エピソード1「尻尾が生えた」
第一話「尻尾。朝起きたら生えてたの」
爽やかというには既に蒸し暑い朝、目覚めたら尻尾が生えていた。
寝苦しいとは思っていたのだ。何やら腰からお尻のあたりに邪魔なものがあると。
よもやこんなことになっていようとは。
布団の上、もふもふの尻尾を両手で撫で回しながら、菜々緒は小さく唸った。
尾は、狐のものだと直感的に思った。現実の狐がどうだったかは覚えていないのだが、いかにも虚構上の狐の尻尾なのである。
それが五本、既に臀部と呼んで差し支えない高さに生えている。しかも一本一本にボリュームがあるせいで下着がずり下がり、正座をしなければ座ることにさえ違和感が生じてしまう。もう開き直って四本は座布団代わりにしていた。
最後の一本を弄くる。やはりもふもふだ。その奥には皮があって、肉があって、おそらく骨もある。昨夜までは存在していなかった、尻尾を弄くられる感触の方は正直気持ちが悪い。その一方で力は一切入れられない。動かせないため、立てばただ垂れているだけになる。
一体何がどうなっているのだろう。
恐慌を来たさずに済んでいるのは、世の中には人ならぬ不思議なものが実在しているのだと聞き知っていたからだ。一応は生まれ自体が神社でもある。
しかしやはり動揺はしている。これからどうやって生活すればいいのだろう。この尻尾、素直に垂らすと軽く足元に達する。加えて、五本まとめると尋常ではない体積になってしまう。おそらく持っているスカートの中で一番長いものでも隠せない。
学校にも行けない。今は夏休みだが次の月曜から補習はあるのに。
「今日は土曜だから明後日の朝までに何とかすれば……」
何とかできるのだろうか。口で言うだけなら簡単だが。
尻尾を、もとい頭を抱えた。
現在、八幡神社の宮司である祖父との二人暮らしをしており、助勤扱いで神社の清掃くらいはしているものの、神事や修行などとはほぼ無縁だった。とはいえ祖父が何かを祓う様などは目にしていたから無闇に不思議を疑うこともない。
両親は幼い頃に亡くなっている。顔すら記憶になく、悲しいという感情が浮かんでくることもない。寂しいとなら、さすがに思わないでもなかったが。
白の単に緋の袴。菜々緒は巫女装束に着替えていた。不自然に広がってしまうことまではどうにもならないものの、この格好、行灯袴ならば五本の尾を隠し切ってくれることに気づいたのだ。とりあえずはこれで誤魔化せるだろう。
そしてまず相談すべき相手は祖父である。菜々緒が成長してからというもの母屋の掃除も料理もまともにしないぐうたらだ。料理はともかく、清めることを重視する神道で掃除をしないというのはまずいのではなかろうか。それとも母屋ならば構わないのだろうか。
ともあれ、身近にいる唯一の肉親であり、かつ不思議に関わっているはずの存在だ。
「おう、朝飯はまだかよ」
母屋の居間に寝転がり、テレビのニュースに目をやったまま祖父、遠野幸雄は背中で声をかけてきた。
仲が悪いわけではない。単に振り向くのも面倒だというだけである。これでも朝の仕事は終わらせているはずなので、今日は本殿や境内の清掃をすっぽかしてしまった菜々緒は文句も言いづらい。
ニュースでは残虐な殺人事件について紹介されていた。原形を残さないほどに遺体が損壊していたのだという。
地名を聞いて、この町との近さに眉を顰めた。
「ご飯はちょっと待って」
「えええええええ」
「先に相談事があるんだ、おじいちゃん」
その声に混じる揺らぎに何を感じ取ったか、身を起こしてぎょっとした顔で振り向いた。
「まさかガキでもこしらえたわけじゃあるめえな?」
「まさか! 相手もいないのに」
大げさなほどぶんぶかと、菜々緒はかぶりを振る。勘違いされては面倒だ。ちなみに彼氏いない暦イコール年齢である。顔は悪くないと思うし、背も極端に高いわけでもないのだが。いや、まだ高校生なのだから焦る必要自体、ない。
「そんなんじゃなくて、ちょっとこれ見てよ」
袴の裾を少しだけたくし上げる。膝丈まで単が覆ってはいるが足元から尾は見えるはずだ。素足も少し見せることになるものの、この程度ならば実の祖父であることだし抵抗もない。
なんだそりゃ、と言わんばかりに老人の左の眉が跳ね上がった。今年で六十六になるはずだが、まだ黒いところの多い若々しい眉だ。
「毛玉?」
「尻尾。朝起きたら生えてたの。五本。なんか狐っぽい」
それだけ言えば、表情が変わった。眉根をきつく寄せ、菜々緒も何度か見たことのある『仕事用』の顔になったのだ。
膝でこちらへ寄り、尾の一本を掬い上げて軽く握る。
「妙だな、俺の筋もバァさんの筋も
「じゃあ、なんなんだろ」
そうか、狐憑きなんてものもあったか、でもあれ尻尾なんて生えるものだっけ? などと思いながら意味もなく天井を仰ぐ。
やはり動揺は収まらない。夏だというのに汗が冷たい。もしかすると社会的にはこれで人生が終わってしまったかもしれない。更に血の気が引いてきた。
「悪いもんじゃあなさそうだがな。むしろえらく清浄な気がする。賜り物か?」
座り直した幸雄が難しい顔で唸る。賜り物とは神から下された何らかの
「……うち、八幡さんだよ?」
「だよなあ」
狐を従えるのは稲荷神社に祀られる
ならば一体何だというのか。物事にはすべて原因があるという。この尾はどこから来たものなのか。
時計が時を刻む音だけがいやに大きく響く。
やがて、先に口を開いたのは幸雄の方だった。
「こりゃあ、二ノ宮の嬢ちゃんに頼ってみるか」
「二ノ宮……ああ、もしかして夕実せんせ? こういうの詳しいの?」
誰なのかはすぐに思い当たった。神社から五百メートルほどの距離にある、二ノ宮医院の医師である。現院長の娘であり、六十五も越えて不慮の事態を恐れた父親が五年ほど前に大学病院から呼び戻したらしい。以来、医院の半分を受け持っているという。菜々緒も何度か診てもらったことがある。
しかし不思議なことに対する知識まであるとは知らなかった。
「詳しいというか……なんなんだろうな」
祖父の応えは曖昧だった。困ったように眉根を寄せ、こめかみを叩く。考え事をしているときの癖である。
「俺も俺のジィさんから聞いた話なんだがな、二ノ宮のご先祖さんは強ぇ陰陽師だとか修験者だとかだったらしい。で、時々そういった方面の力を使える奴が出るらしいんだな」
「それが夕実せんせ?」
「当人は、あるわけじゃねえと言ってたがな。こっちで解決できないような困ってる奴がいたら診てもいいとか、嫌そうな顔で言ってもいた。実際何回か送ったこともあるし、解決はできたみてえだが」
菜々緒には、祖父の悩みが読み取れた。果たして信用できるのかと考えているのだろう。あやふやな印象を受けるのは確かであり、それだけ聞けば自分にも怪しく思えた。
ただ、記憶にある二ノ宮夕実医師は明るく人懐こく、悪感情を抱けない。
「嫌そうに言ってたっていうのはむしろ信用できる要素なんじゃない? やりたくないけどやるのなら、変なことはしないと思うんだ」
菜々緒はそう言った。口にしたことを無邪気に信じているわけではない。だが何よりも、この尻尾をどうにかしたかった。藁にも縋る気持ちとはまさにこのことだ。
幸雄も詭弁をそのまま受け入れたわけではないのだろうが、背に腹は替えられないことだけは理解できたようだった。
「仕方ねえ。俺もついてく」
「うん」
神社を空にするのは気になったが、これもまた背に腹は替えられない。一人で行くのはやはり不安である。
「でも診察室の中までついて来られたらやだよ。下着姿になるかもしれないからね」
ただ、そこだけは釘を刺しておいた。
二ノ宮医院は病床数三十六の、個人経営としてはそれなりの病院だ。外装は淡い緑に塗装されて清潔感を演出している。定休日は日曜祝日、半日が木曜。休みでも急患ならば診る。
大きな道に面してはいないが、それなりに患者数は多いようだ。朝一番だというのに、待合室には既に八名の姿があった。全員祖父より年上と思しい。
話をしてくる、と言い残して奥へ行ってしまった祖父を見送り、菜々緒は居たたまれない気持ちを味わっていた。なにせ尻尾を隠すために巫女装束のまま来たのだ。しかもうかつに座れないので立ったまま。おかげで好奇の視線を一身に受けている。
もちろん、この格好で出歩いてならない理由はない。しかし菜々緒自身にも初めての経験であるように、祭りでもないのにこの装いを外で見かけることはまずないだろう。
話しかけられるまでいかないのは幸いだったが、各々の家に帰ってから話のネタにされることは想像に難くない。憂鬱が増す。
時間の粘度が高い。半時間は待ったつもりで、時計は五分しか過ぎていない現実を突きつけてくる。漫画でも読もうかと思ったものの、動いた拍子にうっかり尻尾が覗いてしまってはことだ。
早く呼ばれることを一心に祈り、叶ったのは更に五分経ってからだった。
「遠野菜々緒さん」
看護師に呼ばれる。
はっと顔を上げ、先に呼ばれたこととを謝るかのように愛想笑いを振りまき、尾がはみ出ないよう気をつけながらいそいそと向かう。
名を呼んだ看護師も少し変な顔をしていたが気にしてはいられない。
向かった先はいつもの診察室よりも奥だった。ドアのひとつの前に祖父が立っていた。
「おう、ここだ。何か変なことになったら大声上げろよ」
「もう、失礼だよ、診てもらうのに」
交わす言葉もひそひそと、今一度気合を入れ直してドアをノックする。
『どうぞー』
くぐもってはいるが聞き覚えのある明るい声だ。
少しだけ安心した。
「失礼しまーす」
ドアを開け、中へ入る。
採光性の高い、明るい部屋だった。白を基調としてはいるが、建てられてからの年月のせいかところどころ草臥れて、清潔であっても潔癖ではない。大きな窓からは小さな庭が覗いている。
そこは覚えにある診察室と同じだったが、置かれている物は随分足りないように思える。机と診察用であろう簡素なベッド、それだけだと最初は思った。よく観察すると昔ながらの水銀柱による血圧計も奥にあった。
「やー、久しぶりだね、菜々緒ちゃん。前に会ったのは冬に風邪で来たときだったかな。あの後は大丈夫だった?」
小柄な身体に大きめの白衣を纏い、人懐こく二ノ宮夕実医師が笑う。
こちらには三十で呼び戻されたはずだが、五年経った今でもまだ三十路に見える。ハーフフレームの眼鏡をかけたその顔を、菜々緒は猫っぽいと思う。小さな顔に大きな瞳、そしてどこか悪戯げ。美人ではあるのだが、何よりも猫めいた印象が先に来てしまうのだ。
「あ、はい。ご無沙汰してます」
一応、挨拶をするだけの余裕は生まれていた。目の前の女性は、なぜか自分をほっとさせる。
「はいご無沙汰ですです。病院とご無沙汰なのはいいことだけどね。それじゃ座る……のはきついのかな。そこのベッドにうつ伏せになったほうがいい?」
「そう、ですね」
小さな丸椅子だから座るのに尻尾は邪魔にならないだろうが、自分では動かせないので床についてしまうことが気になった。
言われた通り、ベッドにうつ伏せになる。組んだ両腕を枕にすると安定した。
「なんだかあたしのために時間とってもらって……他の患者さんは大丈夫なんでしょうか?」
「そもそも
歯切れのいい軽快な回答から、ぴらりと袴の裾が持ち上げられる感覚。ふくらはぎが妙にくすぐったい。どんどんめくられていって、最後には尻尾の付け根に指が触れたのが分かった。
「なるほど、尻尾だ。触られた感触とかあるの?」
「感触はあるけど動かすのは無理です」
頷きながら、菜々緒は夕実の声に驚きがないことに気づいていた。本当に不思議の側の住人だったのだ。
「どうにかできるんでしょうか……?」
自分でも驚くほどか細い声が出た。これでどうにもならないと言われたら、今度こそ泣き出してしまうかもしれない。
「大丈夫。まずは調べてからかな」
夕実は相変わらずの明るい声だが、大丈夫という言葉が励ましに過ぎないことは菜々緒にも分かっていた。本当に大丈夫なのかどうかは、言葉通り調べないと判断のしようがない。
そこで一度、袴が戻された。そして夕実が枕元にしゃがみ、こちらを覗き込んできた。
「最初に断っておくと、菜々緒ちゃんのおじいちゃんに言った通り、あたしが色々分かるってわけじゃないんだ。ただ、手段は持ってる。これが何なのか、どうして生えたのかが判明すれば消せるかもしれないし、あたしにできなくても他の誰かを紹介できる」
至近距離から優しい瞳が見つめている。
ああ、この人は大人なのだ、と菜々緒は思った。理由までは自覚しなかったが。
「そんなに不安がらないで。この尻尾は少なくとも悪いものじゃないんでしょ? 菜々緒ちゃんのおじいちゃんを信じなさいな」
「……はい」
頬の下に組んだまま、両手を握り締めた。祖父はぐうたらで大雑把だが、理不尽なことで怒ったりしないし、ここまで真っ当に育ててくれた。信じられる。何も分からずとも、この十六年は信じることができる。
夕実は一つ頷くと、ここでにんまりと笑った。
「ところであたしの持ってる手段なんだけど」
「はい」
「他言無用。絶対ダメ。OK?」
「お、おぅけぃ」
妙に迫力のある笑顔に気圧され、菜々緒はこくこくと首を縦に振る。
しかしまだ続きがあった。
「あと、刃物抜くけど」
「刃物っ!?」
「切ったり刺したりするわけじゃないから安心して」
「怖いこと言わないでください……」
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