理想の実現

山川はる

プロローグ

「まさくーん、きこえるー?」

返事はない。

「そこにいるのかなぁ?」

かすかにドアが軋んだように思えた。

「先生、どうする?」

隣で見つめていた友治が言った。その声はとても冷静である。

「先生、なるべく早く戻るから、みんなに教科書P24の練習問題やってるように伝えてくれる?」  

「分かった。」

そう言うと、友治はすぐに教室へ向かった。もう慣れているのだ。雅がこうなるのは、いつものことだから。ここまでの展開はいつも通りで、私が教室に帰るまで友治たちがなんとかしてくれる。問題はこの後、どれくらい雅と対峙することになるのか…。

「まさくん、声、出るかな?出ないなら、ドアをトントンってやってくれるだけでうれしいなぁ。」

意外とすぐに、とても小さなトントン…という音がした。やはり、雅はこの中にいる。

「よかった。ここにいるんだね。先生、安心した。」

「…ぜんぜん。」

ドアをはさんで、ムッとした声が返ってきた。

「そうか、雅くんはいい気持ちじゃないんだね。先生、どうしてその気持ちになったのか知って、それを解決したいなぁって思ってるんだけど。」

返事はない。

「ノートのことかな?先生、それだけは見えたんだけど。」

沈黙が続く。今日は長くなりそうだ。ここでたくさん話しかけて外に出てくることはもちろんある。でもそれは確率的にはとても低く、その上地雷を踏まないように細心の注意を払わなければいけない。ドア越しの会話は、ただでさえ表情の見えない相手のちょっとした変化に気づけず、ひどい日は突然の爆音と共にカギやトイレットペーパーホルダーの破壊が起こってしまう。

「そしたらさ、先生、教室に戻ってみんなと待ってるよ。たまに、見に来るね。無理しなくていい、話したくなったら出ておいでよ。」

しばらく待ってみた。やはり返事はない。ダメかあ…。

トイレの方向を振り返りながら、教室へ戻った。うちのクラスは、トイレから出て4個目の教室である。子どもたちは、勉強していた。…まあ、何人か例外はいたが。私が帰ってくるのを見て、慌てて席についた様子が伺える。それでも、手元を見ると与えられた課題に取り組んだらしいことが分かった。問題が終わってしまって手持ちぶさただったんだろうな。

「待っててくれてありがとうね。しっかり勉強出来ていたね。じゃあ、答え合わせからしようか。」

その声で、答え合わせ係が席を立ち、他の子どもたちは隣の席の子とノートを交換する。その微妙な時間に、足早に内線電話に近づき、受話器を手に取った。すばやく数字を押す。

「はい、小原です。」

「4年2組の長野です。」

「あ、雅くんですか?」

「そうなんです。今日も一番奥に。原因はまだ分かりません。多分、平くんがノートを配っていたときに雅くんのノートを落として、そのせいだとは思うんですが…。」

「分かりました。見に行きますね。」

「お願いします。」

これで、一先ず雅を見守ってもらえる。ほっと一息つくと、答え合わせの声を聞きながら今日の学習問題を黒板に書き始めた。


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