第四話「お箸もあるよ」




 夜が去りゆく。

 黒を抜け出して暗い青が、更に白みがかる。雲ひとつない曙の空は希薄なまでに広い。

 大気の帯びた水の香に息吹も濡れ、四肢の先まで満ちるものがある。肌を撫でる風は、夏とはいえ涼やかに歩み去った。

 鳥の唄はまだ聞こえない。代わりに木々が密やかにざわめき、囁き合うように広がってゆく。

 見えるばかりではない。そうだと思ってみれば耳にも肌にも触れるものがある。

 菜々緒が今、身にまとっているのは肌襦袢一枚だ。そして手元には水を湛えた桶。

 水は穢れを清める。これは日本だけではなく世界各地で古くから共有される概念だ。

 桶の水を被る。八月も末、やはり冷たい。それでも凍えるよりは引き締まる。

 禊。あるいは水垢離とも呼ばれる行を菜々緒は行っていた。

 穢れや呪いが確かなものであるならば、禊もまた確かなものであるはずだ。大雑把な菜々緒といえど、本気で関わるとなれば準備を怠るほど愚かではない。

 型など碌に知らない。祝詞もまともに覚えてはいない。だが、イツカと一身となったときの感覚を、本質を忘れてはいなかった。手順が違おうがなんだろうが、これでいいのだと確信できた。

 何度、被ったろうか。心が透明になるまで洗い流した。

 そうして空を仰げば、赤みが差している。東の空に昇る太陽が手を伸ばしきったのだ。

 雫を滴らせながら立ち上がる。冷えた肌にほのかな光が暖かい。

「……ようっし!」

 そう気を吐いた表情は、なるほど、多佳子が大げさなほどに騒ぐだけのことはある。少女らしいやわらかさと瑞々しさの中に、しなやかな芯と強さが見えた。

 自覚はないのだが。

「とりあえず次はお弁当かな」

 こうして今日という一日が始まった。
















 午前の補習はつつがなく終わり、昼食の時間が来る。

 菜々緒は立ち上がると鞄の中の弁当を取り出した。色気の欠片もない、年季の入って地味な包みである。

 昨日は迂闊だった。学校に荷物を置いていたおかげで朝は鞄を持たずに来ようとしていたのだが、そのせいで見事に弁当を家に置き忘れていたのだ。一旦帰ったときに気付いて、もう不精はすまいと思ったものだ。見事に禍福のあざなえる、人間万事塞翁が馬である。

 ともあれ今日はこの弁当を持って、是非にも行くべき場所がある。

「おりょ、どこか行くのかい、とおのん?」

「うん、ちょっと用事があってね」

 机を動かそうとしている多佳子に問われてにこりと返し、颯爽と教室を出た。今日はとおのんがいないのかよー、との遠い声に後ろ髪を引かれないでもなかったが。

 向かう先は六組だ。ちょうど出て来た女生徒を捕まえて尋ねる。

「樋口さんっているかな?」

「えっ? あ、ああ、まだ……いるよ。呼んでこようか?」

「ありがとう、お願い」

 途中で教室内を振り返った彼女の視線の先に昨日の姿を見つけ、菜々緒は頷いた。

 そして当の樋口晶子はクラスメイトに話しかけられたところでびくりとし、こちらを見て目を丸くしていた。それから俯いてこちらをまた見て、虚空を凝視して俯いて、三度みたび目が合ったところで菜々緒から笑顔で軽く手を振った。

 他人と接することが苦手なのであろうことは昨日の時点で察していた。いい迷惑なのだろうが、やはり話は聞いておきたい。

 クラスメイトの視線に押されて重い腰を上げ、やって来た彼女は蚊の鳴くような声で問うた。

「……私、に……用……?」

「うん」

 早く帰って欲しいとの思いを顔にも声にも滲ませる晶子へ、菜々緒は豪快に踏み込んだ。

「お昼、一緒に食べない?」




 この学園の校舎は三棟に分かれている。

 一年と三年の教室が占める東棟、二年の教室と音楽室、化学実験室などの特別教室が配置された西棟、大きなホールで東西を繋ぎながら食堂や職員室がある北棟。そしてこの三つに囲まれるようにして中庭が存在している。

 東棟と西棟がそれぞれ南東と南西に傾いているため大きく開けて日が当たり、食堂と並ぶ昼食の場としてよく利用されている。中でもベンチの据えつけられた藤棚の、花咲く四月から五月は香気に包まれて異界にでも迷い込んだかに思える。

 夏も終わりが近いこの時期、暑さに足は遠のくが、日差しは棚とそれに絡みつく蔦が和らげて存外に過ごしやすい。そのことを菜々緒は今日初めて知った。

 なるたけ人のいない場所で、かつ食事に向いた場所ということで思いついただけだったのだが、思わぬ収穫である。

 二人並んで座り、自然とほころぶ口許をそのままに、隣の晶子へ笑いかけた。

「結構いい感じだね。びっくりした」

「……そうだね」

 来るのはお座なりな返答。調子を合わせようという気などまるで見られない。

 だが、そう悪くもないと菜々緒は思った。声がとげとげしくないのだ。

 弁当の包みをほどきながら、訊きたかったことを早速尋ねた。

「体調は大丈夫?」

「……別に。今日は……問題ない」

 途切れ途切れの言葉はやはり喋り慣れていない印象を受ける。だが、昨日よりは滑らかだった。

 その視線だけがこちらを向いた。

「で? それだけ、訊きたいわけじゃ……ないんでしょ」

「うん。なんであんなところで倒れてたのかすごく気になって」

 本音である。うまく探りを入れて情報を引き出すなどという芸当が自分にできるとは思えないし、気性にも合わない。さすがに、紗枝ならばともかく、知り合いと呼べないこともない程度の相手に呪いかもしれないとは言えなかったが。

 やっぱり、と言いたげに彼女の眉が互い違いになった。

「そんなこと知って……どうするの」

「もしかして徹夜で勉強だったりするのかな? だったら倒れるレベルはやめといた方が……」

「ひどい寝不足になるまでなんて、やらない。効率悪すぎる」

「だよね。やっぱり寝ないで勉強とかやってられないよね!」

 まさに、睡眠時間を削っての学習など怖気をふるうほど嫌いな菜々緒としては、本来の目的を忘れて思わず深々と頷いてしまう。勢い込んで身を乗り出し、目を白黒させている晶子に気づくと笑って誤魔化した。

「あー……ははは。うん、ごめん」

「……別に」

 鼻で笑うような音、それでいて鼻で笑われたとは思わなかった。悪意の響きがないことを、自覚なく菜々緒は感じ取っていた。

 この子は不器用なのではないかとそう思った。

「とりあえず食べよっか。お昼終わっちゃったら笑えない」

「……ん」

 晶子の手の中にあるのは惣菜パンだ。と言っても今しがた購買で買ってきた、というわけではない。家から持って来たか、あるいは登校中にコンビニエンスストアにでも寄ったのだろう。

 ある意味においてちょうどよかったのかもしれない。

 菜々緒は弁当の包みを解き、弁当箱を取り出した。20cm四方もありそうな、黒一色の代物である。

 晶子がぎょっとするのもむべなるかな。およそ女子が持って来る量ではない。

 菜々緒が、にまっと屈託なく笑って蓋を開く。四分の一には白いご飯、残りのスペースにはレタスで綺麗に仕切りながらハンバーグに卵焼き、ポテトサラダにキンピラゴボウ。

「どうぞ食べて。樋口さんにおすそ分けするために、多めに作ってきたんだ」

「は?」

 何を言われているのか理解できないとばかりに、晶子は菜々緒を見て、弁当に視線を落としてまた菜々緒に戻し、もう一度声を上げた。

「はあ?」

「お箸もあるよ、コンビニの割り箸だけど」

「いや、その……」

 やわらかくも無造作に距離を詰められ、晶子は大いに混乱していた。

 実のところ、晶子は傍目に見えるほど喋るのが不得手なわけではない。無難な対応、無難な返しが苦手であることを自覚しているため余計なことを言わないようにしているだけで、頭の中はむしろ饒舌な方ですらあるのだ。

 しかし今は脳内までぐるぐると回っている。

 そもそも昼食の誘いを断らずに受けてしまったこと自体、不本意だった。こちらへ集まる周囲の視線に押されてしまった。

 ただ、後悔しているのかとなると、そうでもない。据わりの悪さと入り混じる、湧き立つ思いがどこかにあった。

「あたし、大食いな方だけど、さすがにこんなには食べられないんだ。助けると思ってここはひとつ!」

「うん……」

 拝み倒され、押し切られてしまった。受け取った箸を割り、まずは卵焼き。

 ほんのりとした甘み。控えめな主張が、冷えていてなお口と鼻とに広がる。

 美味しいと評して構うまい。感動するほどではないが、家庭の味としては充分すぎるほどだ。少なくとも晶子の知るものとは比べものにならない。

 無言で咀嚼する。感想を述べるほど気は利かない。

 そして菜々緒も気にしなかった。

「そういえば、昨日廊下で樋口さんのこと見てた男子がいたんだけど、心当たりある?」

 訊きたかったことの一つだ。晶子が帰るや否や自分も戻ってしまったのだから、偶然とは考えがたい。そして同じクラスである以上は誰なのか晶子にも判るはずだ。

 覚えるまでもなく印象に残っていた一番の特徴を添える。

「なんかすごく背が高くて……180とか軽く超えてるレベルの。2メートルはないと思うけど、190くらいかな? 絶対学年で一番だよ、あれ」

八千雲やちぐも君?」

 さすがに即答が返って来た。ただ、明らかな戸惑いも見えた。

「どうして?」

「あたしに訊かれても分からないけど……」

 知りたいのは菜々緒の方である。昨夜イツカと相談して得られた仮定のひとつ、もしかすると彼こそが呪いをかけた張本人という可能性があるのだ。

 そしてそういった行動に出るならば恨みか妬みが根底にある。樋口晶子は少なくとも妬まれる要素を持ち合わせており、それは紗枝とも共通する。

「その、八千雲君だっけ、成績はいいのかな?」

 強引な質問であるが、晶子は特に怪しむこともなくあっさりとしたものだった。

「この間の期末なら、十番くらいって誰かが言ってた」

「そうなんだ」

 微妙な数字だ。これがクラスで常に二位であるならいかにもだったのだが。

「それにしてもよく知ってるね」

「……うちのクラス、中間期末の順位はすぐ広がる。クラス落ちの基準になるから。先生からしてあんまり隠さない」

 自分自身は安泰であるためか興味もなさげに晶子は告げるが、菜々緒は特別進学クラスの闇を垣間見た気がして少し背筋が寒くなった。

 常に競争を煽られ、自分の位置を気にしていなければならないなど、耐えられそうにない。入らないことを選ぶ者のあることにも合点がいく。

「大変そうだね」

「別に。もうみんな慣れてる」

 やはり晶子の口調はどうでもよさげな響きをしていた。それとともに、昨日や先ほど誘いに行ったときが嘘であるかのように滑らかになっている。言葉自体は相変わらず少ないのだが、口ごもることがなくなっているのだ。ただ、まだ自分から口を開くことはない。

 八千雲君、ね。胸の内でだけ呟いて、藤棚の格子から青空を見上げる。

「んー、いい天気だねえ……」

 雲ひとつなく晴れ渡り、胸一杯に吸い込んだ空気にまで太陽の匂いがしているように思えた。

「そういえばさ、樋口さんって漫画とか読む?」

「え」

 余程意表を突かれたのだろう、晶子はびくりと身体を震わせるほどの動揺を見せた。箸を持つ手も止まり、視線が落ち着きなく彷徨う。

 読むのだということと、それを隠したいのであろうことは菜々緒にも判ってしまった。なぜ隠したいのかまでは思い当たらなかったから、とりあえずはそのまま続ける。

「あたし最近、『万花希譚録ばんかきたんろく』っていうのが凄く気に入ってて。その話とかできないかなと。最近ちょっとあれこれ忙しくって最新のは追えてないんだけどね」

 万花希譚録とは学園異能退魔ものである。龍脈の集合する地点に建てられた万花学園、そこに発生する怪異と事件を異能に目覚めた主人公たちが解決してゆく漫画だ。伝奇研究部、神秘研究部の二つの部活に分かれ、あるいは競い、またあるいは協力し合いながら、現時点では単行本七巻まで出版されている。

 決して有名ではないが知る者の間では名作との評価が多い。

「多佳子も……あ、ええと、漫画とかアニメ大好きな友達なんだけど、なぜか万花希譚録バンキタにはそっぽ向くんだ」

「あー……」

 晶子の視線はなおも彷徨う。菜々緒は期待を込めた笑顔で待った。

 日差しは和らいでも気温は高い。汗が浮き、流れ、それが熱を奪って少しだけ涼しい。

 やがて、ぽつりと一言。

「……好きなキャラは?」





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巫女ときどき狐、ところにより女医さん 八枝 @nefkessonn

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