第19回 欠席・皆勤賞
ユズ(以下、ユ):今回のテーマは「欠席・皆勤賞(かいきんしょう)」です。皆勤賞とは、欠席や遅刻を一度もしなかった人に与えられる賞です(ある学校も無い学校もあります)。
レモン(以下、レ):私は中学校は皆勤賞だった。
ミカン(以下、ミ):すごーい。3年間、1回も休んでないってことだよね?
レ:いや、インフルエンザで休んだことはあるんだけど。それに、賞状はあったけど、他に何が残ったわけでもない。なんか、なるべく休みたくないというか、休むのが怖かった。
ミ:怖い・・・そうかあ。皆勤賞って「勉強もコツコツ頑張って、健康で」ってイメージだったけど、無理して来ないといけないかもしれないもんね。
ユ:来ることに意味はありますが、来るべきではない時もあります。欠席は悪いことではありません。欠席や皆勤賞について、考えていきましょう。
1.欠席に対する恐怖(置き去りの恐怖、わからない恐怖)
ユ:レモンさんは欠席を怖いといいましたが、なぜでしょうか。
レ:まず、授業で何をしているのかがわからなくなる。
ミ:でも、レモンなら教科書見れば、全然ついて行けなくなることは無さそうだけど。
レ:内容が遅れるのもあるんだけど、それより、活動やら宿題やら持ち物やら、授業の「流れ」がわからず1人置き去りになることが怖い。勝手にグループとかが組まれていると、意味がわからなくなりそうで。
ユ:授業だけでなく、学活や特別活動もそうでしょうか。
レ:教科書とかノートがない分、そっちの方が大きいかもしれない。
ミ:休むことはあることだから、先生やクラスの人の理解があれば、不安はそこまでないのかもしれないね。ついていけなかったら怒られる雰囲気があると、確かに怖いかも。
ユ:1週間も休むと変わりすぎて何が起こっているかわからない「浦島太郎状態」になりそうですね。
レ:周りに聞けて、教えてくれたらいいんだけど、うまく聞けたら苦労してない。
ユ:「授業内容は自習で補える」と明示すること、「クラスについて行けなくなる時はフォローする」行動を取ること、先生にはぜひこうした姿勢であってほしいですね。
レ:あと、根本的な意識として「わからないことは恥」っていう感覚はあったと思う。授業内容だけじゃなくて、クラス当番の仕事だって同じ。
ミ:休んだのは本人のせいじゃないかもしれないのに、というか休んでなくても、授業も当番も「わからなくなることなんて当然ある」と思う。1回聞いてずっと忘れないことの方が少ない。
レ:というか、テストは80点でよくできましたなのに、当番とかは100%できて人間として当たり前みたいな感じを受ける。私にとっては、勉強より何倍も難しいのだけど。
ミ:そういう人は多いと思う。
ユ:勉強でも生活でも「わからなくなることなんて当然ある」「わからなくなることが許される」、そういう意識が広がるべきでしょうね。
2.欠席は悪ではない
ユ:まず、風邪など体調が悪い時は、無理に出るべきではありません。
ミ:身体が最優先だよね。
レ:それに、ウイルスなど他の人にうつることも考えないといけない。
ユ:本人が動けても、感染の危険性が高いとされる期間が設定されているインフルエンザなどは、来てはいけない期間に従う必要があります。
ユ:では、風邪や感染症ではないけど、様々な不安で「行きたくない」はどうでしょう。ずばり、それでも休んでよいです。
ミ:身体は大丈夫でも、心は、ってこと?
ユ:まあそうなんですけど、あえて心の病気という言い方はしません。心の変動は誰しもあるものです。何をもって心の病気と線引きするかは難しいにしても、心の病気じゃなくたって休んでいいんです。
レ:まあ、「心の病気でも休んでいい」という言葉をわざわざ使う裏には「病気じゃないと休んではいけない」って意識があるもんな。根本的に「休みは悪いこと、病気なら”仕方ない”」意識が残ってしまっている。
ユ:一応、私は学校が必要ない機関とは思っていません。(最後に補足します。)日中、街に全ての子どもが放浪している社会がいいとは思いません。全ての子どもに「安全な居場所」で「学習ができる場所」は提供されるべきでしょう。(学習は教科だけでなく、様々な物事を学ぶことを含みます)
レ:受け入れる場所は必ず確保しつつ、行かない選択もありだと。
ユ:はい。子どもが行かないという選択をする、それは生存戦略としての自身の判断です。例えば、学校が「安全な居場所」でなくなっている。また、学校より有効に「学習ができる場所」がある。明確に言葉にできるかは別にして、そうした判断があっての選択です。
ミ:危険な場所に、「来い!」と強制しても、「おいでよ!」って励ましても、それは「傷つきに来なさい」って言っているのと変わらない。
レ:「安全な居場所」で「学習ができる場所」なら、学校でも自宅でも塾でもフリースクールでもなんでもいいわけだな。
ユ:学校は色々なスタイルを認めるべきでしょうね。例えば、家では学習しづらいが、教室は安全ではない。その時、学校に行っても教室にはいかない選択肢が最善かもしれないわけです。
レ:いつも保健室にいる人いたな。
ミ:保健室、図書室、相談室、職員室、校長室などなど、それぞれ環境も違うだろうし、いろんな選択肢があるといいね。
ユ:中傷から身を守るのは当然の選択。そうでなくても「なんか行きたくない、休むか」で休んでも、それもいいのではないでしょうか。
ミ:「なんか」って、多分、本人もよくわかってないけど大事な感情があると思う。だから、学校や教室に行かせることより、その「なにか」を話す、一緒に考える方が大切じゃないかな。
レ:誰にも言えないと、なんとなく休んだで終わる。でも、言える機会があれば、その後学校に行くにしても行かないにしても、気持ちや過ごし方って全然変わってくると思う。
ユ:目標は「学校へ行く」「教室に入る」じゃない、これは大事な視点です。
レ:最低目標みたいに扱われて、それすらできていない人は他の何も評価されない、とすら感じる。
ユ:目標は「安全に」いろいろな事を「学習する」ことです。学校へ行く、教室へ行くはその手段にすぎません。
ミ:どーでもいいんだね。
ユ:言ってしまえばそうです。どうすれば安全な環境で学べるか、子どもを支援する側はそれを考えればいいのです。
3.皆勤賞について
ユ:「賞」や「表彰」の影響の大きさは前に扱いましたね。(第7回参照)
ミ:皆勤賞のためにって、無理をして身体を壊したり他人にインフルを移す危険もある。そうでなくても、皆勤賞の存在自体が全部来ることが素晴らしいんだと、暗に欠席を否定している。こんなところかな。
レ:体調管理の成果として休まなかった、これ自体は称賛されてもいいが、賞という形にすると「欠席0という結果」だけに着眼してしまいがちになる。
適切に休むことも体調管理の重要なことだ。無理して出席しても、それはむしろ体調管理できていないことになる。
ミ:このくらい頑張って行かなきゃ、その積み重ねで少しずつ身体が壊れていって、気づいたら取り返しのつかないことになることもあるからね。
ユ:皆勤賞(100% attendance award) を「”運”が表彰されるべきではない」等として拒否したイギリスの事例は少し話題になりました。こうした事例はいろんな社会であるということですね。
レ:それに対する批判の中に、「この賞がなくなるとうちの子は学校で褒められることがなくなってしまう」という声があったようだが、子どもが「学校に生き続けることだけが誇り」の状態はまずいだろう。休んだ瞬間に、もう何もないんだって思って崩壊する。
4.おわりに
ミ:休むことも、わからなくなることもそうだけど、何かを欠かしても、全然フォローできるよ、欠けることなんて当然だよっていう考えが広まるといいね。
レ:あと、「休みたい」「行きたくない」って言える、「なぜ休んでいるか」言えるって話ができることは大事だな。
ユ:学校に行くこと、学校に行かせることが目的ではありません。目的は「学ぶ」こと。これを忘れてはいけません。また、休むことを学ぶ機会もまた必要なことのように思います。
ユ:それでは、ここまでご覧いただきありがとうございました。
レ:補足があります。長めではありますが、よろしければ続けてご覧ください。
ミ:またね!
補足 学校に行くのが基本?
レ:全ての子どもに「安全な居場所」で「学習ができる場所」が必要なのは、同意できる。ならば、やはり学校に行くことが通常の状態って言わないとダメなのか?
ユ:答えるなら「特殊で何が悪い!」ってとこですかね。それでもなお基本ではあるかな、と思います。
ミ:基本じゃないとダメなの?
ユ:いい指摘ですね。基本であるべきと私が考える理由は、子どもには「教育を受ける権利」、親には「教育を受けさせる義務」があること、これが深く関わっています。
ミ:子どもには受ける権利、親には受けさせる義務。
ユ:親が義務を果たし、子どもの権利を守ることが重要です。ですが、子どもの権利が奪う親が少なくないことは事実です。例えば、子どもが学校に来ない、親に行くと「子どもが行きたくないと言っている」という。
レ:うそはついてないのか?
ユ:子どもに聞くと、本当のようです。しかし、よく聞くと、子どもが行きたくない主要因は寝不足など生活リズムの乱れで、朝起きられないことでした。原因は、親が夜遅くまで子どもを外に連れ出して遊んでいること。
ミ:ひどい。
ユ:これ、行かないのは子どもの選択でしょうか?
レ:主体性もクソもない。
ミ:子どもには選択肢がないじゃん。
ユ:そう。あくまで「行く」「行かない」の選択肢があって、子どもが「行かない」選択ができる。
ユ:また、古くから、子どもは労働力として親に働かされてきました。全員に教育を保障する機関として学校に行かせることは、子どもの労働からの解放の意味も持つわけです。
レ:子どもはこき使われる存在になってしまう。
ミ:無理矢理働かせるのはダメってわかるけど、子どもが親を助けたいって自ら選択することはダメなの?
ユ:子どもの「安全な居場所」「学習ができる場所」の確保が最優先です。危険な環境は選ばせない。それに、子どもが危険な環境を選ぼうとするのは親の支配の結果であることが往々にしてあります。虐待の事例でも、自らが悪い親は悪くないと主張する子ども、施設で保護しても虐待する親元へ帰ろうとする子どもも少なくないそうです。
レ:何が間違っているかはケースごとに難しいが、親は子どもを価値観ごと支配し従順にする危険性は常にある、とはいえるだろうな。
(ユ:もちろん、近代国家が学校を整備したのは近代産業の担い手を確保する面が強いわけですが…。
レ:子どもを労働から解放したというより、人材を家庭という個人の所有から社会の所有にして、有益人材に育てた後、職業選択という形で新しい産業にもバランスよく再分配、ってところか。
ミ:まあでも、子どもを将来の労働力としか考えてないとは言えないと思う。働くだけなら必要ないことも学校では沢山教えているから。
ユ:学校も教育も、いろんな人の理念や思惑が混ざってできていますからね。
レ:ことはそう単純じゃないってことだな。)
ユ:話が膨らんできたのでまとめます。
ミ:学校に行くのが基本なの?って話だよね。
ユ:まず大前提が、全ての子どもに「安全な居場所」で「学習ができる場所」が必要。歴史的に、働かされる存在だった子どもを学校に行かせるルールを決めたことで、(労働されられた頃よりは)安全や学習を確保できるようになった。今の社会でも、このルールは有効だと考えられる(もちろん、現在も未来も、もっといいルールがある可能性はある)。だから、子どもは学校に行くのが基本とされている。
しかし、「安全な居場所」「学習ができる場所」になっていない学校なら、行く意味はない。また、学校の他に「安全な居場所」「学習ができる場所」なら、自宅でもフリースクールでも、その場所でよい。
ユ:こんなところでしょうか。あくまで、1つの回答例であって解ではないですが。
レ:学校は行くものだ、理由は知らない、と思考停止せず意味を考えることは、面倒だが必要なことだと思う。
ミ:大人側も、子ども側も、だね。
ユ:これは制度的な全体の話ですが、個人によっての行く意味/行かない意味もまた大切でしょう。全体的(マクロ)と個別的(ミクロ)、どっちの視点も大切です。
学校の意味不明 がくまるい @gakumaru
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