エピソード2「何か見えた」

第一話「僕が神社に生まれていたら女子高生霊能巫女探偵やるのに!」




 三階から見下ろす校庭は黄色く乾いていた。

 開け放たれた窓から少しの風と、蝉の声。

 その響きは、たとえば一月前とは違う。種類が異なっているのかもしれないが菜々緒にはまったく知識がないので分からない。

 久しぶりの教室も色が違って映った。以前は背景のひとつとしてのっぺりしていたのに、天井の汚れさえ生きて感じられるのだ。

「三週間ぶりだっけ。それがいきなり遅刻って、とおのんもやるねえ。しかも三つめも終わってるよ」

 昼になるひとつ前の休み時間、英語と数学の間に前の席の友人がにやけた顔でこちらを振り向いた。

 “とおのん”とは菜々緒のことである。遠野という苗字からそのままついたあだ名だ。

「おじいちゃんが足折ってるからどうしても色々忙しくって」

 にへら、と笑う。黙っていれば凛々しいと言われる菜々緒の、凛々しくない表情である。

 学校には、祖父が怪我をしたため神社の様々な作業を代行しなくてはならない、という理由を告げて休んでいた。連絡を入れたのは幸雄だ。あまり疑われるような気もしなかったが、念のために。

 幸雄が足を骨折しているのも神社運営における菜々緒の仕事が増えたのも事実ではあるから、もし証拠を出せと言われれば診断書なり証言なりいくらでも用意できはする。一応の心構えはしておいたものの、学校側もそこまでこだわりはしなかった。

 菜々緒は成績こそ並程度だが授業態度は真面目だし、出された課題を忘れもしない。加えて補習とは言っても、そもそも全員が受ける課外授業であって成績不良者に対するものとはまた別なのだ。休んだところで、きちんとした理由さえあれば教師は困らない。

 そして忙しすぎるという理由は友人たちへの牽制でもあった。まだ尾を隠しきれないでいるときに茶化しに来られては困るのだ。

 ことが済んだ今となってはもう、死に物狂いの三週間は喉元を過ぎて熱さもおぼろであるが。

「いかんね、とおのん。もっときりっとしてないと。そしてバイクで登校するのだ。そしたらかっこよすぎて僕が悶え死ぬ」

「バイク通学は禁止だし、あたし免許持ってないよ?」

「突っ込むとこそこなのかよ」

 自分のことを僕などと呼んでいるが、前の席の桜井さくらい多佳子たかこはれっきとした女子である。それもクラス一小柄な。二番目に背の高い菜々緒と並ぶと座っていても差が大きい。

 毛先を遊ばせたミディアムボブの髪をやれやれとばかりに振り、芝居がかった口調で続ける。

「なにはともあれ機嫌よさそうだ、忙しそうなのに」

「そうかな」

 にへら、とまた笑う。堪えきれるわけがない。現実の夏休みはもう十日ほどしかない上その半分は補習で潰れるというのに、まさに今日、補習も宿題もない夏休みが始まったかのような気分だった。

 そんな菜々緒をしげしげと観察し、多佳子はいかにも悪巧みめいてくちびるに弧を描かせた。

「興味深いねえ。この時分、何がとおのんを浮かれさせるのか。さては男か!」

「まさか!」

「じゃあ女か! 僕というものがありながら!」

「その流れはおかしいよ!」

 三週間ぶりの小喜劇に周囲からもくすくすと笑い声が漏れる。嘲笑う響きはない。教室の一角で繰り広げられる愉快なやり取りは好意的に受け取られている。菜々緒としては決して皆に笑いを提供したいわけではないのだけれども。

 この笑いに引き寄せられたわけでもあるまいが、さらに二人が話に入って来た。

「でもほんと確かに、菜々緒ちゃん機嫌いいよね~」

「……少し雰囲気が変わった気もするし」

 左右両方の泣き黒子とほにゃっとした笑顔が印象的な沢渡乙女さわたりおとめ、そしていつも勝気なまでの覇気に溢れた氷鏡ひかがみ紗枝さえである。

「あー、いや、気にしない気にしない。そんなことより……あれ?」

 イツカのことを話すわけにもいかない。誤魔化そうとしてから菜々緒は気付いた。

 いつも精気の漲っているはずである友人の顔色が冴えない。思い返してみれば先の声にも張りがなく、無理に出した響きであったように思える。

「何かあったの、紗枝ちゃん?」

「……えと」

「それがよく分からないんだってさー」

 打てば響くいつもの歯切れのよさはどこへやら、替わりに乙女が眉尻を下げて答える。

「嫌なことがあったなら泣いちゃえばいいのに」

「だからそういうのはまったくないの。昨日もいつもどおりだったし、今朝何かあったわけでもないし……」

 大きく沈痛な息を吐く音がどうにも痛ましい。

 大丈夫? とは問えない。体調にかかわらず大丈夫だと答えるのが氷鏡紗枝という少女である。無駄に強がらせるだけになってしまうのだ。

 この暑さだというのに彼女の姿だけがひどく暗く映った。

 なんとかしてあげられないのだろうか。そう、答えの出そうにない自問に目を伏せた先、紗枝の屋内用上履きの足元。

 そのはずのものが、よく見えなかった。

 清潔そうなソックスのくるぶしから甲がぼやけているような。

 と思ったのも束の間のこと、今一度見返してみればおかしなところはない。

 自分も疲れているのだろうか。少なくとも三日前までは忙しかったに違いないし、今朝は喜びのあまり活力を使いすぎたのかもしれない。

「どうしたのさ、とおのん?」

「ううん、なんでも………………うん?」

 多佳子の声に顔を上げれば、今度は視界の中で紗枝の右肩がぼんやりしている。

 と思えばそれは頬に移り、続いて腹部がよく見えなくなった。

「ん? うぅん?」

「ほんとにどうしたの~?」

「んー、ちょっと待ってね」

 今度は乙女を右手で制止し、立ち上がって三人から距離をとった。もちろん見るのは紗枝の姿だ。

 するとなんということか、その姿を取り巻くようにして何か透明に近いものが揺らめいていたのである。

 一体どういうことなのだろう。考えたところで思い当たる節はなく、菜々緒は三人の傍に戻ると、いぶかしげな視線を受けつつも無造作にそのおかしなものを、えいやとばかりに軽く払った。

 手応えが、あった。

 触れられたわけではない。抵抗があったわけでもない。しかし気持ちの悪い感覚が走り抜け、消えた。

 それだけでもう、後に歪んで見えるものはない。

「君は何をやってるんだい、とおのん?」

「なんだか変な感じがしたから……何やってるんだろうね、あたし?」

 多佳子に答え、自分でも小首をかしげて。

 それでも今の体験が錯覚であるとは思えず、紗枝に尋ねてみた。

「どうかな、何か起こったりしてない?」

 彼女はすぐには答えなかった。大きく息を吸って、吐いて、頭を交互に左右へ傾け、手を開いては結び、それからようやく菜々緒へ向き直った。

「すっかりいつも通りだわ! 何をやったの、遠野さん!」

 喜色満面、菜々緒の両手を掴んでぶんぶかと振る。教室中に響く声量と言葉の最後にまで力の満ちた口調、これこそ氷鏡紗枝である。

「何でもいいわ、とにかくありがとう!」

「あたしもよく分かんないけど、治ったならよかった」

「紗枝ちゃんおめでと~」

 ほわほわと乙女も入ってくる。先ほどまで目を潤ませていたとは思えない笑顔だ。

 三人で手を取り喜び合う横、多佳子が小さな顎を指で挟み、唸った。

「実にめでたいけど、ほんとにどうしたんだよ、とおのん。君、まさか神社の仕事しすぎて霊能力にでも覚醒したのか?」

 冷たげにも映るが、友人の回復を素直に祝うには照れくさいがための軽口であることを三人ともが知っている。

 今更からかいもせず、菜々緒はそちらの話に乗った。

「いや、神社の仕事って言っても雑用だからね。霊能力とか芽生えるわけないし」

「いい機会だから、こう……術のひとつも覚えてみないかい? ナウマクサマンダボダナンアビラウンケンソワカとか」

「それはお寺の方だと思うよ?」

「神仏習合してたんだからいいじゃないか。特にとおのんのとこの八幡さんは典型例だろう? 南無八幡大菩薩、我にご加護を、ってね」

「それはそうだけど……」

 不思議ごとには疎い菜々緒も、さすがに祭神である八幡神についての知識だけは少しばかりある。

 神と仏が同一視され始めた頃から八幡大菩薩として、明治に至るまで信仰されていたのだ。

「少なくとも今はそういうのとは関係ないと思うなあ……おじいちゃんの真似して祝詞っぽいのは覚えられるかもしれないけど……」

「嘆かわしい、まったくもって嘆かわしい! どうしてとおのんは自分の恵まれた境遇を蔑ろにするんだ。僕が神社に生まれていたら女子高生霊能巫女探偵やるのに! やるのに!」

 大げさで芝居がかった言い回しと大きな動作。無難な自分を保ちたい人間には到底真似できるものではない。桜井多佳子のこの言動はクラスどころか学年の名物である。

 憧れを受けはしないが、傍から見ている分には面白い。

「神社生まれでなくともやればいいと思うわ? 巫女になれないわけでなし、色々なものは調べれば済む話でしょう?」

 はっきりとした物言い、指先にまで神経の通い切った力ある動き。氷鏡紗枝も非常に目立つ。眉目秀麗、成績優秀、即断即決、有言実行、まさに力の塊のよう。

 それだけに先ほどまでの様子は誰の目にも別人じみて映っていたほどだ。

「生まれが神社なのと格好だけ巫女じゃあ、はったりの利き方が違うんだ。僕は浪漫が欲しい」

「まあまあ」

 割って入った沢渡乙女も密かな有名人である。

「いらいらしたら、泣いちゃうといいよ。そしたらすっきりするかも~」

 いつも笑顔で、するりと人の心に入ってくる。決して目立つわけではなく、気付いたらそこにいてひょいとハンカチを差し出してくれるような、そんな少女だ。

 この三人こそが菜々緒の友人。まずは菜々緒と多佳子がいて、紗枝が加わって、いつの間にか乙女がいて、何のきっかけもなくこうなっていた関係であるが、男女を問わずおよそここまで灰汁の強いグループはあるまい。

 菜々緒自身は、己には過ぎた友達だと思う。

 気付いていない。

 類は友を呼ぶのである。












 扇風機が生温い風を送り込んでくる。

 夕食も終わり、イツカと一緒に入浴して、今も二人並んで髪と尾を乾かしているのだ。この居間にもエアコンはあるが、やはり風を受けた方が早い。

 人工の風の音も、それはそれで落ち着くものがあった。

「……ってことがあったんだ。どう思う、イツカちゃん?」

 行儀悪く両脚を放り出し、今日の不思議な出来事を菜々緒は語る。あまり深い意図はない。ただの世間話である。

「まず一つ、もうしあげておきたいのですが」

 対照的に姿勢よく背を伸ばし正座したイツカは、舌足らずながらも実直な口調で応えた。

「今のななおどのは、れっきとしたれいのうしゃにござりますよ」

「え!?」

 菜々緒は驚愕に目を丸くする。そんな気はまったくなかったのだ。多佳子に否定したときも本気だった。

「霊能者なの、あたし?」

「さようにござります」

 無知と無自覚を晒した菜々緒へと、ふんわりと優しく笑う。

「ななおどのはまだ、ことわりにて力をつこうておりませぬゆえお気づきないのやもしれませぬが、いぜんには見えなんだものが見えたりしておるはずです」

「じゃあ、それが……」

 ようやく理解した。多佳子の軽口が的を射ていたのだ。何か悪いものが友人を蝕んでいて、自分が霊力か何かそのあたりのもので打ち払った。

 便利である。少しばかり心が浮き立つのを抑えられなかった。

 しかしすぐ疑問に行き当たる。

「でも、結局あれ何だったんだろう?」

「見ておりませぬゆえ、たしかなことはもうせませぬ。ケガレでもひろったか、あるいは……ずそをうけたか」

「……ずそ?」

「こう、かきまする」

 イツカは古めかしい固定電話の横に据えられたメモ帳と筆ペンを持ってくると、卓袱台の上で書き付けた。

 『呪詛』である。水茎の跡も麗しいだけに文字そのものまでおどろおどろしく映った。

 そして、菜々緒にとっては思いもよらぬことだった。

「紗枝ちゃんは人の恨みを買うような子じゃないと思うよ? すごく立派だし」

「しっと、さかうらみというものもござりますればな」

 あるいは菜々緒に見せていないまったく別の顔を持っている可能性については言及しない。

「いずれにせよ、ななおどのがふれただけできえるならば大した力ではござりますまいが……」

 イツカは思案するように目を閉じた。時折ぴくぴくと狐の耳だけが動いている。

 普段ならば可愛いと抱き締めたくなるところだが、さすがに友人に起きた異常絡みとあって菜々緒も神妙な顔で次の言葉を待つ。

 果たしてイツカは、転げ落ちそうに大きな目をぱちりと開くと告げた。

「てまえの方でもさぐってみましょう。きゃつめがかかわっているとはおもえませぬが、ななおどのもゆだんめされぬよう」

「イツカちゃんも学校に来るの?」

 探ると言われてまず思い浮かんだのはそのことだった。イツカは耳も尾も自在に消すことが出来るが、それでもなお目立つ。小学校に上がって間もないであろう年頃の、しかも黄金の髪の少女なのである。学校に限らず外を出歩くだけで人目についてしまうだろう。

 が、それは杞憂だったらしい。

「ネコにでも化けてまちそのものをさぐるといたします」

 変化は狐の十八番だ。この姿以外に化けられない方がおかしい。

「じゃあお願いね」

 菜々緒はイツカを愛しく見る。

 普段どおりに戻るかと思ったら、もう今日から新たな厄介ごとが起こってしまったのかもしれないが、友人の無事を思う以上の不安に襲われることはない。

「イツカちゃん、髪も乾いてきたから梳いてあげる。おいで」

 小さな身体を優しく引き寄せた。



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