土方歳三が終わらせた徳川幕府

手塚エマ

勝てるのに負けた男


 旅行で函館に行く前に申し込んだボランティアガイドとして、待ち合わせ場所の五稜郭ごりょうかくタワーの前に現れたのは、小柄で華奢なお爺さん。

 私が新撰組が好きで来ましたと言うと、旧知の友を迎えたみたいに破顔はがんされました。


 きっと、この人も新撰組が好きなんだ。

 新撰組の話がしたくてガイドをされているんじゃないのかな。心の中でお爺さんと、がっしり握手したような感覚がありました。


 まず、案内された五稜郭タワーのガラス張りのエレベーターからは、星形の五稜郭を一望のもとにすることができます。

 展望室に着くと、壁に五稜郭の歴史を刻んだ写真が展示されている。

 ガイドさんは私を一枚の写真の前に連れて行ってくれました。


「ほら。これは本土から逃れて函館に上陸し、五稜郭を占拠して蝦夷地仮政府えぞちかりせいふを擁立した旧幕府軍幹部の集合写真です。ここには土方歳三はいないでしょう?」

「そうですね」


 確かに仮政府の総裁は、旧幕臣の榎本武揚えのもとたけあき

 ですが、土方も軍事治安部門の責任者だったはず。

 不思議に思って写真に顔を近づけていると、ガイドさんが、


「土方が自分から俺はいいよと言って、最後まで写ろうとしなかったそうです」

 

 と、ガイドしてくれました。


「彼は自分が死ぬのがわかっていたから、何も残そうとしなかったんでしょう」


 お爺さんの呟きに、私の疑問の念が膨らみす。

 死ぬのがわかっているからこそ、むしろ何か残したくなったりしないのか。

 自分が生きた証をどこかに、誰かに刻みたい。それが人の欲なんじゃないのかと。


 それなのに、土方は向けられたカメラのファインダーから出ていった。

 ですが、なぜかそれが気障きざだとも天邪鬼だとも思えない。強いていうのなら、はにかみのような奥ゆかしさ。または彼の美意識のようなもの。



 西洋風の軍服をまとった男達が、威風堂々胸を張る記念写真に土方は写っていないのに、彼の気配を肌で感じる写真でした。


 次に案内されたのは、旧幕府軍最大の戦艦開陽丸せんかんかいようまる江差えさ湾沖で座礁ざしょうして、沈没する様を眺めながら、土方が拳で叩いたとされる松と、その松を叩く土方のジオラマ模型。


 函館港に停泊させていた開陽丸を、日本海側の江差湾へと移動させ、榎本と土方が指揮する旧幕府軍は江差に上陸しました。


 しかし、翌日には天候が急激に悪化し、開陽丸は暴雨に晒され転覆したと、伝えられています。

 この主力戦艦の喪失により戦いの潮目しおめが変わり、新政府軍の勢力が増し、土方らの戦況は悪化の一途を辿ります。その説明の合間にふっと、ガイドさんが言いました。


「あんな岩盤の固い江差湾に、大軍艦で乗り込んだっていかりなんか掛けられない。だから、あっけなく転覆してしまいました。ただ、そんな湾に開陽丸をわざわざ投入し、江差での戦に臨んだのは榎本の愚策だったのか。何か意図があったのかどうかは、わかりません」


 まるで、転覆させたかのような苦々しげな口調です。

 それから数秒黙り込んだガイドさんの横顔から、それまでの温厚な笑顔が消えています。


 でも、次に土方が死守した二股口ふたまたぐちでの戦いの話になると、またすぐに饒舌じょうぜつになりました。

 江差湾から上陸し、江差街道を上って函館に進む新政府軍を土方は、江差と函館の中間地点にあたる二股口で撃退をし続ける。


 旧幕府軍が次々新政府軍に陥落する中、土方が率いた部隊だけは連戦連勝。

 そう言って少年のように頬を紅潮させていらっしゃる。

 ガイドさんは我が事の様に、それが自慢で仕方がない。私も思わず笑みがこぼれてしまいました。


 けれど、やがて二股口と函館間にあった矢不来やふらいの陣地が新政府軍に落とされる。

 退路を断たれた土方は挟み撃ちを恐れ、やむなく五稜郭へ撤退する。

 そうして五稜郭に戻った土方に、函館湾近くの弁天台場を守っていた新撰組が、政府軍の総攻撃を受けているとの報が入りました。


 ガイドさんは展望台の窓の方に私を案内しながら続けます。


 窓際まで来てみると、霞がかった街並みから、遠方には函館港が見渡せる場所でした。函館港のなぎの海が、午睡の日差しに照らされています。

 ガイドさんは眼下の五稜郭から函館港まで繋がる一本の道を指しながら続けます。


 明治二年五月十一日。

 新政府軍に包囲された仲間を救う為、土方は馬に乗り、五稜郭から飛び出して、あの道を駆け抜けたんです。

 あの道です。


 示されたのは両脇に住宅が並び、さほど幅のない一直線の道でした。

 その道の果てには函館湾。

 政府の集中砲火を浴びている仲間がいる弁天台場に続いています。


 私にはその道が、街中で白く輝くように浮き上がって見えました。


 

 土方は武蔵国多摩郡のガキ大将だった頃から、ケンカでは負け知らずだったと言われています。ですが、彼は攻撃されているのが自分ではないのなら、必ずが悪い方に付いている。

 討幕派に追いつめられる幕府側にも寄り添って、盾になって戦った。都落ちする幕臣の、榎本武揚にも追従した。


 彼一人なら勝てるのに。


 それでも土方はいつも勝てると踏んだ方にではなく、助けを求める側に付く。

 白く輝く道を眺めながら、騎士道という三文字が私の脳裏をよぎりました。


 弁天台場に向かった土方は、その道の半ばで狙撃を受けて絶命しました。

 土方の死により、旧幕府軍の指揮はなし崩しに崩壊し、明治二年五月十八日。土方歳三の戦死から僅か七日後、新撰組も旧幕府軍も新政府軍に降伏し、戊辰戦争ぼしんせんそうは終結しました。


 だから、土方歳三の戦死こそ徳川幕府の本当の終焉しゅうえんだったんだなと、思いました。

 京都の二条城で行われた大政奉還などでなく、江戸城無血開城でもなくて、この一人の男の生と死が、ひとつの時代を終わらせた。


 また、その時のガイドさんは、こんな話もされました。


 戊辰戦争の終決後も、新政府に逆らった旧幕府軍の戦死者の遺体は埋葬することも許されず、放置されたままだった。

 それでも函館随一の任侠にんきょう一家の親分が、新政府の意向に逆らって、旧幕府軍の戦死者達を弔ったそうです。

 同じ仏を差別してはならないと。


 どんな時代にも真のおとこがいる事を、現地に赴いて初めて知った旅でした。


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土方歳三が終わらせた徳川幕府 手塚エマ @ravissante

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