第二話「なんのそのこれしき」
今朝も蝉が鳴いている。
八月の午前八時の世界は暑さ以上にまばゆい。空も立ち並ぶ家々も陽光に眩みそうだった。
街を探るというイツカとは鳥居を出たところで左右に別れ、菜々緒は学校へ向かっている。
通学には歩いておよそ十五分、ひたすらに住宅街で甘味屋のひとつもない。あとは精々、二ノ宮医院を少し過ぎたところにある小さな公園を突っ切って近道とするくらいのものだ。
この公園がまた、いつの間にか侘しい光景になってしまっている。ブランコも滑り台もシーソーも危険だとかで撤去され、唯一残った砂場は猫の糞だらけ。夢も浪漫もあったものではない。
幼い足には遠いため、また神社の境内が充分遊び場として機能したため、菜々緒もそれほどここで遊んだことのあるわけではなかったが、失われたものはやはり惜しく思われた。
いつも見ている景色を今、改めて観察する。
外縁を縁取るようにして整然と植えられた常緑樹と、遊具の除かれた跡を埋める安っぽいプラスチックベンチ。件の砂場は南西にあり、その傍には風雨に朽ちた木製の椅子と机が据えられている。
ここを行き帰りに通るようになったのは高校に入学してからだ。小学校も中学校も正反対の方角だった。
もう慣れて、寂しさはありながらも結局気に留めなくなっていたこの公園を今一度見回しているのは、勘によるものだ。何か気持ちの悪い、不穏な臭いを感じている。
今朝になって生じたものなのかは判らない。昨日も同じだったのかもしれないが、何分行きも帰りも浮かれていたから素通りしてしまった可能性が高い。
もちろん、気のせいなのかもしれない。霊的なものを感じ取れるようになったと言われ、自意識過剰になっていてもおかしくはない。
だが逆に、今の自分にその感覚のあることが保証されている以上、何も存在しないと決めつけてしまうのも早計だろう。観察くらいはしてみようという気になる。あまり時間を食うと遅刻してしまいかねないけれども。
明るすぎる景色には濃い影が潜む。わだかまるものを見つけるには一回りして近くから確認する必要があった。
反時計回りに木々の裏を覗いてゆく。おっかなびっくり首を伸ばし、何もないことに安堵し、隣へ移る。向かいの出入口からは遠くに学校の建物も見える。ベンチの下にも何もない。砂場にも異常は見られない。
何もない。
安堵した、次の瞬間だった。
自分が来た入口、その脇のブロック塀にもたれかかるようにして人があった。入ってきたときには斜め後ろだったせいで死角になっていたのだろう。
息を呑み、駆け寄る。
自分と同じ制服だ。荒い息をついている。細い。心配になるくらいに細い。クラスは異なるが顔に見覚えがある。認識は断片的に思考として走る。
「大丈夫!? えっと、樋口さん」
肩を叩き、思い出した名を呼ぶ。うかつに揺らしてはならないと、どこかで聞いたような覚えがあった。
返事はない。閉ざされた両の瞼も変化ない。ただ苦しげな息遣いだけが響く。
そして菜々緒は見た。日陰であるせいで明る過ぎる太陽に目が眩まされていたが、昨日の友人に絡みついていたものが彼女にも纏わりついていた。
「これか!」
同じように払う。昨日に増して気持ちの悪い感覚が走り、しかし今日は消えなかった。
「……あれ?」
何度試みても同じこと、彼女の表情は安らがない。
すぐにイツカの言葉を思い出した。手で払っただけで消えるなら大したことはない、と言っていた。裏を返せば、弱いものしか打ち消せないのだ。
「……どうしよ……」
霊的なものであるからには救急車など呼んでも仕方ないだろう。しかしイツカに連絡する手段はない。そして当然、このまま放っておくわけにもいかない。
焦りに尾の付け根の辺りがむず痒くなってくる。危うく放り出しかけ、すんでのところで気付いて消し直した。人目はなかったとは思うが絶対とは言えない。尻尾に関しては常に意識に置いておく必要がある。
それで思い出した。
「そうだ、夕実せんせ」
霊的なこと、この尾のことも知っていて、かつ医者だ。しかもここからなら近い。この倒れていた同級生を連れて行くには最も都合が良いように思えた。
となればどうするか。
「背負っていくしかないよね、これ……」
人は頼れない。救急車を使わない理由を説明できない以上、当たり前のように呼ばれてしまう。
だが、細いとはいえ高校生である。ここまで痩せているなら50kgを超えていることはないだろうが、それでも重い。
「よっ……と」
行動を決めたなら菜々緒は迷わなかった。一刻一秒を争うかもしれないのだ。揺らさない方がいいかもしれないということを忘れてしまったわけではないが、背に腹は替えられない。
まずは背を向けながら右腕を肩に担ぎ、前屈みになって同級生の身体を背中に乗せて左手で腿を探り当て、支える。次いで右腿もなんとか捕らえて背負い上げた。位置が低かったので身体を揺らして整え、ようやく一息。
菜々緒は決して運動が得意ではないものの、背丈があるということはそれに伴う体重もあり、当たり前に動かす筋力も備わっている。加えて社の手伝いには力仕事も含まれるため、少女一人は重くあっても捌けなくはない。
他に荷物がないのは幸いだった。補習に使う教材やら筆記用具やらを持って帰るのが面倒で教室に置いたままにしてあるのがよもや役に立つとは。
とはいえ、そう長く保ちそうにもなかった。
「なんのそのこれしき!」
ふんぬと気合を入れ、歩き出す。暑さと眩しさと蝉の声にくらくらしながらも、転ばぬように一歩ずつ。
脚が張る。腕が攣りそうになる。背中がこわばり、腰が痛い。そして重さだけではない。まとわりつく穢れの気持ちの悪さも菜々緒を苛んだ。
何かを考える余裕もなく、全身に課される痛みと苦しみを踏みつけながら行く。
目的地までの距離、およそ100m。
インターフォンのボタンは額で押した。
住居の方である。最初は素直に病院の玄関へ行ったのだがまだ診療時間ではなかったため開いておらず、時間外の入り口があったかどうかを確認するだけの気力と体力が残されていなかった。
上体をほぼ水平にまで倒して同級生の全ての重みを背中で受け、右手は壁に突いて自分自身を支える。
短く鋭い呼吸しかできない。あと少し、少しだけ、と自分を騙しながら地面を見つめる。じわりじわりと浮いた汗が耐え切れぬように顔を伝い、鼻と頤から雫となって地面を濡らした。
回線の開く音。
『はい』
そして聞こえたのは夕実の声だった。
答えなければと思いながら、舌が貼りついてうまく動かない。
だが、焦燥を覚えるよりも早く夕実が続けた。
『菜々緒ちゃん? その子は急患なのかな? もうちょっと頑張っててね、看護師さん呼んでくるから』
カメラに映っているのか、こちらの状況を的確に把握して通話は切れた。
「……おおう、はいてく……」
現代ではありふれた機能なのかもしれないが、菜々緒の家のインターフォンは通話までしかできない。
あとは無言で、鋭い息を聞き、濡れ行く地面を見つめる。
解放されたのは二分後だった。
「ふひー……」
処置室の隅の丸椅子に腰を下ろした菜々緒は骨を失ったかのようにだらしなく、壁へと身を預けた。
先ほどまでは伝い落ちる程度だった汗がだらだらと流れる。身体から発せられる熱が、ひんやりと空調の利いた室内に湯気を立てそうに思えた。
「や、頑張ったねえ、菜々緒ちゃん」
こちらからはよく見えないが何らかの処置をしながら、夕実がちらりと振り向いて笑う。ハーフフレームの眼鏡の奥、流し目が苦笑の色を滲ませていた。
「でも訳ありってことなのかな、この子は」
「ああ、ええと……そんな感じです」
菜々緒の返事も曖昧になった。なにせ自分でもあまりよく分かっていない感覚だ、説明がしづらい。
しかしその必要もなかったようだ。鮮やかな手つきで一度小柄を抜き放ち、一呼吸もせずに仕舞い直した夕実は口元にまで苦笑いを浮かべた。
「……なるほどね」
「分かるんですか?」
「とにかくこの子は任された。菜々緒ちゃんは……汗を拭いて、今からでも一旦家に帰った方がいいかもね」
菜々緒の問いには答えず、菜々緒の座っている椅子の隣にある籠からタオルを取り出すと渡してくる。
「服、透けてる」
「うぇっ!?」
慌てて見下ろせば確かに、白いセーラー服が濡れそぼり、下着がくっきりと映っていた。先ほどから流れ続けている汗のせいに違いない。
受け取ったタオルで水気を吸おうとしてみても、その程度では足りるはずもなかった。
「これじゃ、家まで帰る間にも見られちゃいそうなんですけど……」
通学時間、通勤時間である。住宅街では最も人通りが多いのではなかろうか。ここに来るまでの間にも幾人となくすれ違ったのだ、社までとなると十数人、下手をすれば数十人に見られることになる。
「えと……制服乾くまでいるとか、駄目でしょうか?」
「やめといた方がいいよ。今はまだ気にならないだろうけど、冷房効いてるから身体冷やす。医者としては止めたいね。あと、まあ、これは気にならないのなら別にいいんだけど、さすがに汗臭くはなるかもね」
「うわぁ……」
大雑把なところのある菜々緒であるから汗に対してもそう神経質にはならないのだが、臭くなるかもしれないと言われて気にせずにいられるほどでもなかった。確かに一度帰ってシャワーでも浴びたくなる。
しかしこのままでは帰れないのだ。
葛藤は伝わったのだろう、夕実はしばし天井に目をやると、やがてぱちりと指を鳴らした。
「ああ、そうだ。あたしが昔使ってたケープを貸したげよう。一応、その子をちょっと見ててね」
「あ、はい」
決めるが早いかすたすたと処置室を出てゆく背中を見送り、菜々緒はふと、紗枝に似ていると思った。
もちろん背格好や顔立ちではない。動きや言葉に力があるのだ。紗枝の方が何かと切れ味の鋭い感はあるが、夕実は言うなれば鞘に納めたまま悠々と制圧するような底知れなさがある。
そこまで考えてかぶりを振った。
「これじゃ夕実せんせが怖い人みたいじゃないの」
むしろ優しいし親切だというのに、どうしてこんなことを思ったのだろうか。あの小柄の刃の煌きがあまりにも冴え冴えとしておそろしかったからだろうか。
切り替える。
ちょっと見ておいてくれと言われた、自分の背負って来た同級生に意識を向ける。
六組の
菜々緒たちの通う高校は普通科のみの一学年二百四十名、計七百二十名よりなる。偏差値のほどは、ごく近辺でこそ一、二を争うが県規模になるだけでもう目立たない。それでもいわゆる特別進学クラスというべきものは存在しており、各学年の六組がそれに相当する。
上から四十人が自動的に割り振られるわけではなく、成績が良くとも入りたがらない者を入れることはないし、学年が上がってクラスが再編成されるときにも多少成績が落ちたくらいならば目こぼしされる。そのため二年六組は実際には四十二名が在籍している。
彼女はその六組でトップの成績を収める人物だ。ほぼ学年主席と呼んで差し支えない。
このようなまどろこしい認識になってしまうのは主に紗枝のせいである。今までに行われた七回の定期考査のうち、四回は樋口晶子、一回は六組の別の誰か、残る二回は紗枝が首位を取っている。特に直近の期末考査が紗枝だったため、目の前の彼女に抱く主席の印象が薄くなってしまっているのだ。
苦しげな息。くちびるは少し開き、浅く繰り返される。それでも公園で見たよりは安定しているように思えた。
気付いてみれば左腕に点滴が施されている。先ほど夕実が行っていた処置がこれなのだろう。
それにしてもなぜ。菜々緒の意識はまとわりつく穢れ、あるいは呪詛に向かう。
今も見えているし、払っても手応えはない。どうして彼女はこんなものに冒されているのだろう。
まるで見当もつかず、そして時間もなかった。
「はい、これ。さすがに使えると思うけど」
戸が開き、夕実が戻って来た。手にしているのは飾り気の欠片もない、褐色のケープである。傷んではいないが年月を感じさせはする。学生時代に使っていたのだろうか。
「ありがとうございます」
受け取り、羽織ればふわりと箪笥の匂い。ケープはうまく腹部の半ばまで覆ってくれた。透けた下着が見えることはないだろう。
「コーディネートは死んでるけど、まあ、バスタオルよりはいいよね」
「この際贅沢は言いません。夕実せんせ、ありがとう。後で洗って返しますね」
もう一度お礼を言って立ち上がる。言われていたように汗が冷えてむしろ寒くなりつつあった。一刻も早く帰りたい。
が、呼び止められた。
「ちょっとだけ待って。人助けしてたって一筆
メモ用紙に書き付け、サイン。二ノ宮医院と印刷された封筒に入れて手渡される。
「あ、うっかり家に置き忘れないようにね」
「せんせ、どうしてあたしのやらかしそうなこと分かるの……」
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