そういう恋だってありだと思う。
浅野 紅茶
変な人
変な人に出会った。
群馬県の吾妻群にある草津温泉に行った時の出来事だった。大学生になり、親元を離れて上京してきた先で友達と初めて行った旅行先。ある程度の不安感も覚えながら、高揚感に満ちていたように思う。免許とりたての男四人で交代しながら慣れない運転をし続けること五時間程度で神奈川県から温泉街に辿り着いた。昼は食べ歩きをしながら摂氏45度以上の熱い温泉を巡り、夜は旅館で魚介と山の幸をふんだんに使った料理を楽しみながらワイワイと過ごしていた。
その日は朝早くから出発したということもあり、みな疲れてたのだろう、さほど夜更かしもせずに深夜の一時頃にはみな布団の中で眠っていた。しかし、興奮していたためだろうか、運動会前日の小学生のように眠れずにいた私は、明日も予定を控えてることをかんがえながら寝ることに集中していた。けれども、寝ようとすればするほどに眠気はなくなり、仕方ないので昼間に見つけた二十四時間掛け流しの足湯へ向かうことにしたのだ。
初夏とはいえ、夜の外はまだ肌寒く、浴衣と草履で旅館を出たことを少し後悔をしながらも私はぼんぼりで照らされた道を歩いていた。ほんの数分だったと思う。足湯が視界の隅に現れ、寒い体を温めようと私は少し足を速めながら小走りで向かった。
すると女性が一人、そこにはいた。長い髪を片方に束ね、同じく浴衣を着て、細くて白い足をむき出しにしながらお湯に浸けていた。片手には薄紅色の巾着を下げて、もう片方の手には缶のビールを握っていた。私は帰ろうかとも迷ったがとにかく寒かったこともあり、すいませんと小声でいいながら足を湯へと運んだ。足湯は昼間入った温泉に比べればぬるく、とても快適とは言えるものではなかったが体を温めるには十分だった。その間、女性と二人で深夜の一畳くらいの大きさしかない足湯に入るというのはいささか気まずく、しかし、入ったばかりですぐに出るわけにもいかずに私はどうしよかと悩んでいた。
そうして数分悩んだ結果、ついに話しかけてみることにした。
「こんな時間に何をしてらっしゃるんですか?」
私自身、すごく腑抜けた質問ではあったと思う。私なら、そんなアンタこそ何やってるのか、と言ってやりそうだ。しかし、彼女はそんな私をあしらうこともなく静かに口を開いた。
「月を見てるの」
確かにその日は月が綺麗だった。昼間から快晴で、今でも月明かりだけで一体に雲がないことくらいがわかる程度には明るく、黒い夜空に大きく写っていた。
「つき...ですか?」
「そう、月。なんかね、こうしてると月がね逆に見えてくるの。あ、逆さまっていう意味じゃなくてね、物体としてそこにあるのではなくて、黒いところにある黄色い穴に見えてくるの」
それはなんだかわかる気がした。別にあえて捉え方を変えてるわけでもないのに気づくとそこに落ちそうになる自分がいるのだ。
「私、こういう者なんだけど」
そういうと彼女は私に名刺をよこしてきた。
そこには名前とフリーランスのカメラマンという旨が書かれており、名刺を取り出した巾着袋からは確かに一眼レフが覗いていた。
「どんな写真とか撮られてらっしゃるんですか?」
その質問に月から目をそらし、こっちを見てきた。そして、寂しそうに微笑んだように思う。
「それが、わからないの」
酒を飲んでるせいで少し饒舌になっていたのだろうか。彼女は写真のことを語り出した。
「被写体だって悪くないし、使ってるカメラだって結構いいやつなの。でも、私の目に映る姿と写真になって出てくる姿がどうしても一致しないの。今だって、穴になっているような月を私は写したいのに、撮ってしまうとそれは月としての物体になってしまう。腕が悪いことなんて、百も承知なんだけど...ここ数年くらいそれがちょっとスランプでね、この仕事むいてないのかななんて思ったり」
そう言い切ると彼女はビールを煽り、空になったであろう缶をお湯に突っ込んだ。マナーが悪いとは思いながらも、私は水中でその缶から泡が溢れる様を見た。
「どう思う?」
彼女が言う。
「どう思うって、言われても...ただ空気が缶からこぼれてるとしか」
「そうなのよね。私もそう思う。だけど、何かしらの考えや思いっていうのは少なからずあるはずなのよ。でも、きっと敏腕のカメラマンとは違って私にはそれがない。ううん、自分で見つけられないの」
それが悔しい。
そう言って彼女は静かに口を閉じた。
私にはどう声をかけていいかもわからず、ただ彼女の考えていることを頭で巡らせるのが精一杯だった。別に初対面の彼女を哀れんでいたわけではない。彼女のことなんてカメラマンってことくらいしか知らないのだから。
でも、足湯に浸かっているのを見た瞬間から、彼女に不思議な気持ちを抱えていたのは偽りのないものであった。美しい風貌もあいまみてか、その夢に対してもがく姿勢やそれが叶わず苦しむ姿が彼女の話からは想像ができ、私は彼女を暗い中で咲くヒヤシンスのように思ってしまった。
「ねえ」
そんなことを考えていると彼女が再び口を開いた。彼女の方を見ると浴衣がはだけており、白い肌が露わになっていた。正直、大学生だった私としてはそんな彼女にどう接していいかわからず、男らしからずもたじろいだ。
「...私を慰めてほしいの、お願い」
彼女はゆっくりと近づいてきて私の手を取り、息を吐くようにそういった。お酒の匂いが鼻をつくも、彼女の髪からする甘い香りがマタタビが猫を誘うように私をいざなう。柔らかいけど冷たい彼女の唇が私の唇に重なり、体温が奪われるように彼女に心を許していく。
そういう一夜をすごした。
次の日、目を覚ましたのは彼女の泊まっていた旅館の一室。そこに彼女の姿はなく、フロントへ行くと、お連れ様ならつい二時間ほど前に料金をお支払いになり出て行かれましたと言われた。手元に残ったのは彼女の冷たい体温の記憶と名刺だけ。
別に肩を落としたりはしなかった、そういう関係でありたかったわけでもないし、恋人になりたかったわけでもない。けれど、寂しさを内に秘めた彼女を抱いた夜に聞いた悲痛をもう少しだけ彼女の傍らで聞けていたら。もしかしたら、何かが違っていて、私は間違いなく彼女に惹かれていったのだろう。そう思えてならなかった。
その日からは普通に温泉街を観光し、旅行を終えて家へと帰った。けれど、時折おもう、あのヒヤシンスは美しく咲けているのだろうかと。
そういう恋だってありだと思う。 浅野 紅茶 @KantaN
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