「尻尾が生えた・エピローグ」





 朝、目覚めても尻尾が生えている。

「んー……」

 寝ぼけ眼で起き上がる。もう三週間だ、違和感はない。

 制服に着替え、顔を洗い、髪と尾とにそれぞれ櫛を通して一息つく。

 あの翌朝から、イツカに師事して猛特訓が始まった。幸雄の骨折によって担うべき社の仕事も増えたこともあり、本当に朝から晩までまたたく間に過ぎ去ってしまうほど集中して、疲れのあまり入浴後には布団に突っ伏してしまう毎日だった。

 イツカも一度報告に帰りはしたが、すぐに戻ってきて付き合ってくれた。そのおかげで三日前にはついに会得、完全に尾を消すに至ったのである。

 とはいえ消してしまうまで行うとなると気を張っておく必要があるため、外に出るとき以外はその前段階に留めておくことにしている。

 今、尻尾は制服のスカートを突き抜けるようにして生えている。根元の部分だけ透過させているのだ。

 イツカが最初に言ったことには、まずこの状態から始めて全く意識せずとも自然に維持できるようになるまでに達すれば、全体を消す修行に進めるのだそうだ。

 言われてみればイツカの尾も装束の袴の上から生えていた。自分のあの時の姿もきっとそうだったのだろう。

 ともあれ菜々緒も自然にこの姿でいられるようになって非常に便利である。垂れているだけだったときは重くて仕方なかった尻尾も動かせるようになると存外に軽い。意識のない人間を運ぶのは重いと言われるが、それと同じことなのだろう。

 さて朝食の準備をしなければ、と台所に向かう途中、居間に足を踏み入れたときだった。

「おはようござりまする」

 菜々緒の特訓が終わって帰ったはずのイツカがいた。ちょこんと座り、湯呑みからお茶を啜っている。

 幸雄もごろごろしている。存分にサボると宣言していたものの、必死に術を会得しようとしている菜々緒に駄々をこねることはさすがになく、無理のない範囲で働いてはいる。

 イツカが手伝ってくれたのも大きかった。この小さな身体でむしろ菜々緒よりも手際よく社のことを捌いてくれたのだ。

「おはよう。イツカちゃんも朝御飯食べる?」

 菜々緒も卓袱台を囲んで腰を下ろした。イツカのことは、その澄んだ大きな目であるとか、色づいたふわふわの頬であるとか、見ているだけで可愛くて仕方がない。

 笑顔で尋ねれば、イツカは神妙に頷いた。

「いただきまする」

 最初の頃は遠慮していたのだが、二週間以上も一緒に過ごしているうち、頷かせることに菜々緒は成功していた。

 しかし今日は続きがあった。

「なれど先に、ほうこくいたしたきことがござりますゆえ、おじかんをちょうだいいたしたく」

「え、うん、少しなら大丈夫だけど……」

 時計をちらりと確認すれば午前六時。朝食の準備や社の仕事があることを思えば決して早くはなく、今日からまた夏休み後半の補習があるため遅くなることも避けたい。

 それでもイツカの頼みとあらば頷かないわけにはいかなかった。

 ゆきおどのにはもうおつたえしたのですが、と前置きしてイツカは話し始めた。

「せっしょうせき、なるものをごぞんじでござりましょうや?」

「あ、なんか聞いたことだけはある」

「それはへいあんのよのこと――――」

 平安時代後期、鳥羽上皇に仕える玉藻前という女官があった。その美貌と知性著しく、上皇の寵愛を深く受けることとなった。

 やがて上皇は原因不明の病に伏せ、陰陽師の安倍泰成が玉藻前の仕業と見抜く。玉藻前は金毛白面九尾の狐の正体を表し、宮中から逃げ去ったという。

 那須野の地で悪行を繰り返す玉藻前の話が朝廷に伝わると、これを討伐するため軍が遣わされた。討伐軍は妖術の前に一度は敗北したもののついには追い詰め、玉藻前は息絶えることとなる。

 しかしそれだけでは終わらなかった。遺体は石となり、毒気を放って近づく者を殺し始めたのだ。

 殺生石と名付けられたこれは南北朝時代まで猛威を振るったが、玄翁和尚によって砕かれ、欠片が全国に飛び散ったという。

「このかけら、きゃつめのおんねんがこもっておりましてな、ときおり大きなじけんを引きおこすのです」

 憤る心情を映してか、ぱた、ぱた、とイツカの尾が畳を叩いている。

「そしてさいきん分かったことらしいのでござりまするが、かけらの中にめんどうなのがおるようでして」

 江戸時代初期に、生成なまなりに取り憑いた欠片があった。それは次々と新たな生成りを取り込みながら外面を替えていった。内側には恐ろしいほどの力を隠しながら、ただの生成りとしてしか認識されない、その利点を使って生き延びていったのだ。

 そこまで聞いて、菜々緒にはひとつ分からない言葉があった。

「生成りって、何?」

「元々のことばはみせいじゅくといういみにござりますが、オニにつこうたばあい、オニになりきっておらぬヒトをさしまする。この上なくふあんていで、なるほど、のっとるにはようござりましょうな」

 イツカは幼い容姿にそぐわぬ気遣わしげなまなざしで返す。

「とはいえ、せっしょうせきにとりこまれたとなれば、元にはもどらぬどころではなく、もはやまともな己すらもたぬ、肉のにんぎょう。ゆえ、お気にめされるな」

「え? ああ、うん、ああ……そういうことか」

 そこでようやく菜々緒にも、玉藻前の逸話とイツカのまなざしの意味が理解できた。

 菜々緒は自分を心の綺麗な人間だなどとは思っていない。大昔は人間であったことのあるあの怪物と自分たちの命、素直な心に問うてみれば天秤にかけるまでもない。一度イツカの頼みを断ったのと同じである。今はもう、イツカも守りたいものの側だけれども。

「ありがと。大丈夫だよ。でもそれじゃ、あれがその殺生石の欠片?」

「さように。いつまでたってもえんぐんが来ぬはずです。みてくれをかえたオニめによって、すでにいくじゅうものいなりのおやしろがしゅうげきされており、それがりゆうで正体にたどりついたのでござりまするが……」

 なんとなく予想はついた。

 イツカの社は、被害を受けた大勢の中の一つになってしまっていたのだ。だから自分たちの都合だけでは全体を動かせなかった。

「どうかいけつしたものか、もめにもめたようで、ヒトのそしきにじょりょくをたのむことにまでなっておったようです」

「やっぱりあるんだ、そういうの」

 菜々緒は少し身を乗り出した。術やらがあって、妖弧がいて、鬼がいるのだ。退魔組織の類も存在しているであろうことは想像に難くない。

 しかし水を差したのは気だるげに寝転がったままの幸雄だった。こちらを見もせず、投げやりに。

「やめとけやめとけ、天地院の上の方は長いこと権力争いでゲロ吐くレベルで腐敗中だって話だ。お前は間違っても近づいちゃいかんとこだ」

「……おじいちゃん、実はそういうことも知ってるんだ」

「うまくサボるにゃ偉い奴の様子くらい見とかなきゃいかんのだよ。別に神社庁とは関係ねえどころか役人ですらなくなってるっつうのになんでか口出してくるんだよな、あいつら」

「いや、そんなことだろうとは思ったけど。折角だけど、なんだかやめといた方がいいのか」

 笑ってみせるが少し残念ではある。平穏に生きていたいというのが本音であっても、好奇心くらいは湧くものだ。

 不意に、そこで沈黙が訪れた。テレビの声だけが居間に響く。

 何かある、と思った。イツカはいつも畏まっているが今日はその雰囲気が一段と強い。

 思案げに見えるイツカに菜々緒は問いかけた。

「今日はそれを教えに来てくれたの?」

「……今までのはまえおきにて」

 真っ直ぐに見つめてくる瞳に、菜々緒は居ずまいを正した。

 そしてイツカは告げた。

「あのときはあとかたもないともうしましたが、きゃつがせっしょうせきとあらばにげのびたやもしれませぬ。おうじょうぎわのわるさはすじがね入りにござりますゆえな」

「あー……そうかもね」

 正体を見破られたなら逃走、死ねば石となり、砕かれてもまだ諦めることなく彼方へ飛び散ってまた逃げたのだ。充分にありえる話だと思えた。

 しかしそうなるとまた狙われるのかもしれない。寄越せ寄越せと喚いていたのを覚えている。あれは自分たちが得ていた力を欲しがっていたのだろう。

「なれば、てまえがここにおりまする。おやしろにはいったんおひまをいただき、ななおどののかたわらでごえいいたしましょう」

「イツカちゃん……」

 申し出に、喜びよりも胸が詰まった。

 何気なく響くイツカの決断は軽いものではない。三週間前の病院からの帰り道で祖父から聞いた話からすれば、稲荷の狐というのは人間で例えるなら省庁の官僚なのだそうだ。無論のこと新米であるらしいイツカはその中では偉くはないのだろう。しかし菜々緒では到底なりえぬほどのエリートなのである。

 叶うかどうかまではまだ見えなくとも、その眼前には輝かしい地位への道が開かれている。それを逸れようというのだ。

「修行とか、大丈夫なの?」

「それはどこでもできまする」

 イツカはにこりと笑った。幼い面立ちなのに大人びた笑い方だった。

「ななおどの、おうけくださりましょうや?」

「もちろん! もちろんあたしは……イツカちゃんと一緒にいられるとか、すっごく嬉しいけど……ほんとにいいの?」

 それで意図は通じると思った。

 だが、イツカの答えは望んだものとは異なっていた。

「あのオニめをつれてきてしもうたのはてまえです。それいぜんに、てまえどもでかたづけられておれば、ごめいわくをおかけすることもなかったのです」

「ま、別にいいだろうよ。俺も楽できるんでありがたいね」

 相変わらず背を向けたままで幸雄が言う。以前は巻き込むなと言っていたのに、と思った菜々緒の心を読んだように続けた。

「俺だっていつまでも生きちゃいねえし、そもそも俺のどうにかできるような相手じゃねえ。こうなったらもう、しゃあねえさ」

 それも違う。

 ふたりとも、それぞれ勘違いをしている。

「ねえおじいちゃん」

 まずは幸雄の方だ。

「あのときさ、おじいちゃんが動き止めてくれたからあんな凄いの撃てたんだよ」

 あの一撃、イツカと力を合わせるにも準備が必要だった。鬼の歩みが止まっていなければ到底不可能だったろう。そして辿り着かれていたかもしれない。

 勝利は三名で得たものなのだ。

「ありがとう。いつも守ってくれて」

 普段伝えることなどない感謝は口にするのも照れた。けれど、言わなければならないと思った。

 ぶっきらぼうな背中は答えない。

 小さく鼻を鳴らすと起き上がり、ギブスを巻いたままの足などなんのその、杖一本ですたすたと出て行ってしまった。

「便所行って来る」

 言い残したのはそれだけだ。

「照れてる」

「そのようで」

 イツカとふたりして見送り、顔を見合わせて吹き出した。

 ひとしきり笑ってから、菜々緒はイツカの傍に寄った。そのあどけない表情、小さな身体を抱き締める。

「ななおどの、どうなされた」

 イツカはきょとんと小首をかしげる。唐突だったはずだが落ち着いたものだ。

 それも当然なのかもしれない。妖狐は数十年から百年の修行を経てなるものだという。人のように化けた姿が幼いだけで、イツカ自身は既に幸雄よりも長く生きている可能性が高い。

 そのことを知ってもなお、菜々緒はイツカをとても出来のいい妹のように思うのだ。

「イツカちゃん、確か……あたしと出会ったのは運命っぽいとか言ってなかったっけ?」

「てんちのはいざい、ですな。てまえの名とななおどのの名がもしちごうておれば、それだけでああもうまくはゆかなんだでしょう」

「だから、きっと運命なんだよ。あたしに尻尾が生えたのも、鬼を追ってイツカちゃんがここに来たのも」

 よくよく考えれば酷い言い草なのだろう。あの鬼のせいで傷つき犠牲になった狐や人はたくさんいる。それをよかったなどと、本当は言ってはならないのだろう。

 それでも心から思うのだ。

「あの鬼のおかげであたしたちは出会えた。すごく怖かったり大変だったりしたけど、これでよかったんだ。イツカちゃんも負い目なんてない」

 今度こそ伝えた。贖罪からここにいることをイツカには選んで欲しくない。

「それでもいてくれる?」

「……ななおどの」

 名を呼んでから、迷うような息遣いがあった。

 やがて、小さな手が抱き返して来た。

「ええ。ごしんぱいにはおよびませぬ。てまえは来たくて来ておるのです。ななおどののそばは、ここちようござりますればな」

「うん!」

 胸のうちの温かさが自分のものなのかイツカのものなのか、菜々緒には判らなかった。

 ただこうしてくっ付いていることが言いようもなく安心できて、再び眠りに落ちてしまいそうな心持ちだった。

 そろそろほとぼりも冷めたかと戻ってきた幸雄がふたりの姿を見てまた他所へ行き、菜々緒はこの日の補習に遅刻したのであった。





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