第2話

 自分を待っていた人の中でひときわ大きな姿をしていたからすぐにわかった。

 あの時もそうだった。自分の机を囲む大勢の女の子と物珍しそうな男の子の人垣の向こうで背の高い同級生が遠巻きにこちらを見ていた。頭一つ小さな坊主頭の同級生と似たようなメガネをかけているのに、雰囲気がぜんぜん違って怖そうだった。坊主頭の同級生、あとで本城という名前で自分のルームメイトになることがわかるのだけど、彼が背の高い修市を促して人を掻き分けさせ、声をかけてきた。

「学校を案内するからついてきて」

 本城があれこれ喋りながら学校を案内する間、修市はほとんど黙っていた。

 静かに後ろをついて歩くので、機嫌が悪いのかな、と振り返りながら見上げると、眼鏡の向こうから穏やかな視線をこちらに向けていた。黒目がちで澄んでいて、目が合うと少しだけ細めた。それだけなのにひどく安堵させられた。いまのいままで実は緊張していたのだと気付かされる。

 通された会議室でも、少し緊張していた。スポンサーやメーカーとの打ち合わせは割りと慣れているから平気だけどそこは修市の就職先で、運が良ければすれ違ったりするかもと思っていた。まさかその場にいて自分を待っているとは。

 名刺を手渡してくれたときに見上げると、社交辞令的な微笑みを浮かべて一歩引いた。

 あ、知らないふりだ。演技とかしないくせにこういうのがうまいんだ、昔から。

 それからずっと付かず離れずで雑用をしていた。手配したお茶と茶菓子を配ったり、書類や商品サンプルを持ってきたり。商品について話をしながら時折視界に入ってくるスーツ姿の修市の細かいところが気になった。周りはクールビズなのに修市だけジャケットを着てネクタイを締めている。クーラーが効いているから寒いんだ。昔から寒がりだった。だけど好きな季節は冬。薄手の紺色の生地のスーツに薄いブルーのピンストライプのシャツ、ネクタイは斜めにストライプが入っていた。おばあちゃんがセンスがとびきり良くてうるさい人だったからな、お父さんもおしゃれさんらしいし、と頭の隅でおばあちゃんを思い出して胸が苦しくなった。その苦しさは打ち合わせが済んで会議室から送り出されても続いた。

「今日はお疲れ様でした」

 女性のスタッフから声をかけられた。

「大勢に囲まれて緊張しませんでした?」

「そんなことないですよ、皆さん歓迎してくれて、踏み込んだ話をしてくれて楽しかったです」

 もらった書類に目を落として微笑んだ。

「集まったのはだいたいヒートレンジャーのファンなんです。ヒートレッドの復活で須郷さんが参加してくださるのが決まったときはお祭り状態でしたよ。みんなでなりきりでポージングとかやってはしゃいでいましたよ」

「そうなんですか?そういえばお一人、スーツアクターさんみたいにガタイのいい人がいましたよね。あの人もやってくれたりするんですか?」

 我ながら強引に修市の話を振ったと思う。女性スタッフはああ、と声を上げて

「あの子はそういうテンションはないですけど、同僚の決めたポージングにダメ出しはしていましたよ。ガタイが良かったでしょう。ヒートブラックに似てますよね」

 いやいやあんなバカマッチョといっしょにしないで。しかも修市はゴリゴリのマッチョじゃない。水泳やっているから肩幅広いけど、と声を大にして言いたいのをぐっとこらえて微笑んだまま相槌を打った。

「眼鏡を外したらすごく顔立ちが良さそうでしたね」

 と、麟太郎のマネジャー。さすが鋭い。余計なことを云うなと焦る。スカウトしたら許さない。修市はそういうのは興味ないだろうけど。

「そうそう、眼鏡を外したら美男なんですよ。眼鏡も大事だって主張する子もいますけど。今日はあまり目立たなかったですけど、気が回るしソツがないのでうちのガールズの部署から出張リクエストが頻繁な新人なんです」

 眼鏡がなかったら顔立ちがいいのがバレてる。しかもモテてる?ド近眼だから眼鏡のレンズが分厚くて、普段は目が小さく見えるのだけど、眼鏡を外すと他の顔のパーツとのバランスが取れて途端に美しくなるのだ。

「さすがに今日は須郷さんがいらっしゃるから、須郷さんにはかないませんけど」

 なに云ってるの、俺より綺麗だよ!という自分の思考を出さず微笑む。これ以上訊くとボロがでそうなので、いろいろ聞きたいのをこらえてあとは今後の話に集中した。次も彼は出席するのだろうか。

 4年半も会っていなかったから突然再会すると自分がどれだけ我慢していたかを思い知った。おばあちゃんの訃報を聞いてロンドンから駆けつけたのに本人は散骨にジャマイカに行ったとお隣のおばさんに教えられたときには本気の発音で「ジャメイカ!!?」と叫んだものだ。


 日本に帰ってきて2年位、本当は会いたかった。何度か最寄りの駅まで行ってみた。だけど高校卒業前にお互い進路が決まって自分がイギリスへ行くことがはっきりしたときに修市から言われた言葉のせいで足がすくんでしまった。

「俺は絶対にお前に連絡しない。おまえもよほどのことがない限り連絡してくるな」

 それまでそんな口調でなにかを云ってくることはなかっただけにショックだった。イギリスの演劇学校へ行くことを止めるかと思ったのに行けと背中を押してくれたのに、連絡してくるなとは、それまで一緒にいた時間まで否定されたようだった。

 実はオフの時間を割いて今回の打ち合わせの時間を作ったので一日空いていた。厳密に言えば明日の昼まで。マネジャーが有能なのか事務所の方針なのかスケジュールのバランスがよく、ちゃんと休める時間がある。会議室で彼に会った瞬間から決めていた。今夜あの家に行ってみよう。迷惑だと言われたらどうしようという不安もあったが、本来はそこまではっきりひどいことを云う人間ではない。というか、中学生の頃から言葉が足らなすぎてわかりにくいことにかけては定評があるのだ。フランス哲学のほうがよっぽどわかりやすい。

 おばあちゃんにお線香をあげたいし、ゆきちゃんにも会いたいし。ゆきちゃんは元気なはず、本城がなにも言わないところを見ると。本城とはずっと連絡を取り合っていたし、イギリスに遊びに来たり帰国後にも何度も一緒にごはんをたべていた。


 会社員が何時頃に帰宅するのかさっぱりわからなかったので19時頃に家に行ってみたが、留守でゆきちゃんの気配だけしていた。隣のおばさんに気づかれて家で待つか、と声をかけられたが断って門前で待っていると1時間もしないうちに帰ってきた。残業で遅くなるときはゆきちゃんをたのむと電話があるはずだから今日は大丈夫だろうと隣のおばさんが云っていたが、当たっていた。

 確かに数時間前に会ったばかりだけれど、あまりに自然に迎え入れるのでちょっと戸惑った。昨日も一昨日も一緒にいたみたいな感じ。仏前に挨拶をして台所に行くとご飯を作ってくれている。学生の頃にはそこにいたのはおばあちゃんとそれを手伝う修市だったけれど、それ以外はなにも変わらない。

 学生の頃は修市ですら会ったことがないおじいさんの仏前にご挨拶して台所のおばあちゃんに挨拶をしていた。修市と違ってすごく背の低いおばあちゃんだった。お仏壇の遺影ではダブルピースをしていて苦笑いをする。絶対本人が指定したに違いない。

 おばあちゃんにはとてもかわいがってもらっていた。自分がもともとイギリスで祖父母に育てられたのでお年寄りと接するのが楽しかった。お年寄りと呼ぶには気持ちの若さが違ったけれど。

 いつも賑やかな音楽がかかっていて、ゆきちゃんと出迎えてくれた。いまも笑顔を鮮明に思い出せる。りんちゃんと呼ぶ穏やかな声も。

 仏壇の前で涙をこらえているとゆきちゃんが隣りに座ってこちらを見ていた。オレンジ色の毛の艶は衰えていない。涙があふれた。ゆきちゃんを抱きしめて嗚咽を漏らす。犬の独特の肌の匂いがした。好きな匂い。仏間は庭に面していて縁側があり、いまは障子戸と雨戸で遮られているがよくそこでゆきちゃんと修市とくつろいでいた。そのときこの匂いがあるのが当たり前だった。

「ゆきちゃん、おばあちゃんがいなくなったらおうちで一人なんでしょ?庭先にも出してもらえないの?」

 ゆきちゃんは首を傾げてこちらを見ていた。おとなりのおばさんがたぶん気にしてくれているはずだけれど、普段はどうしているんだろう。

「修市のことだからちゃんとしているとは思うけど、寂しくない?」

 尻尾をパタパタ振る。頬を軽く舐めてくれた。

「俺はゆきちゃんに会えなくて寂しかったよ。おばあちゃんにも会いたかったな…」

 仏間はこの家からいなくなった人の写真がいくつか飾られていて、修市の母親、祖父、その上の代の夫婦など見られる。それぞれの雰囲気は優しいけれど、ここは辛い。

 涙を拭いて仏間を出た。台所の電気が廊下に漏れていてその向こうの気配にほっとする。


 バーボンを差し入れたら飲まないと言われて驚いた。習慣にならなかった、というのが淡白な修市らしい。本城は造り酒屋の息子だからか?よく飲むのに。緊張がほぐれるかなと思っていたけど目論見が外れた。だけど緊張はあまりしていなかった。すごく自然にご飯を一緒に食べる段取りができていく。自分はかんたんな手伝い程度しかできなかった。

 常夜鍋は日本酒がたっぷりはいったお出しが美味しかった。家庭でしか食べられないものだ。肉ばかり食べていたら修市がどんどんほうれん草を追加してくるのが可笑しかった。目の前に修市がいて相変わらず表情が薄いけれどお箸の使い方が綺麗で丁寧にご飯を食べる姿が見られるだけで胸が一杯になりそうだ。でもたくさん食べるけど。

 来たらいいのに、って思ってくれていた。それで多めに食材を用意してくれていた。来てよかった。

 おばあちゃんの遺言とその後に言われたことで抑えていたものが溢れそうになった。また泣いてしまう。昔から泣き虫だけどここに来たらそれがひどくなるのかも。泣いても誰も笑わないし、かと言って過度に心配されることもなく、修市はティッシュケースをそっと渡してその場から離れた。浴室から物音がするのでお風呂の用意をしているのかも。

 修市の父親の部屋を使うように促され、自分が風呂に入っている間にゆきちゃんの散歩に出かけた。

 浴室は手狭ながら青系でまとめられたモザイク調のタイル張りが広がっている。おばあちゃんが昔リフォームしたと自慢していた。湯船に使って息をつき、泣いて腫れぼったくなった顔を何度も洗った。

 なにもかも普通だ。時間のロスを感じない。修市が朴訥ながら親切なのも、以前から。こうやって飛び込みで現れても泊まるところまで用意してくれる。でも踏み込んだ話はなにもできていないなというのはわかっていた。本城やよっちゃんにもやっている対応だし、おばあちゃんの思い出話も彼女の死を悼む雰囲気の中では当たり前だ。


 高校卒業のときにああ言われたときに、自分がそれまで彼にしてきたことは全て迷惑だったのではと気づいた。一度も拒まれたことがなかったのに、いきなり拒まれた。学校と教室が一緒だから仕方なく仲良くしてくれていたのか、離れられるからせいせいした?それを聞いて肯定されると思うと怖くて聞けない。試すように押しかけてみたけど、迷惑がる素振りはない。よくわからない。

「聞けばいいのに。修市はわかりにくい子だけれど、聞けば嘘をつかず素直に話す子よ」

 とおばあちゃんは言っていた。でも嘘をつかないだけにどんな言葉が飛び出るかが不安で勇気が出ないことが多かった。

 昔、自分の気持ちが怖くなって逃げ出しそうになったときだけ引き止めてくれた。あの思い出にずっとすがっていたところがある。「どこに行くの?ここにいなよ」って一言だけだったけれど、拒まれなかったことが嬉しかった。


 お湯を足しながらどうしたものか、と思案していた。自分はなんのためにここへ来た?おばあちゃんにお線香をあげたところで今日は満足?満足すればいいのかな。

 修市が用意してくれたスウェットに着替えるとちょうど修市が戻ってきた。

 ゆきちゃんを伴って修市の父親の部屋に入った。父親は長期海外赴任中でめったに帰ってこないからかホテル並みに個性のない調度しかなかった。ベッド、デスク、本棚だけ。掃除は行き届いている。古い本がたくさん詰まった本棚だけ個性があった。

 ひんやりするシーツに身をすくませるとすぐとなりにゆきちゃんが寝そべった。腕枕をして目を閉じたけれど、眠れそうにない。

 修市が浴室から出た気配を察した。足音が静かに響いて一旦自分がいる部屋の外で止まった。息を殺しているとまた足音がして修市の部屋の襖が開閉された。

 起きているよ、まだ話さない?って言えばよかったのかな。いろいろ積もる話はある。聞きたいこともたくさんある。

 それに、こんなに近くに来たのにほとんど一度も触れなかったことに気づいていた。適度な距離を保っていた、お互いに。踏み込もうとすればそれだけ距離を取られるような気がしていた。

 ゆきちゃんの頭を撫でながら目を閉じた。しばらくそうしていれば眠られるかも。

 この部屋で寝るのは初めてではない。学校から許可をもらってしょっちゅう泊まりに来ていた。試験勉強とか、おぼつかない日本語を学ぶとかいろいろ理由をつけて。本城とよっちゃんが一緒のことも多かった。

 そうして夜中に修市の部屋に押しかけ、眠くなるまで遊んだ。勉強もしたけど。修市が眠そうにメガネを外して目をこするのが、そういうときだけ無防備で眠気が飛ぶような気持ちになった。

 麟太郎は徐に起き上がった。ゆきちゃんに小声で「行こう」と囁いてベッドを出る。

 先にゆきちゃんが部屋の外へ向かったので開けて、迷うことなく修市の部屋の襖を開けた。

 電気は消えていた。窓が小さく開いていて外気が入り込んでひんやりしている。寒い中で布団をかぶって寝るのが好きなのだ。修市が自分の気配に気づいたのかどうかわからない。すでに寝ているのかもしれない。会社員というのは、なかなかの激務だろうしゆきちゃんのお世話で散歩もしたし。

 それならそれで別に構わない。布団を少し持ち上げて、素早く横に潜った。別に初めてやることではない。ゆきちゃんが足元に乗ったのでバランスが少しだけおかしくなったがこちらに横向きで寝ていた修市の胸元に顔を寄せる。


 修市が身をすくませるのがわかった。起きてるんだ。

 どうしよう、拒まれる?

 息を殺していると、修市の大きくてあたたかい手がうなじに触れたのがわかった。強張りがほぐれて大きく息をついた。そうして息を吸い込むと金木犀の薫りがした。そういう季節だ。なんだか懐かしい。初めて会った頃のことが蘇る。近くにいるとちゃんと見上げないと顔が見えないほど身長差があった。離れているときにちらちらと見ているとすぐに気づかれた。他にも背が高い学生は数人いたのに、目で追うのは修市だけだった。自分が小さかったから憧れていたのではない。見ていると見返してくる眼差しが口数が少ない分雄弁な気がしてそれを読み取りたくなった。誤解したくなるくらい優しい眼差しを向けてくれることが多かった。日本語が下手だったから心配してくれているふしはあった。


 項に指が触れる部分がしびれるような気がした。入浴剤と石鹸の薫りと金木犀の薫りがまざる。甘くて陽の気を含んだ薫りだ。ずっと憧れている薫り。

 自分の鼓動の強さに恥ずかしくなる。でも手の甲に触れる修市の胸も同じくらい早く強く高鳴っているように感じた。

 暗がりだからわからないけれど修市の顔を見上げた。その途端に頭を抱えこまれた。

 狼狽えてる…?どうしよう、困っているのかな。

 足の指先が当たって、もっと触れたくて指先で探ってしまった。背中に手を回して胸に頬を寄せる。

「ずっと会いたかったよ、こうして欲しかった」

 衝動的に小声で云うと頷いたように感じた。頭を抱えこんでいたのを解いて顔を寄せてくる。

「だめだ、頭がいっぱいいっぱいだ…今日はこのままでいさせてほしい」

 低い声が耳元で響いた。後頭部をゆっくり撫でられる。その感触と声に体が一気に熱くなった。「ここにいて」

 もう一度言われた。麟太郎はうなずきながら顔を上げた。修市はぎゅっと目を瞑って下唇を噛み締めていた。

 修市にこういうことをお願いされたのは初めてかもしれない。戸惑いつつ、麟太郎も修市の胸の暖かさに体を委ねて目を閉じた。


「おはよー実家から梨が送られてきたからお供えさせて」

 廊下の方から大声が響いて仏間の襖が開く音がした。薄目を開いて隣りにいるのがやけに毛深いと感じる。ゆきちゃんが麟太郎の腕に顎を乗せて目を閉じていた。

 腕をそのままに体を起こして周りを見渡すと人間は自分ひとりだけだった。でも人の気配は遠くからしている。ゆきちゃんが目を覚ましてすぐにベッドから降りた。尻尾を振ってこちらを見ている。

 なかなか目が覚めきれないが、ゆっくり起き上がってベッドを降りた。お線香の薫りが伝わってくる。さっきの声すごく知っているぞ。

 そっと襖を開けるとゆきちゃんが先に飛び出した。仏間から出てきた人影とぶつかりそうになるが、相手もすぐに気づいて足を止める。そしてこちらにも気づいた。

「麟太郎じゃないか」

 寝起きの沈んだ表情で顔を上げて手を上げた。朝に強くない。小柄の同年代短髪眼鏡の本城が少しの間ぽかんとしていた。

「本城、朝ごはんは?」

 台所から廊下へ修市が顔を出す。昨日のスウェットのままだった。麟太郎に気づいて「おはよう、顔を洗っておいで」と声をかける。頷いて洗面所にむかった。本城は呆けたままそれを見ていたが、やがて台所へ向かった。

「ごはん?いるいる!」

 その声を背に洗面所で自分を鏡で見ると髪が寝癖で跳ね散らかっていて驚く。普段はここまでないから、どれだけ修市に頭を撫でられ続けていたのかと昨夜を思い出した。自分のやらかしたことが蘇り、口元を覆いながら片付いた洗面所に目を配る。自分が使いやすいように、わかるところにきれいなタオルが置かれていた。来客用の歯ブラシセットまで。鏡の周りの棚にシェービングクリームとカミソリ、修市が普段使っている歯ブラシなどが置かれていた。修市のものしかない。


 顔を洗って寝癖をなんとか抑えた。茶の間に行くとすでに食膳が並べられていて本城が正座で座っている。

「頭が爆発してるぞ」

「うん」

 ゆきちゃんが座っているところの傍らの座布団が空いていたのでそこに座った。鯵の干物、御御御付け、蕪の漬物、ご飯。

 台所から修市が入ってきて確認するように麟太郎を見た。いつもの表情が薄い修市だった。お盆に急須と湯呑みを人数分載せて、テキパキと配り、お茶を汲む。

「召し上がれ」

 低くこれまた抑揚のない声をかけた。本城は慣れた様子で手を合わせ「いただきます」と食事にかかる。麟太郎もそれに続いて手を合わせた。

「いただきます」

「うまい。干物って冷凍保存しているの?アポなしの俺の分まで出してくれるなんて」

「2週間は保つから。2週間以内に3尾は食べるからな」

「よっちゃんの分は?」

「ない。あいつまで来たら誰かが食いっぱぐれていたか、最初から出さないだろうな…みんなご飯と味噌汁と漬物だけ」

 本城は忍び笑いを漏らした。修市の真面目なのかふざけているのかわからない受け答えを、本城はだいたいふざけている方に取る。それで合っているらしい。麟太郎は真面目な方で受け取りがちなのでちょっと戸惑ってしまう。

御御御付けは舞茸が入っていて風味がよかった。本城は漬物を噛む音を立てて顔を上げる。

「お漬物は市販?」

「わざわざ買ってまで食べないよ。お隣の葉山さんがくれるんだ。おばあちゃんのレシピの大根と白菜漬け。これで野菜不足を補いなさいって」

「レモンの皮が入っているんだな。うちの親にレモンを送らせるわ。お礼にあげて欲しい。皮も食べるんだったらちゃんとした生産者のものがいいだろ」

本城の実家は広島の造り酒屋だった。瀬戸内海の海沿いにあるのでその土地の名産に強い。高校の夏休みにみんなで行ったことがあるけれど風光明媚で過ごしやすいところだった。

 おばあちゃんに教え込まれて干物を箸で食べるのは上手だった。本城がずっと修市に喋り続けるのを幸いにご飯に夢中になっているふりをしていた。名前を呼ばれて本城を見ると「これから仕事だろう?どこへ行くんだ?」と訊いてきた。

「お昼からだから一旦家に帰るけど…」

「じゃあ送ってやるよ、俺も今日は現地集合でゆっくりなんだ」

 麟太郎は頷いた。修市はそっと立ち上がって自分の食べた食膳を台所へ持っていく。

「俺はこれから出るけど、ごゆっくりどうぞ。皿は洗っておいて」

 そう声をかけて廊下に立ち去る。

 洗面所や修市の部屋で物音がするとゆきちゃんがそっちへ向かった。主人が出かけるのを察したのか寂しいのかもしれない。

 本城が箸をおいて「ごちそうさまでした」と大きな声で声をかける。麟太郎もそれに続いた。


 出かけるようなので二人で修市を送り出す。仕立てのいいダークグレイのスーツに織り方が変わった赤いネクタイをしていた。光の入り具合で織りの柄が鮮明になる。昨日はなにも手を付けていなかったが今日は髪を片側だけなでつけていた。

「じゃ、鍵はいつものように」

「はいはい」

 本城が手を振る横で思い出したように「ごちそうさまでした」と声をかけた。修市は眼鏡のブリッジをあげて「うん」とだけ返し、ゆきちゃんを撫でて踵を返した。

「いってらっしゃーい」

「いってきます」

「…いってらっしゃい」

 扉が閉まってもゆきちゃんはしばらくガラス戸の内側で外の気配を伺っていた。

「ゆきちゃん茶の間にもどろうぜ」

 本城が声をかける横で「だめじゃん」とつい呟いてしまった。修市が出ていった後から目が離せない。

「なにが」

「あんなおしゃれなスーツ着てあんな髪を整えたら…モテてしまうだろ」

 小声で呟く。自分の腕を抱きしめて表情をこわばらせる。

「修市は前髪を上げたら最強なんだから!半分だけでもやばいだろ、本城!」

「…お前本当にそういうところ変わんないなあ。面白いやつ」

 本城は半笑いでゆきちゃんを伴って廊下を戻った。麟太郎はそれに着いていき、一緒に茶の間に入る。本城は自分でお茶を足して飲んだ。

「おまえたちって喧嘩していたんだろ?いきなり仲直りしたのか?」

「喧嘩?…いや、一方的に嫌われてた…嫌われてる?だけだよ」

 二人で顔を見合わせながら首を傾げる。麟太郎は昨日仕事で再会したことはかいつまんで説明した。守秘義務があるので細かいことは話さない。

「喧嘩していることになっているの?だから俺に修市の話を一切しなかったの?こうやって朝ごはん食べに来てるなんて知らなかった」

「大学も一緒だったし日課ってほどじゃないけど週に何回かは寄ってるなあ。ゆきちゃんのことも気になるし、なあ」

 ゆきちゃんの頭をなでてそのまま頬をつまむ。ゆきちゃんは気持ちよさそうに目をつむった。

「一方的に嫌ってるか、なるほど。確かにそうなのかも。高校卒業した頃に麟太郎のことは考えたくないから一切話題に出すな、画像も見せるな、麟太郎に自分のことを話すなと言われたからなにがあったんだろうなあとちょっと心配にはなったけれど、俺は紳士じゃないですかあ。だから修市が話してくれるまで待っていたんだけど修市ってそういうことなにも話さないじゃないですかあ。で、今に至る…さっき廊下で会ったときに心底びっくりして平然を取り繕うのに苦労したんだぞ?」

 話の半分から終わりまではあまり耳に入らなかった。親友の本城にそこまで云うなんて本当に嫌われていたんだ。高校の頃はずっとクラスも一緒で共通する友達もかなり多かったから、邪険に扱えなかっただけで本当は近くにいるのが嫌だったのか。


 迷惑だった?ここへ遊びに来ることも、ときどき泊まることも。おばあちゃんが可愛がってくれていたから仕方なく受け入れていたの?高校を卒業してからよく頭をよぎっていたこの疑問がまた脳裏で渦巻く。

「…え?泣く?泣くのか、麟太郎?」

 本城が狼狽えるそばで歯を食いしばって耐えた。

 でも昨日も嫌なら追い出せばいいのに追い出さなかったし、ここにいてとまで言われた。学生の頃だって冷たい扱いを受けたことはない。いつだって朴訥ではあるけど優しかった。他の学生に対してよりも優しかったと思う。思い込みかもしれないけれど。

 思い込みかな。優しいからタイミングを計らないと拒めないとか?ストレス与えちゃってる?

 あれこれ考えているうちに本城がお皿を洗ってくれた。


「おまえそんなに考えていることが顔にだだ漏れでよく芸能人できるな」

「スイッチはいると全部顔から消えるよ」

「演技はうまいものな。新作映画の試写会行ったよ。評判いいじゃないか」

 本城に褒められても上の空だった。来てきた服に着替えて、修市の服を綺麗に畳んで洗濯機のそばのかごに入れておいたが、それすらぼんやりと行った。

 ゆきちゃんと別れるのが名残惜しい。本城が手慣れた様子で玄関先においてあるスペアキーを持って外に出て、鍵を締めてポストから中に放り込んだ。昔はおばあちゃんがいたからそんなことはしなかった。見慣れない習慣にいろいろ考えてしまう。

 本城の車は4WBのキャンプにも使えそうなものだった。アウトドア嫌いなくせに。芸能人は後部座席に乗れと言われてそうする。

「シートベルト締め…なんだよ!」

 後部座席で膝を抱えて座っていると怒られた。

「修市、すごくかっこよくなってた」

「は?」

「イギリスに居ても戻ってきても修市のことをしょっちゅう考えてさ、もう思い出なんか本当にあったことか自分が美化しているのかもわかんなくなってきているんだけど、そういう補正が入って修市をかっこよく覚えていて、いざ再会すると案外そうでもなくてがっかりしたりしてとか冗談で思ったりもしていたんだけど、全然そんなことなかった。かっこよくなってた!前よりクールだし、佇まいがしっかりしてるっていうか…俺は甘えたままこの歳になってるのに!全然成長の跡が見られないのに!」

 本城は首をひねりながらシートベルトを確認して発車させる。

「俺にはなにも変わっていないような気がするけど…」

「いいなあ、俺も同じ大学に行けばよかった。そうしたらおばあちゃんが亡くなるときもいられたのに」

「ああ、あのときの修市はかわいそうだったなあ。ぜんぜん泣かなかったけど、弱いところを見せたがらないやつだから、一緒にいるよりは放っておくほうに気を配ったもんだ。おまえがいなくて正解だったかも。絶対離れないだろ」

「う…でもあのおうち、おばあちゃんがいなくなったらすごく静かで寂しかった。あんなの嫌だ」「だから俺もしょっちゅう行ってるんだ。話さないほうがいいのかと思ってお前には話題をふらなかったけど…」

 麟太郎は軽く口をとがらせ、面白くなさそうに相槌を打った。スモークガラスの外で自分が出ているCMの大きなポスターが見える。


「おばあちゃんがいなくなって、ジャマイカから帰ってきたときはさすがに元気がなくて、心配だから女の子を紹介したりしたけど」

「おい!余計なことするなよ!」

「なんだよ…心配してるくせにそれは駄目か」

 顔は見えないが本城が苦笑いしているのがわかる。

「でも何人か紹介したり合コンをセッティングしたりしたけど全然引っかからなかったなあ。余計元気なくした感じで、昔から物静かで落ち着いたけれど根暗ではなかったはずが、トーンダウンはしたかなあ。なにして遊んでいるのかあんまりわからん。料理はうまいし昔から好きな特撮やロボットアニメはチェックしているっぽくてよっちゃんの話し相手にはなってるけど、あとはおとなしく本を読んでいるのしか見たことがない」

「あのわかりにくい修市がお手軽な出会いでどうにかなると思う?」

「女の子の方はみんな乗り気だったぞ?修市のほうが箸にも棒にもかからなかっただけで」

 軽く息をついて眉をひそめた。安堵はしたものの、それはそれで悲しいことだった。修市のパーソナルスペースは分厚く広大だ。なかなか本心が伝わってこない。根っこに誠実で良心的なものがあるのはわかるのでそれに気づけば好意は持てる。そっと居場所を提供することができる人。それに気づいたら大好きになれる。


 見送るときも尻尾を振っていたゆきちゃんを思い出して胸が痛くなる。

「今日も行きたいな…」

「行けばいいじゃないか」

 麟太郎は首を振りながらため息をついた。

「今日はこれからヴェネツィアなんだ。何日に帰ってくるのか忘れたけど、日本で撮影もあるからそう長くはないと思う」

「今日は、これから、ヴェネツィア…今日はこれから舞浜っていうくらいの気軽さで言いやがったこいつ」

「だからお願いなんだけど、修市にまた行くって伝えてくれる?頭がふわふわしすぎてSNSのIDを交換するとか発想がなかった」

「俺がおしえようか?」

「修市の断りなくやめて。俺のも修市が教えてほしいって言うまで教えちゃ駄目。押しつけになるから」

「奥ゆかしい…本当に外国育ちか」

 麟太郎はそっぽを向いて歩道を行き交うスーツ姿の男性が大勢いるのを目にした。

 全然ピンとこない。女性も華やかな服を着ていても、そうでなくてもピンとこない。

 さっきの修市、本当にかっこよかったな。写メ撮っておけばよかった。恥ずかしいからおねがいできないけど。

 戻ったら必ず修市の家に行こう。昨夜は緊張して怖くていろいろ聞けなかったけれど、今度はちゃんと訊きたい。訊けば話してくれるはず。どれだけ恐ろしい答えが待っていても、聞かなくては。


つづく

 

 

 

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涙に濡れた宝石箱 小泉りさこ @redrum248

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