サンタクロースなんているわけない
久環紫久
第1話
小学一年生のころにはもうサンタクロースがこの世に存在していないことを理解していた。というのも、うちの家庭環境があまりよろしくなく、今はもういないやつだが私の父親というのが結構ひどい人で、ある時、小学校の授業の一環で英語でサンタさんにクリスマスプレゼントをお願いしてみよう、ということになった。それで私はその当時流行っていた魔法少女のパジャマを頼んでみたのだが、それを両親に渡すと、父親のほうが私の目の前でびりびりと破って、「日本語もまだろくにわからねえやつが変な言葉使うんじゃねえ」とものすごく怒鳴ってきた。当然、その年のクリスマスプレゼントはなく(それまでも、それからもなかったが)、さらに言えば、その時に父親が「サンタクロースなんていねえ! いるのはサンタクロースの振りした親どもだ。俺はそんなことをする気はねえ!」と胡座をかいて腕を組み宣言したので、わずか六歳にして、サンタクロースの存在を夢見ることができなくなってしまったのであった。
そんな古風な(といえば聞こえがいいが)父も私が高校に上がる前に亡くなってしまった。正直せいせいした。何かにつけて文句を言うし、何かにつけて母を殴るし、何かにつけて酒を飲むしで、あんな大人は早く死ぬべきだと常々思っていたので、念願叶ったと思ったくらいだった。けれども、そんなに嫌いなはずなのに死んでしまったら死んでしまったでなぜか涙が止まらなかった。せいせいしたはずなのに、死んでもなお私を困らせるのかと憎たらしく思ったのに、亡くなった父を思うたびに涙が出た。そんなにいい思い出ばかりではないけれど、ばかりでないだけで、あんな人でもいい父親だった時もあった。母も、そんな父の面影を見ていたからなかなか別れる決心がつかなかったんだろうか。
そんなこともあって、幼い頃から裕福でない私は、それを機に母一人に働かせて生活していることが殊更申し訳なく思い、高校に進学するのをためらった。しかし母が父の遺言だと言って聞かず、結局大学まで進学させられてしまった。あんな人がそんな遺言を残すなんて意外で信じられなかったし、母は毎日朝から深夜まで働き通しでいることを見ていたのでどうしても手助けをしたいから働かせてほしいとお願いしたものの、母は折れることなく、中学の時も、高校の時も、わざわざ学校まで出向いて(本当に申し訳なく思う)、教師陣に頭を下げて「この子を進学させてください」と頼み倒した。そこまでされると働きたいというのは私のわがままであって、まずは勉学に励むことが親孝行になるのかな、と流石に考え直して受験勉強に打ち込んだ。早く大学へ行って、早く大学を卒業して、先生たちが言うように名のある大学を後ろ盾にして有名企業へ就職することこそ、私が思いついた母への親孝行のプロセスだった。
今はその最終段階で、大学をもう一年で就職活動をしっかり決めて卒業するところまで来ていた。母に恩返しをする機会をあと少しでつかめるところまで来ていたのに。
人生は上手くいかない。
母が倒れた。
仕送りは要らないとずっと言っていたのに、ずっと働いていた。働いて、自分の分は最低限だけ残して、私にずっと仕送りをし続けた。申し訳なくて返金していたけれど、それは私が使う分だと言って聞かず、母は結婚資金だと言って貯金していたらしい。
少しは自分を大事にしてほしいと泣いて頼んだこともあった。だけれども私を見て困ったように笑った母は「大丈夫」としか言わない。いつか倒れるかもしれないと思いつつ、心配を通り越して半ば呆れていた私は、今回の連絡を聞いて納得と苛立ちを覚えていた。
向かう道中、世間はクリスマスだからとイルミネーションやカップルが多くて、それすら、今は邪魔に思えてならなかった。晴れやかな華やかな気持ちになんてなれそうもない。
急いで地元へ帰り、母が入院する病院に向かった。病床にいる母は半年前に会ったばかりだったのにすっかり痩せこけて病人になっていた。
そんな母は病室に飛び込んで来た私に「お母さんのことは良いから早く大学に戻りなさい」と言った。
その瞬間、ふつりと何かが弾けた。なんでいつもそうなのよ。なんでいつも学校に行けって言うのよ。なんでいつも自分のことは蔑ろにしてしまうのよ。
「なんでいつも母さんは……!」
もう二十歳を越えたというのに、子供のような癇癪を起こした私は、母に持って来た果物の詰め合わせを机の上に力任せに置いて病室を後にした。
終電に飛び乗ってガラガラの車内で後悔した。
他にもっと掛ける言葉はたくさんあったのに。心配なのに、どうして飛び出してしまったんだろう。
ああ言うのはいつものことなのに。どうして今日に限ってあんな風な態度を取ってしまったんだろう。ぐるぐると後悔の念が私の中でとぐろを巻いて私の心を絞め殺そうとする。深くため息をついて額を膝に擦り付けた。
「なんだか後悔しているご様子ですね」
柔らかい男性の声にちらりと顔を上げると、横に紳士然とした男性が腰をかけて私を見つめていた。その瞳は赤の他人である私を心配そうに見つめていて、「何かあったのですか」と尋ねてきた。
恥ずかしいところを見られたと目を逸らしてまた額を膝につけると、「泣いているご様子でしたので、これを」と言われた。なに、と顔を上げると目の前に空色のハンカチを差し出していた。
まじまじとそのハンカチを見る。別段おかしなところはない。ただハンカチを見ただけで、条件反射のようにぼろぼろと泣き出してしまった。梅干しを想像すると唾液がとめどなく出てくるけれど、唾液よりももっと多く涙が出て止まらなかった。
それに、それよりもどうして赤の他人である私にそこまでしてくれるのだろう、と思うと不思議でならなかった。不思議でならなかったし、何か裏でもあるのだろうかと疑ってしまう。
その人は私のその邪な考えに気づいたようで、目を見開いて首を振った。
「取って食うとか、何かしでかすとか、そんなことはありませんからご安心を。僕はあなたのような人を助けることを生業としているんです」
「カウンセラーとか……?」
ぼろぼろに嗚咽まじりに尋ねるとその人は頬をかいて、「そんなところです」とほほ笑んだ。
「それよりほら、ハンカチをお使いください。メイクがぼろぼろですよ」
たしかに指で目元をぬぐうと薄くつけていたマスカラが落ちてきていた。チークもチークの意味を成していない。差し出されたハンカチをありがたく受け取って、顔を優しく拭いた。
その人は隣で静かに私を見ていた。見守ってくれていた、と言ったほうがいいかもしれない。ハンカチでメイクをある程度ふき取って、あとで洗濯して返さなくちゃなあと思っていると、その人は、「お母さんと、喧嘩なさったんですか?」と尋ねてきた。
ぎくりとした。なんでわかったんだろう。喧嘩というにはあまりにも私が一方的に癇癪を起しただけだけれども。
「顔にそう書いてあります。とても後悔なさっているご様子だ。少し、手をお借りしてもいいですか?」
「手?」なに、急に。
「目を閉じて」何なの。少し恐怖心を覚えながら、恐る恐る右手を差し出した。すると、その人は私の右手を両手で包んで握った。言われた通り目を閉じる。
「ゆっくり深呼吸をして」しゃっくりがでた。静かに心を落ち着かせようといわれた通り深呼吸をした。
「少し、夢を見ましょう」
何、と目を開けると、そこは私の実家だった。テレビもないし、ゲーム機もない。リカちゃん人形もポポちゃんもなかったから小学生の頃はまずまず友達の輪に入ることができなかった。何を話しているのか見当もつかなかったことを思い出す。でも、おかしい。確か、私がバイト代をコツコツためて買った液晶テレビがあるはずだ。
狭い茶の間を見てもない。おかしい。
「ここは現実ではありますが、あくまで昔。夢の世界です。あなたが買って差し上げた液晶テレビはこの時代にはまだないでしょう」
うしろからそう声をかけられてびくりと振り向くとあの人がいた。
「私、あの、電車に乗ってて、あれ、そういえば電車に乗っていたんですけど!」
そう、実家だった、じゃない。なぜ? 私は電車に乗っていたのに。普通の電車だった。だから、こんなお茶の間はないし、こんなに私の実家にそっくりな景色も見えるわけがない。
「言ったでしょう? 夢の世界です。ただ、過去に起きたことをちらりと覗き見てみれば、あなたの何かが変わるかもしれない。ほら、ちゃんとあのちゃぶ台を見ていてくださいね」
そういわれて見慣れたちゃぶ台をまじまじと見る。すると人影が現れた。よく見知った二人だ。私の父と、私の母がいる。
お父さん、と叫んだけれど、聞こえている様子はない。
遺影と同じ顔をしている。穏やかな顔だ。夢の世界だから、私に都合よく改ざんしているのだろうか。
父がビールの入ったグラスを手元で傾けながら、話し出した。
「いくら貯まった?」
「七百一万三千円」母がそう答えた。
「あと少しだなあ」
「そうねえ、いつもご苦労様」
「何が苦労なもんか。いいか、おめえと俺のガキだ。そいつが立派に育ってくれんだったら、これぐれえ大したことねえや。なんでもよ、永田のけいちゃんが言ってたんだけどよ、子供っつうのは独り立ちするまでに一千万かかるんだとよ。だからよ、俺がそれぐらい稼いでよ、それで立派な大学行ってよ、いいとこに嫁いでいけばきっと幸せなんだよ。うん、違いねえ」
ごくりとビールを飲みほした。
「俺もおめえも学のねえ田舎者だけどよ、あいつはこれから成長するんだ。だからよ、もう少しだけ我慢してくれ」空いたグラスを父は見た。
「なにが我慢なの? 私は我慢してないよ」母はきょとんとしていた。
「……そうか。なあ、あいつが立派に育って俺らの手を離れたら、どこか旅行に行こうぜ。例えばよ、沖縄とかどうだ? 北海道とか。あとそうだなあ、そういや三丁目のいっちゃんは海外行ったって言ってたな。なんだっけな、ハイ、ハア、ハワ? ワイ、あ、ワイハとかいうとこに行ってきたんだとよ。海外でもいいな」
豪快に父は笑った。ハワイだよ。
「俺はいけねえかもしれねえけどよ」
……?
「やめて、そんなこと言わないで」
「……寝る」
母が、大学に行くのが父の遺言だと言っていたけれど、本当のことだった。私はてっきり、死人に口なし、死んでしまった父がそう言っていたことにして、私に大学へ進学するように命令しているのだと思っていた。
けれども違った。これが現実にあったことなのだとしたら、父が、本当に言っていたのだ。
気づくと父の姿がなかった。母は茶の間で一人声を殺して泣いていた。
父の姿は寝室にあった。ここもまた狭い寝室だ。隅で子供が寝ている。
あれはきっと——「あなたです」その人が言った。
父は赤ら顔で私の隣に横になって、私の頭をなでていた。
「おめえは立派になるんだぞ。思えば、立派ってなんだ? わかんねえな。いいや、幸せになれ。そのために学校へ行け。な、大きくなったら、今苦労させる分いろいろやっからな」
父の顔は穏やかだった。きっと、父が亡くなったとき、父は、目標の金額を貯金してくれていたのかもしれない。そして母は、その父の遺言を守って、私が大学を卒業するまで、もしかすると嫁に行くまでかもしれないけれど、そうやって、私を育てようとしてくれていたのかもしれない。
ふと、頬を涙が伝っていることに気づいた。ハンカチで目元を隠す。
「さて、僕の仕事はここから先です。あなたをもう一度お母さまのところに連れて行って差し上げます。あなたが望めばですが。どうします?」
「どういうことですか?」
「仲直りしましょう——ということです」
仲直り。仲直りしたい。本当はずっとわかっていた。父も母も私のことを大切に思ってくれて、愛情を注いでくれていた。幼いころは、表面しか見えなかったから父のこともよくわからないでいたけれど、ずっとずっと、私は愛されていた。貧乏なりに、父なりに、母なりに、私は愛されていた。それを成長して我儘にも厚かましくも迷惑にむずがゆく思うようになって、いつの間にか迷惑にも似た思いを抱えるようになってしまった。
けれど、それでも母は私を心配し続けてくれていたのだろう。大学に行ってほしいのは、自分のことなんて気にかけるなというのは、きっと、私に幸せになってほしいからなんだろう。でも、そうじゃない。私はそうじゃない。母さんまで亡くしたら、私は幸せじゃない。
「お願いします、仲直りさせてください」
「よかった、そう答えてくれると信じていました。なんでもそうですが、
その人はやさしく微笑んだ。
「それでは、次に会うときは、あなたがおばあちゃんになってから」
ぱちんと指を鳴らす音がすると、私は病室の前に立っていた。はっとした。右手には、果物の詰め合わせがある。辺りを見ると、薄暗く、静かなものだった。ドアに母の名前が書いてあった。静かに引く。上体を起こして母は夜空を眺めていた。
ドアが開いたので母がこちらを見た。
「ごめんね」と母が言った。私は首を振る。
母に果物を剥いてやる。
そのとき、母がふと言った。
「夢にお父さんが出てきてね。もういい、って。あいつは立派に育ったって。そう言われたら、ふっと心が軽くなってね。本当はあんたが来たら大学に戻れーっていうつもりだったの。でもね、こうやってきてくれることがどれだけうれしいことだろう、って思いなおしたのよ。こうやって、リンゴを剥いてくれることがね」
コンタクトがずれて視界がおぼろげになってしまって、リンゴの皮は上手に剥けなかった。
サンタクロースなんているわけない 久環紫久 @sozaisanzx
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