第三話「大丈夫、なんとかなるよ」





「今日は人助けで遅刻かぁ……あむ、とおのんの人生ひんへーは、んー……んむ、最近波乱万丈だなあ」

 昼休み。机を固めて弁当を広げながら、多佳子がわざとらしいまでにしみじみと頭を振った。言葉が一部不明瞭であるのは咀嚼しながら喋っているからだ。

「僕としてはあやかりたい限りだよ」

「倒れている人なんていないに越したことはないわ。桜井さんは平穏無事のありがたみを知らないようね」

 歯切れよく横から口を挟んだのは紗枝である。こちらは食べながら喋る無作法は行わない。箸を持つ手も麗しく、この暑さにも揺るがない。

 対して多佳子は小さく肩を竦めてみせた。

「平穏、ね。そう言うならさ、がみちん、テストの出来をもう少し手加減してやればいいのに。成績優秀程度ならともかく、さすがにトップ取られちゃあ、六組の皆々様の立つ瀬がないでしょ」

「人はベストを尽くす。結果は後からついてくる。良くも悪くもね。ただそれだけのものだわ」

 普通の人間であったなら少なくとも困ったような反応をしたのだろうが、氷鏡紗枝は普通ではなかった。当然のようにそう言って、まるで気にした様子もない。

「第一、私が取ったのは定期テストのうちの二回。校外模試は今のところ三番が限度ね」

「そうか、校外模試もあるか」

 菜々緒は思案げに頷いた。菜々緒自身の成績は平均前後を浮き沈みしているため、一桁などという雲の上の話には普段あまり興味がないのだが、今朝のことから気になるところはあった。

 半ば上の空で弁当を口に運びながら考える。

 紗枝と樋口晶子、素直に共通点を挙げるならやはりまずは学業成績がトップクラスであるという部分だろう。

 あれが呪いだというのなら、もしかすると嫉妬した誰かが行ったものであるのかもしれないのだ。

「紗枝ちゃんは、あれから身体大丈夫?」

 その問いは菜々緒にしてみれば自然な流れから出たものだったが、紗枝にとっては唐突だったろう。

 にもかかわらず、即答された。

「元気そのものよ! 遠野さんは何か悩みでもあるの? 何でも相談に乗るわよ」

 加えて、考え事をしていることまで察して逆に問うて来る。

 言ったものか、さすがに躊躇った。自分自身でもよく理解できていない、しかも一応は俗に言うオカルトである。告げたことで友達ではいられなくなる、などとはまるで心配もしていないが、そもそも広めていい話なのだろうか。

 少なくともイツカに確認を取るべきだろう。すぐにそう結論づけた。自分だけの判断で行って碌でもないことになったら責任を取れない。

「なくはないけど、うちの話だから相談するならそっちかなとは思う。ありがとね」

「そう? いつでも言ってね、協力するから」

 清麗に微笑む紗枝は、おそらく誤魔化されたことに気づいているだろう。その上で気にしていないのだ。明るい真心を感じた。

 やれやれと多佳子がまた肩を竦める。

「それにしても乙女さんも忙しそうだねえ」

 いつものメンバーの最後の一人、沢渡乙女の姿はここにはない。相談と言う名目で数日に一回は誰かに呼び出され、愚痴を聞いては一緒に泣いてあげるのだとか。

 泣くことで相談者はすっきりと心が晴れるという話が伝わってか、乙女はいまや引っ張り凧である。当人にとっても天職のように心得ているようで、喜んで向かうため三人も止めづらいものがあった。

「沢渡さんのおかげで誰かの心が救われるなら、それはいいことだわ」

「そこに異論はないけどね、僕としてはやはり寂しいのさ。とおのんもそうだろ?」

「だね」

 乙女には不思議な存在感がある。多佳子の次に低い身長にほにゃっとした笑顔、それでいてむしろ年上であるかのような印象を受けるのだ。包容力に溢れているとでもいうべきか、無性に甘えたくなる。

 だからこそ相談者たちは張っていた気を緩めて泣いてしまうのかもしれない。

 そんなことを考えたときだった。

「遠野さん、呼ばれてるよ」

「え、誰に?」

 クラスメイトの声に、心当たりのない菜々緒はきょとんとした顔で振り向いた。




 細い体躯だった。

 背丈こそ並程度だが、病的なものを感じてしまうであろう一歩手前まで痩せている。

 肩にかかる程度の髪は乱れ、顔色もよくはない。そして視線が落ち着かない。こちらに向いても一秒と留まらず、すぐに下に落ちるか横へ流れてしまうのだ。

 それでも菜々緒は屈託なく笑いかけた。

「樋口さん、大丈夫?」

 会いに来たのは、今朝病院に運んだ樋口晶子だった。まだ元気には見えないが、少なくとも学校に来られるくらいには回復したのだろう。あのぼやけた歪みはもう見えない。

「あ……うん、はい……その……」

 彼女は口ごもり、目を泳がせてから大きく息を吸い、また閉じた。

 単純に喋るのが苦手なのだろうとは菜々緒にも分かったので、むしろまたこちらから話を振った。

「体調悪いときはもう、素直に休んどいた方がいいと思うよ。こんなに暑いしね。あたしもエアコン大好きなんだけど、学校にはないんだよね」

 彼女の頬が少し緩んだ。

「うん……その、ありがと……」

「どういたしまして」

「そ、それじゃ……!」

 最後までまともに目を合わせることもせず、早足で歩み去る。足取りは思ったよりも確かだった。大事をとって今日は帰っておいた方がいいのではないかと言いそびれたのだが、あれなら別に大丈夫なのかもしれないと思い直す。

 そして教室に帰ろうとして、その寸前で気にかかる光景が視界の隅に引っかかった。

 廊下の窓を開け放ち、そこに肘を突いている男子生徒が一人。外を見るでもなく誰かと話すでもなく、視線だけで樋口晶子を追っている。彼女が六組の教室に消えてそれ以上追えなくなると、こちらをちらりと見た。

 間違いなく目が合った。何らかの意図を含んだ視線だと菜々緒は思った。

 しかしそれも一呼吸程度のこと。見られていたことに気付かぬはずもないだろうに何ら反応を見せず、その男子もまた六組に入って行った。

「……なんだろう」

 胸がざわめいた。
















 八月も終わりに近づき、暑さに比べて夜の訪れが早い。

 夕食の片付けも終えてお茶を淹れ、菜々緒とイツカは卓袱台を挟んで今日の成果を交換していた。幸雄の見ているテレビ番組の音が後ろで流れていても気にならない。

「まずはてまえから」

 イツカの声に強さがある。気迫が満ちているとともに、それによって隠そうとしている疲れも感じられた。きっと、一日中を歩き回っていた程度では済まされなかったのだろう。

「このまちに、まろうどがふたり、まいっておるようです。せいかくには、まいっておった、のであって今もおるとはかぎりませぬが」

「どんな人?」

 客人まろうどの意味は理解できた。古典も現代文も優秀ではないだけで苦手でもない。

 イツカは、北の池に棲む黒い亀に聞いたのですが、と断ってから一呼吸だけ置いて続けた。

「ではあやしい方よりあげますれば、いささかのあくみょうをもつキツネにござります。いまだ人じには出しておりませぬが、たちのわるいゆかいはんのようで、何をやっておってもふしぎではござりますまい」

 そういえば、と菜々緒にも思い当たる。昔話にも人を化かす狐は定番だ。狐が返り討ちに遭うものもあるが、大抵は化かされたことに気付いてそのまま終わるように思う。

「でも悪戯してたら偉いひとに怒られたりしないの?」

 そこが疑問だった。イツカのように稲荷神社の狐があるならそういった悪戯者を取り締まっていてもおかしくないはずなのだが。

 こくりと頷き、それからイツカは小さな溜め息をついた。

「みつけたなら、さとしまする。てまえも、ばけることをおぼえたばかりのキツネをこらしめたことはあります。が……」

「が?」

「きゃつめ、どうもしびにござりましてな」

 天狐とならぬ限り、妖狐の力のほどは概ね尾の数に比例する。四尾であるならイツカよりも遥かに強い力を持っているということになる。

 イツカは忸怩たる思いを隠そうともせず、俯いた。

「てまえのいうことなど、まずききますまい。もしかかわっておるのであれば、よほどうまく立ちまわらねばなりませぬ」

「むー……」

 なるほど、厄介なものである。愉快犯がいて、関わっているかもしれなくて、にもかかわらず掣肘できない。

 しかし今、菜々緒が考えていたのはイツカのことだった。

 見るからに気負っている。真面目であることも理由なのだろうが、それ以上の理由が何かありそうだった。

 当の四尾の狐が知り合いということはないだろう。どうも、と伝聞で語っていた。

「なんか、イツカちゃん、苦手そう?」

 考えたところで正解には至れないので素直に尋ねてみれば、イツカは困ったように眉根を寄せると耳を力なく伏せた。

「にがてともうすより、おやしろにつかえるみとして、キツネがわるさを行うのはひじょうにいごこちがわるうござりましてな」

 暴れているのは親戚かもしれず、しかも止められない、みたいな状況なのかと解釈して納得する。

 菜々緒にしても気楽であるわけではない。悪行をなす妖狐という存在は恐ろしい。ただそれは力の程度が云々という問題からではなく、単純に荒事自体を厭うているからだ。強力な妖狐であることは友人を思う気持ちを超えない。

 そして気楽ではなくとも能天気なことを口にする。

「大丈夫、なんとかなるよ。殺生石より厄介な相手ってことはないでしょ?」

「それはそのとおりにござりますが……」

 なんとも暢気なことを言われたイツカは戸惑いを見せたが、やがて寄せていた眉もゆるやかに、肩の力を抜いた。

「ああ、さよう。力においてもしょうねにおいても、あれにはかてませぬな」

「そのひとが関わってるって決まった話でもないしね」

 イツカが微笑んだことで菜々緒も満足する。暗い顔は似合わない。できれば膝に抱き上げて頬ずりしたいくらいだったのだが、真面目な話をしているところなので我慢した。

 そして次を促す。

「それで、怪しくない方のひとは?」

 イツカの耳がぴんと立った。

「こちらはガセやもしれませぬ。マカミのいちぞくがあらわれたなど、にわかにはしんじがたい……」

 迷いに揺れて思わず漏れた、そんな印象の、半ば独り言めいた響きだった。

「マカミについてごせつめいいたしますれば……」

 真神、大口の真神とは大きな口の狼との意味であり、ニホンオオカミが神格化された存在である。

 狼は日本において田畑を荒らす害獣を駆逐し、その一方で人とは比較的うまく住み分けてきた。森や山に住まう獣の王こそが狼であり、やがて神か、そのようなものとして扱うようになったのだ。東征時に日本武尊を案内したとも伝えられ、友とも敵とも分かちがたい。

 その内より神と成ったものもあるだろう。あるいは神が狼の姿をとることも。

 そしていつしか、人の姿にも狼の姿にもなれる者たちが現れた。

 彼らが何ものであるのか、人には分からない。人と狼の合いの子であるのか、人になった狼であるのか、狼になった人であるのか。

 いずれにせよ、彼らは真神の一族と呼ばれ、森の奥で栄えた。王とも呼ぶべき嫡流はひとたび狼の姿となれば敵う獣なく、その咆哮と霊力は三山を揺るがしたという。

「……しかしそれも、めいじに入るまでのはなしでござりまする」

 ニホンオオカミは明治時代に絶滅したとされる。すると呼応するようにして真神の一族も衰退を始めた。

 嫡流は早々に絶えたと言われ、傍流も全国に散って数を減らし続けている。

「ゆえ、てまえも目の当たりにしたことはなく、くだんのいちぞくがあらわれたとなれば、それだけでおおごとにござります」

「……思ったより重い話というか凄い話というか……その一族は悪い人ではないんだよね?」

 菜々緒は確認した。妖狐の方が怪しい、というのだから少なくともそれよりはましなはずだ。

 だが、イツカはかぶりを振ったのである。

「それもわかりませぬ。ヒトとおなじく、ぜんもあくもおりましょう。ただ、出てきたからにはもくてきはありましょうな」

「あ、そうか」

 今まで隠していた姿を現したなら理由がある。その理由が害をもたらすものではないという保証はない。

 互いに口を開けず、じっと見つめ合う。

 すべては不確かな要素に過ぎない。偶発的に得た穢れなのか、意思の介在する呪いなのか。姿が見られたという存在は本当にいたのか。関わりはあるのか。まだ筋は何も分かっていないに等しいのだ。

 もっと調べなければならない。

「じゃあ、次はあたしの方。今日あったことといえば……」

 菜々緒は公園で倒れていた同級生を病院に連れて行ったことから怪しげな男子生徒、紗枝に穢れや呪いのことを話すべきなのか否かにまで触れて伝えた。

 二人の相談はまだも続く。

 それを背後に聞く幸雄は複雑そうな顔だ。

 止めたいのだが、事件を放置したところで結局巻き込まれる可能性が高く、またそれでもし友人に何か取り返しのつかないことが起こったなら菜々緒が一生気に病むことになると分かってもいるのだ。

 秋は遠からぬといえ、蒸し暑い夏の夜はまだも続く。

 すっきりしねえ、ままならねえもんだなあと、心中でぼやいた。



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