美沙

「それで?Mくんはどうなったわけ?」

コーヒーカップを皿の上に置くと、じっとこちらを見ながら言った。軽い会話の中でも、子どもの名前はイニシャルにしてしゃべる。美沙って、全然真面目な子に見えないのに、そういうところはちゃんとしている。


土曜の10時。お決まりのカフェで待ち合わせして落ち合った美沙は、ジャージを着ていた。午後から部活なのだ。

「小原先生がトイレに着いた時に、中から泣き声がしたんだって。どう考えても奥の個室からで、ドアをガタガタ揺らしながら泣きじゃくっていたみたい。大丈夫?って声をかけても返事なし。それで、これはちょっと落ち着くまで何も出来ないし、あまりにも激しいからとりあえず担任の私に知らせようってことで、うちのクラスまで来たんだ。」

「大変だなぁ。」

「で、私と小原先生で様子を見に行こうと廊下を歩き出したら、ちょうどMくんがトイレから出てきた。どうした?落ち着いた?って聞いたら、もう大丈夫って一言言って、何事もなかったかのように教室へ戻ってった。」

「ほー。」と言うと、美沙はカップを手に取り、コーヒーを一口すすった。

「じゃあ、結局原因は分からなかったんだ。」

「そうなの。せっかく落ち着いたし、下手に詮索してまた悲しい気持ちにさせたら申し訳ないし。ほとぼりが覚めたところで改めて聞こうとは思ってるんだけどね。それからはもう、普段通りに生活して帰っていった。」

話し終わると、私は店員を呼び、コーヒーのおかわりをお願いした。

「なんか、あれだね、初任に持たせるには少々難しすぎるクラスな気がするよ、私は。」

美沙の言う通りかもしれない。一年目の私には荷が重すぎる。じゃあ普通はどんなクラスが入門に適しているだなんて形容は出来ないが、少なくとも4年1組よりは問題行動の目立つ子が多い。

「ねえ、ナツ、病んでない?大丈夫?」

「うん、それは平気。」

美沙は心配してくれるが、私は結構図太いところがあって、自分は簡単には倒れないと思っている。むしろ、子どもたちに申し訳ない。問題行動があるということは、裏を返せば満たされていなかったり路頭に迷ったりしているサインなのだ。ベテランの先生ならもっと上手くクラスをまとめているかもしれないのに、こんなぺーぺーの私が担任になったことで、子どもたちを不幸せにしていないかそれだけが心配だった。

「ミサは最近、悩んでることないの?」

ふと、自分ばかりしゃべっていたことに気づいて、問いかけた。

「うーん、ゼロって訳じゃないけど、大きな悩みはないな、うん。まあまあ上手くやってると思う。そりゃあ、このワタシですから!」美沙は背筋をぴんと伸ばすと、ニヤッと笑ってみせた。




美沙は同じ教育大学出身で、たまたま初任の任地が同じ地区だった。美沙が保健体育専攻、私が美術専攻だったこともあって、大学のほとんどは互いのことを知らずに過ごしていたが、ひょんなことから知り合いになった。それは教員採用試験の時期のこと。一次試験に受かった私は、自分の研究室で二次試験に出題される学習指導要領を読んでいた。そこへ、やって来たのが美沙だった。

「失礼しまーす!今、いい?」

何かの講義で見たことはあるが、名前も知らない相手に、私はなんとなく頷いた。 

「私、ホタイの松本美沙!」

よくあるように、うちの学校にも各専攻の略称がある。保健体育専攻はホタイ、美術専攻はビセンだ。

「私はビセンの、長野夏実。」

「なつみさんね、よろしく!あのさ、私、一次試験に受かったんだけど、それ読んでるってことはもしかしてなつみさんも受かったの?」

「うん、そうだけど。」

「もしかして、なつみさんって、体育苦手でピアノ得意だったりしない?」

この人、ほぼ初対面の相手によく踏み込んだ質問をしてくるなぁ、と思いつつ、結構図星だった。私は体育が得意ではない。球技は楽しめる程度に出来るが、特に採用試験の試験科目でもあるマット運動が苦手である。対して、幼少期から習っていたこともあって、ピアノはそこそこ弾ける。

「えっと、うん、結構そんな感じ。」

「あ、本当?やったー!まさかの、一人目で見つけたパターン!あのさ、私、体育教えるから、ピアノ教えてくれない?」

つまり美沙は、体育を教えることと引き換えに、これまた試験科目のピアノ伴奏を教えてくれる人を探していたのだ。

「いいけど、ピアノ、オンセンの子に習わなくていいの?私、しょせんビセンだし。」

オンセンとは、音楽専攻のことである。

「実は、オンセンの子には頼めない事情があってさー。私、オンセンの孝と付き合ってるの。だから。あと、ビセンの人って基本優しいし!!」

それならなんとなく納得いく。オンセンもビセンもほとんどが女子で、男子は貴重だ。今4年生のオンセン男子は孝を含め二人しかいなくて、しかも二人ともそこそこイケメン。オンセン女子は十五人もいるから、噂によると二人目当てに結構どろどろしていたらしい。オンセン女子を差し置いて孝と付き合っているとなると、なんとなく頼みづらいのは分かる。

「本当に私でいいなら、いいよ。こちらこそ、体育教えてくれるなんてありがたいし。一緒にがんばろう。」特に断る理由もなく、私は美沙とギブアンドテイクで実技試験の勉強をすることにした。付き合い始めると美沙とはとても気が合い、試験までの二週間は案外楽しかったし、支えあった私たちは無事に二人とも合格した。





「確かに、ミサが悩むってことが出てきたら、それはかなりヤバイね。」

二人で笑った。この時間に癒される。息抜きって大切だ。しばらく仕事とは関係ない他愛のない会話をしたあと、美沙は元気に部活へ出掛けていった。

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