく寝そべっていたのが薄紫の髪の女だ。

『いやはや師直さん、なんで三日前に来たばっかりのお前様が<無尽城郭ここ>の主人みたいなノリで人を拾って来るんですかね?』

 男こそは<数打かずうち>の水守師直、そして女は<無尽城郭>の主であるライラック。もっとも当時そのような二つ名はなかったし、その集団は剣豪派という呼び名ですらなかった。むしろ神官派と騎士派と財団派の中点にでもあるような曖昧な体制だった。

 それが現在のようになったのは、水上師直の常軌を逸した強さに惹かれた<魔人>が集まって来たからだ。

 それぞれのやり方でではあるが、日常的に鍛え続けることのできる者しか居続けることはできなかった。他へと移るか、逃げ出した。

 光次郎には剣豪派の水が合っていた。握る大太刀に覚えたのは違和感よりも親しみだった。

 失われた記憶にほとんど興味はなかった。剣を振ることの方が大事だった。












 いつかのように、まあるい月が夜を行く。

 千切れ雲はその膝元に遊び、風の吹くままいずこかへ。

 そんな気ままな夜空の下、右の担ぎ構えに居て、光次郎はじとりと滲む汗に口の端を歪ませた。

 既に十合ほど打ち合っている。いや、そう言っていいのかも分からない。現実が塗り替えられ続ける。悪夢に藻掻き、何もないところでのたうっているかのようだ。

 もしかすると本当に夢を見ているのではないか、目覚めれば蹴り飛ばした布団が足元に放り出されているのではないか。いっそ、そうであってくれたならよかったろうに。

 踏み込み。斬撃。怖じず、行く。

 確実に当たる、替わりに浅い傷を重ねて追い詰めてゆくことはできない。容易く効かなかったことにされる。

 碌に当たらない、替わりに当たりさえすれば一撃で決めることのできる攻撃も無意味。容易く当たらなかったことにされる。

 必要なのは、当て、屠る一撃。すべての攻撃が命に迫って初めて、鏡俊介に届く。

 そして光次郎はそれを行える<魔人>だった。

 振るうのは己を押し付ける剣。対手の動きを活かすのではなく、動く前に殺す、動いてなお殺す、問答無用に葬り去る剣。混迷を極める戦場を切り拓く類のものだ。

 しかしこれは実力伯仲かそれ以上の相手との一騎打ちには向かない。特に対手を活かす剣の理を使う者だ。彼らはこちらの業を利用し、突き崩して来る。だからこそ対極に位置する序列二位には翻弄されることになっている。

 そしてゆえにこそ、光次郎は今、<赤旋風>と戦えていた。

 光次郎の剣、『殺』の剣は過去から今へと繋がる一連の流れを必須とはしない。今と、敵を殺す未来さえあれば事足りる。いかに現実を改変されようとも、その後の『今』だけを足場として剣を振るうことができるのだ。

 淡い輝きを放つ大太刀が夜を切り裂く。理不尽に位置が入れ替われば、そこから手首の返し一つで突きとすら映る斬撃を繰り出す。

 吐息には覇気を、眼光には殺意を。敵するもの全てを屠る鬼神の剣が唸りを上げる。

 抑えられても抑えられても、尽きせぬ拍動が戦を己がものとする。

 視線が死線として交錯する。それを追い、爆発的な力が叩き付けられる。光次郎の肉体が放つ一撃を<僭神>ヤルダバオトが迎え撃ち、捻じ曲げる。

「はッ、はははっははははッ!!」

 笑う。

 傷は与えている。即座に復元されるため確認はできないが、手応えまでは幻とならずに肌に残っている。

 替わりに負った傷はそれ以上。

 だがそれでいい。そうでなくてはならない。

 有利に進めてはいるが手強い、その認識こそが<赤旋風>を罠へと導いてゆく。あと少し強く仕掛けられればという心のままに、<僭神>ヤルダバオトが攻撃に偏ってゆく。用いている自覚がないからこそ、<赤旋風>はこれを意図的に止めることができない。

 光次郎は腹の内に力を溜め込む。

 自分に存在する、たった一つの勝ち筋。要は交差法、敵の最大の攻撃とすれ違うようにこちらの最大を叩き込むのだ。

 長い吸気。夜が殺到してくる、闇が押し潰さんとしてくる、その幻影を見て、切り拓く未来を思う。

 深い、奈落の如き夜とともに赤い旋風が来る。無機質なまでの、害虫を殺すだけの殺意とともに翔ける。

 時は今。


「“陽は昇る”」


 長大な太刀を脇構えに、呟く。


「“夜は今、明ける”」




 神話はこの国にある。




<曙光>アマテラス




 地まで降ろされた刃が虚空を切り上げるとともに、そこから光が溢れ出した。

 払暁。闇を駆逐し、夜を薙ぎ払う。

 光の帯は彼方の空までも貫き、<赤旋風>を斜めに両断した。

 この凌駕解放は、言ってみればただの強大な斬撃を撃ち放つだけのものだ。いくらでもかわしようのある、必殺とはとても呼べぬ代物。しかしそもそも必殺とは技の内に存在するものではない。技を必殺の一撃として、人が昇華するのだ。

 閃光の駆け抜けた後に燐光が散華する。残心、油断なく<赤旋風>の死を探して。

 それは目の前にあった。

 赤い風を纏う刃が腹を裂いた。

「ッ!?」

 苦鳴を噛み殺し、両者ともに跳び離れる。

 光次郎は街を背に、<赤旋風>は海を背に、再び睨み合う。

「……あれに耐えるかよ」

 どうして凌げたのかを具体的に推測することは不可能だ。

 今まさに復元してゆく姿は、確実に両断成ったことを示し、それでなお命は尽きなかったのだけは理解できたが。

 意思の刃で惑いを殺し、追撃を仕掛ける。こうなってしまえばいつ逃げられてもおかしくない。

 しかし一足の踏み込みで放った袈裟切りは空を切った。

 <僭神>ヤルダバオトによって捻じ曲げられたのではなく、踏み込むより前に<赤旋風>がさらに後ろへと跳んでいたのだ。

 そこはもう海である。

 何事でもないかのように海面に降り立ったその顔に浮かんでいたのは戸惑い。

「……烈火?」

 光次郎の<魔人>としての聴覚が呟きを拾い上げた。

「待ってて、今行く」

 そのまま沖へと向かって駆け出す<赤旋風>。

 瞬く間に遠ざかる背に飛斬を放ってはみるものの、得手には遠いそれは当たり前のように掻き消されてしまった。

 もう<魔人>の目をもってしても見えない。

「しくじったか……」

 苦い息を吐き、オーチェへと連絡を入れる。

 逃げられたという報告と、もう一つ。

 <赤旋風>は今までに得られていたデータから成長している。

 なぜならば、感知したと思しき烈火の居場所が400メートル以内であることはまずあり得ないからだ。

 奥歯を軋ませ、暗い海を睨む。

「……まだだ」

 乾坤一擲の一撃で仕留められずとも、諦めはない。
















 時は巻き戻る。

 昏々と眠り続ける少女を負ぶった烈火の姿はクルーザーの上にあった。

 指定された位置にいたのは、この事態に巻き込んでくれたあの同業者だ。わが意を得たりとばかりに浮かべた笑みが腹立たしかった。

 そしてこのクルーザーを操っているのも彼である。烈火に詳しいことは分からないが、少なくとも付け焼刃ではない動きだとは思えた。

 免許など取れる年齢ではなかっただろうが、要は慣れだ。必要があって習得したのだろう。察するに彼らの取引は海上で行われていたに違いない。

 背の重みと熱さを思う。

 胸にあるのは迷いにも似た不快。流されざるを得なかった己と、この流れそのものへの怨嗟だ。

 こんなもの、望んでもいないというのに。

 吐き出す大きな息が白いものを押し流す。

「…………なんだ?」

 見回せば周囲が真っ白に染まっていた。

 ほんの数秒前までは夜の海が見えていたというのに。

 濡れた感触はこれが霧であることを示している。

 背を怖気が這い降りた。これがただの自然現象であるはずがない。変化が早すぎる。

「おい!」

「大丈夫だ、これを突っ切った先が目的地さ」

 操舵手は憎々しく笑った。

 侮っていた。

 ある意味において敵地に踏み込むことになるのだとは認識はしていた。しかしこの地球上のどこかには違いないと思い込んでいた。

 しかしこの先にあるのは、恐らく孤立した空間だ。少なくとも自分程度では脱出不可能なほどには。

「諦めろよ、もうお前はこのまま進むしかねえんだからよ」

「……黙れ」

 どれほどの時間を、距離を進んだのだろうか。

 全く変わり映えのしない白は感覚を狂わせる。下手をすれば実際に何らかの力で攪乱されていてもおかしくない。

 不意にその白が一掃された。

 替わりに目の前に聳えていたのは黒鉄の壁だ。夜であることを考慮しても光沢のないそれが船腹であることに気付くには少しかかった。

 巨大に過ぎる。おそらく全長は1キロメートルを超えている。高さはさほどとも見えないが圧し掛かってくる影は怪物めいて睥睨してくる。

 息を呑む烈火の視界の中、甲板に一つの人影が現れた。

 それは朗々と、流暢な日本語で告げた。

「ようこそ客人、我らが巡洋要塞ウェパルへ」








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