第六話「少しでも、逃げられないよ」
言葉は力を持つ。
素質も素養も持ち合わせずとも、ただそれだけで確かに、ほんの僅かにだが、
そして名は体を表す。
豊かな髪。それでいて腰にまで素直に届く美しい流れ。
ぬばたまの黒でありながら、右に一筋、背を下る中にもう一筋、黄金の輝きが混じる。
纏うは白衣緋袴、巫女装束。涼やかな目許、黒瞳が己を見下ろし見開かれ、あどけなさを残す頬に薄ら散る朱がほんのりと増す。
外目の歳を
いずれでもあり、いずれでもない。不思議な調和の上に少女は成り立っていた。
そして背後でゆるり、揺れ動くのは七本の尾だ。
止まっているかのような時は、その実流れたまま。鬼は眼前にあり、その拳が唸りを上げる。
少女は怯えたようにぎゅっと目を閉じた。にもかかわらず足は玉砂利を蹴り、およそ背丈五つ分もの距離を軽々と後ろへ跳んでいた。
「イツカちゃん……?」
菜々緒が惑いの声を上げ、応えは胸の内より来た。
『今やこの身は手前と菜々緒どの、双方の支配を受けまする』
耳にではないが、声として感じられる。今まで聞いていた幼いものとは異なる、同じ年の頃の響きで、言葉遣いからいっそ大人びて思えた。
『なれど主は菜々緒どの。手前はあくまでも補佐を行うか、あるいは今のように菜々緒どのが動けぬときならば逃れるくらいは成りますれども』
「これが……あたし……?」
軽く踏めば、それだけで容易く跳ねることができる。本気で動けば獣よりも身軽で速いだろう。それで鬼に勝てるのかとなれば、まるで方策も浮かばぬけれども。
姿が変わったとて、力を得たとて、目に映るのは変わらぬ異形。怖気を震い、それでも今更戦えぬなどとは言わなかった。
もう踏み出した。自分と、祖父と、イツカ。守るためにはやるしかないのだ。
だから、発した問いは前に向かって進むためのもの。
「どうすればいい?」
『しばし時を頂戴致したく。菜々緒どのが肉体を司るならば手前は術をひとつ、仕りましょう。未だ尾に力が満ちておりませぬゆえ、火を入れねばなりませぬ』
「つまり、準備が整うまで逃げてればいいんだね」
イツカの回答をすべて理解できたわけではないが、時間を稼げばイツカが何かしてくれるらしいとまでは察して頷いた。
「信じてるよ、イツカちゃん」
『ご安心あれ。手前には判ります。菜々緒どのと手前が
どこか感嘆の溜息の混じる響き。意味までは菜々緒は問わなかった。
鬼は待たない。振り回される両腕は大気を鳴かせ、既に目にも留まらぬ速さへと達していた。
だが、どこからどう来るのか今の菜々緒には察知できていた。そして危険と感じた瞬間、既に身体は動き、回避している。
五感が冴え渡るだけでなく、経験などなかったはずの戦いへの挙動が昔からのもののように染み付いていた。イツカに備わった技能が菜々緒にも共有されているのだ。
「なンだァ? 耳まデ生えやがっタ。こレはいィい見世物になル」
少し遅れて今更気付いたのだろうか、鬼がけたけたと笑った。
「昔懐かシ、親のゥ因果が子ォに報イィィィ」
粘りつくような気持ちの悪い調子だ。先ほどまでと少し印象が異なる。
が、菜々緒は気にしなかった。伸ばしてくる両手の間から素早く跳び退くと挑発の笑みを小さく浮かべすらした。
「あたしはこっちだよ。捕まえてみなよ」
位置取りは、鬼を中心として幸雄と九十度の角度。祖父から引き離したいが、万が一鬼がそちらへ向かってしまうことがあったなら庇いに行けるように。
果たして鬼は迷いもなくこちらへ突っ込んで来た。
よし、と心のうちで頷くのと、不如意に喉が大気を震わせるのとは同時だった。
「『では参りまする』」
声はイツカのものである。
驚かなかったわけではないが、そういうこともあるだろうと思えた。
尾の付け根が五つ、熱くなる。火を入れる、とイツカが言っていた通り、まるで火にかざしているかのような熱だ。しかし不快ではない。
そうしているうちにも鬼は動く。
風を切る豪腕。掻い潜り、玉砂利を蹴立てること三度、鬼の周囲を一巡りして元の位置へと還る。これだけの動きだが、本調子ではない鬼には予想以上に効いたらしく、目の前にいるはずの菜々緒を頭を揺らして探した。
「そこカ。そこにいルのカ」
菜々緒は応えない。そのことによって位置を教えることになってしまうからではなく、声はイツカが使うと判っていたからだ。
そして朗々と溢れた。
うれしやうれし
こがねのやまよ
うたえうたえや
カカアども
こうべをたれる
いなほのうみよ
おどれおどれや
わらしども
祝詞ではない。
素朴な唄だ。豊穣の唄だ。
火を囲み、その年の豊作を、冬を越せる喜びを分かち合い、世界に感謝し、翌年の収穫を祈り願う。
明日の見えないことが不幸などではなく当たり前であった時代、自分たちを取り巻くものはあまりにも大きく、祈りは真摯に、喜びは心から。
喉から身体の芯にまで響く。足を踏み鳴らす音さえ聞こえ来るかに思えた。
そしていつしか唄は、菜々緒の踏む足と拍子を同じくしていた。鬼の両腕の唸りを旋律に飲み込んで、ひとつの踊りとなっていた。
尾の熱さが増す。鼓動のように、一拍打つごとに力が満ちてゆく。
『見えまするか、聞こえまするか』
唄とはまた別に、イツカの思念が響く。
『
見えた。夜に、淡い淡い光が薄く薄く霞んでいる。
それは菜々緒から出て広がっているようにも、彼方から菜々緒に染み込んで来るようにも思えた。
『菜々緒どのも歌うのです。想いと祈りを歌に託し、人は命を繋いで参ったのです』
唄は既にくちびるから溢れている。菜々緒はそこに想いと祈りを乗せる。
足も止まらない。鬼には捕まらない。
イツカの入れた火を篝火に、唄と祈りと踊りを捧げ、天地の精気を借り受ける。それこそがイツカの講じた手である。
痺れるほどに心地よい。身体が燃えるようだった。肌から溢れ出した熱気が
尾の先にまで力が満ちた。手を一振りすれば、もはや狐火と呼ぶのが躊躇われるほど巨大な、身の半分はあろうかという火球が五つ、傅いた。
『
もう逃れるのは終わりだ。今、足を止めたのは拝殿と鬼とを繋ぐ線の上。
どうすればいいのかはイツカが教えてくれた。
両眼に標的を定め、開いた右手が標的を示し、命令を下す。
「焼き尽くせ!」
迸った声は菜々緒とイツカの重唱。応えて五つの火球が放たれる。
叩き潰そうとした鬼の右腕を瞬時に焦灼、火球は五つの
「お、オオオオオッゥ!?」
巨躯がなすすべもなく破壊されてゆく。支える脚は炭と化して崩れ、太い胴には穴が開いて未だ崩れていないのが不思議なほど無残な有様だった。
普段であれば嘔吐を堪え切れなかっただろう。しかし今、菜々緒は
ほんの数呼吸の時があれば焼き尽くせる。そのはずだった。
――――単なる強い鬼であったならば。
「おお、オオオ、オオオオオオオオオオッ!!」
鬼が右腕を伸ばした。最初に失ったはずの右腕を、伸ばしたのだ。
それだけではない。今、焼け落ちた頭部が挿げ変わるように別の顔になった。額に三本の長い角を備えた、四眼の鬼貌になったのだ。
脚も生えた。果たしてそれは脚と呼ぶべきか否かも怪しい。鬼の腰からまた別の鬼の胴が生え、二本の腕と二本の脚で支えているのだ。
「欲しイィィィィィィッ!! そノ力を寄越せェェェェェェェェッ!!」
『これは……』
最初からおかしな鬼ではあった。しかしこれはイツカの想定など遥かに超えて異様だった。
炎は止まらない。菜々緒の願いを叶えるべく、再生した、あるいは新生した鬼をその端から焦灼してゆく。幾度も、幾度も、焼き尽くしてゆく。
もはや鬼は鬼とは判らない。絡み合った醜悪な肉の塊だ。
そんな様でも叫ぶのだ。
「寄越せ! 寄越せェェェェェェェェッ!!」
近づいて来る。焼かれながらもじりじりと、確実に。しかも徐々に速くなりつつ。
『菜々緒どの!』
イツカが警告を発した。このままでは辿り着かれてしまう。菜々緒を我へと返し、ひとまずは仕切り直すべきだと考えた。
だが、菜々緒は一歩前に出た。
「やらせない」
いつ醒めたのか、そのまなざしに先ほどまでの陶酔はない。
「少しでも、逃げられないよ。後ろにはおじいちゃんがいる」
菜々緒の位置は、鬼と拝殿を繋ぐ線の上。拝殿の傍には幸雄がいる。
イツカは己の不明を恥じた。
『なれば』
「わけ分かんなくたってやらせない! イツカちゃん、力を貸して!!」
七つの尾が
それはイツカの仕業ではない。菜々緒自身の為したものだ。
そして、この姿となったイツカが菜々緒の中に見たものでもある。
それらが一斉に踊った。持ち手のあるかのように弧を描きながら、こちらへと近づいてこようとする異形を叩き斬り始めた。
肉体を破壊されるばかりではなく物理的な圧まで加わったことで、異形の進攻は目に見えて遅くなった。しかし金切り声は諦めることなど知らず、新生も止まらない。
「小癪コシャクゥゥゥっ!! 寄越セェェェェェェッ」
「この、バケモノめっ!」
菜々緒も怖じない。ヘドロのような異形の執念を受けて、それがどうしたと弾き返す。
退くどころか、また一歩踏み出した。
「ここから出て行け! お前にやるものなんて何もない!」
そしてその宣言に重なる声が新たに一つ、後ろから祝詞が響く。
八幡神に奏上されるそれは幸雄のものだ。
「ガッ!? ガガガガ」
異形の動きが止まった。
幸雄に並以上の術才はない。ぐうたらで、本当に術を扱える神主としては最低限の領域だろう。この異形に通じる力など持ち合わせてはいない。
しかしここは八幡神の社であり、幸雄はその宮司であり、何より孫娘を救わんとする死に物狂いの祈りは異形を縛り、また菜々緒にも届いた。
今の菜々緒にはそれも糧となる。
「行くよ、イツカちゃん!」
『承った!』
動きの止まった隙に七剣を手元へ戻す。剣は切っ先を異形へと向け、静謐に傅く。
そして五つの火球が夜を新たに照らし、形を崩すと七剣を覆った。
結ばれた二つは更に溶け合う。七振りの剣は一張の弓と一本の矢に、炎はその全てを彩り染め上げて。
菜々緒は眼前に浮かぶ弓矢を手に取った。炎は自身を焼かない。
異形を左に捉え、地を踏み締め矢を番え、正面より大きく打ち起こしてから流れるように引き分ける。
菜々緒に弓の心得はないが、これはイツカの仕業でもない。
弓とは古来より、
拍子はない。
自然に離れ、正しき射は必ず
弓の持つ武と破邪、力と破壊と浄化の炎。その仕業は刹那だった。
再生も新生も、声すら許さず焼き尽くしたのだ。
異形は最後に一度だけきらりと輝いた。
夜に静寂が戻っていた。
気がつけば菜々緒はイツカと顔を見合わせ、力の抜けた声で囁いた。
「勝った……かな……?」
「かちもうしたな。あとかたもござりませぬ」
へたり込んだまま、立つ気力もない。しかし先ほどまで満ちていた力の感覚は残っている。やったという実感はあった。
安堵し、後ろで五本の尾がぱたりぱたりと玉砂利を打ったところで祖父のことを思い出した。
「おじいちゃん!」
跳ね起きて駆け寄れば、座り込んだ幸雄はいつものぐうたらな顔で口の端にだけ笑みを乗せていた。
「無事か。やれやれだぜ、アホな孫を持つと大変だ」
「もうっ……それより足の方は大丈夫なの?」
「しばらくギブス生活だろうが、ま、その程度だよ。存分にサボらせてもらおうか」
ふてぶてしくそんなことを言う。怒るに怒れないのが困ったところだ。
ああ、でも守れたのだと、自然と笑顔になってしまう。何もかも唐突で未だに訳が判らないが、これで終わったのだと。
じゃらじゃらと背後で砂利が鳴る。
幸雄が小さく声を立てて笑った。
「それより菜々緒よう」
「なに?」
「お前、尻尾動いてんぞ」
「え!?」
びくりと振り返れば、当然のように五本の尾。今は止まっているが、動かそうとすれば念じるまでもなくゆらゆらと揺れる。
二本だけ上げてみた。次は一本を前に回してみた。触ればもふもふだ。今は関係ないけれど、現実逃避に、つい。
認めるしかない。垂れているだけだったはずの尾を自在に操れてしまう。
「そうだった……」
定着させるようなことをしてはいけないと言われていたのに、およそこの世で先ほどの姿になることほど、人間に狐の尾を定着させそうな行動は存在すまい。
それでも後悔は湧かない。ああするしかなかった。あれでよかった。
だがどうしよう。こうなれば尻尾を消す術を習得しなければならない。
即座に天啓が降りた。
「そうだ、イツカちゃん!」
「はい」
傍にいたイツカが小首をかしげる。可愛らしい。
その小さな手をぎゅっと握り締め、菜々緒は懇願した。
「尻尾の消し方教えて!!」
今後の無事な社会生活はそれにかかっている。
月は夜の天辺で、何も言わずに見下ろしていた。
同じはずの月が、不吉だった。
小さな公園に月光に紛れて淡い輝きが舞い降りた。
見る者あらば蛍と思ったやもしれない。生温い夜風もやや涼しさを増し、風流の一つも感じたくなる。
いなかったことは幸いだったろう。
光を発しているのは小さな石の破片だ。それが地面に辿り着くや否や、肉がそこから溢れ出した。
醜悪な肉はやがて人に似た形を取り、ついには額の中央に短い一本の角を持つ鬼の姿となった。
鬼は惑った。
さて自分は何をしていただろう。
名も歳も生まれも思い出せないが、廓狂いだったのは覚えている。
それにしても見慣れぬ景色である。家が異様に立派で、さて桃源郷にでも迷い込んだか、あるいは
以前見ていた風景、生きていた時代が数百年も前であることに気付く由もなく、鬼はあたりを見回しては首をかしげる。
しかしそうしていられた時間は短かった。
どくん、と身体の奥から命じてくるものがあった。
人を食って力を溜めろ。妖狐を食って力を奪え。
鬼はその声を己の意思と区別できない。そうしなければならない、そうしたいのだと思い込んだ。
ひとまずは身を隠さねば。かなりの数の『鬼』を消費してしまった。まずは生成りを見つけて喰らい、それに成り代わる。そうすれば見つかって退魔の輩が送り込まれて来たとしても、ただの生成りと油断して返り討ちにできる。
そうして力を溜めるのだ、今一度、返り咲くのだ。
この鬼自身にとっては訳の分からぬことだというのに、そう思うことを何も疑えない。
跳躍しようとした、まさにそのときだった。
霧に包まれた。
腕を払えば風が霧を割り、覗いたのは小さな滝だ。黒い岩場に細い糸のような水が滝壺を作り上げている。
それ以外の景色は何もない。霧がすべてを覆い隠している。
しかし、滝壺の淵に女の姿が一つあった。
三十路ほどだろうか。見慣れぬ装いをして、あれは眼鏡というやつをかけているのではなかろうか。
どことなく猫を思わせて女が笑った。
「こんなとこにいたんだね。なんか物騒なのが近くに来てるみたいだからわざわざ繁華街まで探しに行ったのにピンポイントに入れ違いとか。こういうことに関してさ、あたしがよかれと思ってやったことは大抵裏目に出るのは何でなんだろうね?」
「さだめ、ではないかね。そういうものだ」
女の傍らに湧き出るようにして、姿が一つ増えた。
総髪の山伏姿の美丈夫だ。ただし背丈は女一人と更に半分ほどもあり、額そのものが角となっているかと思えるほどに太い独角がある。
「やる気失せるなーもう」
女は溜息をつくと、美丈夫に改めて問いかけた。
「で、勝てる?」
「勝つのは容易いが、些か殺し甲斐はある」
美丈夫は、これもまた鬼なのだろう。そこにいるだけで息の詰まるような圧を発していた。千の時を経たであろう、濃密な気配だ。
それでいて爽やかにからからと笑うのである。
「やあ、生前というか、全盛期のきみに会いたかったものだよ。実に穿ち甲斐があったろうに」
その瞬間、鬼は内にある石の欠片に意識の全てを乗っ取られた。
「鬼メ、鬼メがッ!」
激情とともに石は鬼の肉体に美丈夫を縊らせんとするも、伸ばした両腕が容易く抉られ、血を撒き散らしながら千切れて落ちる。
美丈夫は今しがた鬼を貫いた両手の五指を揃え、優美に構え直した。
「ああ、安心したまえよ。逃しはせぬ。最後の最後まで、思念も残さず穿って進ぜるとも。これで仕舞いだ。安らかに眠るがいい」
薄い唇が大きく描いた弧は心底楽しげで残忍で、美しかろうとこれもまた暴虐の輩であることを知らしめる。
此処は美丈夫の有する異界。霧の中へ駆け出してもこの滝壺へと戻ってくる閉鎖世界。
肉を抉る音がいつまでも続く。再生、新生する端から嬉々として美丈夫が穿っているのだ。
女はもう一度溜息をついた。
「毒をもって毒を制す、か。あたし、平穏に暮らしたいだけなんだけどなあ……」
(作中歌詞は八枝自作)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます