東京行き
雨夜灯火
東京行き
東京に、東京という街がないと知ったのは、何時のことだろう。
朝八時、中央線の快速電車がいつも通りぎゅうぎゅう詰めの満員で走り出した時、池西菜絵子はふと思った。
扉上部の行き先案内に、東京行きと表示されている。この東京は勿論東京駅であることなんて百も承知だけれど、その東京駅だってあるのは千代田区丸の内一丁目であって、東京ではない。東京都の一部ではあるかもしれないけれど、日本の首都であるはずの場所、その一点を指し示す東京という場所は存在しない。
そのことは、上京してきたばかりの頃にはとても驚きに溢れた事実だった。でも今や、地元を出てきて八年ほど経っている。三十路まではもはや秒読みというくらい近づいてきてしまっているし、そんな新鮮な驚きはとても遠くなってしまった。
毎朝のすし詰めの満員電車も最初は辟易したものだけれど、慣れてしまえば日常の一つに成り下がってしまう。特に真夏や真冬や五月なんかでもない十一月の今日なんかは、いっそ快適に思えてくる。
眼前のサラリーマンの禿げた後頭部と漂ってくる加齢臭にも何も感じない。むしろ一緒に会社へ向かう仲間たちだ。隣の高校生が赤シートで古語単語を覚えている。テストが近いのかもしれない。秋のこの時期だと、中間テストだろうか。それとも受験生だろうか。学生の時の感覚が遠くなりすぎて判別がつかなかった。座席の端に座っている幼稚園児は制服をきちんと着込み、お行儀よく座っている。このままどんどん成長していって、名門を卒業していくエリートになるのだろう。その横に腰掛けるOLは彼氏と連絡でも取ってるんだろうか。リズミカルにフリック入力をしながら頬を緩めている。
ずきりと、心音が鈍い音を立てる。
首を振った。車内のCMに目を向ける。車のアイサイトが紹介されている。音の代わりに字幕を読もうとして、目が滑った。
頭の片隅で全く違う思考が動いてしまう。
先程は何故、自分が東京なんてものについて思いを馳せたかわからなかったけれど、気づいてしまった。
昨夜別れた彼が、東京に来て初めて出来た彼氏だった。そういえば。
思い出すと同時に、電車ががくっと揺れる。たたらを踏み、古語単語の高校生に少しだけ身を預けてしまってから、すぐに体勢を立て直した。いつの間にか、次の駅に到着している。発車まで……ほど、お待ち……さい。
更に乗り込んでくる乗客のせいで、場所取りに苦労しつつ、馳せるのは彼のことだ。
「別れよう」
言ったのは菜絵子の方だった。お互い酒が入ってたせいであんな言葉が飛び出したんだろうか。頭痛が少しする。二日酔いだろうか。それとも単なる気分の問題だろうか。
「東京に、まだ憧れでも持ってんの?」
フラッシュバックする。どういう流れで聞いた台詞だろう。記憶が、感情が、ごちゃ混ぜになって判然としない。
「もうさあ付き合って五年も経つんだしさ、もうちょい、なんかできないわけ」
なんかって、なんだったのだろう。
体がまた少しつんのめる。今度はつま先で堪えて、発車した電車に身を落ち着ける。ごうごうと音を立てて、中央線の快速電車は走っていく。上り方面、東京行き。
今日の天気を告げる四角い枠は、ずっと見ているとただ同じことを繰り返してることに気がついてしまう。少し長めのスパンでぐるぐるぐるぐると回転している。さっき見た広告をまた見ることになる。毎日毎日、ちゃんと変わるのは天気とニュースくらいだ。
日々は巡回していく。代わり映えなんてものがなくなっていく。彼氏と付き合うのも同様で、何処からかルーチンワークに入ってしまう。マンネリ。流石に五年も経てば、一回りも二回りもしてしまうだろう。そっから、どうにか踏み出せばよかったのに。
人身事故の影響で、五分ほど遅れて運行しております。お急ぎの……ご迷惑を……。
心に降り積もる。アナウンスの一音一音が落ちてくる。私のことを突き放すように。
満員電車は誰にも優しくない。ほとんどみんな億劫な気持ちで押し込められている。微笑みを押し隠して、まるで全員が無表情な人間になったみたいに。よくよく見れば、それぞれが全くの別人で、違う感情を抱いてることがわかるけれど、意識を宙に浮かせてしまえば、もう、何もわからなくなる。
悲しみを引き受けてくれるものなど何一つ内在していない。
東京というのは、池西菜絵子が過ごしてきたこの場所は、そういうところだ。
東京という街に、特定の場所はない。意味だってない。
代わりに、一人一人が持っている。電車に押し込められた分の人数だけ、解釈がある。東京はどんな語釈にもなり得る。
それがきっと、東京の寛大さだ。
どんな人に対しても冷たく、淡々とあり続ける。
中央線は、人身事故があろうとも、進んでいく。謝罪のアナウンスを流しながら、向かっていくのだ。
誰のものでもない街、何処にもない街、東京へ。
東京行き 雨夜灯火 @amayo_tomoshibi
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