第19話 ホタルの光る先へ

 斉藤天狗はまるで僕が来るのを知っていたかのように理の門の前で待っていた。そして何も言わず中へ入るように促した。

 僕は記憶の橋のこの前かなえちゃんを助けた位置まで進んで止まった。中学三年の頃の記憶が見えていた。

 向こう岸に母さんの姿がうっすらと見えた。そして橋に一歩足を踏み入れ少しずつ近づいてきた。

「亮太、立派になったわね」

「……母さん。僕のために、僕のために……ありがとう」

「いいの、何も言わなくて。全部わかってるから。……さあここはこうしている場所じゃないわ。向こう岸まで行きましょう」

 僕は母さんに連れられて斉藤天狗の所まで戻った。

「斉藤さんね、お久しぶりです。懐かしいわ。……亮太がずいぶんお世話になったようでありがとうございました」

「うむ。リョウタは人を助け、自分で自分の道を切り開いてここまできた。立派に成長しつつある。お主が望んでやったこともまた間違いではなかったようじゃ」

「そうね。……でも私は私のやるべきことをやっただけ。自分でそれが正しいと思ってやっただけ」

「そうじゃな。それも人の生きる道なのじゃろうな」

「亮太、ずっと寂しい思いをさせてしまってごめんなさい。でも今のあなたなら母さんがしたことをきっと理解してくれると信じてるわ。そしてわかってると思うけど私とはもう会えないわ。会っちゃ駄目なの。ここはそういう場所じゃない。だから今日で最後よ。ここへはもう来ては駄目」

「……わかってる。僕もそれを母さんに伝えるためにここに来た。前を向いて強く生きて行く。ねえ母さん、僕は父さんと同じように医者を目指すことに決めたんだ」

「そう……大きな大きな夢ね。素晴らしいわ。亮太ならきっと実現できる。私はずっとあなたの母さん。ずっと見守ってるから」

「うん、ありがとう。母さん。……最後にこれを受け取って欲しい」と僕は言って母さんの迷い玉を出した。

「あら、それは……ふふ懐かしいわね。お母さんに預かってもらっていたあの玉ね」

 僕はそれを自分の手の平の上に置いた。母さんは半分透き通った指でそれを摘んだ。

「あれが出口ね。ふふふ。小さい頃に一度だけ斉藤さんに連れ戻されて通ったのよね。懐かしい思い出だわ」

「斉藤さんちょっといいですか?」

 と僕は言って母さんと離れて斉藤天狗と二人きりになった。

 僕は最後の願いを斉藤天狗に伝えた。斉藤天狗はその内容については返事をせず「リョウタの願いは確かに聞いた」とだけ言ってくれた。

 僕がこの門の中に入ることはもう二度とない。あとは本当に死んでしまったときにおそらく魂がここを通るだけだ。僕は母さんと斉藤天狗に別れを告げて、振り返ることなく出口へ向けて、自分の未来へ向けて力強く歩み出した。これでいいんだこれで。涙は止めどなく流れ続けた。


 僕は全てがうまくいったことを美織に伝えた。そして二人で最後にホタル丘へ行こうと誘った。僕達には最後にもうひとつだけやらなければならないことがあったからだ。

 美織からキャップ付きの小さな瓶を受け取って、園芸用の小さな手持ちシャベルをおじいちゃんの物置小屋から拝借した。そしてそれらをリュックに入れた。

 僕達はホタル丘に着いて念の世界へ足を踏み入れた。理の門は先ほどと同じように口を開けていた。斉藤天狗の姿はもうそこにはなかった。

 美織とお稲荷さんの石像の裏へ行ってそこに穴を掘った。僕達はガラス瓶に二人の迷い玉を入れてそれを初めてキスをした思い出の場所に埋めた。

「これですべて終わったのね」と美織は言った。

「そうだ。終わった……。でも始まりでもある」

「うん」

 美織は辺りを見回して斉藤天狗を探しているようだった。

「おかしいわね。斉藤さん居ないのかな」

「……たぶん、斉藤さんはもう現れない」

「えー、どうして?さっきは居たじゃない。まさか死んじゃったとか……」

「いや……」

 その時、正面から強い風が吹いて僕達は一瞬顔を背けた。

 ゆっくり顔を戻すと祠の前には一人の女性が立っていた。

「ねえ亮くん!女の人よ!斉藤さんじゃない」

「わかってる」

「……あの人、写真の、……亮くんのお母さんよ」

「……うん」

 斉藤天狗は僕の最後の願いを叶えてくれていた。

 あれは念の世界で見ることのできる母さんであり斉藤天狗であり何者でもない念である。

 母さんの姿をした念は僕達の目の前まで来た。

「あなたがミオリちゃんね。斉藤さんの記憶が教えてくれたわ」

「じゃあ斉藤さんは亮くんのお母さんに……」

「うん」と僕は頷いた。

「うふふ。紗江子にそっくりでかわいいわ。紗江子いや、……お母さんは元気?」

「はい!」と美織はいつも以上に元気に応えた。

 それから僕達は斉藤天狗と話した時と同じように石に座って少し話した。斉藤天狗に代わって……いや元々人間達の願いや祈りが生み出した念は、今度は母さんの魂を借りてここの新しい門番となり、これからも僕達の世界を見守ってくれることだろう。

 僕は明日の午前中に父さんをここに連れてくること、それを最後にもうここへは来ないつもりでいることを伝えた。母さんの姿をした念は、もしもあなた達がずっと将来に結婚することがあるなら、その時にはまた顔を見せて欲しいと言った。仮にそうならなくても気にする必要は全くないとも付け加えた。美織はそれに対してムキになって反論し、すぐにでも結婚してまた会いに来ますと元気に応えた。僕達はその会話を最後に笑い合ってそれぞれの世界へと戻っていった。ホタル丘の頂上からは大きな夕日が大空に映っていた。


 翌日の午前中、父さんを連れてホタル丘へ登った。

 もちろん父さんは念の世界へは入れない。だから母さんの姿を見ることもできない。それでも父さんは母さんの懐かしい気配を感じると言う。

 僕は二人だけにしてあげて石段の最上段に座ってただ町を眺めていた。明日僕と父さんはここを離れて札幌へ戻る。この一ヶ月弱、僕にとっては不思議な、そして大きな冒険だった。斉藤天狗に牛島さん、それに母さん。僕は十一歳の夏に三人に助けられたおかげで今存在している。それに美織、ヒロト、葵、おじいちゃんにおばあちゃん、そして父さんや美織のおばさん、かなえちゃんにトオル。みんなが繋がっている。そのみんなと接する中で僕は少しずつ成長し大事なことが何かに気づくことが出来た。将来どのように生きたいのか。それにはどうしたらいいのか。強く生きるための確固たる決意はできたと思う。『十七歳の地図』を広げた僕の夏の旅はこれでおしまいだ。

「亮太……。そろそろ行こうか。しばらく会っていなかったが、お前もずいぶん逞しくなったな。ここに連れてきてくれてありがとう」

「うん」と僕は言ってホタル丘を振り返ることなく、父さんの大きな背中を追って石段を下りていった。

 僕の目標はこんなにも近くにあったんだ。あの大きな背中に追いつくこと。そしていつか追い越せるような人間になること。それが今の目標だ。


 お昼から美織と最後のデートをした。

 美織はいつかの似合っていた胸の膨らみが際だつブラウスに膝丈より少し短いスカートを履いて、ポニーテールにほんの少しだけ化粧をしただけの飾り気のない十七歳の少女の姿で現れた。

「……それやっぱり似合うよ」と僕は照れながら言った。

「ありがと」と美織は微笑みながら言った。

 僕達は以前美織に連れて行ってもらったピザ屋さんへ行ってランチを食べ、それから行ったことのある場所を、ただ手をつないで歩き回った。時折人目を盗んで街の片隅でキスをし、思い出の場所を確認するように回った。夕方前に六年振りに会った日に入ったビートルズの曲がかかっている喫茶店へ行った。そこでまた僕はアールグレイを注文し、彼女はミルクティを注文した。

「この後、最後に行きたいところがあるんだ。もうお盆も過ぎたし季節はずれになっちゃったから見られないかもしれないけど、ずっと前に約束したところ」

「うん、あれ?どこかな?」

「数学のノートにも書いたところ」

「……亮くん、……それなんだけど」

「うん」

「私、読まなかったんだ。ヒロトのところしか」

「え?」

「だって亮くん、ここから先は読んでいいけど、それより前は恥ずかしいから嫌だって言ったじゃない。すっと気になってたけど読めなかったんだ」

「……そうだったのか。悪いことしちゃったごめん」

「ううん」

「あれは美織との夏祭りの日のことを書いていたものなんだ。もう今となっては全て言葉や行動で伝えたことばかりだけど。やっぱり気になるよね。……あれ燃やしちゃったもんな」

「いいの。私の思い出も亮くんの思い出もきっと一緒よ。だから今二人で居られるならそれでいいの。……それでどこへ行くの?」

「きちんと調べておいたんだ。もう少し時間があるけどバスに乗って行く。それまで内緒」

「あー、もうずるい」

 それから僕達は温かい飲み物を飲んで、今度は私が札幌へ行くとか、またすぐ釧路へ来るよとかそんなカップルの別れ際の会話をしていた。実際、今はしばしの別れになるけど、札幌と釧路なら行き来することはそこまで大変なことではないので僕達は努めて湿っぽくならないように語り合った。

 時間が近づいてきたので僕達は店を出て釧路駅へ向かった。

 バスターミナルには既にバスが停車中だった。

「あそこのバスだよ。乗ろう」

「うん」

 僕達はバスに乗り込んで後方の二人掛けの席についた。乗客は疎らで空いていた。

「これって湿原の方に向かうバスでしょ。……ね!もしかしてホタル?」

「正解!」

「……覚えててくれたのね、あの約束。……ずるいよ、亮くん。最後に泣かせようとするなんて」

「最後に美織と行くって決めてたんだ。もう寒くなってきたからホタルを見るのは無理かもしれないけど」

「ホタルは見られなくてもいい。……あの指切りの約束覚えててくれただけで。……ありがと」と美織は言って僕の胸に顔を埋めた。

 事前の調べでは、目的地の「温根内ビジターセンター」までは約四十分の道のりだった。

 美織はずっと僕の胸に顔を埋めたまま好きな曲だと言っていた『空も飛べるはず』を小さな声で口ずさんでいた。歌い出してから彼女が涙を流していることに僕は気づいていた。僕はただ優しく抱きしめ少し上を向いた。

 目的の停留所に着くと、降車したのは僕達だけだった。

 辺りはまさに漆黒の闇。僕達以外に人の気配はなく満天の星と満月だけが僕達を出迎えてくれた。僕はリュックから懐中電灯を取り出して明かりを灯し、木道の方へ進んだ。

「時間が経てば目が慣れるから、それまで木道を踏み外さないように気をつけよう」

「うん」

 十分ほど木道を進んでもホタルの光はやはり見えなかった。

 美織は立ち止まって空を見上げてブツブツと呟いた。

「流れ星?」

「いいえ。流れてないけど今見えている全部の星に願い事をしたの。……亮くんとずっと一緒にいられますようにって」と美織は言うと僕に抱きついてきた。

「……やっぱり淋しいよ」

 美織は堪えきれずに泣き出した。

 僕は黙って彼女を強く引き寄せた。

 彼女は背伸びをしてキスをせがんだ。僕は彼女の頬に手をあててキスをした。

 全てのはじまりはこのキスからだった。六年前の十一歳の僕達のファーストキスからだった。全てが蘇る……涙が勝手に流れ落ちる。

 彼女を強く抱きしめた。


「……あっ、ねっ!亮くん!あそこ光った!」

 美織の指す方を目を凝らして見てみる。一筋の光がゆっくりと走った。そしてすぐにもう一つの光の筋が重なった。

「美織、行こう!」

「うん!」

 僕達はつないだ手を強く握りあって光の方へ走った。

 僕達にしか見えない自由な道をまるで空を飛ぶようにずっと。


(了)

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理の門の神隠し シノン @shi-1

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