廃墟となった学生寮

駅員3

虚ろな空間

 京都には台湾からの留学生のための『光華寮』がある・・・というかあった。二つの中国の狭間に置かれて、本来の崇高な目的から外れて、長く訴訟の場におかれ、現在は廃墟と化している。


 かつて東京にも同じような寮があった・・・いや、ある。

 東京のものは1927年(昭和2年)、台湾に在住する日本人子弟や、台湾からの留学生の寄宿舎として、都心に近い某所に旧台湾総督府の外郭団体である『学祖財団』が当時の日本政府から土地を借りて『清華寮』を建設した。

 今でもその建物は、都心に近い閑静な住宅街の高台に、異彩を放って建っている。


 軒をぶつけ合うように林立する民家の間を、真っ直ぐに続く狭い坂道を下って行くと、道の正面の高台に、巨大な緑色をした大きな箱状の物体が見えてくる。だんだん近づいてくると、その物体はびっしり隙間なく蔦が絡まり、所々に暗く虚ろな窓が開いているのが見えてくる。よく見るとガラスはない。遠目で見ても、何かしらただならぬ雰囲気を漂わせていて、まるでその暗い虚ろな空間から、異次元の冷気が吹き出しているかのようだ。


 谷底まで下りて、その廃墟に続く坂道を登り始めると、ほどなくして左手の崖に、半ば藪に閉ざされた上へと続く石の階段が見えてくる。

 この階段を上りきると、藪の間から左右の石造りの門柱が姿を現す。

 意を決して敷地に踏み入ると、都会の喧騒はおろか、鳥のさえずりも聴こえず、あたかもここの空間の時間が止まっているかのように静寂が広がる。



 この清華寮は、日本の敗戦により台湾総督府が消滅した後も、台湾人(中華民国)の入居が続いたが、いつしか中華人民共和国の留学生なども居住するようになった。

 居住者達は中華民国系、中華人民共和国系それぞれが自治組織を作って管理を始めたが、両者は平穏共存していた。しかし、建物の所有者が不明確であり、入居者がさらに第三者に転貸するなど、混乱していたようだ。

 この建物の所有権は、1960年(昭和35年)に設立された財団法人S会が、1978年(昭和53年)に学祖財団の理事から寄付を受けたとしてその所有権を主張して2003年(平成15年)に提訴すると、2006年(平成18年)に勝訴する。


 財務省は「借地契約は学祖財団から財団法人S会には移っていない。」として、土地の明け渡し訴訟を提起する構えだ。

 建物の所有権は、中華民国なのか中華人民共和国のものなのか、はたまた日本のものなのか、その帰属については外交問題になることも考えられる。

 さらに、この寮の元住民達は奨学会への建物の譲渡は、偽造されたものだとして争う構だ。


 その後2008年1月7日、住民のタバコの火の不始末から出火し、寮の7割が焼けて、中国人母娘2人が亡くなった。

 本来崇高な目的で建設された建物が、戦争と政治の狭間でもみくちゃにされ、朽ち果てるに任されている様子を見るのは忍びない。


 建物は昭和初期の建物だからなのだろう、玄関の上にはアールヌーボー風の美しい曲線のオブジェが置いてある。かつては煌びやかに輝いていたであろう真鍮製の優勝カップのようなオブジェは、すっかり緑青を吹いている。

 玄関を入ると、中庭が吹き抜けとなっていて、ロの字型に部屋を巡らせている。中庭に向かって三層構造になっていて、吹き抜けの天井には鉄骨の屋根型にトラスが数本残っていることから、かつては屋根があったのかもしれない。

 火災で真っ黒に煤けた回廊を歩くと、ヒタヒタと自分の足音だけが後を追ってくる。

 息詰まるような薄暗い廊下を出て、玄関から外に一歩でると、眩しい陽光がなぜか嬉しく、心の底から温めてくれるようだ。

 玄関脇には、誰も手入れをしないのに『スノーフレーク』だろうか、健気に花をつけていた。

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廃墟となった学生寮 駅員3 @kotarobs

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