第18話 捨て去るもの

 翌日、正午前からふらっと出かけてみた。昨夜とは違って今日の日中はとても気温が上がっていた。町内を一周し、足は自然とホタル丘へ向かう。石段を十段ほど登って腰を下ろした。六年前の夏祭りの日に美織と見た景色と同じものが広がっていた。

『知らないままの方が良いこともあるんじゃないか』

 トオルの言葉を思い出していた。僕の十七歳の冒険ももう終わる。十一歳の僕の身に起きた不思議な神隠しについてたくさんの真実がわかった。そこにはやはり母さんの失踪と結びつくものが存在した。しかしそれはあくまで念の世界での話。実体世界にはもう母さんは存在しない。死んでいるのだ。

 美織には僕の六年間の想いを伝え初恋は実った。恋愛だけ言えば最高の夏だ。これからも美織を手放すことは絶対にないだろう。親友のヒロトは野球の話を熱っぽく喋って目を輝かせ、今僕に足りないものが何かを突きつけてくれた。父さんと電話で話しておじいちゃんの仕事に同伴して以来、医者という仕事が少しずつ気になり始めた。僕も僕なりに感じ、考え、この夏の冒険を精一杯がんばった。かなえちゃんを助けることもできた。牛島にはぶん殴られもした。

 でもどうしても最後の最後で僕自身が流れを堰き止めているものがわからなかった。

 それをどうにかして捨て去り、最後に母さんと接触して別れを告げ、僕の願いを託したかった。たぶん自分のすぐ近くにある何かを捨て去ることで一本きれいな道筋が敷かれるはずなのに、それを自分で見つけることができなかった。

 僕はどうしようもなく膝を抱えてただ丸くなって目を閉じた。

 大きな鋭いナイフがまた現れた。

『十一歳の時の神隠し事件のことは大体わかったのだからもういいだろ。美織とこの先仲良くやっていけばいいじゃないか。母親はとうに死んでいるんだ。そこそこの大学に進学して、就職して、そこそこの生活を二人で生きていけばいいじゃないか』

 とナイフは鈍い光を放って僕に言い聞かせる。

 一方で、

『いや母親を殺したのはお前だ。お前を助けるために母親は死んだ。このまま母親のことを中途半端にしたままでいいのか?最後までやり遂げなきゃこの先のお前は全て中途半端だ。きっと美織も失い、未来の目標も決められず今のまま一生落ちこぼれのままだ』

 と鋭いナイフは僕の首元にその刃を突きつける

 僕の葛藤は続いた。

 どうすればいいんだ。どうすれば……。


 どれほどそこでそうしていただろうか。二十分、三十分か。

 誰かが近づいて来ていた。

「……やっぱりここだったのね」

 僕はゆっくり顔を上げた。

「美織……」

 美織はバックからハンカチを取り出して僕に手渡してきた。

「ほら拭いて」

 僕は知らず知らずに涙を流していた。

「……ありがとう」

 美織は僕の隣に腰掛けた。そしてただ黙って隣にいてくれた。

「ずっとここにいたの?」

「三十分かそれ以上か。わからない」

「……私じゃ役に立たない?」

「そうじゃない。……美織を手放すようなことはしない。それだけは信じて欲しい」

「お母さんのこと?」

「そうだと思う。自分でもよくわからない」

 それから僕達はしばらく景色を眺めていた。あの時二人でここに座った時のように。

 美織が声を出した。

「ねえ、ここにいる間誰かに会った?」

「いや」

「すぐ下の黒い車、誰も乗っていなかったわ……あんな所におかしいと思わない?」

 車は石段に入る手前に止められていた。僕はそれには気にも留めずここまで登ってきていた。この所有者が行く場所があるとしたらホタル丘しか考えられなかった。僕は三十分以上ここにいたはずだ。その間誰も石段は登って来ていない。……誰かが既に丘の上にいたのか?こんな長い時間……妙な胸騒ぎがした。

「上に行ってみよう。誰かに何かあったかもしれない」

「うん!」

 僕達は二人で駆けのぼった。あの日と同じように手をつないで急いで……。

 丘の頂上に着くと、理の門が光を放って口を開けていた。そして斉藤天狗がいた。斉藤天狗の前で膝をついて項垂れている男性がいた。

 牛島だった。

「斉藤さん!」と僕は声を張り上げて駆け寄った。

 牛島は声を出して泣いている。怯えて震えている。

「だから、あれほどやめておけと言ったんじゃ。牛島は記憶の橋で自分の未来を見ていた。そしてさっき自分の死期が見えたそうじゃ」

「えっ!」と僕と美織は絶句して凍りついた。

「刃物で滅多刺しにされる自分が見えたんじゃと」と斉藤天狗は言った。

「いやーー!」と美織が叫んだ。

「そんな……。斉藤さん、どうにかならないんですか?牛島さんを救えないんですか?」と僕も大きな声で斉藤天狗に詰め寄った。

「わからない。それを二人でずっと話していた」

「斉藤さん、お願いします。お願いしますよ。牛島さんは、……牛島さんは、僕を救ってくれた人なんですよ!」

「えっ?」と美織は驚いた。

 僕は牛島の隣に駆け寄った。

「そうなんでしょ?牛島さん。あの時橋の上から斉藤さんの方へ連れて行ってくれたのはあなたですよね?覚えていますか?六年前です。あなたがいなければ僕は母さんと一緒に向こう岸に行っていたかもしれない。あなたは僕を救ってくれた命の恩人なんです」

「……へっへ、まさかあの時の小さいガキがこんなでかくなるとはな。この前の夜に名前を聞いてピンときたよ。あの時は殴って悪かったな。……へへ。見ての通り俺はただのチンピラさ。あの頃はまだ良心が少しは残っていたようだが。……いつからこんな風になってしまったんだべ。最後は滅多刺しにされて死ぬなんてよ。うっうぅ……。最初はオヤジに会いに来てたんだ。自分の過去の記憶を見に。オヤジはギャンブルもしたし仕事もフラフラしていたが、ガキの頃の俺にとってはオヤジはオヤジだ。一緒に釣りによく行った。大好きだった。それなのにそれなのに……」と言って牛島はまた泣き崩れた。

「……牛島の父親は借金苦で首を吊って自殺したんじゃよ。子供の時の牛島はこの丘でその怒りを爆発させて門を開いたんじゃ」と斉藤天狗が言った。

「……俺は、……いつしか橋をさらに進むと未来が見えることに気づいた。その時見た日本ダービーに勝った馬に実際に賭けたら当たることがわかった。それからも未来で見えたことが的中した。俺は有頂天になった。オヤジが死んでからグレてはいたが、そこからだ俺が本当に悪い道に入ったのは。しかしそんな風に当たりまくるのはすぐ終わった。最近は橋で見えたことの半分も当たらなくなってきた。それでお前達に会って他の奴が見た未来ならまた当たるんじゃないかと考えた。だからお前達に協力させようとした」と牛島は言った。

「そんなの当たらなくなって当然よ。未来は・・、未来はそんな最初から決まってるものじゃないでしょ?自分の未来は自分の力で作っていくものよ!違う?そうでしょ?あなたが今までにどれだけ悪い事してきたかなんて未来には関係ないわ。だから今すぐ過去を捨てて、今すぐ悪い世界から手を引いて、明日から改心すればいいのよ。自分で新しい未来を作っていけばいいのよ!牛島さんは亮くんを救ってくれた人なんだから、あなたなら、……あなたなら絶対できるわ。新しい未来を作って、今日見えた悪い未来を変えることは絶対できるわ!」と美織は涙を流しながら牛島に訴えた

 それはまるで僕に訴えかける言葉のようだった。

 僕の頭の中でパチンと音がした。

 いくつものバラバラになっていたパズルのピースが全部繋がった瞬間だった。過去を捨てて自分の力で未来を作っていく……。

 今のまま何の目標も持たない僕が未来へ進んでもヒロトが浴びたようなスポットライトを浴びることはできない。目に輝きのない大人になってしまうだけだ。新しい人生目標を立てられないのは少なからず過去に障害となる何かがあるからだ。だからそれを捨て去る必要がある。自分の過去を捨て去ることだ。それが僕の心の流れを塞いでいるものだ。障害となっている過去は簡単なことだ。毎日が楽しかったあの十一歳の夏だ。僕はあの十一歳の夏にしがみついてこの数年を生きてきた。あの頃から一歩も前に進んでいない。今を変えるには、この先の未来を変えるには、あの十一歳の夏の思い出を捨て去ることだ。美織の言葉で僕のモヤモヤは全て吹き飛んだ。

「そう思うか?本当にそう思うか?ネエちゃん。新しい未来を作ることはできると思うか?」

「私は美織よ。できるわよ。必ず。……はじめから自分の人生が決まっていたら生きる意味がないじゃない。未来は……人生は自分の力で作っていくものよ。あなたの努力で掴み取るものよ!」

「牛島よ。何が正しいかはワシもわからない。でもミオリが言ったことは正しいように思う。お前達人間はそうして今まで生きてきた。時には願い、祈り、ワシのような存在を生み出してきたが、最後は人間が自分たちの力で道を切り開いて自分たちの人生を作ってきた。だからもしお前が今のまま悪いことばかりやって人生を送れば滅多刺しに遭って死ぬじゃろう。しかし改心して全うに生きていけばそんなことは起こらないのではないか?」と言って斉藤天狗は牛島を諭した。

「そうですよ牛島さん。これは警告ですよ。このままいったらこうなる。しかし、ここで道を変えれば必ず新しい未来があるはずです。僕はあなたに助けられました。だから僕もあなたを救いたい。改心して全うに生きましょう」

 牛島は泣き崩れた。小さな声でありがとう、ありがとうと言っているように僕には聞こえた。

 それから斉藤天狗にまた来ることを伝えて、美織と二人で牛島を車まで連れて行った。

 牛島も落ち着きを取り戻し、エンジンをかけた。そして一回アクセルをふかしてからゆっくりと車を走らせていった。彼の最後の目は力強さが宿っていた。きっと立ち直ってくれるはずだ。

 僕達はまた石段に座った。

「あーびっくりしちゃった。いろんな事が起こりすぎるよ」

「立派だったよ。美織の言葉。僕は驚いた」

「やだ私なんか。ただなんか興奮しちゃって。必死で」

「美織。僕は君に礼を言わなければならない。君の言葉で全部がわかったんだよ。ありがとう」

「私の言葉?」

「過去を捨てて自分の力で未来を作っていくって」

「あぁ……」

「これができたら牛島さんはきっと助かると思う。もし僕にもこれができたら僕の心の流れを塞いでいるものが取れて正常な流れになると思う」

「えっ本当?」

「おそらくね。……僕は自分の心の中で塞いでいるものが何かずっとわからなかった。でもさっき美織が行った『過去を捨てて』って言葉で分かったんだ。それは『僕の十一歳の夏』を捨てることだ。

 僕はこの数年間、過去の中でも特別に十一歳の夏を毎日毎日思い続けて生きてきた。それこそ現在や将来を全く考えようともせずに、楽しかったあの頃、美織とのあれこれ、ヒロトとのあれこれ、そんな過去の出来事ばかりを美化してそれにずっとしがみついていたんだ。まさに懐古主義者だよ。過去の中で生きている人間だったんだ。確かに神隠しに遭ってしまったことでずっと複雑な心理状況だったのは間違いない。でもこれから先はそれを捨て去って生きていこうと思う。十一歳の僕を捨て去っても思い出は残る。たまに思い出すこともできる。それだけでいい。だからもう十一歳の僕とは決別しようと思う。

 ……そして僕は将来医者になることを目指すよ。今の成績ではまるっきり話にもならないけど、医学部を目指して自分の力で未来を作る」

「すごいよ亮くん」

「ついこの前父さんと電話で話してからずっと医者という職業が気になっていたんだ。おじいちゃんとも一緒に仕事に回って色々感じた。ヒロトが野球で活躍して輝いている姿を見てまた感じた。はっきりとわかったよ。僕は医者を目指す。それが今の目標で、それに向かって打ち込むことが自分を輝かせることだと思ったんだ」

「……よかった。亮くんの悩んでいたことが解決して」

「それで少し協力して欲しい。あの数学のノートを捨て去りたい。自分自身に対する儀式みたいなもんだ」

「うん、わかったわ」


 美織にノートを部屋から取ってきてもらっておじいちゃんの家の庭で燃やすことにした。

「もう全部読んだね?」

「えっ、……う、うん」

 僕は十一歳の美織とヒロトとの思い出のページを破り取ってその一枚にライターで火をつけた。燃えた紙で次の一枚に火を移し、一枚一枚丁寧に被せていった。僕が書いた思い出は煙となって宙に舞い、少しばかりの灰だけが残っていた。

「さあ終わった」

「これだけでいいの?」

「もうひとつやることがある。ただそれは僕ひとりでやる。それが終わればきっと心もすっきりになっているはずだ」

「ねえ、気をつけてよ。最後の最後でまた居なくなったりしないでよ」

「大丈夫だって。終わったら美織の家へ行く。一時間後くらいに。だからそれまで家で待ってて欲しい。あと一つお願いがある。小さなキャップ付きの瓶が欲しい」

「……わかったわ。そういう小物なら色々持ってるから大丈夫。とにかく絶対に気をつけてね」

「ありがとう」


 それから僕は必要なものをリュックに入れ、心を正常な流れに戻すための最後の儀式に出かけた。

 それはあの頃と同じままそこに存在していた。不思議なくらい六年の経過を感じさせない同じ風景だった。もし僕の心を実体化したものがあるとするならばここしかない。そして僕は今からこれを破壊し捨て去る。これは僕がこれから目指すものを具現化していくための第一歩に必要な儀式だ。またこうすることで母さんも橋を渡って来られると信じて……。

 あの時の楽しい思い出が蘇ってくる。でも僕はこの思い出にしがみついてばかりいられない。五年後、十年後にふと懐かしく思い出すだけの思い出でいい。明日を生きていくためには毎日こいつにしがみついてなんていられない。こいつを破壊し捨て去るんだ。

 僕は右足に力と気持ちを込めてそれを思いっきり蹴破った。

「うわあああー!」と僕は叫んでいた。ホタル丘で喜びを爆発させた時と同じように「うわあああー!」と叫んだ!

 二度、三度、四度。思いっきり蹴破った。

 心の中でサーッと何かが引いていくような気がした。

 接合していたガムテープは蹴破られた勢いで剥がされた。段ボールは部分的に破れ、穴が空き、そして土管内部に横たわった。土管は貫通し元の空気の流れに戻っていた。

 僕は自分自身で塞いだ秘密基地の片方の入り口を元に戻したのだ。

 入り口周辺に張り付いている段ボールの破片を綺麗に取り除き、内部に敷き詰めた段ボールを外に出した。内部の段ボールの隙間から『あやとりの糸』と『おはじき』が二つ出てきた。

 僕は段ボールをカッターで切り裂き、小さく折り畳んで持参した大きなゴミ袋に詰めていった。気温が高く蒸し暑い。汗と一緒に涙と鼻水が流れる。僕がずっと大切にしてきた十一歳の夏の思い出の象徴だった秘密基地は僕自身の手で全て破壊し捨て去った。

 僕達四人の秘密基地は、初めてヒロトと見た時のただの土管の姿に戻っていた。これで全て終わった。心を塞いでいたものが全て消え去ったのは自分自身よくわかっていた。空を見上げると力強い太陽の光は、僕にもスポットライトをあててくれているようだった。

 僕は最後に土管に向けて深く一礼した。そして楽しかった十一歳の夏の思い出に別れを告げた。大丈夫。心の奥底にいつまでも記憶は残るのだから。

 リュックを背負い満杯になったゴミ袋を二つ手に持っておじいちゃんの家に戻った。それから顔を洗ってきれいなTシャツに着替え、自分の迷い玉と母さんの迷い玉を持ってホタル丘へ向かった。

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