第二話「保険きくんでしょうか?」
尻尾の付け根まで見えるよう、再び袴をめくり上げられて。
横目で見る夕実の姿は、およそ医師らしくはなかった。
どこに隠し持っていたというのか、開いた手ほどもない刃渡りの小柄が握られていた。白木の柄は薄汚れ、随分と古いものなのだろうと思わせる。
しかし、だ。
その一方で刃の冷たい輝きには怖気を振るう。異様なまでに鮮烈で、まさに尾の付け根がむず痒くて仕方がない。
湧き出す恐怖を菜々緒は必死に堪える。堪えなければならないと、心を強く持つ。
夕実はベッドの傍で小柄を顔の前に掲げ、ひどく難しい顔をしていた。よく観察すれば眉根を寄せたり視線をあちこちにやったりと、小さく表情を変えている。
とくとくと、自分の鼓動がうるさい。いつしか呼吸は早く短くなり、不安が増してゆく。頭まで痛み始めた。視界がぼやけ、意識が曖昧になってゆく。
もうこれ以上は駄目だ、そう思った瞬間だった。
「はい、楽にしてー」
朗らかな声とともに、目の前にはしゃがみこんだ夕実の、猫のような笑顔があった。
瞼をしばたたかせる。
「……夕実せんせ?」
「はい、二ノ宮夕実せんせーですよん。大丈夫、菜々緒ちゃん?」
「あ、はい……」
頭痛も動悸も去っていた。あれは追い詰められた自分の意識が作り出したものだったのか、あるいは夕実が手にしていた小柄の影響だったのか。
分からなかったが、身を起こす。尻尾をクッション代わりにしてベッドに腰掛けた。
「何か原因とか?」
「うん、割と色々判明したかな。原因とかまでは断定できないけど」
明るい口調は決して表面的なものではなかったらしい。菜々緒としては、あれだけで色々解析できたということ自体が驚きではあったが。
夕実は一度立ち上がると丸椅子に座り直し、少し笑みを収めた。
「それで、何から聞きたい? やっぱりその尻尾が何なのかから?」
「そうですね、できれば」
菜々緒は頷いた。先ほど夕実は原因は断定できないと言った。それは裏を返せばある程度は推測できるということだ。
「うん、それじゃあ……と、いけない。神主さんのこと忘れてた。一緒に聞いて貰った方が二度手間にならなくていいよね」
そう言うと、夕実は再び立ち上がってドアを開けた。
「診察終わりました。お入りください」
菜々緒と幸雄、二人並んで神妙な顔でベッドに腰掛けている。部屋に入って来た祖父は、言葉に困ったのか未だに、おう、としか口にしていない。
そして幸雄が加わったためか夕実の口調も改まっていた。
「まずその尻尾ですが、妖狐のものです。正確にはお稲荷さんに仕える狐ですね。ただし霊力がもう残り滓くらいしかないみたいです」
「ワケわからんな」
幸雄がぼやく。説明の邪魔しないの、と菜々緒は小さく睨むが幸雄の目には留まらなかったようだ。
夕実も気にせず続ける。
「どうしてそんなものがくっついたのかは分かりません。本来の持ち主がどうしてるのかも。ただ、対処法は三つ考えられます」
「三つも!?」
まさかそんなにあるとは思ってもみなかった菜々緒は思わず声を上げた。三つあるなら選べるということだ。放り込まれたこの訳の分からない状況からすれば贅沢にすら感じてしまう。
表情からその思いを読み取ったのか夕実は小さく笑った。
「残念ながら今すぐ何の問題もなく解決する方法はありませんけどね。まず一番無難なのはこのまま放っておくことです」
「そうするとどうなるんですか?」
「感覚はあるけど動かせない。この尻尾はまだ表面的にくっ付いているだけで、霊的には繋がっていないそうです。放っておけば尻尾に残った霊力が尽きて自然と消えてなくなってしまうでしょう」
「おお」
何もしなくていいというのは理想的な展開だ。ただ、期間が気になる。できれば月曜までに治ってほしいのだが、数日くらいなら妥協はできる。
「どのくらいかかるんでしょうか?」
「短ければ一週間くらいらしいですけど、一月は覚悟した方が」
回答は残酷なほどに長過ぎた。一週間であってすら月曜からの補習を丸ごと休む必要があるし、一月経つと夏休みもほぼ終わり、それ以上かかると二学期にまでもつれ込んでしまう。
惜しいが、駄目だ。
「それじゃあ、二つ目は……」
「逆に、尻尾を完全に菜々緒ちゃんのものにしてしまって、修行して人間に化ける要領で消すことですね。実際には残ったままだけど、社会生活に問題なければ大丈夫かと」
さらりと夕実が口にしたのは、一つ目とは打って変わって随分と幻想的な方法だった。思わず祖父と顔を見合わせてしまう。
そんなことが可能なのか、具体的にはどうすればいいのか、さっぱり分からない。
「……あ、あの……」
それだけで困惑は伝わったのだろう。夕実も困ったように眉尻を下げると、眼鏡の位置を直した。
「あたしにもよくは分からないんですけど。お稲荷さんの狐の尻尾だから、神職としての修行で大丈夫なんじゃないか、らしいですね」
「はあ……」
曖昧である。それ以前に夕実の喋り方自体が全体的に、誰かの言葉を伝えているかのようだった。
そこで思い出したのは、自分自身が分かるわけではないと最初に断られたことだ。そしてそうであるならばあの小柄に何らかの能力があるのだろうか。
「これは極端なことを言うと、今夜にでも尻尾を消せるかもしれないし一生無理かもしれないという方法です。才能と努力に自信があるなら一番かもしれません」
「素質にも努力にも自信ないですよ、あたし……」
菜々緒は家こそ神社であるが、雑用しかしたことがない。場合によっては一生このままである危険を思えば選べるはずがなかった。
最後に残るのは三つ目だ。嫌な予感がした。こういう場合、一番いい方法を最初に言って、最後に持ってくるのは苦肉の策だと相場は決まっている。
そして夕実の切り出し方も否定的だった。
「最後の方法はお勧めしません。外科的切除……早い話が手術です。この場合、尾にメスが入るのかどうかも分かりませんし、麻酔が効くのかどうかも分かりません。切除に成功してもまた生えない保証はありませんし、根本的にうちでは全身麻酔での手術に使う呼吸管理システムがありません。ただの町医者ですからね。かと言って根ブロックでやるのも怖いかな。更に次から次へと問題噴出で、多分菜々緒ちゃんもあたしも後悔する」
「やめときます」
まさに論外である。
三つある、と聞いたときの喜びは既に失せていた。いずれも問題を抱えていて、それでも三つ、事実上二つのどちらかを選ばなくてはならない。
一つ目の利点は何もする必要がないということだ。尻尾がなくなるまで家に引きこもっていればいい。それだけで、いつかは治る。しかし学校には何と嘘をつけばいいのだろう。仮病を使うとして、友人が見舞いに来てしまったらどうすればいいのだろう。
もっとも、それでも二つ目よりもましなのかもしれない。こちらは上手くいけば数日で治るかもしれないだけで、下手をすると一つ目のデメリットが死ぬまで続くということである。
菜々緒は賭けは嫌いだった。迷うこと自体が現実逃避にしかならない。
「……一つ目にしようと思います。いいよね、おじいちゃん? 二つ目はハイリスクローリターンだし」
前半は夕実に、後半は祖父に。決断を告げる。
「ま、それが無難かね。お前に才能があるとは思えんしなあ」
からからと笑ったのは気持ちを和ませようとしてくれたからなのだろう。
そして夕実も頷いた。
「放っておくのが一番でしょう。『こっち』には来ない方がいい」
呟くようなその言葉は溜息めいて不吉で、実年齢以上の重みを感じさせるものだった。
それもあっさりと消え、いつもの明るい笑みになる。
「ともかく、あたしの診察と診断は以上です。受付でお会計出るまでお待ちください」
「え、金とるのかよ」
「ちょっとおじいちゃん!」
とんでもないことを言い出した祖父の袖を慌てて引く。分からないではないのだ。神社でも、まともにお祓いなどをするならともかく相談に乗ったくらいで料金が発生したりはしない。しかしここは病院である。診察だけでも診療費はかかる。
夕実がくすりと声を立てた。
「あたし個人は無料でいいんですけどね、それだと看護師さんたちに怪しまれますから」
確かにその通りだった。ただでさえ特別に奥まで通されて診察を受けているという形になるのだ、これで無料だったらどんな噂を立てられるか分かったものではない。
金のことを言い出したのは意地悪でも杓子定規でもなかったのである。
と、不意に夕実が真顔になった。
「そういえば注意事項だけど、その尾を根付かせるようなことはしちゃ駄目だからね。そうなったら強制的に二番目でいくしかなくなるから」
「そこは大丈夫ですよ。そもそもあたし神事とか一切やりませんし、それ以外だと根付かせろって言われた方が困るくらいで」
菜々緒は軽く両手を振って懸念を否定した。むしろもっと気になることがある。
「ところで……こういう霊的なことって、保険きくんでしょうか?」
夕実はにっこりと、猫のように笑った。
「もちろんきかない」
結局、心療系の診察という
先ほどの夕実の言葉は、嘘ではないがそもそもそんな名目で保険請求するわけがない、という冗談であったらしい。
菜々緒は胸を撫で下ろしていた。家計は決して楽なものではない。診察代程度でも安いに越したことはないのだ。
「夕実せんせ、優しかったよ」
帰り道、まだ午前だというのにじりじりと肌を焼く日差しにうんざりとしながら祖父に話しかけた。家まではほんの五百メートルほどの距離だが、冷房の効いた二ノ宮医院がもう恋しい。
「そうさな」
幸雄は何か考え事に没頭しているようで生返事だった。
若々しい、とはいってもやはり経てきた年月は皺として刻まれている。見慣れていたはずの祖父の横顔に奇妙な凄みを覚え、菜々緒は軽く眉根を寄せた。
「どうかしたの?」
「俺ァな、才能だとかにゃ縁がないんだ。まあ、振りだけじゃねえくらいには神主やってられる程度でな。だが嫌な予感だけはやたらと当たりやがる」
ぎろり、と言ってもいいくらいの強さで、視線が菜々緒を射た。
「家から出るなよ? どうにもこめかみがチリチリする」
「大丈夫だよ、むしろあたしが出たくない」
菜々緒はひらひらと手を振った。垂れ下がる五本の尻尾が重くて暑い。外に出るどころか、風呂やトイレですらどうしたものやらである。
「ほら、ニュースで言ってた事件、ここから駅四つだよね。犯人まだ逮捕されてないみたいだし、もしかしたら補習がなくなったりするかも」
不安を誤魔化すための軽口である。本当にそうなってくれないかなという思いもあるが、この軽口でまた別の不安が湧いて来た。
本当に、引き篭もってしまいたい。尻尾が生えるわ、近くで殺人事件があったらしいわ、普通の高校生としては現実逃避したくて堪らない。
しかしなんとかなるだろう。今までの人生、そう思ってきたらなんとかなったものだ。遠野菜々緒はあまりものを深く考えない。
「お前、相当迂闊だからなあ……ほんとに大丈夫なのかね。まあこの際だ、ちっと狐のことくらい覚えとけや」
幸雄が溜息をついて妖狐について知るところを語り始めた。
そして二人は神社に帰る。
――――観察する目のあることに気付かぬまま。
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