第3話 傘下資格

「さんかく君。」

と呼び止められた。

『三角』と書かれていれば、誰だって瞬発的に『さんかく』と読むのは至極当たり前の事で、別にそれを責めるわけでは無いのだが、僕は「いえ、『みかど』です。」という訂正の台詞を長年強いられてきた事に行き先のない不服感を感じていた。

しかしそれも過去の話で、全盛期の小学生の頃などと比べれば『さんかく』と読み間違えられる事も大幅に減った。

友達の中では、僕の事をわざと『さんかく』と呼ぶ人もいたにはいたが、『さんかく』という単語は思いの外言い難いようで、気づいたら『みかど』に戻っている事が殆どだ。だから今現在、故意的に僕の事を『さんかく』と呼ぶのは四角さんただ一人だった。

「さんかく君。」

振り向くと、彼女は短くふわふわした黒髪を尚一層、ふわふわさせながら小走りにやって来た。左手には今日は晴れだというのに何故か赤い傘が握られており、一瞬不審に思ったが、もしかしたら学校に忘れていたのかもしれない、と僕は一人勝手に合点していた。

「一緒に帰ってあげよう。」

四角さんは軽く息を弾ませながら、何故か偉そうに胸を張る。

「はぁ、そうですか。」

と、別に断る理由も無かったので、僕は頷いた。

「よつかどさん、委員会は終わったんですか?」

いつもなら、まだ図書室にいる時間でしょう?と尋ねると、四角さんは唇を尖らせた。

「『しかく』って呼んでと言ってるじゃん。」

彼女は何故だか僕に『しかくさん』と呼ぶことを強制してくる。確かに、『三角』と『四角』が揃ってるなんて珍しいとは思う。

あまりにも頑ななので、僕は素直に『しかくさん』と訂正した。

「今日は副委員長に任せてきた。」

彼女はそう満足そうに言ってにっこりと笑った。

「少しずつ彼にも私の仕事を任せないといけないからね、そろそろ私達は卒業だし。」

四角さんは左手に持った赤い傘をステッキのようにブンブン振りながら、でも彼は優秀だから安心して引退できるよ。と付け足した。

僕も同意だったので、そうですね、と肯定した。

彼はまず真面目であるし、本も好きで人当たりも良いので、良い図書室の主になってくれる事だろう。この間も僕が尋ねた本を何かで調べる事も無く、棚から持ってきてくれた。この三年間、ほぼ毎日あの図書室に通っていた僕でも何処にあるのか分からなかった本を、だ。

その事を四角さんにも伝えると、彼女は少しぶっきらぼうに、

「私ならどの棚の何段目の右から何冊目までかという所まで言える。」

と答えた。

そんな分かりやすい嘘付いて張り合おうとしないでくださいよ、大人気ない。と言おうとしたがやめた。四角さんなら案外やれそうであった。

彼女は心から本を愛していた。本と言うよりか、この学校の図書室を愛していたと言う方が正しいかもしれない。

一年生の頃、僕は四角さんと一緒に図書委員をやっていた。元々読書量には自信があったが、四角さんには到底叶わなかった。

二年生になって、僕は図書委員を辞めてしまったが、図書室に通うことは辞めなかった。

彼女と、どのタイミングでどう話すようになったか覚えていない。気づいたらいつの間にか話していた。基本、本の話しか共通点は無かったが、それでも話題が尽きたことは無かった。

彼女は変わり者だった、だからと言って周りから嫌われている様では無かったが、友達と呼べそうな人と一緒にいる所は見たことがなかった。けれども本人は友達よりも本の方が魅力的に見えている様で、その事について気にしている様子はなかったし、僕は『友達』と言うより、『読書仲間』と言う方が近いような気がしている。

「四角さんはいつも図書室に居るけれども、友達とかいるの?」

と一度だけ副委員長に聞くと、

「それは三角さんもですよ」

と笑われてしまった。そして笑いながら

「四角先輩は、本好きの人にとっては神様みたいな人ですから、友達になりたいとかそういう次元じゃ無いんじゃないですかね。」

と言った。

彼女はどこに行く時も、何をする時にも本を手放そうとしなかった。読む本の傾向も、いつもバラバラであった。活字中毒と言っても過言では無いだろう。

どんなジャンルの本の話題を振っても四角さんは瞬時に反応できた。ドが付くほどマイナーな本でも、発売されて直ぐの本でも、『知らない』や『まだ読んでない』という言葉を彼女の口から聞いたことが無かった。

友達という友達はいなかった様だが、よく思い出してみれば図書室内で彼女に話しかけれいる人は割といたように思う。僕もその中の一人だったが、その中でも親しい部類に入るのではないかと思う。いや、そう思いたいだけなのかもしれない。

「四角さんて、」

思わず僕は言う。

「仲間は多いですよね。」

四角さんは僕の顔をまじまじと見つめながら小首を傾げたが、僕は何でもないですと首を横に振ってみせた。

すると四角さんは持っていた赤い傘をぽんっと開いて僕を中に入れた。頭上に広がる冴えた赤。

「雨、降ってませんけど。」

僕は言う。

「はい、降ってないです。」

四角さんは言った。

僕は混乱していた。この高く澄んだ冬の空の元、四角さんと相合傘をしているなんて。僕は彼女の顔をまじまじと見つめた。彼女も僕の顔をまじまじと見ていた。ふわふわと伸びた前髪の隙間からぱっちりとした二重が見据える。

「さんかしかくをあげようと思って。」

唐突に四角さんは口を開いた。

「さんかしかく?」

僕は繰り返す。

「『傘の下』って書いて『さんか』。私の傘下に入る資格をあげるよ。」

そう言って彼女は歩きだす。僕もつられて相合傘のまま歩いた。

「三角君は覚えてないだろうけど」

四角さんは歩きながら少し早口に言う。

「一年生の頃、図書委員で二人で帰りが遅くなって、しかも雨が降り出して、君は傘を持っていなくて、私の傘に入れて帰ったことがあるんだ。その時君が『綺麗な赤ですね』と言ってくれたのが今でも忘れられない。資格、要らないなら別に断ってくれてもいいから。」

僕はなんて言ったら良いのか分からなくて、見当すら付かなくて、けれども四角さんの小刻みに震える傘を持つ手がとても綺麗だったので、彼女の代わりにそっと傘を持って歩いた。

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切なげな毒 若宮青 @wakamiyasyou

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