第四話「あア、気持ち悪いナ。目が回ル」




 血だ。

 真っ赤な血液が吹き上がり、天井を濡らし、壁を染め、そして滴るそれを男は飲み下す。

 喉に粘ついて、人であればただただ不快であろうに、美味そうに口を歪めるのだ。

 男。男と呼ぶよりも先に語るべきことがあるだろう。

 身を屈めていなければ屋内にはいられぬほどの巨躯。合う服などあるはずもなく、無頓着に纏うのは襤褸だ。そしてこめかみには捻くれた角が一対、不均衡に。

 鬼であると、初めて見た者、信じてすらいなかった者さえも口を揃えるに違いない。

 牙を剥いて笑う。

 そこは十畳ほどの和室である。血液がぶちまけられ、肉片が散乱するまでは、掃除も行き届いていた。

 同時に、鬼の鼻には饐えた臭いを覚える部屋だった。恨みつらみの染みついた、居心地のいい。

 鬼はかつて人であった。他者を食いものとし、大いに恨みを買った人であった。その怨の念、業が人を鬼と成さしめた。

 だから此処は心地がよいのだ。人であった頃の自分と同じようなことをこの部屋で行う者がいたのだ。

 それは今、血の海に浮かぶ残骸となっている者のことであるのだが。

 無力な獲物よりも、狩猟者を弄ぶ方が愉しいというものではないか。

 恨みを喰らい、恐怖を喰らい、命を喰らい、鬼は満足を知らない。餓鬼の如く、満たす端からかつえてゆく。

 だから求め続けるのだ。

「人バかり喰うノも飽きル」

 口の端からどす黒い泡を垂れ流しながら独りごつ。

「あノ狐」

 先日神社を襲ったときから追って来る、二尾の狐。離れてこちらの様子を伺いながらも手を出して来ようとはしない狐。

 勝てるはずもないと分かっているのだろう。力の差が鬼には読み取れていた。

 鬼は、かつては下種であるだけの、ただの人だった。鬼なるものが実存するなど、鼻で笑い飛ばす方だった。だから知っていたことなど何もなかった。

 しかし純粋化された精神が、力への嗅覚を研ぎ澄ませていた。社を襲撃した際も負けるとは欠片も思わず、事実負けなかった。神域であることによってこちらの力が削がれてさえいなければ皆殺しにできた。

 追手の狐など話にもならない。気にも留めず、思うがままに動いて来た。

 だが今朝、狐が妙な行動をとった。監視を捨てて近くの神社へと向かったのである。

「何があル」

 社にはあまり近づきたくはない。見えぬ何かに縛られてゆく感覚、もどかしさは残虐の自由を謳歌する今の身にあまりにも不愉快だ。しかも先日の社より嫌な感覚が大きいのだ。

 それでも興味が抑え切れない。

 手にしたものを喰らう。ばきりと音を立てたのは上腕骨だ。昂ぶってゆく心のままに、咀嚼もまた強く、早くなる。

 振るった拳が窓硝子を破砕した。傷はない。その程度で鬼の肌は傷つかない。

 続いて枠ごと窓そのものを吹き飛ばし、巨体が夜の街に躍り出る。

 残るは乾いた血と、散った肉片、骨片。

 またニュースでひとつ、連続殺人事件が報道されることになる。








 ゆらゆらと二本の尾が揺れた。

 人工の光が揺らめく人の街にも影はある。鼬が警戒もあらわに顔を見せ、横切るのは蝙蝠か、ムササビか。人が思うよりも野生は文明に溶け込んでいるのだ。

 二尾の狐がその影に佇んでいる。標的の在るビルを睨み上げ、しかしそれしかできない。

 イツカは人の忘れ去った社の狐だ。真正の神霊は人の信仰など必要としない。太古より在り、人がどう信じようと、忘れようと、何も変わることはない。変わって見えるのは人が己の都合のままに世界を受け取っているからに過ぎないのだ。

 だから破れた社にも神は在る。とはいえ大きな神であれば、祀られぬではそこにいる必要をなくして分霊わけみたまの去ることはあるが。

 そんな場所に狐たちは身を寄せ、仕えていた。

 鬼が襲撃して来た理由は分からない。何か得るものでもあったのやもしれない。

 ともあれ襲われ、多くの犠牲を出しながら撃退し、今に至る。

 イツカはただ、様子を窺う。

 仕掛けずとも分かってしまう。力が違いすぎる。

 あの鬼は、人から成ったばかりだというのに異様に強い。社を守っていたうちで最も力を持つ四尾ですら敵わなかった。

 ただひとり無事であった、最も年若い自分に託された役目は監視だ。しかし力なき監視者だけがいても、鬼を制することができない。人々が殺されてゆく様を歯痒く見つめるだけ。

 血の色が目に、臭いが鼻に染みついている。悲鳴が耳に木霊する。

 飛び出したくなる己を抑え、監視する。一時の衝動に身を任せ、無駄死にすることはならない。あれをどうにかできる誰かに伝える使命がある。

 傷ついた仲間たちも、ただイツカに任せているだけではない。他の稲荷に力ある狐を遣わしてくれるよう頼んでくれている。

 その、はずなのだが。

 遅い。依頼と応答、派遣など数日もあれば十分であるのに、もう十日になる。

 見捨てられたのか。しかし理由がない。あのようなものは早々に排除してしまうべきだろうに。

 募ってゆく焦り。そんな中で、五本もの尾を持つ人間を見つけた。

 縋りつき、断られた。

 イツカは己の前脚を見下ろす。

 稲荷の遣いは白狐だ。しかしイツカの体毛は普通の狐と変わらない。

 すべては己の未熟が故である。鬼の襲撃に遭って無事だったのも、その程度の力では加勢も無意味として戦うことを禁じられたからであり、鬼がこちらに気付いていながらも無視しているのは障害にもならないと見なされているからだ。

 どうすればいいのだろう。

 このまま見ているだけで援護が現れて鬼を退治してくれるのだろうか。現れなかったなら、人が喰われてゆくのを見続けることになるのだろうか。

 人のうちに悪鬼や妖を調伏することを生業とする者たちがいることは知っている。彼らの助力を仰げたなら解決するのか。けれど誰がそうであるのかが分からない。

 こうしている間にも人が死んでゆく。見上げているビルの中で、今間違いなく犠牲者が出ている。

『――――こんな無力を噛み締めるため、稲荷にお仕えしているわけではないのだぞ』

 嘆く呻きも終わらぬうちに、上空で甲高い音、続いて鈍い音。そして何かが地面に叩きつけられ、月輪に影が差す。人に似て異なる異形の姿。

 イツカは思わず道へ飛び出し、影を追った。幾人かの目に留まったろうが、夜に獣の速さでは何かがいたとしか思うまい。

 鬼はビルの屋上を跳躍し、逸るように、明確な目的地を定めた惑いのなさで駆ける。

 イツカも壁と壁が向かい合っている場所で交互に跳ね、上へと跳躍した。月下に身をくねらせて自らも屋上へ着地、即座に鬼の背を追いながら、眇めた眼差しで追跡に集中する。

 今回も気付かれてはいるだろう。あの鬼は不可思議なほどこちらをよく認識している。本当に人から成ったばかりなのか疑わしいほどに。

 未熟とはいえイツカは狐である。気配を消すなどお手のもの、人など相手にならない。鬼を相手取っても大抵は問題ないはずなのだが。

 風を切る。距離は詰めない。

 何処へ向かおうというのか。鬼はいつも気侭で読めない。

 この先にあるのは、と記憶を辿り、そして気付いてしまった。

 向かっている方向には昼に訪れた八幡神社がある。

『馬鹿な!?』

 漏れたのは悲鳴だった。

 鬼があそこを知ったとすれば、それは自分を追ってに違いない。とんだ失態である。

 しかし隠身に優れた妖狐を相手取って監視に気付くだけではなく、逆に行動まで把握しているなど誰が予想するだろうか。

 異常である。そしてそれだけに留まらない。

 八幡神は天照大神に次ぐ第二の皇祖神にして武神だ。千年を超える歴史の中で武士たちに力を与え、まつろわぬもの、邪なるものを駆逐して来た。

 あそこは小さな神社であるとはいえ、八幡神の領域である。悪鬼外道であるあの鬼にとって、近寄るだけでも苦痛であるはずだというのに、迷わずそちらへ向かっている。

 訳が分からない。この鬼は一体何だというのだ。

『そうではない。そんなことはいい』

 何よりも重要なこと。

 神域であることによって力を大きく減じようと、鬼に襲われたならあの二人は助からない。

 どうする、と自問したことに驚いた。

 助けようとするのか。救えはしないのに。

 彼らのために戦うならば、なぜ今までの人間は見殺しにしたのか。言葉を交わしただけで特別になるというのか。

 行うべきことは今までと変わりない。監視し、やがて来るはずの戦力に受け渡すのだ。

『違う。来るかどうかも分からない援軍に、だ』

 もしかすると取り合ってもらえなかったのではなかろうか。

 あり得なくはない。名も存在も忘れられた社など怪しんで当然だろう。

 その疑いは数日前からあった。でなければ菜々緒に縋りはしなかった。

 断られたことへの恨みは毫もない。口にした通り、道理だと思った。

 胸は助けたいと言う。頭は任務を果たすこと、無駄死にを避けよと訴える。

 茶を出されただけで、少し話をしただけで、別に優しくされたわけでもないのに、二人の顔がちらついてならない。

 人との触れ合いに飢えていたのは否めない。しかしたったそれだけのことで、こうも心が揺らぐものか。

 迷ううちにも社は近づく。決断を行うか、あるいはせずともひとつの答えにはなる。

 時は淀みなく刻まれてゆく。
















 居間に二枚重ねのバスタオルを三組並べ、そこへ五本の尾を乗せて菜々緒は深い溜息をついた。

 危惧していた通り、入浴も大変だった。単純に邪魔であることもそうだが、何より上がってからの尻尾が重いこと重いこと。脱衣所で水を拭き取るだけで湯冷めした。そして今は乾燥中というわけである。

 小さなくしゃみが出た。

「さすがに身体がちょっと冷たいなあ……」

 頬や首筋に触れ、呟く。

 夏でよかった。冬だったなら凍えていたところだ。

 今身に着けているのは新たな単である。余計なものが生えている今はこれが一番楽だった。尾のことを抜きにしてもあまり人に見せたくないが、祖父と二人なので気にならない。

 その幸雄はまたテレビでニュースを見ていた。

「……なんか昼前にまた死体が見つかったらしいぞ」

「へー」

 気のない返事をして、一呼吸置いてからぞっとした。

 また死体が見つかった、という言い回しはつまり以前から続いている話題だということであり、ならばそれは今朝のニュースでやっていた殺人事件の話だとしか考えられない。

 ここからほんの四駅。遠くで知らない誰かが死んでいるだけなのとはわけが違う。

「うわ、やだな。こっち来たりしてないよね?」

 尻尾の世話に集中していたので菜々緒はニュースの内容をまったく頭に残していなかった。

「近づいてはねえな。遠ざかってもねえけどな」

「早く捕まらないかな、ほんとに……」

 犯人は一体どんな人間なのだろう。怖いもの見たさのように、想像が逞しくなってゆく。

 遺体が酷い状態なのだというのだから、とても暴力的であるに違いない。男性で身体は大きく、おかしな趣味をして。

 漠然として誰にでもできるような犯人像しか描かれないのは、遠野菜々緒という少女が至極健全に育った証とも言えるだろう。

 そして、立場と年の功から幸雄が大きく顔を顰めた。

「……嫌な予感が収まらねえ」

 ぐでんと怠惰に寝転がっていた状態から身を起こすと片膝を立てて座り、食い入るように画面を見つめる。

 ニュースは大した情報を提供してはいない。場所が公園の隅であること、遺体が酷く損壊していること、警察が捜査していること、付近の住民に警戒を呼びかけていること。曖昧な内容ばかりで、碌に何も判明していないのか、あるいは報道できないことばかりなのか。

「もしかしてあの子の言ってた鬼とかのせいだったりして」

 菜々緒は冗談のつもりで口にした。趣味の悪くはあるが、何か言わなければ昂じる不安に押し潰されてしまいそうで。

 しかし幸雄にはそれこそが解だった。

 弾かれたように立ち上がり、強張った顔で告げた。

「俺はちょっと出てくる。お前は家から出るな、ああ、いや、いっそ本殿に籠もってろ、ちっとはましだろ」

「え? おじいちゃん、出てくるってどこへ……ちょっと、おじいちゃん!? あ痛っ」

 菜々緒も慌てて立ち上がろうとしたが尻尾のせいかバランスを崩して転んでしまう。

 それを尻目に幸雄は駆け出した。

 何の根拠もない決めつけで勘違いを犯していたことにようやく気付いたのだ。

 頼みを聞き入れこそしなかったが、幸雄はイツカと名乗った狐とその話自体はさほど疑っていなかった。この神社に問題なく入れる以上は邪な存在ではない、と分かるくらいには霊的な事象に触れて来た人生だ。

 だが、イツカが菜々緒を引き入れるためにわざわざやって来たのだと勘違いしていたのだ。菜々緒に尾の生えたのが今朝のことだとしてもそうなる素質は以前からあったのだろうし、妖狐であるイツカならそういった素質が判ってもおかしくはないと。

 見逃してはならなかったのは、断られたイツカが食い下がらずに引いたこと。そうしてくれることが、菜々緒を危険から遠ざけたい幸雄の望みに添っていたから深く考えることがなかった。

 戦えない仲間が待っていて、もし菜々緒しかいないのであれば足掻かないはずがない。そもそも、どうせ縋るならもっとましな相手がいくらでもいるはずだ。陰陽寮の流れを汲む退魔組織である天地院は稲荷の遣いを無下にはしないだろう。他の稲荷神社に応援を頼んでもいい。少なくとも、役に立つかどうかも怪しい菜々緒より先にそちらを頼っていなければおかしい。

 つまりイツカの役目は他にあり、菜々緒に接触して来たのは交渉失敗に終わることを最初から覚悟した上でのことだったのではなかろうか。

 では本来の役目は何であるのか。加えて、真っ当な戦力を待たずに不確か極まりない菜々緒などに助力を懇願したのはどうしてなのか。

 稲荷神社を襲撃した鬼を逃してしまったとして、野放しにはすまい。戦力を確保しても当の鬼の居場所が判らぬでは話にならない。イツカはおそらく鬼を見張ることを使命としており、そして悠長に援軍を待っていられる事態ではなくなった。

 見張りがここにいるということは、その対象も近くにいるということ。今朝と先ほどのニュース、そう離れていない場所で酷く損壊した死体が見つかったという事実。

 最悪だった。

 向かうのは二ノ宮医院だ。菜々緒にはぼかして伝えたが、かつて向こうに送った件というのは荒事である。彼女ならば今回も何とかしてくれるかもしれないと考えたのだ。

 幸雄の推測は完全にではないが的中していた。

 しかし遅かったのだ。

 雪駄を突っかけ、玄関の戸を開け放して飛び出した幸雄を揺れが襲った。地面ではない。空気が揺れているとしか思えない不可思議な感覚に振り回される。

 それでも足は止まらない。境内を行き、参道から鳥居をくぐろうとしたときだった。

 人の倍はありそうな拳が幸雄の右足を打った。元々は胴の中央へ繰り出されたものが、よろけたような動きで外れたのだ。

 それでさえ幸雄を大きく弾き飛ばし、足の骨を砕いた。もしまともに身体に受けていたならそれだけで内臓がことごとく破裂して絶命していたことだろう。

 巨大な、人に似た影が夜に伸びた。影には二本の捻じくれた角があった。

 夜天の太陰が異貌を照らし出す。

「あア、気持ち悪いナ。目が回ル」

 神聖を冒涜せんとばかりに鳥居を揺すり、鬼があった。

 幸雄の絶叫が響き渡った。







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