第三話「どうかてまえに力をおかしねがいたいっ」
ちりんちりん。
音がする。
鈴ではない。もっと俗な、たとえば自転車についているベルの音だ。
それが窓の外から聞こえてくる。
うわあ、というのが菜々緒の本音だった。病院から帰って来て、どうせ外には出られないのだし思う存分自堕落な日を過ごしてしまえと、冷房も全開に漫画を読んでいたところへ冷水を浴びせられた。
窓の向こうは小さな庭、そのさらに向こうは小さな林。一体誰がこんなところで鳴らすというのか。
母屋とはいえ一応は社の領域内である。ちょっとやそっとの怪異など入り込めないと祖父は言っていたはずだというのに。
「……どうしよ」
確認するのは怖い。部屋を出るのすら怖い。朝からの驚きの連続で心が麻痺していなければ、怖さなど悠長に自覚していられなかっただろうが。
ちりんちりん。
止まない。
続くほどに恐怖が増してゆく。
「おじいちゃんとこ行こ」
独りでなければ怖さもやわらぐだろう。部屋を出ることにはなるのだが、自室で震えているよりはましだ。
ページを閉じ、漫画はその場に放り投げるようにして立ち上がると、震える手でドアを開けた。
廊下に金色があった。
「おはつにお目もじいたしますっ」
「うひょあうぅっ!!?」
淑女にあるまじき素っ頓狂な悲鳴とともに、菜々緒は自室に跳ね戻った。敷きっぱなしだった布団にひっくり返ると、口をぱくぱくとさせる。
声が出ない上、何を言っていいのかも分からない。
視線の先で金色が動いた。
まずは、ひょこひょこと二本。先が黒い。尻尾のように見えた。
次いで、手前の方でも何やらひょこひょこと。三角で、まるで犬や猫の耳のような。
最後に、がばっと金色が舞った。部屋から漏れ出した光くらいだというのにきらきらと輝いて。
それは長い髪だった。素直な流れが白い頬に触れながら床にまで届いている。
菜々緒の止まりかけの思考は、それでも観察を行っていた。
七つ、八つと思しき子供だ。恐ろしく愛らしい顔立ちをして、年代のせいもあって性別は判らない。ただ、纏っているのはどうやら巫女装束であるようだから女の子かもしれないとは思った。
金の髪を割り、飛び出ているのはやはり獣の耳だ。そして後ろでは、ふわふわの毛に覆われた尻尾が二本。
「てまえ、ウカノミタマノカミにお仕えする狐がまっせきをいただく、イツカともうしますっ」
小さな口から舌足らずに、少し難しい言い回しでその子は言った。
ぱちくりと目を
「……イツカ……ちゃん……?」
まるで見覚えも心当たりもないが、可愛らしい子供の姿は恐怖と警戒心を解きほぐしていた。耳と尻尾のことは脇に置いておく。末席を汚す、じゃないんだ、と不意に思ったことも忘れておく。
イツカと名乗った少女は転げ落ちそうに大きな目を一杯に開いて続けた。
「とおのななおどのっ!」
「はい!?」
「どうかてまえに力をおかしねがいたいっ」
「はいぃいっ!!?」
この唐突な頼みごとをすんなりと理解できるほど、菜々緒の頭は柔軟ではなかった。
「かぶんなお気づかい、いたみいります」
卓袱台にことりと置かれた湯呑みにイツカはぺこりと頭を下げた。
廊下で問答しているよりはいいだろうと居間へ移動し、祖父も呼んだ上でお茶を淹れて来た。黒髪と白髪頭と金髪を突き合わせ、実に妙な気分である。
「それで、力を貸して欲しいっていうのはどういうことなのかな?」
一口啜って渇きに渇いた喉を潤し、切り出したのは菜々緒だ。兎にも角にも話を始めないことにはこの事態は終わってくれない。
口調はやわらかい。やはり子供に見える相手だとそうならざるをえない。
「てまえ、さきほどももうしましたとおり、いなりのお社にておつとめをはたしておるのですが」
「あ、うん……」
イツカは舌足らずでこそあれ、言葉遣いはむしろ落ち着いたものだ。まなざしもまた、抑え切れぬ情動を覗かせながらも怜悧である。でも愛らしい。
ちぐはぐな印象に、菜々緒は応じ方を定めづらくいた。
一方で狐巫女は生真面目に続ける。
「せんじつ、お社がオニのしゅうげきにおうたのです。からくもげきたい叶うたものの、それがげんかい、オニはのがしてしもうたのです。そもオニともうしますは――――」
菜々緒の表情から知識のなさを読んでか、イツカは続けて鬼という存在について語った。
鬼とは非常に広い概念である。自然の凝り、神と変わらぬものもあれば、子を生し次代へと続く種の如きものもあり、果ては人が成ることまである。
その広さがために鬼の王と呼ばれる存在もまた、幾つもある。
「今、オニの王ととわれてまずあげるはアカシどの。ヒトの世にしるされてこそおりませぬが、その力、名だたるキシンにまさるともおとりませぬ」
鬼王・明石は絶大な力とは裏腹に自己を制しながら、隠れ里にて鬼たちを統べる文字通りの王である。暴虐の徒であるはずの鬼の手綱を平穏の中で執り続ける手腕は他の何ものも比肩し得ない。
しかし彼とて、従えている鬼は半数にも満たないのだ。会ったこともない鬼が頭を垂れるわけもなく、己こそ力なりと荒れ狂う鬼が恭順するわけもなく、人より成った鬼は明石の存在すら知らない。
「おおえ山のしゅてんいっとうがよみがえったともききおよびます。ゆえにかあばれるオニもふえておるのです」
「しゅてん……酒呑童子かよ。もう御伽噺じゃねえか」
幸雄が眉を顰める。ただしそこに現実感はない。
菜々緒に至っては名前の響きを知っているだけである。
「おじいちゃん、それってどんなの?」
「平安時代に京の都で暴れてた鬼たちがいてな、大江山に住んでるそいつらを源頼光と四天王が討ったって話だよ。んでそいつらが蘇ったと」
非常に大雑把な解説であるが、菜々緒にはその程度がちょうどいいと判断した幸雄、伊達に祖父ではない。
イツカはこくりと頷いた。
「てまえが追うはそのような大物ではござりませぬが、とうていてまえのかてるあいてでもまた、ござりませぬ」
ひょこひょこと二本の尾が動く。
妖狐の力は、九本になるまでは尾が増えるほどに増す。二尾というのは最低限を意味する。病院からの帰り道に世間話のように祖父が語った内容はさすがに菜々緒も覚えていた。勝てる相手ではないというのは理解できる。
しかし、だ。
「そこでななおどののお力をおかしねがいたいのです」
「いや、いやいやいやいや」
イツカの申し出には目を白黒させるより他になかった。
「あたし戦いとかできないし、この尻尾だって何だかよく分からないけどいきなり生えただけで、しかも力もほとんど残ってないらしいし」
「ごしんぱいにはおよびませぬ。その尾はうつわになりまする。うつわにみたす力は外よりよびこめばよいのです」
「いや無理、無理だって! だからあたし戦えない……」
いかにイツカが可愛らしかろうが可哀想であろうが、できることとできないことがある。口にした通り、菜々緒に荒事の経験はまったくない。喧嘩は口でだけ、運動も苦手でこそないが得意でもない。何の訓練もなく飛行機の操縦をしてくれと言われているに等しい気分だった。
だがここで不意に、菜々緒の脳裏に天啓の如く浮かんだ考えがあった。
「いやちょっと待って、もしかしてあたしの尻尾をイツカちゃんに移すとかできない? そしたらあたしもイツカちゃんも願ったり叶ったりだと思うんだけど」
尾を得られるイツカも失える自分も得をする名案、のつもりだったのだが。
イツカはゆるゆるとかぶりを振った。
「なりませぬ。わずかに力をのこしただけといえ、てまえなどとはかくのちがうだいせんだつの尾にござります。いかようにても、てまえのものとはなりませぬ。その尾はななおどのをえらんでおるのです」
「選んだ、ってそんな迷惑な」
菜々緒にしてみれば、邪魔でこそあれ役になど全く立たない尾を押し付けられただけである。元の持ち主が選んだのか、尾自体が相性のよいところへやって来たのか。いずれにせよ、人間などにくっ付かず、無難に狐の下へ行って欲しかった。
「とにかく、無理だから。あたしにはどうにも……」
「おねがいもうしあげます!」
イツカは座したままで後ずさり、深々と平伏した。
「みな、重いきずをおい、次はたえられませぬ。てまえではかてるはずもござりませぬ。しかもやつは……」
「いや、でも……」
菜々緒は声を詰まらせる。
本当に拒否してしまってもいいのか。この子はこんなにも必死なのに。たとえ無理そうだとしても何か少しくらいの出来ることはないだろうか。そう考えてしまう。
結局は非現実的に捉えているのだ。虚構の物語の選択肢じみて思えているのだ。
そこへ冷たい現実を叩き込んだのは幸雄だった。
「駄目だ」
普段のだらけた調子とはまるで異なる冷たい声と顔。容赦など欠片も見られない。
「たとえ百パーセントの身の安全とその後の人生の保証があっても論外だ。俺の孫を殺し合いに誘ってんじゃねえよ。そういうことはあんたらの中で片付けてくれ」
殺し合いと聞いて、自ら知らず、菜々緒の背が震えた。それは本当であれば考えるまでもなく分かっていたはずのことだった。
考える余地も迷う余地もない。平和に暮らしてきて、平和に暮らしてゆくはずである菜々緒には、殺し殺される可能性などあってはならない。
幸雄は更に続けた。
「帰りな。すべて無駄だ。菜々緒が頷いても俺が許さん」
雷鳴に打たれたように、伏せたまま、無言のうち、イツカの尾が震えた。
そのままのろのろと身を起こし、悄然と肩を落として呟くように言う。
「……まこと、どうりにて。しつれいもうしあげました」
「イツカちゃ……」
「てまえがみがって、どうか平にごようしゃを」
呼びかけようとするも、イツカはもう一度深く頭を下げると弾かれたように駆けて行ってしまう。
それは本当に一瞬で、猫のようだと菜々緒は思い、そういえば狐だったと気付いた。
これからあの子はどうなるのだろう。鬼と戦うのだろうか。勝てるはずがないと言っていた。その仲間もみんな、死んでしまうのだろうか。
「駄目だからな」
わだかまる惑いを切り捨てるように祖父が言う。
菜々緒の胸に非難の一つも浮かばなかったわけではない。冷たいと詰りたい衝動は湧いた。
それでも分かってしまったのだ。しばらく黙って聞いていただけだった幸雄が遮ったのは自分が乗せられかけていたからだ。本心を探れば菜々緒自身も、自らを危険に晒してまで協力したいとは欠片も思っていなかった。湧いてくる怒りは自分を綺麗でいさせたいがための見せかけに過ぎない。
「……ううん、ありがと」
泣き出しそうに笑うと菜々緒も席を立った。
「部屋に戻ってるね」
足取りは重い。しばらくは何もする気が起きないだろう。
どれだけ正当性があろうとも、見捨てたと思ってしまうことはどうにもならなかった。
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