第五話「あたしはどうすればいいの?」






 ようやく祖父を追って外へ出た菜々緒は声を失った。

 夜の境内は広く寂しく、だから鳥居に寄りかかる異形は何よりもまず意識に入った。

 それが何であるのかは理解せぬまま、身体は総毛立っていた。あれから逃げなければならないと本能が叫んでいた。

 しかし足が動き出すよりも先に気付いてしまった。

 参道の中央に幸雄の姿がある。倒れ、起き上がろうともがいていた。

「おじいちゃん!?」

 足は、逃げるよりも家族に駆け寄ることを選んだ。

 気付いた幸雄が咆える。

「馬鹿! 出て来るんじゃねえ!! あれが見えねえのかっ!!」

「あれって何おじいちゃ、きゃうっ!?」

 そう言われても止まらず、支え起こそうとしたところで突き飛ばされる。

 尻餅をつき、文句を言おうとして、ようやく祖父の言わんとするところを覚った。

 鳥居に寄りかかっていた巨躯が酔いどれのような千鳥足でやって来ようとしている。

 その姿は人に似て、異なる。捻じくれた角が何にも勝る象徴としてこめかみから突き出している。眼球はよく分からない。濁った黄色の光がそこに灯っている。

 鬼だ。誰がどう見ても鬼である。

「っ!!?」

 喉の奥に悲鳴を絡ませ、菜々緒は後ずさる。腰は抜け、脚にも腕にも力が入らない。早く逃げなければならないのに、実際には掌一つ分も動いていない。

 鬼が大きく口を開けた。

「人が狐の尻尾生ヤしてヤがル。ひヒ、ひひヒひひひッ」

 笑っているのだと最初は分からなかった。嘲ることに慣れ切った、噎せ返るような悪意が肌を刺してならなかった。

「逃げろ馬鹿! 菜々緒、逃げろっつってんのが、このっ!」

 幸雄が歯を食いしばり、折れた脚を引きずりながら菜々緒を背に庇う。

 それでも肩越しに見えてしまうのだ、鬼の気持ち悪く笑う顔が。

 菜々緒の心が逃避する。

 せめて心の準備をする期間が欲しかった。尻尾が生えたのは今朝、まだ十数時間しか経っていない。それまでは普通に暮らしていたのだ。こんなことに巻き込まれるにしても、普通はもう少し日常に異変が入っていって、それから切り替わるべきではないのか。

 まるでこの状況は虚構であり、自分は外からそれを見ているかのような気持ちで批判する。

 だがどうしようもなく押し寄せる血の臭いが鼻の奥を突いた。嗅覚は人の五感の中で最も印象に残りやすいという。喉の奥からこみ上げてくるものが菜々緒を現実に叩き返す。

 鬼の口に銜えられ、ひょこひょこと何かが揺れている。それが人の肉と骨であり、まだ血すら滴っているのだと気付けなかったのはせめてもの幸いだったろう。

 そしてまた一歩、鬼が踏み出した。

 菜々緒も幸雄も、まだまともに動けない。心ばかりが逸り、身体は裏切り萎縮する。

 覚悟など決められない。決められないのに死は近づいて来る。

 鬼の手がこちらに伸ばされた。

 そのときだった。

 横合いからその腕を弾くものがあった。それは獣の速さで突撃して肉体全てをぶつけ、そのまま宙返ると二人と鬼を隔てるように着地する。

 後ろの菜々緒たちからは二本の尾が揺れているのが見えた。狐だった。

「イツカ……ちゃん?」

 菜々緒は掠れた声で呟いた。

 姿が変わる。

 後ろを向けたままではあるが、獣から巫女装束を纏った小さな女の子へと。

「おにげくださりませ!」

 舌足らずに、切実に、鬼から視線を離さぬままで小さな背中が言う。

「このオニめがここへまいったはてまえがしったい、わずかなりともくい止めまする。どうかおはやく!」

「イツカちゃん、でも……!」

 言われるまでもなく逃げたかった。しかし身体がまともに動いてくれないのだ。

 鬼はよろよろとふらついている。イツカの体当たりで深手を負った、はずもない。その前からずっと酩酊しているかのような足取りだ。

「こやつはこのお社の気にあてられ、まともなうごきはできませぬ。今のうちに!」

「でも……」

 イツカの言葉に菜々緒はなおも惑う。

 幼い声の響きがあまりにも悲痛なのだ。

 鬼はまともな動きができない、確かにそう見える。先ほどのイツカの俊敏さは菜々緒の目に追えぬほどだった。それなのにまるで、前に立ち塞がっているのが絶望であるかのようにイツカは叫ぶのだ。

「イツカちゃ」

「行くぞ」

 幸雄が肩を掴んで促す。その強さ、痛みに菜々緒は眉を顰めた。

 片手片足で這いながら、腰の抜けた菜々緒を引きずるのでは速さなど望めない。後ろ向きにゆっくりと拝殿の方へ連れられて行きながら、菜々緒はイツカが再び獣の姿になったのを見た。

 小さな影が鬼へと跳びかかる。滅茶苦茶に振り回される太い腕を掻い潜りながら縦横無尽に駆け巡る。

 やはり一方的に翻弄できるではないかと菜々緒は思った。願望が引き起こした錯覚に陥った。

「おじいちゃん、逃げなくてもイツカちゃん勝てそうだよ!」

「んなわけあるか馬鹿! 戯言ぬかしてる暇あるなら自分で歩きやがれ」

「うん……あ、いけそう」

 いつの間にか足腰に力が戻っていることに菜々緒は気付いた。錯覚のおかげで恐怖が薄れたからなのだが、そこまでは自覚しない。

 とにもかくにもゆっくりとだが立ち上がり、今度は自分が祖父を支える。

「ごめん、大丈夫?」

「……痛ぇのは痛ぇがな」

 ちらりとイツカを見やってから再び、血の気の戻ってきた孫娘の顔を観察し、幸雄は前言を翻して菜々緒の錯覚を利用することにした。

「今のうちに逃げるぞ」

 後ろめたさがないわけではない。しかし最も大切な、守るべき存在を見誤るほど若くはなかった。自他ともに認めるぐうたら神主である。汚名など瑣末ごとだ。

 この状況が変わらずにいてくれるうちに、菜々緒を安全な場所へ逃がさなくてはならない。




 遠ざかってゆく気配に、イツカはひとまず安堵した。

 不躾な願いを持ち込んでしまった、この鬼をこの社へ呼び込んでしまったことへの贖いはこれでいくらか果たされるだろう。

 改めて意識を鬼へと集中する。さすがは破邪と武の神域、尋常ならざる負荷を受け、巨体がよろめき続けている。もし此処に、ともに仕える狐たちあらばきっと斃し切れたであろうに。

 これでもイツカでは勝てないのだ。しばらくの足止めが精一杯だ。

「オ、おおゥ」

 地響きのような鬼の唸りが大気を震わせる。

 定まらぬ視線に二人を捉えさせてはならない。

 声高く、イツカは呼ぶ。

 中空から湧き出すようにして灯る輝き、五つ。青白く、移ろう虚像を残しながらゆらゆらと。

 狐火。五火イツカの得意だ。

 輝きは鬼の周囲を行きつ巡りつ、そしてイツカ自身も跳びかかる。

 鬱陶しげに払う鬼の腕には当たらぬ位置で跳ね、からかえば、鬼は倒れ掛かるように両手を伸ばす。その間をすり抜けながらイツカは狐火を一つ、鬼の横っ面に叩きつけた。

 しかし、それもまた鬼は鬱陶しげに払うのみだった。燐火は遊び足りぬと纏い付けど、頬の一つも焦がせずに消えた。

 やはり効かない。最初から判ってはいたのだが。

 身に宿す力の程が格段に違うのだ。この鬼は出自の割りに恐ろしいほどの、底無しに思える霊力と生命力を有している。

 社の狐たちが幾度焼いたことか、どれほどの打撃を与え続けたことか。同じくらいの巨躯に化身して格闘した者がいた。風を呼び、吹き飛ばした者がいた。イツカよりも狐火に長けた者があった。

 それでも鬼は斃れなかった。追い返すのが関の山だった。あのときよりも弱っているであろうとはいえ、イツカではまともな傷を負わせることすら至難の業だろう。

 だが時間なら稼げる。

 大降りの腕を掻い潜る。巻き起こされた風が瘴気混じりに毛を逆立たせる。蹴った足元で砂利が散り、からからと音を立てて参道に転がる。

 それを幾度か繰り返し、イツカは小さく唸った。

 先ほどまでよりも、僅かずつにではあるが攻撃の正確性が増している。足運びもまともになりつつある。

 一方で周囲の清浄な気配が薄れてゆく。鬼の撒く邪気が侵蝕しているのだ。

『これは……来るのか!』

 イツカの記憶にもある。稲荷の社が襲われたときもこうだった。最初は打たれるがままだった鬼がいつの間にか、完全にではないが動きを取り戻した。そうでなければ皆もやられはしなかった。

 特殊であることにはもう驚きはしない。受け入れるしかない。

 時間を稼げる期限はもうすぐそこだ。ちらりと背後を確認すれば、まだ菜々緒たちの姿が見えている。片足を引きずる幸雄に肩を貸しながらではあまり早く歩けないのだろう。

 しかしあと少しだ。間に合う。

 気を緩めたわけではなかった。視線を外すわけもなかった。

 跳躍したイツカのしなやかな肉体を、今までに数倍する速度で鬼の拳が打った。

「きヒ」

 鬼が笑った。




 あと少しだけ、その瞬間が来るのが遅ければよかった。

 幸雄と菜々緒は拝殿の陰に姿を消そうとしているところだった。

 そこで菜々緒が振り返ってしまったのだ。イツカのことが気になり、軽々と吹き飛ばされるところを目の当たりにしてしまった。

「イツカちゃん!?」

 何も考えなかった。理屈も危険も打ち棄てて駆け寄っていた。

「菜々緒!!」

 祖父の声も届かない。

 菜々緒を衝き動かしたものは善悪の分かれる前、強いて呼ぶならば母性本能にも似た心だった。

 ぐったりとした狐の身体を抱き起こせば、腕の中で小さな女の子の姿に変わった。

「ぐこうにござりますよ、ななおどの」

 それは喋るための変化であるからか、外目には傷もなく苦しげにも見えない。けれど声の細さが不安を煽った。

「やつは今、ななおどのをとらえた」

 月が翳った。声もなく見上げたなら、鬼の偉容がすぐ近くで見下ろしていた。

 その肩が揺れる。げらげらと笑い始めた。

 嘲笑っている。のこのこと戻って来た菜々緒を、奮戦がすべて無駄になったイツカを。

 影のうちにありながら菜々緒の意識は光に焼き尽くされていた。明るく視界は広がり続け、何も見えなかった。

 座り込むだけの自分、腕の中のイツカ。祖父の叫びも耳に入らず、鬼の伸ばした手ばかりが視界の中で大きくなる。

 諦めることすら菜々緒にはできなかった。

 死ぬほかない。イツカが足掻いて放った狐火も掌で弾けただけ。

 だが、鬼の手は止まった。菜々緒の目の前にまで来て、壁に遮られたように。

 鬼の意思ではない証拠に、苛立たしげな呻きが響いた。

 何度も拳を叩きつけ、そのたびに弾き返される。

「……これは……なにが……」

 イツカが呟き、菜々緒の背後から淡い光が漏れていることに気づいた。

 ふわりと五本の尾が揺れている。そこに残された僅かな力は、それでさえ強大であるのだろう。ただの五尾ではなく九尾のうちの五なのだ。さすがに長くは続くまいが、今までその力を温存するために眠っていたものが、おそらくは菜々緒を守るために目覚めた。

『菜々緒どのに、そこまでする何があるというのだ』

 普通の少女だ。少し流されやすくて衝動的、それが優しさとしても映る。無論、優しいには違いないのだろうが。

 告げたとおり愚かでもある。策も持たずに、死をもたらす暴力の前へ戻って来て、挙句、思考も行動も停止してしまっている。

 だが、その愚かさが自分を案じてのものであるというのは単純に嬉しくあった。報われたと思える。

 それでも、まだだ。ここで終わらせてはならない。

「ななおどのっ!」

 強く呼びかける。尾で軽く肩口も打ってやる。

「ななおどの、お気をたしかに!」

「え、あ……え?」

 ようやく我に返った菜々緒は、鬼が見えずの壁に拳を打ち下ろしている様を見て、改めて目を丸くした。

 そこへイツカは更に呼びかけた。

「ななおどの、たたかうのです! このまもりももうもちませぬ!」

「だってあたし戦うとかそういうのできない」

 この期に及んで惑う菜々緒だったが、次の言葉で息を呑んだ。

「やらねばみなして死ぬるのみです! てまえも、ななおどのも、ゆきおどのも!」

 振り向けば、菜々緒の名を呼びながら這いずり戻ってこようとする幸雄の姿。前へ向けば怖気を震う異形。腕の中には小さなイツカ。そして何もできないでいる自分。

 そんな中で一番に思ったのは祖父のことだった。ぐうたらでいい加減で、そのくせこちらには料理だの掃除だの、当たり前のように求めてくる。

 しかし愛されていること、守られていることは判っていた。お前のためなら自分はどうなってもいいなどという類の言動は一切行わないが、何か怖いこと、恐ろしいものがあれば、いつものふてぶてしいまでにぐうたらな顔で庇ってくれるのだ。たとえばよく吠える犬、胡散臭い大人、理不尽な教師、小さな頃から幾つもの思い出がある。

 そして今だってそうなのだ。何度も何度も馬鹿な行動を取っている自分を、痛みに脂汗を浮かせながら、鬼から守ろうとしてくれている。

 景色が滲んだ。怖さよりも何よりも胸を衝く、温かいものがあった。

「……イツカちゃん、あたしはどうすればいいの? どうすればおじいちゃんを守れる?」

 言った。ただの少女は世界や社会のために戦えなくとも、家族のためになら自然と口にできていた。

 叩きつけられる鬼の拳が僅かずつ近づいて来る。五本の尾の力がついに尽きようとしているのだ。もはや秒すら惜しい。

 だが間に合った。

「ななおどの、おてを。うけ入れてくださりませ」

 小さな、紅葉のような手が伸ばされる。

 菜々緒はそれを受けた。細い指に自らの指を絡ませ、優しく結ぶ。

 結びは産霊むすひに通じ、新たなるものを生み出す。

 二つの姿が光となり、溶け合った。





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