ミステリアス・エディター

じーえむ(柄木戸源也)

ミステリアス・エディター

『全然社』にはあまり行ったことがない。

 作家が自分の本を出してもらっている出版社に行ったことがない、というのは珍しいことなのだろうか。とにかく、僕は殆ど全然社のビルを訪れたことがなかった。前に訪れたのは、担当の編集者さんの紹介の時だ。賞を獲って作家になれると舞い上がっていた僕の前に現れたのは、背丈とは裏腹にぶっ飛んだ人間性を持つミニマムな女性だった。『あの人』は普通の人とは感性というか頭の中身が違うように思える。僕を雁字搦めにする厳しさと、何かにつけ茶化してくるところが同居しているのが、どう考えても一人の人間として矛盾しているようにしか思えなかった。

 と、エアコンの音だけが響く誰もいない部屋で、机に置いたバッグとペットボトルのお茶を見つめながらそんなことを考える。待っていてくれと言われて編集部の人に通された部屋だけど、かれこれ十五分はここにいる。早く帰りたいのもあるけれど、何の話があるのかもわからずに不安だった。

――先生、明日は弊社までご足労願えますか。

 あの人は電話でそれだけしか言わなかった。大物作家でもない僕は、担当さんに刃向かうことなどできやしない。正直、外に出るのは億劫だったけど、呻きがちの返事を寄越して答えた。出来る限り家からは出たくない。作家というのは苔の生えるような日陰でしずしずと筆を進める、そうあるべきではなかろうか。

 長い待ち時間の中、鞄からメガネケースを出してメガネを拭き始めたところでドアをノックする音が聞こえた。僕は慌てて返事をしてメガネをかける。

 入ってきたのは、僕の担当編集者のあの人だった。

「すみません先生。お待たせしました」

「あっ、いえ……」

 続きの言葉が出てこない。会うのは一ヶ月ぶりだ。それも、前回は僕の家に泊まるという衝撃イベントで。それは、自分の編集さんにひとかたならぬ感情が沸いた出来事でもあった。

 かすれ声で、僕は尋ねたかったことをそのまま話す。

「あの……今日はどういった御用で?」

「大したことではありません。……ああ、そうでした。コーヒーをお持ちしますね。もうしばらくお待ち下さい」

 そう言うと、あの人はまた出ていってしまった。

――内海さん、今日は普通みたいだな。

 入ってくるときに馬の覆面をしていたりだとか、そんなジョークを予想していた。だけど、いつものイメージと変わらなかった。上下黒のパンツスーツに、宝石のように艶めく黒髪のおかっぱヘア。高校生でも余裕で通る童顔ぶりは、相変わらず一見しても二目見ても出版社勤務の社会人には見えなかった。ミニマムでルックスも可愛らしいのに、しきりにジョークを言いたがる年下の変人編集者。それが内海冴子なのだ。

 数分経ってドアが再びノックされた。返事をするが、ドアが開かない。恐る恐る立ち上がり、ドアに寄って開けてみると内海さんがいた。

 しかし、その手にはお盆が持たれていて、そのお盆には淵ぎりぎりまで並々とコーヒーが入ったカップが二つ乗っていた。少し揺らせば溢れそうなコーヒーとは裏腹に、内海さんは気味の悪いほどに無表情のまま一点を見つめていた。

「う、内海さん!」

「早く……早くどいて下さい」

「は、はい!」

 通るスペースを空けると、内海さんは開発黎明期の歩行ロボットのような動きで一歩一歩歩き出した。こんな時に限ってヒールの高いパンプスを履いているものだから、危なっかしいったらありゃしない。 

 結局、三メートルほどの距離を一分近くかけて歩き、内海さんは机へと到着した。お盆を置き終わって一息ついたのか、内海さんはこちらを向き直った。

「……どうしました先生? 大丈夫ですか?」

「こっちの台詞ですよ! どうしてこんなギリギリまで注いでくるんですか……」

「それは……先生に少しでも喜んでもらいたくて」

「……えっ?」

「というのは、ジョークです」

「ひどい」

 ため息をつく僕をよそに、内海さんはコーヒーミルクとスティックシュガーを指した。

「お砂糖とミルクは入れますか?」

「……ええ、まあ、どちらもお願いします」

「はい」

 やっぱりこの人変だ。大体、なぜ一杯一杯注いできたのかという返事がジョークって何なんだ。予想がつかなさすぎて末恐ろしい。

「お一つずつでよろしいですか?」

「はい。……ああ、というか自分で入れますよ」

 徐ろに砂糖とミルクの封を開け始めた内海さんに、僕はそう声をかけた。

 しかし、内海さんは流れるような動きで両者を投入。さながら泡立て器の如くティースプーンでコーヒーを混ぜ始めた。部屋には陶器のカップとスプーンが当たる耳障りな金属音が響き、お盆にはカップから跳ねたコーヒーが縦横無尽に飛び散っていた。

「ちょ、ちょっと内海さん!!」

「大丈夫です。問題ありません」

「あります! ちょっと! 一旦止めましょう!」

 僕は思わず、内海さんの肩に手を置いた。その瞬間、驚いたのか内海さんはビクッと体を震わせてから手を止めた。

「……すみません先生」

「だ、大丈夫です。十分混ざってますし、このままいただきます」

 さっきまでは真っ白だったはずのカップを手に取ろうとすると、内海さんの声が飛んだ。

「先生、それはいけません。こちらの、手つかずの方をお取りください。こちらは私が処理します」

 そう言うと、内海さんはブラックのままのコーヒーを僕にくれた。断って押し問答になるのも面倒だし、素直に受け取ることにした。ようやく、お互いに座って一息つけた。内海さんは甘々なコーヒーにも、意外にも甘党なのかどこか満足げな顔だった。

「申し訳ありません。私としたことが、コーヒーをやたらめったらにかき混ぜるジョークは終着点を見失っていました」

「……はあ」

 そんなことを気にするのか。何だ終着点って。こっちは始発から気になりまくってるのに。そんな僕の思いをよそに、内海さんは最初に持ってきていたタブレットの画面を僕に見せた。

「お待たせしました。本日ご足労頂いたのはこの話のためです」

「……遊園地、ですか?」

 タブレットの画面には、観覧車にメリーゴーランド、コーヒーカップにジェットコースターといった典型的な遊園地の乗り物類の写真が出ていた。

「はい。この度、弊社で本を出している作家の皆さんにそれぞれ一作ずつ作品を書いて頂き、それをまとめてネット上の特設サイトで公開しようというオムニバス企画を編集部で考えています」

「はあ。それで、どうして遊園地なんです?」

 尋ねる僕に、内海さんはタブレットを消しながら答える。

「今回の作品の共通テーマを『遊園地』にしようと考えていまして」

「なるほど」

「先生は遊園地に行ったことはありますか?」

「それは勿論ありますよ」

「えっ、まさか……あるんですか?」

「ありますよ! どうしてないと思ったんですか」

「ジョークです。それで、この企画の参加についてはいかがしましょうか」

 手元に黒革の手帳を出しながら、内海さんは僕を見る。黒髪と色白の肌によく合う、少し猫目気味の瞳が真っ直ぐに僕を捉えていた。

「あの、はい。参加します」

 断る理由もないし、断われないだろうし。それよりも、原稿料はちゃんとくれるのだろうか。

「そうですか。それはよかった。では、一つご提案があります」

 内海さんは手帳に何やらさらさらと書き込むと、顔を上げながら言った。提案。何だろうか。常識的なものであることを切に望む。

 ところが、飛び出したのは提案ではなかった。

「前々から思っていましたが、先生の小説には個性が足りません。とりあえずラノベチックに自分語りをしていればいいと思っている部分が見え見えです。正直言って、書店の棚に溢れている下らない有象無象と何も変わりません。毎度毎度読まされる方の身にもなってください。時間の無駄です。紙の無駄です。テキストデータの無駄です。読んでも感想が出てこない小説なんて、書かない方がよっぽどマシです。どうしてそんなに無味乾燥な文章が書けるんですか? 私には理解できません。つまらない作家ですみませんでした、と床に頭を擦り付けて土下座した後、今すぐここで腹を切って死んで下さい」

 しばし、小部屋に沈黙が流れる。脳が言葉を噛み砕いて飲み込む前に、堰を切って涙のようなものが溢れてきた。ような、というのは実感がなかったからだ。叱られて泣くという経験は、子供の頃でさえあまりなかったものだ。頬を伝うモノが涙であるのなら、僕は目の前にいる年下の担当編集さんに、突然ボロクソに言われて泣いてしまっていることになる。かっこ悪い。それがまた泣けてくる。

「先生、すみません」

 内海さんは淡々とした調子で言葉を継ぐ。いつものように、これはジョークだと言ってほしい。二十代も半ばを過ぎた男が目を潤ませているのだ。しかも、三つ下の女性に蔑まれて泣いたなんて人には言えない。

「……それでも、先生を編集として支えるのが私の仕事です」

 ジョークじゃないのか。ますます落ち込むし、気が滅入る。提案があると言っておきながら、このままでは言葉で嬲り殺されてしまう。早く本題に入ってくれ。

「そこで、です」

「……はい」

 殆ど息だけの声で僕は答える。内海さんは黒目の大きな瞳で僕を見据えた。


「先生、私と取材に行きましょう」


*


 取材当日。天気は快晴。絶好の遊園地日和、と言いたかった。

 寒い。

 お日様は出ているのにとにかく風が冷たい。それなりに暖かい格好をしてきたつもりだけど、予想以上に寒い。たまらず、自販機でホットコーヒーを買ってちびちびと飲んだ。

 約束までは後十分あった。あの人のことだろう、遅刻はしないはずだ。そう思っていた。

 しかし、三分、五分と時間は経つが待ち人は来たらず。そうこうしているうちについに約束の時間がやって来た。

 まさかと思いながらも連絡しようとポケットのスマホを取り出したところで、目の前でコツッという音がした。

 顔を上げると、内海さんがいた。でも、いつもの内海さんとはまるで違っていた。

 童顔を活かした薄めのメイクはそのままに、トレードマークとも言える黒のスーツのモノクロな格好は、すっかり彩を変えていた。濃い緑のダッフルコートにエンジ色のニット、チェックのスカートから黒のタイツを通って茶色のショートブーツまで。上から下までいつもの内海さんではなかった。無表情とは裏腹に、両手は何故かピースサインをしていた。

「ごめんなさい。待ちましたか?」

 いつもと変わらぬ、キーボードで入力したような淡々としたトーンで内海さんは尋ねてくる。その問いがわからなくなるくらいに、目の前の担当編集者の私服に思わず目眩がした。うわ言のようにどうにか答える。

「い、いえ。待ってませんよ。大丈夫です」

 お約束の返答だ。自分の作品でも使ったことのある、手垢だらけのシチュエーション。それを自分がやることになるとは思わなかったけど。

 しかし、そんな決まり文句を打ち破る言葉が返ってきた。

「嘘ですね」と内海さんは言う。

「えっ?」と僕は返す。

「見てました」と内海さん。

「はい?」と僕。

 内海さんは無表情のまま、明後日の方向を指差した。その指す先を見ると『ムーンバックス』の看板があった。

「二階で『ムーンバックス・ラテ』を飲みながら見ていました」

「え、えっ? 僕が待っているのをですか?」

 内海さんは右腕にはめた革の腕時計を僕に見せる。

「はい。正確に申しますと、先生が来る三十二分前からあそこに居ました。私は、最初から時間ジャストに下に降りるつもりでしたから」

「そんなぁ……」

「修行が足りませんね」

「言ってる意味がわかりません……」

 困惑する僕をよそに、内海さんはショルダーバッグからチケットのようなものを出して僕に渡す。

「それは、目的地のチケットです。今のうちにお渡ししておきます」

「はあ」

 間抜けな返事をしつつチケットを見ると、それには『東京ヒズミーリゾート』と書いてあった。誰もが知っている、超有名なテーマパークだ。ここから行けなくもないが、ワンデイパスポートのこのチケットはかなり高額なはずだ。

「こ、これ……ヒズミーランドのチケットですよね?」

「ご覧のとおりです」

「あの……お金は?」

「お気になさらず。編集部より取材経費が出てますので」

 それだけ言うと、内海さんはツカツカと歩きだした。

「え? え?」

 戸惑う僕に、内海さんは振り向いて声をかける。

「先生、早く行きましょう」

 そう言って僕が来るのを待って、二人で並んで歩き出した。感情のなかった内海さんの横顔がほんの少し嬉しそうに見えたのは気のせいだろうか。



「うわぁ……入場ゲートからして、やっぱり凄いな。久しぶりに来ましたよ」

「先生は来られたことが?」

「ええ。高校の時に修学旅行で」

「なるほど。そういえば、先生はご出身が福岡でしたね」

「はい。ところで、内海さんはどちらのご出身なんですか?」

「私は……その……」

 内海さんは口ごもる。何だろう。何かまずいことでも聞いただろうか。

「……まあいいや。普通に東京です」

「はい?」

「いいボケが思いつきませんでした。あっ、そうだ。東京じゃありません。私、その……自分の生まれがわからなくて……祖父がジャマイカ人なのはわかるんですが」

「今更ボケても遅いですよ……」

 そう答えながらも、僕は別のことを考えていた。

 年下の女性(女の子と言ってもいい)と並んで歩いて、テーマパークに来ている。

 これは、デートというものではなかろうか。

 この前、内海さんが泊まりに来た時にも同じような感覚を抱いたことがある。前回だって今回だって、内海さんから話を持ちかけられた。その結果、うら若き乙女がが僕の部屋に泊まることになったのだし、今まさに僕の隣を歩いているのだ。もしかして内海さんは――。

 そう思いながら内海さんを見ると、熱心にタブレットに何か打ち込んでるようだった。じっと見る僕に気づいてか、内海さんはジト目で僕をにらむ。

「取材なんですから、せめてメモとかを取られてはいかがですか?」

 その声に押され、慌てて僕はバッグを漁る。しかし、普段は筆記用具なんて持ち歩かない。バッグの中を懸命に探す僕に、内海さんは静かなトーンで言葉をかけた。

「……失礼致しました。先生なりの取材のやり方がありますよね。出過ぎたことを申しました。無理に取る必要はありません」

「えっ? あっ、はい。そうです。普段はメモとかは取らないもので……はは……」

 半分は本当だ。僕は生まれてこの方、小説を書くために取材なんてしたことがない。

「そうですよね。それに、せっかくのヒズミーです。メモなんて取るのも無粋ですね。私も……少し仕事は忘れます」

 そう言うと、内海さんはタブレットをバッグにしまった。だいぶ熱心に記録していたのに、いいのだろうか。

「いいんですか?」

 僕の言葉に、内海さんは少し黙って、それから突拍子もない返事をした。

「糖分が欲しいですね」

「へっ?」

「そんな気分なんです。取材半分、楽しみたい気分が半分と言いますか」

「はあ……。まあ、何か飲みながら回りますか?」

 僕が尋ねると、内海さんはこくりと頷いた。手近にあったコーヒースタンドに寄って、僕はカフェモカ、内海さんはキャラメルラテをオーダーした。

「お二つ合わせまして、お会計が千二百円でございます」

 店員のお姉さんに言われ財布を出そうとすると、右手に柔らかい感触が走った。心臓が跳ねるように高鳴った。

 隣を見ると、内海さんの白い手が僕の手を抑えていた。

「先生、ここは私が」

「い、いえ。チケットまで出してもらってそんなことは……」

「問題ありません。……経費が出てますから。はい、千二百円ちょうどです」

 僕の意見を封じたまま、内海さんは懐から唐草模様のがま口を取り出して、お札と小銭を出して会計してしまった。経費専用ということなのか、がま口にはご丁寧にも丸印に『経』の文字の入ったアップリケが縫い付けられていた。凄いセンスだ。

 引き換えに出てきたドリンクを僕に渡して、早速内海さんはズズズとラテを飲み始めた。

「先生には貴重な時間を頂いていますので、飲み物の代金くらいこちらで出して当然です。さあ、行きましょう。何だか向こうの方で凄い音がしているみたいですよ」

 内海さんはそれだけ言うと、喧しい音の群れに引き寄せられるように歩き出した。僕もそれに続いて歩く。こういうとき、男性はリードするべきなんだろうけど、内海さんにペースを握られすぎて隣に並ぶだけでも精一杯だった。何とも情けない話だ。

 しかし、こうも気を遣ってもらってるならば、良い作品を書き上げることが何よりのお礼になるのではないだろうか。そうすれば、内海さんも間違いなく喜んでくれるはずだ。

 そんなことを考えていると、ふとした瞬間に背筋に冷たい感覚が走った。


――内海さんは?


 隣に、内海さんの姿はなかった。慌てて周りを見渡すも、見当たらない。考え事をしている間に、はぐれてしまったのかもしれない。

 そうだ、携帯。

 そう思ってポケットに手を突っ込んだところで、斜め後ろからあの人の声が聞こえた。

「何を慌ててるんですか?」

 驚いて振り向くと、首を傾げて僕の目を覗き込むように見ている内海さんが立っていた。

「いや……その……急に内海さんが居なくなった気がしまして……」

「……? 私は近くにいましたが」

「そ、そうですか」

「でも、こんなに人が多いと危ないですね」

 いつもよりも棒読みに聞こえる単調な口調で内海さんは話す。

 そして。

「……こうしておきましょう。恥ずかしいかもしれませんが、我慢して下さい」

 内海さんは僕の手を握ると、引っ張るように歩き出した。少し冷たい、柔らかい感触が掌いっぱいに伝わる。状況が呑み込めないまま、僕はぐいぐいと手を引かれた。

 女の子と手を繋ぐなんて、何年ぶりだろうか。体育祭のフォークダンスを計算に入れていいのなら、十年ほど前に遡るはずだ。ともかく、柔い女性の手の感触のせいで色んな感情や状況が頭の中で渋滞して上手く歩けなかった。

「……先生? 大丈夫ですか?」

「は、はい。大丈夫です!」

「大丈夫なんですか。それは残念です」

「えっ?」

「ジョークです。それにしても、広いですね。さすがはヒズミーです」

 適当に話をはぐらかす内海さんに、それ以上は言わなかった。内海さんの手は僕の手を痛いくらいに強く握っていた。

――もしかして、内海さんもこんな状況に緊張してたりするのかな。

 そんな野暮な考えを頭の中で消しながら、僕は内海さんの話に付き合った。不思議と、いや、当然と言うべきか。今日はいつもよりも会話が弾んだ。


***


 だだっ広いパーク内を色々と回ったり、アトラクションに乗ったりするとさすがに疲れた。腹時計も三回目のスヌーズを鳴らしていた。

「そろそろお昼ですね」

「そうですね……。内海さんは何か、食べたいものはありますか?」

「いえ、私は特に。先生におまかせします」

「そうですか? では……」

 さっき、歩いているときに見つけたダイナースタイルのレストランに行くことにした。幸い、窓際の見晴らしの良い席に座ることができた。

「いらっしゃいませ」

 座るやいなや、これぞアメリカンダイナーと言わんばかりの格好をしたウェイトレスがオーダーを取りに来た。

「先生、お先にどうぞ。弊社からもよしなに、と言われていますのでお気遣いなく」

 内海さんは件のがま口を見せながらそう話す。そうは言われても、なかなか気が引ける。

「あ……僕はもう少し考えたいので、お決まりなら内海さんからどうぞ」

「そうですか。では……」

 小柄な人だ。多分、コーヒーとサンドイッチセットくらいだろうと思っていたが、予想は見事に裏切られた。

「私は……アメリカンクラブサンドとフレンチフライ、それにバッファローウイングとチキンポットパイにミックスピザを。後は、食後にコーヒーとチョコレートケーキ、パンケーキをお願いします」

「かしこまりました」

 かしこまるのか。ウェイトレスは顔色一つ変えずにオーダーを取った。女性一人どころか男でも多いくらいの量だ。本気で食べるのか。どこにそんな胃袋があるのだろう。

「先生、お決まりですか?」

「えっ? ああ、はい。えっと……ハンバーガーのセットで……」

「かしこまりました」

 注文を確認したウェイトレスさんが去っていくと、内海さんはメニューを脇へ片付けながら口を開いた。

「先生は少食なんですね」

「えっと……内海さんが凄いだけじゃ……」

「そうでしょうか。私、見ての通り大飯食らいでして」

「全くもって意外なんですが……」

 僕のぼやきをスルーして、内海さんはバッグに手を突っ込んだ。そして、あるモノを取り出した。

「先生、すみません。失礼してもよろしいですか?」

 バッグから出てきたのは煙草の箱とライターだった。ここは禁煙席ですよ、という言葉よりも先に、内海さんって煙草を吸うのか、という驚きの方が先に来た。テーブルの上で自己主張しているマルボロライトの箱の金色が、どこか妖しく光ってるように見えた。

「あっと……こ、ここは禁煙席ですが……」と僕は申し出る。

「関係ありません」

 そう言って、内海さんは煙草の箱を手に取った。参ったな。そんなヤンキーなスタンスだったのか。僕が「さすがにまずいですから」と口を開く前に中身を取り出した。


 中から出てきたのは錠剤だった。


「……何ですかこれ」

 間の抜けた口調で訊く僕に、内海さんはいつも通りのテンションで答える。

「歯磨きの代わりです。いつもは毎食後に歯磨きをしているんですが、今日はさすがにどうかと。これを食前に飲んでおけば、胃から上がるニオイを防げるんです」

「は、はあ……。でもどうして煙草の箱に?」

「ジョークです。私は煙草は吸いませんが、弊社の社長から箱だけ貰いました」

「社長さんから、ですか」

 全然社の社長。未だに会ったことはないが、内海さんの実務能力なら、社長にも目をかけてもらえてるんだろうか。

「はい。社長の全然は愛煙家でして。私たち社員が禁煙を勧めてものらりくらりとかわされる一方なんです」

「ぜんぜん?」

 社長さんの名前にひっかかった僕に、内海さんは手元の錠剤を一粒ひょい、と口に入れてから返事をする。

「はい、ダメなんです。社長も年齢を考えれば禁煙すべきなのですが」

「い、いえ、そうではなく。社長さんは全然さんという方なんですか? 変わったお名前ですね」

「いえ、違います。弊社社長の名前は澤村鉄太郎です」

 内海さんはタブレットを取り出してこちらに見せてきた。画面には全然社のホームページが出ていた。確かに代表取締役社長の名前はそうなっている。確かに、澤村鉄太郎とある。

「えっ? さっき『社長の全然は』と言われて……」

「ああ、あれはジョークです。何か問題でもありますか? 出るところに出ますか? 次会うときは法廷ですね」

「どうして怒ってるんですか……」

 またボヤいたところで、ウェイトレスさんがやって来た。大量注文だからか、お盆ではなくカートを押して運んできていた。

 テーブルの上はあっという間にパーティー会場のようになった。僕のハンバーガーのセットを除けば、全て内海さんの注文だ。内海さんは手を合わせて「いただきます」と小さく呟くと、手近にあったクラブサンドにかぶりついた。その食べるスピードたるやフードファイターのように圧倒的で、僕がハンバーガーとポテトを食べ終えた時点で、内海さんは追加のデザートをオーダーせんとしていた。会話しようと合間合間に内海さんに話を振ってみたのだが、両頬を食べ物で膨らませてもごもごとした返事が帰ってくるので諦めた。

 ものの十五分程度で、テーブルの上はお互いに頼んだコーヒーだけになった。そこまで来て、ようやく内海さんはまともに口を開いた。

「勘違いしないで下さい。今のはランチその一ですから。その二は一時間後です」

「えぇ……」

 嘘か真かわからない発言に戸惑う僕に、内海さんはコーヒーを一口飲んで話を続ける。

「ところで、今日は社長から指令を受けてきました」

「し、指令?」と僕は答える。

「ええ、指令です。取材をするのならついでに、と言われまして」

「はぁ」

 間抜けな声を漏らす僕をよそに、内海さんはバッグから手帳を取り出した。

「語って下さい」

「はい?」

「生い立ちでも鉄板トークでも恋愛論でも、先生の話が聞きたいんです」

 どきん、とした。

「えっと……それはどういう……?」と僕は顔一杯に疑問符を貼り付けたような表情を作った。

「社長から、『編集なら作家さんのあらゆることを理解すべきだ』と言われまして。何でもいいから先生のお話を聞いてきなさい、と宿題を出されたのです」

「なるほど」

「すみません、うちの社長が偉そうに」

「いや、実際偉いからそこはいいでしょう……」

 ツッコむ僕をよそに、内海さんは手帳にさらさらと何か書いたあと、いくつか質問をしてきた。好きな食べ物や好きな映画。学生の頃の思い出や行きたい旅行先だとか、比較的普通の質問だった。

「なるほど……つまりまとめると、先生には前科が五つはあるということですね」

「全くわかってないじゃないですか」

「ジョークです。後は……好きな女性のタイプなどは?」

「えっ? そ、そんなことも訊くんですか?」

 内海さんは途端にジト目になる。

「これから恋愛モノを書く可能性もあるかもしれませんので。嫌ならば、好みは『シルベスター・スタローン』としてデータに記録しておきますね」

「完全に男じゃないですか。わ、わかりました……そうですね……」

 少しの間、考える。恥ずかしいけど、正直に答えるべきなんだろうか。

「あの……えっと……比較的小柄な方が好みです」

「……」

 内海さんは急に無言になった。俯いて少しの間沈黙した後、徐ろにテーブルの上の呼び出しボタンを押した。すぐ近くにいたウェイトレスがやって来る。内海さんは何も言わぬまま財布を手に立ち上がった。


「すみません、お会計をお願いします」


 内海さんの声に、ウェイトレスはすぐに駆けてきた。


*


 余計なことを言わなきゃよかった、と思う。

 店を出てからというもの、内海さんの口数はモロに減った。しかも、食事前とは裏腹に「あくまで取材ですよ。メモはよろしいんですか?」とトゲトゲした声で尋ねてきたあたり、相当に機嫌を損ねたようだ。

 そもそも僕は背が小さい女の子が好きだったし、言うならばショートカットの子が大好きだった。ルックスから言っても内海さんはど真ん中の直球のストライクだけど、さすがに編集の人を好きになるというのは作家としてどうなんだろう、と思ってしまってなかなか口には出せなかった。だけど、その一部が口をついて漏れ出てしまった。適当にアバウトなことを言っていれば、こんな気まずい空気が流れることもなかったんだろうか。

 そんなことを思っていると、内海さんは僕を置き去りにずんずんと一人で進んでいた。最早これは取材でもない気がする。

 内海さんを追いかけようとしたその時、ハプニングが起きた。


「あっ……おっ? ねえねえ、君高校生? 俺も高校生だけど、良かったら一緒に回らない?」


 突き進んだ内海さんの目の前に、ステレオタイプな不良高校生が立ちはだかったのだ。お約束の茶髪に加え、制服が引力に弱い生地なのか尻の穴まで見えそうなくらいに腰パンをして、ガムをクチャクチャ噛んでピアスまで空けている役満のヤンキーは内海さんをナンパしようとしているらしかった。

 どうすりゃいいんだ。助けないと。生まれてこの方喧嘩などしたことがない僕に追い払えるだろうか。

 少し離れたところでまごついていると、ヤンキーは内海さんの目を覗き込むように顔を近づけていた。内海さんは怯えているのか微動だにしない。

 ヤバい。

 ビビっている自分を置き去りにして、身体が動いていた。内海さんとヤンキーの間に割って入ろうと動き出すとともに、普段は出さない大きさの声が出ていた。


「おい! その子に手を出すな!」


 僕の声にヤンキーが粘っこい視線のまま顔を上げてこちらを見たのは確認できた。だが、次の瞬間にはヤンキーの頭が消えていた。

 近づいてわかった。ヤンキーは忽然と消えたわけではなく、僕の担当編集に思い切り殴られてのびていたのだ。倒れたヤンキーの頬の腫れ具合と、内海さんが拳をさする様子が事実を示していた。

 唖然としている僕の姿を認めた内海さんは、僕の手をグイと引いて突然走り出した。

「ちょっ、う、内海さん!」

「人が集まり始めました。この場を離れましょう。ずらからないと」

「ま、待って下さい。さすがに当事者だから現場に残ってないと……」

「夢の国に犯行現場などありません。さあ、急いで下さい」

 手を惹かれ続けて数分。先程の現場からは遠く離れたエリアに来た。ヤンキーに同情するつもりはないが、大丈夫なのだろうか。

「ふう。ここまで来れば問題ないでしょう」

「ビックリしました……内海さんがあんなことするなんて」

「中学まで空手を習っていましたので」

「意外です……」

「ちなみに五百段で虹帯です」

「どうして出版社に就職したんですか」

 ツッコむ僕をよそに、内海さんはスマホを見ていた。そして、手でぐるぐると何かを指差した。

「あの辺りは休憩ができるフードコートのようですね。また少し休みましょう」

 久々に走って足に疲れが来た僕は、情けないながらも二つ返事で了解した。

 カフェスペースで一休みし(その間に高校生が補導されたというニュースが人づてに聞こえてきた。どうやらバッグから万引きした物が見つかったらしい)、出た後は取材という名のアトラクションをいくつも堪能した。心なしか、内海さんはご機嫌になっていたようだった。


*


 冬が近づくとこうも日が落ちるのが早いのか。六時前だというのに空はすっかり色を無くしていた。

「もうこんな時間ですね」

「そうですね……。久々の外出で少し疲れましたが、有意義な取材になりました。ありがとうございます」

 感想を述べる僕をよそに、内海さんは宙を見上げていた。つられて僕も視線を移す。

 頭上には、大きな観覧車があった。内海さんは腕時計を見たあと、ぽつりと呟いた。

「観覧車もベタなモチーフですね」

 それだけ言うと、寒くなったのか内海さんはマフラーに鼻まですっぽりと顔を埋めてそっぽを向いた。乗りたいんだろう。多分。

「えっと……いい時間ですし、最後に乗って帰りますか?」

 内海さんはこくんと頷いた。


「観覧車、久々に乗りました」

 ゴンドラが上がっていく感覚にお互い無言になっていたけど、内海さんはそう呟いた。

「そうなんですね。僕も久しぶりです」と僕は答える。

「……そう、ですか」と内海さん。

 内海さんは何か迷ったような様子で僕の対面に座っていた。もじもじしているようなその姿を、観覧車の色とりどりのイルミネーションが照らし始めた。

「おっ……六時だから、か。綺麗なイルミネーションですね」

 僕の言葉に、内海さんは答えなかった。少しの沈黙をおいて、内海さんは口を開いた。

「先程は……ありがとうございました」

「さっき?」

「高校生の件です」

「ああ……ぼ、僕は何もしてませんよ……」

 本当だ。僕は何もせず、内海さんがヤンキーをノックアウトした。ただそれだけだ。

 だけど、内海さんはふるふると頭を振った。顔が赤く見えるのは――イルミネーションのせいだろうか。


「いいえ。私が絡まれてると知って、先生は声を上げてくださいました。それが……嬉しかったんです」


 内海さんは少し俯きながら、目を伏せてそう言った。

 どんどんと遠くなる街の灯り。賑やかなはずの園内の声が聞こえない静かな密室の空間。そして、無言の二人。

「あ、あれはつい……思わず出たといいますか」

 僕は内海さんにそう答える。正直、内海さんの言葉にどう答えればいいかわからなかった。情けないことに、気の利いた言葉が見つからない。正解とは程遠い有り合わせの僕の返事に、内海さんは目を伏せたまま黙っていた。

 意気地なしの僕は、内海さんが口を開いてくれるのをじっと待った。十秒、二十秒。内海さんは彫刻のように微動だにしなかった。

 そして、永遠にも思えた沈黙を破ったのは内海さんだった。


「アルミ缶の上に……あるみかん」


「……はい?」


 間の抜けた声を漏らす僕に、内海さんはいつも通りの淡々とした調子で答える。

「よくわからない雰囲気になったので駄洒落で振り出しに戻そうと」

「え、えぇ……?」

 よくわからないって何だ。結構いい感じの雰囲気じゃなかったのか。何も言えなかった僕が言えた義理じゃないけど。

「先生は本当にセンスがありませんね」

「な、何ですか急に……」

「帰ったら反省して下さい。ついでに私に百万円下さい」

「無理に決まってるじゃないですか……。ま、まあ反省はしますけど」

 せざるを得ないだろう。あの場面で何も言えないのは作家としてもどうかと思うし。

「ですが、今日の取材で、私の中で先生への見方が少し変わりました」

「えっ? それは……どんな風にですか?」

 内海さんはほんの少し頬を緩めて、言った。

「内緒です。……ご自分で考えてみて下さい」


*


 取材から一週間も経たないうちに、またもや全然社へ行くことになった。と言っても、先日の取材絡みではなく、以前に受賞した作品の本の装丁の相談の為だった。

 芳香剤の香りがキツい古ぼけたエレベーターに運ばれて、ビルの四階に上がった。『株式会社 全然社』と剥げかけの金文字で書かれたドアの先で、見覚えのある女性に出くわした。この方も編集の方だったはず。確か名前は片岡さんと言ったか。

「あっ、どうも」

 僕が頭を下げると、向こうも気づいて挨拶をしてきた。

「あら、どうも先生。今日は何か御用ですか?」

 そう言いつつ、ブラウスにスカート、カーディガンといった出で立ちの片岡さんはリムレスフレームの眼鏡をかけ直した。この人もまた、なかなかの美人だ。

「ええ。内海さんに呼ばれまして。装丁の件ということで……」

「なるほど、そうでしたか。よろしければこちらでお待ち下さい。ただいま内海は印刷所に行っておりまして……もう少しで戻るかと思いますが」

 お言葉に甘えて、応接室で待たせてもらうことにした。ぽつねんと一人で待っていると、片岡さんがコーヒーとお菓子を持ってきてくれた。

「ああ、わざわざすみません。ありがとうございます」

「いえいえ。こちらこそ、内海がいつもご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 やはり内海さんのキャラクターは強烈なのか、片岡さんはいきなりそんなことを言ってきた。

「とんでもありません。優秀な方ですし……。この前も内海さんが企画の取材を提案してくれてとても助かりました。おかげで執筆も捗ってます」

「はあ。企画……ですか?」

「ええ。遊園地をテーマにしたオムニバス企画ですよね?」

「……すみません、存じ上げませんが……」

「あれ?」

 どういうことだろう。何かがおかしい。僕は片岡さんに先日の取材のことをざっと話した。すると、驚きの回答が返ってきた。

「あの……誠に申し上げにくいのですが、そのような企画は編集部では把握しておりませんで……」

「えっ……? で、でも内海さんは……」

「冴……失礼しました。内海が一人でそのような企画を興すわけがありません。ご覧の通り小さな編集部ですのでお互いの仕事は常に共有してますし、若手の内海がそんなことをするとは思えませんし」

「で、でも取材経費も出てるって……」

「残念ながら、そんな予算はありません」

 片岡さんはお茶請けに持ってきた、見るからに誰かのお土産であろう観光地のクッキーを手に取りながら苦笑する。


 何故?


 五分もしないうちに、答えを持つ人が帰ってきた。

「ただいま戻りました」

 応接室のドアの外から、聞き慣れた声が聞こえた。内海さんが帰ってきたとわかると、片岡さんは「呼んできますね」と言って立ち上がった。片岡さんが出て行くと、ドアの外から会話が聞こえてきた。


『冴子、先生を待たせちゃダメじゃない』

『先生なら大丈夫です。ガッツのある方だからいくらでも待てます』

『何言ってんの。ほら行った行った。ああ、それと。先生から聞いたんだけど、勝手に企画とか立ち上げちゃいけないわ。取材もしたって言うけど……経費とかもどういうことなのか後でチーフに話さないと……』

『すみません』


 内海さんが謝る声が聞こえた後には、ヒールのカツカツという音が聞こえてきた。僕は慌てて居住まいを正す。

「お待たせしました。すみません先生」

「い、いえ」

 普段通りの格好、普段通りの表情の内海さんを、僕は直視できなかった。どうして内海さんがありもしない企画を騙って『取材』に連れて行ったかが、何となくわかったからだ。

 装丁の話なんてどうでもよかった。僕は先手を取って、切り出した。

「内海さん、先日の取材……どういうことなんですか?」

 

 僕の言葉に、内海さんは頬を染めながら悪戯っぽく微笑んだ。


「……ジョークです」




【了】

 

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ミステリアス・エディター じーえむ(柄木戸源也) @G-Motoya

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