涙に濡れた宝石箱
小泉りさこ
第1話
背後で鈍い打音がしたので振り返ると、大粒の雨が窓を叩きだした。朝から空模様が怪しかったが荒れそうだ。
傘を持ってきてないけれど帰る頃には上がってるか、と雲の様子を細かく見ようとしていると体を向けていた方にある扉が開いた。
某大手玩具メーカーの3階の会議室の一つ、20人程度で会議できる部屋で待機していたのは自分を含めて5人、入ってきたのは3人だった。まだ夏の気配が濃いのでクーラーは効かせていたが、ほぼ全員クールビズなので寒いかもしれない。一人だけ濃いジーンズにTシャツと不思議な柄のパーカーを羽織っていて寒いところも暑いところも対応可能な環境に慣れているような姿をしている。
営業が中に彼を促して上座を案内する。
「須郷リンさんをおつれしました」
「おそくなりました」
低く耳に残る艶を帯びた声が響いた。
「ようこそ」
上司がうやうやしく会釈して名刺を差し出す。
「株式会社ビクトリーボーイズトイクリエイティブ事業部広報課の山東です。こちらは遠藤です」
続けて自分も名刺を差し出した。「遠藤修市」がちゃんと相手に向いているのを目視で確認。
「今日はよろしくお願いします。」
名刺を受け取った青年は身長は自分より少しだけ低く、目線の少し上にふんわりとしたくせ毛が跳ねているが男性としては長身な方。公称181cmだっけ。長いまつげを伏せるように名刺の名前を確認して山東を一瞥し、少し見上げるようにこちらを見た。アーモンド色の瞳はカラコンではなく、ごく自然な輝きをしている。桜色の唇の口角をあげて口を開きかけたときに遠藤は微笑んだまま一歩引いた。すぐに残りのスタッフが名刺と共に自己紹介を始める。
須郷リンは人気絶頂の俳優だ。人気のきっかけになったのが株式会社ビクトリーがスポンサーを務めるヒーロードラマの主役で、そこからの躍進がめざましくいまや映画ドラマCMなど毎日テレビや雑誌で見ない日はないほど。日本人離れした美貌となにを着せても似合う引き締まった細身の体格、見た目に遜色がない演技力に定評がある。実際目にすると入る前と入ったあとで部屋の空気が変わるほどの強い印象があった。周りの心拍数と体温が上がるのがわかる。日頃はピリピリしている上司が浮足立っている。入社してまだ数ヶ月ながら、広報課だけにいままで芸能人と一緒に仕事をすることは数回あったが、こんなふうになったことはあっただろうか。
今回は、自分のキャリアを大切にする須郷リンが、原点である特撮「ヒートレンジャー」レッドとして、来年のシリーズの映画版にゲスト出演することになり、本人プロデュースの商品を数点発売することが決まったためそのプロモーションの打ち合わせをするために忙しい時間を割いて足を運んでもらったことになっている。どの程度俳優がいそがしいのかわからないし、彼が伴った30代と思われる男性のマネジャーも特に焦っている様子はない。
「今日は時間はたっぷりありますから、リンは納得行くまで商品について話し合いがしたいと。すでに概要は読んでおりますから一つひとつの商品の前もっての説明は不要なのでリンから商品の質問をさせてもよろしいですか?」
上司が以前「こういうのは、俳優のイメージを損なわないものだったらこっちの意見を見てすぐに事務所側からOKもらうくらいで俳優本人は見もしないしスタッフに会うこともないのが多いんだけど、須郷リンはおもちゃが大好きらしくて、わざわざ来てうちあわせがしたいって」と話していた。スタッフ側としては細かく口出される内容にもよるが、相手側のこういう姿勢は大歓迎らしい。自分としては話がこじれなければそれがいい、と修市はお茶とお茶請けの手配をしながら席についた須郷リンを見た。書類に目を落とし、機嫌の良さそうな穏やかな表情をしている。その雰囲気が周りに伝染して制作事業部も営業のスタッフも緊張がほぐれているようだ。外部からは広告代理店のスタッフも参加していた。
須郷リンは書類にあった商品ひとつひとつに対して細かい点を質問してきた。ボタン動作で出る光、音がどのくらい再現されるか、サイズ感は、プラスチック製になるのでどうしても偽物に見えるのはどうやったら解消できるのか、樹脂にも種類があってどうしてもABSでないとだめなのか、などに入り組んでくると制作事業部がやや緊張してきた。
「すぐに傷が入るんですよね、あれ。子供が持っていて遊び倒しているとすぐに色がはげて、大事に使っていてもぼろぼろになるんですよね、いい値段するのに」
「それなりにコストがかかっているんですよ、あと安全面を考えてその素材になったり」
「そうなんでしょうね」
そこにケチを付けるのかと思ったら案外あっさり納得する。
「色が剥げない一色使いにするとデザインにメリハリがないし…」
「部品を分けて成型色を別々にして組み合わせたらある程度は解消できます。今回のベルトのバックルにはそれを活かしているんですよ」
「そうなんですか!?」
前のめりになり、目を輝かせる。
「ははは、お好きなんですね、須郷さん」
「僕自身は子供の頃こういうおもちゃで遊んだことがないんですけど、ヒートレッド時代にイベントで子供のお客様と話すことが何度かあって、遊んでいるおもちゃを見せてもらったり、あと友達がこちらのおもちゃが大好きでいろいろ教えてくれていたんです。それに影響を受けて…僕が監修したってことになるんだったら、彼らに少しは納得してもらえたらいいなって」
ふふ、と微笑むと一気に華やかになる。その場には4人ほど女性がいたがすでに目が離せない状態にあった。
「今回は未だカリスマ的に人気があるヒートレッドの商品として、大人が使っても差し支えないものも制作することになっています。プレミアムものですね。それはご覧いただけましたか?」
「もちろん!」
大人サイズの変身ベルト、実際にスマホケースに使えるメタル製のチャージギア(強化アイテム)など。
「こちらを着用してCMに出ていただくようになるのですが」
「まだ試作品はできていないんですよね?いつ頃できますか?」
「型見本は今日見ていただけます」
制作事業部の担当がこちらを見たので隅のデスクに置いてあった箱を持ってきた。須郷リンが立ち上がってデスク越しに箱を覗き込む。
「わあ、撮影に使っていたものよりちゃんとしていますね」
撮影に使っていたものを見たことがないので軽く相槌を打って上司の後ろに控えた。
広報課の仕事としてはCM制作と各媒体へのインフォメーションがうまく行けばなにも問題ないので今回はせいぜい顔見せ、お手伝い、広告代理店とのつなぎくらいの役割だった。修市はとくに雑用係でしかない。目端が利くのでお茶と茶菓子が行き渡るのを確認したり、書類に不備がないかチェックしたり、他部署同士の意思疎通に問題がないか目を配るくらいだった。
それらを黙々とこなしていたら打ち合わせは順調に済ませて、今回須郷リン側から出た要望に応えた結果を見せる打ち合わせのスケジュール調整がなされた。須郷リンを送り出す際に扉を開けるくらいしか仕事はなかった。通り過ぎる彼から甘い香水の薫りが立ち上り鼻孔をくすぐる。修市は会釈をして見送った。
その後、女性社員だけでなく男性社員まで「感じが良かった」「ヒートレッドをやっていた頃から人柄の評判が良かった」「天狗になっていない」「俺のことを覚えていてくれた(営業)」など評価が高かった。上司の山東は話の流れでふと気づいたように「そういえばおまえと同い年だな」と口にした。おまえ、と言われるのに相変わらず慣れないが「そうみたいですね」と返した。
引き続いて今回打ち合わせた商品のCMに関して広告代理店と打ち合わせをし、それを須郷リンの芸能事務所に投げかける方向になった。今回の案件に関する本日の仕事はこれでおしまい。あとは雑務、実務いろいろ。
定時に帰れるかどうかというところで渋谷の巨大トイショップでのプロモーションの打ち合わせが急遽入ったのでそちらへ出向して直帰ということになった。その頃にはやはり雨は止んでいた。
やや冷気を帯びた空気を頬で感じて人混みの中を歩いていくと、高層ビルに立てかけられた巨大動画広告が目に入る。イタリアのハイブランドの紳士もののプロモーションで体にフィットするようなスリーピースのスーツを着た須郷リンが鋭い視線を女性モデルへ向けている。日本の俳優が抜擢されるのはこの度が初めてで話題になっていた。先程見た雰囲気などまるでなく、シャープで冷たい空気を発している。自分の周りの通行人も目を留めていた。
修市は眼鏡のブリッジを指で上げて凝視した。
さっき自分の目の前にいた須郷リンもこの広告の須郷リンもそんなに好きじゃないかな。
電車の中でスマホを出してポータルサイトを見るとニュース画像に半裸の須郷リンがいた。女性ファッション雑誌のセックス特集の表紙を飾るらしい。こういうのは話題になる。カメラに向ける流し目は気だるげで、先程の鼻孔をくすぐった薫りを思い出させた。その下の見出しにある地方の非道なひき逃げの事件をチェックして眉をしかめたあとそのサイトを閉じた。
生まれたときから世田谷区の住宅街に住んでいる。駅から徒歩15分の築年数不明の古民家で、祖父の代からそこにあった。裏手には難関で名を馳せる私立の学園があり、遠藤もそこの卒業生だ。その制服を着た学生たちとすれ違う。食材を買い込んだものに一度目を落とし、買い忘れがないか頭を巡らせた。特になし。ゆきちゃんのおやつも買った。今夜は常夜鍋。
日が完全に落ちて誰ともすれ違わなくなった。通りに響くのは電気がついている各家の賑わい、テレビの音など。調理する夕飯の匂いもする。殆どの家に誰かがいるようだった。古くからある住宅街だから一人暮らしをしているのは自分以外にあまりいないと思う。一人暮らしと言うか、厳密に言うと一人と一頭。
生け垣に囲まれた家が目に入る。山茶花なので冬になると美しくなる。角を曲がると門扉があり、自分の家の庭に入れるのだが、今日は門扉の柱に人影があった。
フードをかぶった青年がしゃがみこんでうつむいている。足音を聞き取ってこちらを見上げた。街灯に細く高い鼻梁と薄い茶色の瞳が反射する。桜色の唇の端がふんわりと上がった。緩慢な動きで立ち上がり、こちらに体全体を向ける。
昼間と同じ服を着た須郷リンがいた。
「おかえり、修市」
「麟太郎…ただいま」
立ち止まらず門扉を開いて石畳を進む。須郷リン、本名牧瀬麟太郎はそれについて歩いた。
「ひさしぶり」
低くつややかな声がかかる。「うん」とだけ応えた。
扉を開く前から向こうから興奮した息遣いが聞こえた。
「ゆきちゃん!」
囁くような小声で麟太郎が呼びかけると息遣いが大きくなる。引き戸を開けると中型の雑種犬がおすわりして尻尾を際限なく振っていた。少し衰えているが暗がりに反射する瞳はみずみずしく、嬉しそうに地面を踏みしめる姿は自分が学生の頃と変わらない。
麟太郎の足にじゃれつき、それをしゃがんで撫でて返す。
「元気そうでよかった。俺のことを覚えてる?」
ひとしきりゆきちゃんとじゃれたあと一緒に廊下を進んですぐの仏間の襖を開けた。
「お線香あげていい?」
「どうぞ」
修市はそのまま台所へ向かい、食材を出していく。常夜鍋なのでそんなに時間はかからないだろう。日本酒と昆布を戻しておいた水半々の鍋に火をかけて部屋着に着替える。Tシャツにスウェット。
食材に火が通ってきたころに麟太郎がゆきちゃんを伴って台所に入ってきた。きれいな形の鼻の先と目元が赤くなっている。
「あ、飲み物買ってきたんだよ」
ポケットからバーボンの小瓶を出す。
「俺、酒飲まないよ?」
「え!?飲めないの?」
「いや、飲まないの。お茶でいい。氷や水は自分でどうぞ」
「…俺もお茶でいい」
バーボンを食材の棚においてお茶の間の襖を開ける。
「ご飯は食べるのか?」
「食べるー」
隅に片付けられた座布団を二人分広げて台所へ戻り、台拭きを水で絞る。
「酒飲むのか?」
「少し、バーボンとかスコッチだけ。なんで飲まないの?」
「習慣にならなかっただけ」
湯沸かしポットから急須に湯を注ぐ。
「ほうじ茶でいいよな」
麟太郎は頷いた。
「おばあちゃんのお葬式に来れなくてごめんね」
「お墓には行ってくれたんだろ?聞いたよ」
「ここにも来たんだけど、お留守で…」
「おばあちゃんの遺言でジャマイカで散骨したから留守にしてた」
「ああ、聞いたよ。ジャマイカって、おばあちゃんらしい…だからお墓にはおばあちゃんはいません、って後になってきづいたんだ」
修市は吹き出した。つられて麟太郎も笑う。
「もう一度会いたかったな」
「急だったからな。麟太郎、ご飯をよそってくれるか」
食器棚には一人には多すぎる数のお茶碗、小皿が重なっていた。そこから二人分を出す。ご飯と鍋敷きを一緒に食卓へ持っていった。そのあとに鍋を持った修市が続く。
「常夜鍋、おいしそう」
「一味がいるならお好きに」
ポン酢と小皿、箸を出して座布団に腰を下ろした。
「俺が来るってわかってた?」
「来たらいいのに、とは思ったよ。だから食材は多めに買っていた」
麟太郎は腰を下ろして箸を受け取る。
「昼に会ったときにはすごく無視してたじゃないか」
唇を尖らせながら「いただきます」と両手を合わせる。
「いただきます」
修市も続いて箸を鍋に伸ばす。
「あそこで同級生だとバラしても、お互いいいことないんだよ。コネができたって喜ばれるとお前の事務所とお前を困らせることも起こりうるし、間に立たされそうで俺もいろいろと面倒くさい」
「うう…面倒くさい立場になってごめん」
「ああいう立場で久々に会うとは思わなかった。さすが役者だな、俺が知らん振りする前から別人みたいだった」
ゆきちゃんは麟太郎の傍らで丸くなっている。ご飯はタイマー式の給餌器で食べているはずだった。
「もしかしたら修市がいるかもと思ったけど本当にいたからびっくりした」
「担当部署だからな。他の仕事も平行してやっているけれど須郷リンは重要なお客様だから最優先でおもてなしすることになって下っ端の俺も参加したんだ」
「うん、あんまり重要なことには携わってない感じだったね…」
う…、と声を漏らし箸を止める。すぐに気持ちを切り替えて葛きりをお玉ですくった。
「あの時ね、ちょっと緊張していたから知っているやつがいてホッとしたんだよ」
「そんな風にはまったく見えなかったけど」
ふふ、と微笑む。「でも知らんふりされたからちょっと怖くなって、いっぱいいっぱいになってたかも」
「そんな風にも見えなかった。ほらもっと野菜を取れ」
お玉でごっそりほうれん草を掬い、小皿に移した。箸で丁寧にとって口に運ぶ。正面よりやや右よりに座っているのであまり視線が合わなかった。ああそうか、と気づく。座布団こそ置かないが、おばあちゃんが座っていた場所を開けているのか。
灰色と桃色が混ざったような不思議な色のフリースのパーカーが鍋を食べて上気した頬を濃く映した。透き通りそうな白い肌が際立つ。油断していると肉ばかり口にしては美味しそうに微笑む。更にほうれん草を掬って追加してやった。
「お茶のおかわりは?」
「自分で注ぐよ」
急須を手渡した。箸をおいてゆっくり飲んだ後息をつく。満面の笑みを浮かべた。
「おばあちゃんが注いでくれたのと同じだ」
「同じ茶葉だからな」
そう、と相槌を打ち、ゆきちゃんを見下ろした。
「イギリスに行くって決めたときはおばあちゃんに会えなくなるって思わなかったな…まだ若いし、元気だったし。芸能人になれってよく言ってくれていたけどなったところを見せられなかった」
「きっと喜んでいるさ。生きていたら部屋にポスターとか貼ってそう」
修市がそれを想像して笑みを漏らした。
「亡くなる直前まで意識があったから最期までみんなに感謝していて、お前のことを心配していたよ。いつでも家に上げてやれ、ご飯を食べさせろって」
それを聞いて箸を掴む手を震わせた。こわばった目尻から涙があふれる。
「それであげてくれたの?帰ってきてもぜんぜん連絡しなかったのに」
「別におばあちゃんの遺言だからじゃないけどな」
傍らにあったティッシュケースを取って手渡す。それを受け取って涙を拭うがぽろぽろ止まらない。ゆきちゃんが気がついて起き上がり、気遣わしげに顔を傾けた。正座を崩してずっとうつむいている。修市も鼻の先がツンとしてきた。一旦立ち上がり、部屋を出て浴室へ向かう。湯を貯める用意をして戻るとさすがに落ち着いていた。戻ってきた修市を見上げて目を細める。
「今日は泊まっていけよ。先に風呂に入れ。俺はゆきちゃんの散歩に行くから」
「ありがとう」
殆ど残さず鍋を食べた。おばあちゃんがそうだったから、締めにおじやとかうどんという習慣があまりない。
すこしおばあちゃんの思い出話をした後、麟太郎は浴室に向かった。その背中に向かって声をかける。
「親父の部屋、使えるから。明日は早いのか?」
「そんなでもない」
「わかった」
修市はゆきちゃんを促して散歩に出た。食後に片付けを終えると近所を周るのが習慣になっている。
そういえば学生の頃はよく麟太郎や本城がついてきていたっけ。
ゆきちゃんは歳を取ったので30分ほどでくたくたになる。放射冷却がここちよく肌を刺した。そろそろ金木犀の薫りがしてきそうだ。もう匂うだろうかと吸い込んでみたが、特になにも感じなかった。
麟太郎が転校してきたのもこの季節だった。寮生だったが、同じ寮生の本城のルームメイトになり、彼がよくうちに出入りしていたので着いてきた。おばあちゃんは修市の友達を可愛がったが、麟太郎は特別に気にかけていた。癖っ毛はあの頃から変わらず、今よりも女の子のような顔立ちをしていたような気がする。共学だったので女の子からすごくモテたし、外部からもよく彼を見に来る学生がいた。
人懐っこいからすぐにうちとけて、ゆきちゃんの散歩にも着いてきていた。帰国子女のせいか金木犀の薫りを珍しそうに嗅いでいた。いい匂いだ、と言っていたが、彼からもいい匂いが立ち上っていた。ちょうど今日嗅いだような薫りを。
テレビではよく見ていたからさほど懐かしさはないが、実際会うのは4年半ぶりだ。
家に戻るとちょうど浴室から出たところだった。用意した修市のスウェットとTシャツを着てタオルを頭からかぶっている。
「裾が足りているのが腹立つ」
ボソッとつぶやいた。麟太郎は吹き出して自分の足元を見た。
「身長は俺のほうが低いのにね」
「公称181cmだろ、俺より5cm低いだけじゃないか」
「本当は178cmだもの。でも足の長さは変わらないんだな」
くすくす笑ってすぐそばの海外単身赴任中の父親の部屋へ足を向けた。そして振り返る。ふんわりとした笑顔を浮かべている。
「今日はありがとう、おばあちゃんにもお線香をあげられたし、修市と話せて嬉しかった。ゆきちゃんは相変わらずで可愛いし」
「ゆきちゃんと寝る?」
引き綱を外してタオルで足を拭いたところだった。
「うん」
ゆきちゃんを伴って父親の部屋へ入っていく。修市はそのまま浴室に入った。
高校を卒業して麟太郎は生まれ故郷のイギリスの演劇学校へ進み、修市は志望校だった国立大学に進んだ。連絡を取ろうと思えばできたのに、メールも電話もまったくしなかったのはなぜだろう。なぜ、じゃない。理由はわかっている。だからしなかった。
麟太郎がお湯を足したらしく湯温は熱いままだった。自分には物足らない手狭な湯船で一息つく。
在学中にスカウトされて特撮ヒーローとモデルでデビューして、すぐに人気が出た。そうなると別の理由で連絡が取れなくなった。気後れと遠慮だ。接点なんて中高と同級生だっただけだと思うともう駄目だった。
少し開けた窓から冷気が入ってくる。そこで微かに金木犀を嗅ぎ取った。そういえば裏の家に金木犀がある。
初めて会ったころの麟太郎は150cm台だったから大きくなったものだ。自分はすでに170cm台だったのでずっと見下ろしていた。色素の薄いふわふわのくせ毛が外から指す陽に輝いていた。声も今より少しは高かったし、帰国子女独特の訛りが残る発音で自分の名前を呼んでいた。最初から呼び捨てだった。
浴室を出て寝間着にしているスウェットに着替える。歯をよく磨いて耳を澄ませたが、父親の部屋からは物音がしなかった。もう寝入っているのかもしれない。
自分の部屋に入った。入社してすぐに買った大きなベッドが和室の窓際を占めている。一人暮らしで他の部屋を好き勝手に使えるので、ここは本当に寝るためにだけ使っていた。
薄手の布団をかけて大きく息をついた。手を伸ばして窓を少しだけ開けるとやはり金木犀の薫りがかすかに入ってきた。まだろくに咲いていないようだ。
メガネを外して窓際に置いて、目を閉じた。
昨日の夜、翌日のスケジュールについて思い巡らせていた。麟太郎に再会してしまう。彼はどう反応するだろうか、自分は決めたように知らんふりできるだろうかと。結果的にできたけれど。転校したてに大勢の女子生徒に囲まれていた頃の姿を思い出してしまった。一生懸命機嫌よく振る舞っていた。その頃から周りにその機嫌の良さを伝染させるのが巧みだった。言葉が覚束ないながらも聞かれることにちゃんと誠実に応えていた。遠巻きに見ていて大変そうだと思っていたところで本城がクラスでも大柄の自分の腕を掴んで女子を掻き分けさせ一緒に彼の元へ行き、「学校を案内するから着いてきて」と強引に連れ出したものだった。いっぱいいっぱいだというのは本城じゃなくても気づいた。
でも、今日は別にいっぱいいっぱいというのはなさそうだった。心底楽しそうに商品を眺めていたし、真剣にスタッフに話しかけていた。あの場には自分を引っ張っていく本城もいなかったし、溶け込むこともなく遠巻きに見ているだけで終わってしまった。それで良かったのだけど。
静かに襖が開いてゆきちゃんが入ってきた。その後から鴨居すれすれに癖っ毛がかするのを裸眼でぼやけているが認める。音が立たないように襖が閉まり、そっと布団が持ち上げられた。ゆきちゃんは足元に飛び上がってくる。
隣に寝転がり、胸元に顔を寄せてくるのをなるべく動かないように見守っていた。まだ湿り気の残るくせっ毛が頬に当たる。
空いているほうの手を回してうなじに触れると、大きく息をついた。金木犀の薫りに混ざって甘い香りがした。
たぶんわかっていた。
再会して知らんふりをしても、こうして家に来ると。そっけなく親父の部屋を用意してもこうやって入ってくると。
まぶたや頬が震えているのが胸に伝わってくるのを包むように体を寄せた。
自分はなにも言えないで、ただ心臓の鼓動が速くなるのを隠したくて奥歯を噛んで目を閉じた。手に触れるうなじの熱さに指先が痛くなるような気がする。強張るのを解きたくて毛先に唇を当てた。麟太郎が顔を上げるのがわかる。目を合わせると引き込まれてしまう。目を閉じて頭を抱え込む。足の指先が麟太郎の素足に触れた。麟太郎の指先が足の甲を撫でる。
わかっていたのだ。
自分から会おうとするのは怖かった。麟太郎は会いたがっているだろうし、会えばこうなるとわかっていた。しかし、おとなになった自分は麟太郎になにができるだろう。
あまり考えたくなくて目を閉じる力が強くなった。
麟太郎の腕が修市の腰にまわされた。呼吸と呼吸の間で小さく何かを囁いているのを感じた。
ずっと会いたかったよ、こうして欲しかった。
そう聞こえたような気がした。
麟太郎はこわばった体を緩めて頷いた。自分も会いたかったし、目の前に現れれば食事をしているときもくつろいで話をしているときもこうすることを望んでいた。あの、昼に自分の職場に麟太郎が現れてから、ずっと。
つづく。
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