イザベラ・バード「ペルシアとクルディスタンの旅」第一巻

@norifumi1992

第1章

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”シャマル”または北風が、湾岸地域を目指していた私たちと共にあったシロッコの後から吹いてきた。風が赤い潮泡をたてる停泊地の浅瀬にさざなみをたてる中、船はイランで最も重要な海港ブーシェフルの反対にあたる所に投錨した。

ドイツ人H.M氏が操舵しているイランの軍艦”ペルセポリス”、 二つの旗がひるがえるイギリス所有の船スフィンクス、アラブ人が所有し操舵するイギリスで建造された3本マストの高速帆船、そしていくつかの地元の小船が、岸から2.3マイルほどから彼らの錨を引き上げていた。

地元のbuggalowは、蜘蛛の子を散らしたように多く、周りの商船とぶつかり合いながら、苦労しつつ漂っている、というより小浪に激しく翻弄されている。造作もなく流されるようなく風の中巧みに操舵され、蒸気客船がせっせと煙を吐く中、辛うじて激しい海の中に浮いていた。

ブーシェフル、それは多くの家と15000を数える人口でありながら、町並みは最もつまらない部類である。またそのあまりの低地の立地は、アッシリア(?)の甲板からみてもその海抜より低い印象を受けるくらいである。

シャマルは遠くの砂漠で砂嵐を巻き上げる。黄色い雲の上まで吹き流された砂、湾岸の東の国々に雄大な自然の印象を与える近くや遠くの山々は、消えていった。風が吹き荒れ霞んでいた岸と風が吹き荒れ霞む海はよく調和していた。



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ロス大佐―彼は、大きな能力と正義心に恵まれながら、18年間ペルシャ湾地域のイギリス人居住区管理の業務に携われ、非常な誠意と尊敬の心をもってイラン人、アラブ人、混血児、ヨーロッパ人らしき人々の使用を取り仕切ってこられた。―の歓迎の手紙を載せた汽艇は、何回か艦旗の方へ寄せようとして失敗した後配達に成功した。彼の親切かつ手厚いもてなしについて、わざわざ記す必要もないだろう。というのは、湾岸地域を訪れた異邦人は例外なく、それを経験しているに違いないからである。小汽艇は、岸まで向かおうとするものの、水上のコルク栓の如く風に翻弄され、どっと水しぶきを届けてくれた。

それはとても冷たく、動揺させるに十分で、風に吹かれ激しく波打つ港の水から、総督の家の下の堤防に逃れる代償として強い印象を残した。

気性が荒い二匹のアラブ馬が引く幌馬車は、私たちを載せ低い風の中ブーシェフルを背にした広々とした道を、途中小さな町を抜け、再度戻った海岸まで来た。そこで長く黄色い波は轟々と馬の汗を流していった。

広いペルシア風の家である総督府は、東洋の家々にありがちな一種の反要塞の観を呈している。中庭があり見事な入り口があり、充分に装備されたボンベイ海兵大隊の兵士たちが整列していた。

イラン、トルコで典型的なように、応接間や、居間、客室は上階にあり、バルコニーに面している。下階は、従者・召使いの詰所であったり、邸内の執務室によって占められている。

心地よい炉辺の火は、ロス大佐と家族の歓待のいい介添えとなった。というのも、水銀温度計は先週は29℃から34℃を示していたのが、あの日は日の出から7℃にまで下がり寒く、湿っぽい風はまるでイギリスの2月の時期を連想させるほどだった。

*原文では華氏

分厚い総督府の壁をもってしも、海砂は入り込み、金切り声をあげ唸るようなシャマルと、時折シューという漏れるような低い音をたて風に吹きつけられ入ってくる水しぶきを止めることはできていない。



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この何とも貧相な港は、非常に大きな交易の一端を担っている。

原注1 :1889年の諸報告によれば、ブーシェフルに入港したイギリス船籍の積み荷量の規模は、111,745㌧から118,570㌧に及び、イギリス領からの輸入額は744,018£から790,832£と推計されている。アヘン貿易の好調ぶりにより、同年のブーシェフルからの輸出額は、535,076£と推計されている。その他当地から輸出されるものとしては、ピスタチオ、アラビアゴム、アーモンド、アカネ、羊毛、綿花がある。特にアラビアゴムに関しては、スーダンでの戦争(マフディーの乱)が当地からの供給を促し、イランは非常に大きな利益を上げた。それは、標高の高い地域に生育する、ある種の低灌木、特に野生のアーモンドの木から採取される。その欠点は、薪または木炭として高価で貴重なことである。1989年に輸出されたアラビアゴムの量は、1988年の14918クウォーターに対し、7472クウォーターである。その価値の下落は量のそれ以上であった。1889年のブーシェフルにおける輸入額は1888年と比べ244,186£増加した。同じく輸出額は147,862£増加した。主として中国に対するアヘンの輸出量は、1888年の148,523£に対して、231,521£だった。

もっとも国内の諸都市向けの梱、荷箱は、コタルやところどころ重なった岩石に阻まれた山脈という、危険で恐るべき道々を、ラバの背中に載せて輸送されねばならないのであるが。積み荷を背負ったラバ達は、道路状況により、イスファハンまで30日から35日、イスファハンからテヘランまで12日から16日かけて赴く。

ブーシェフルは、一般的な近東の街々とそう違わない。不規則で汚い多くの小路。泥の土壁、ここそこにある低い入り口。隊商の要求が大きく考慮され、商品の中の工業製品の大半はイギリス製であるバザール。男性の装いの種類の数々。いくつかの小規模なモスク。目立つアラブ人風の顔立つと装いの人々。そして、遠くの町井戸から汲み上げた水を入れた革袋を運ぶロバの絶え間のない往来…これらが私がイランに着いて最初の街で目にした光景である。



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しかしながら、イラン的要素は、お役所的形式主義や建築様式を別にすれば、それほど強いとは言えない。この地の人口の多くはいわゆる湾岸のアラブ人が占めている。およそ50人程のヨーロッパ人も住んでいる。彼らの中には、電信技師だったり、イギリスが関係する商売に携わる企業の現地代表がいる。イラン湾岸貿易会社、メッサー・ホッツ会社、メッサー・グレイ=パウル会社、といった会社群は湾岸における貿易の発展に大きな貢献をしてきた。

ブーシェフルは、シラーズやペルセポリスを観光しつつ、イランを通って帰ろうと考えるインドからの旅行者にとって、素晴らしい出発点である。チャルヴァダール(ラバ)や必需品は手に入れやすい。それでもなお有り余るようなこの地の住人の親切心は、有能かつ信頼に足るイラン人従者を得るという、困難な仕事に立ち向かうことすらさせてはくれない。

インドから連れてきた素性と気立てのよいイラン人から、旅において最も重要な用意をするのに、ブーシェフルを信用するなと警告されていた。彼は、母国へ帰りたいという望み、私の通訳、ガイド、そしてたった一人の付添人の役を買ってでていた。

後の二つの仕事における彼の能力についての重大な疑念を呼び起こされることが、カラチを発つ前にあった。そしてそれは、航海の日数を重ねるうちに、ますます重大になっていった。そして、客船に揺られる度にそれは確信に変わっていくのだった。その船には、

オシャレな若いイラン人紳士が、しゃちこばって座りながら、絶望の表情を浮かべいた。彼はシルクハットを被り、申し分のないヨーロッパ製スーツを着こなし、ケチのつけようがない長靴を履き、そして襟と袖口は雪のようで、真に洗練された印象とマナーを備えていた。しかし、そこでは無情にも、場違いであった。私は無作法で粗野な一団に混じって心細さを感じつつ、彼の有り様を写生した。そしてつまらない仕事を彼に頼んでも気乗りしないだろうと予想し問うと、嬉しいことに彼も私と同様の疑念に襲われていることが判明した。



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私は直ぐにハッジの話を聞くことにした。彼はあらゆるタイプの旅行者の従者をしたことがあり、マッカには10回も行ったことがあるという湾岸のアラブ人である。彼は、我が女王に馬を贈呈するために訪れたマスカットのスルタンに同行し、ウィンザーへ行ったこともある。およそ6つの言語を操り、英語についても申し分のない知識がある。いくつもの長所を持ちあわせ、野営生活に必要なあらゆる装備を持っている、と公言して憚ることがなかった。私は次の日の朝、この男を”何でも屋”として雇うことにしたのである。もっとも彼は、アバに身を包みターバンをした大柄で粗野な風貌のアラブ人であり、ナイフとリボルバーを備えたガードルを身に着けている。およそ女性の従者から程遠い見た目である。彼の来歴はおよそ逸材というより、ならず者というに相応しいが、私を気に入ってくれるだろうと願った。

吹き続けるシャマルは、汽船の荷降ろしを妨げ、我々が戻ろうとした客船にも打ち付けた。我々はファオの電信局に打電し、ブルース博士を救いだした。彼はジュルファのキリスト教伝道協会会長である。長くこの国と人びとに親しむことにより蓄えられた知識は、彼をチグリス川で出会った逸材の識者たらしめるに違いない。

シャットルアラブ川(チグリス・ユーフラテスの合流)の河口域の外側からおよそ60マイル上流、ファオの河口域の入り口からおよそ40マイル上流、そしてトルコの海港市バスラからおよそ20マイル下流、それが現在地であるカールーン川の出口にあたる地点である。

カールーン川はシャットルアラブ川に北東方向から合流し、途中で運河と連結している。それは語源学的にその起源が立証されたところの、ハッファール(掘削された)という人工河川である。それがいつ開削されたのかは、誰も知らない。その運河がシャットルアラブ川に連結する地点は、およそ幅1/4マイルであり深さは20~30フィートである。ムハンマラ(現:ホッラムシャフル)の町は、運河の右岸側1マイルに位置している。およそ2000人の住民がいる不潔な場所であり、町並みは主に泥土でできた掘っ立て小屋ないしはあばら家で構成されている。その背後には広大なナツメヤシ林の郊外が広がっている。



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ある冬の朝、ひどい湾岸の暑さの後であることから、実に素晴らしく元気の出ることがあった。今はただただ寒いだけである!シャットルアラブ川は高貴な川、河口域である。

それはイランとトルコの両国から流れを発している。しかしながら、両国間の山脈の影は既に消え、運河とギリギリのところで交差しているナツメヤシの深い森に取り巻かれている。そして、内地へ奥深く伸びている。その流れは力強く、belemやbuggalowのような現地の小舟や丸木舟は、地元民や商品の積み下ろしをしていた。その光景は、忙しい人生に心地よい一時を与えている。

我々はバスラ付近の、外国人居留地の下流地点に投錨した。不名誉なことに24時間ものあいだ、黄色の検疫旗がたなびく検査所に留め置かれた。バスラは丁度コレラが猖獗を極めており、時折一日に300人もの命を奪うだけでは飽き足らず、イギリス副領事をその子供と共にあの世行きにした。コレラはボンベイで根絶された後も、トルコでは未だ健在であった。そして、検疫所にて船の乗員に対する”健康証明書”が発行されていた。この措置は、見たところ余計な冥加金をとるため以外の目的はない。いらいらさせ、トルコのお役所仕事に対する嫌な気分をもよおさせるためのようなものだった。検疫による抑留後、錨地から出発するため蒸気を起こした。錨地の前には広大な別荘の一群があった。



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それは帯状のナツメヤシ林と川の間に位置し、マルヒルMargil(バスラ郊外)の外国人居留地を形成していた。熱のこもった沼沢地は川以外にはけ口がない。水路は僅かな水しか排出しない。通交の妨げでありかつ悪臭のするヘドロが別荘を隔てている。気候は湿っぽく、暑くマラリア性で、数週間の冬を除けば常に憔悴させるものである。あらゆる生活物資と文化的生活を送るための設備の欠如がある。以上の不快な要素の数々が、バスラを商業上の急務で訪れたヨーロッパ人にとって、最も住みたくない街にしている。僅かな住民が際限のない親切心を見せてくれたことに、詳しく言及する必要はないだろう。その出会いは、”アラビアの大河”に留め置かれた僅かな間の素晴らしい思い出となった。

この時期は”ナツメヤシの街”にとって不毛の季節である。使われていない川舟、イギリスの大きな貿易船、二隻の白く塗装されたトルコの軍艦,チグリス川の航行を許されたイギリス船籍の汽船が二隻ありそのうち一つのMejidieh、B.I.S.NのAssyria…これらは停泊中の船の一群である。ブーシェフルにおいては、全ての貨物船は積み卸しを小舟によって行わなければならなかった。貿易船に積まれるため夥しい現地工芸品が吊るされていたのは、僅かではあるが活気が感じられた。

収穫されたナツメヤシが集荷される10月は、当地で最も忙しい時期である。ナツメヤシ産業の規模の程度は、1890年のデータから推し量ることができる。60,000㌧が2万個の箱に梱包されバスラから輸出される。残りはヤシの葉の筵に包まれる。一隻の船で 1,800㌧ほど輸送される。箱のための木材の輸入量は、7,000㌧である。木材は、適切な長さに切られ、たがを張られ、内部を油紙で包装される。これらは主にイギリスからもたらされている。

1エーカーの農地に100本ほどの木が、生育することができる。成熟した木は、一本につき4㌡の利益をもたらし、利益は1エーカーで20£ほどになる。モハンマラの総督は、近年30,000本程植樹を行ない、さらに最近60.000本ものナツメヤシがイランの地に植え付けられた。



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ナツメヤシには160ほどの種類があると言われているものの、市場に出回るのはその一部に過ぎない。僅かな日光すら届かないほど、ものすごく鬱蒼としたナツメヤシ林、または”ナツメヤシ農園”は、灌漑設備に依存したまったく人工的な施設である。ヤシは雌木から採取された吸枝(サッカー)によって、苗木を増やすことができる。幼木は5年ほどで毛が生え始め、9年で成熟する。それからおよそ2世紀の間、収穫をもたらすのである。モハメッドは賢明にも、「ヤシを讃えよ。それは温情に満ちたおばさんのようなものだ。」と語った。その後直ぐにわかったのは、ヤシ林は人々に滋養に満ちた食物を提供するのみならず、建材、燃料、敷物、縄、筵の材料にもなっているということだった。しかし、当地のヤシ林は、以前太平洋の島々での美しい記憶の一部になっているココヤシが広がる光景とは似つかわしくない、単調な黒一色で川がそばにあるだけというまったく美しいとはいえない有り様であった。

悔いを残しつつ、船へと戻った。船長及び船員達は、ありったけの機転と親切心に満ちた仕事ぶりで、航海をまったく心地よく順風満帆にした。もてなしをもって受け入れを待つ岸に、ちょうど熱情と新年の始まりは同時に訪れた。空は快晴で雲一つなく、空気は澄んでいる。ヨーロッパ企業所有の別荘は、上階に住居、下階は執務室になっている。辺りは、こじんまりとした庭と商品倉庫になっていた。それらが連なるところが、領事館であった。

バスラの古代商業上の栄光は、あまりに周知のことであるから、わざわざ繰り返すこともない。現況は、この地に新たな重要性を与えている。ムハンマドの死後ウマルによって建設されたバスラは、現在10年のうちに25,000人もの人口を擁するに至った街である。大河の右岸に位置し、遠くにはナツメヤシ林が広がる運河周辺の景色が目立つ。





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羽根つきの如く、イランとトルコによって翻弄されてきたが、現在はトルコの領土になっている。カルデアとメソポタミアの南の巨大な出口だったのと同じく、バグダードとの商品の往来を支える”荷下ろし”のための港である。人口構成はまったく多国籍で、トルコ人、アラブ人、サービア教徒、シリア人、ギリシア人、インド人(原文ヒンドゥー人)、アルメニア人、フランス人、ワッハーブ人、イギリス人、ユダヤ人、イラン人、イタリア人、アフリカ人が見出されるだろう。民族よりさらに多くの宗派信徒がいる。

1月8日S.S Mejidieh船上、チグリス川航行―バスラは火曜日の午後4時に発った。晴朗な冬の3日間氾濫するチグリス川を遡航していた。その中で、赤く熱したストーブの前に座り重ねた毛布の中で寝ることは、”湾岸”の焼けつくような暑さを経た後には、最高の贅沢であった。船旅を共にする一団は以下のような人々であった。ブルース博士、ハモンド氏―

数ヶ月に渡りシャスタにてイギリスの交易を推し進めてこられた、インドにおける補給将校助手、フランス語を話すユダヤ人商人、下院議員ホン・G・カーゾン、シャバディ―チグリス・ユーフラテス汽船航行会社に雇われているハンガリー人紳士である、とても博識がある男―南トルコにおける長い滞在経験によってその国と人々について深い見識があり、いずれ我々の裁量で明け渡した情報を扱う店を構えるつもりであった。

カーゾン氏はカールーン川を”踏査”されており、船尾外車汽船から乗り移られてこられた。その船は、30㌧の積載量かつ、貨物無しで18インチおの深さがあり24から36㌧の重さがある曳舟が付いていた。それは、チグリス・ユーフラテスS.N会社である、リンチ・ブラザーズ商会に属していた。彼らはかつて、モハンマラ―アフヴァーズ間で、2週間途方に極めて困難な航行をしてことがあった。その孤立した位置と極めて小さい船体は、イギリスの新聞が喚き立てたシャットルアラブ川―アフヴァーズ間での汽船航行特権に関する、大層に書き立てられたほら話や嬉々としたたわ言、への面白おかしい批評の観を呈していた。



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というのも、この草稿執筆時、自体は奇妙な方向へ転回していたのであった。カールーン川交易の発展の果実は、部分的にイランの商社ナシリ社の手に落ちようとしていたのである。彼ら、とりわけ精力的な代表であるハジャ・モハマドによって、アフヴァーズは恐るべき早さで建設中の、全長2.400ヤードにもなるトルッコ軌道に、包囲されようとしていた。商人のための隊商宿(キャラバンサライ)は既に、低めの荷揚げ場がある川沿いに建設されている。そしてトロッコの始点、パン屋、肉屋、大工作業場、さらに、併設された、カフェ、日用品雑貨店は、モハマド氏によってアフヴァーズから連れてこられた男たちによって、営業開始されていた。かつての住民が残した作品のあるところに、川に面した壁があった。それらは、加工された石が積み上げられてできており、円柱部分は古代都市の面影を残していた。

ナシリ社は、小さな汽船を保有し、カールーン下流で商売に励んでいる。それは主に、汽船に括りつけられていた、それぞれ17㌧ほどのアラブ舟の、牽引役であった。春の氾濫でアフヴァーズ上流に移動されてから、モハンマラ総督所有の60㌧ほどの蒸気客船が下流の位置についた。そして、同社の二隻目の汽船は、下流のほうで航行している。

ザンジバルからもたらされた電柱は、モハンマラからアフヴァーズへの電信線敷設のため、各地に配置されていた。リンチ商会は、この航路上に300㌧程のよい汽船を配置していた。しかし、この冒険的なこの企業またイギリス人資本家は一般的に、不公平にもイラン企業の並外れた前進に対し-取り残されている。それは、政府からの寛大な措置が見られるのみからではない。



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有名かつ富裕なシェイフ・ミザルと協力関係にあることが大きい。彼のアラビスタン(フーゼスターンの別名)における非常に大きな影響力は、今までのところカールーン川での交易事業の開業の障害となっている。

人口や村々に起こりつつある事態改善に向けた大きな変化は、交易という魅力によりさらに大きなものになっている。それはナシリ社が、さらにその状況を助長しようと奮起しているところである。地租は非常に軽く、耕作者はいくつもの奨励金を得ている。去年、非常に多くの小麦が輸出された。綿花、穀草類、サトウキビ、ナツメヤシの栽培のための、河川地域の60年限租借には確固とした要求がある。

イラン兵たちは、全員それぞれのロバを所有している。アフワーズにおいては、当地に駐屯する連隊の兵士とアラブ人達との間で、どちらが過去にどれだけの物資を急流を通り輸送できた活気があり愉快な競争が催されていた。そして、それは鉄道軌道及び建設資材の輸送のためでもあった。この競争は、急流の物資輸送をより廉価かつ迅速にしていた。

これらの仕事に関連して一つ興味深い点は、アラブ人の福祉が急激に増加したことである。少なくとも一年の日給1クラン(8d.)の労働で、極めて多くの人々がロバ二頭、

鍬、国有地において彼らの名義で栽培が可能な穀物の種子を所有するまでになった。尤もそれは、収穫予定の穀物を抵当にいれた高利貸しに頼らないで済むとしても、日々生きる分を除けば僅かな収支しか残さないのであるが。

今のところシェイフ達は、生存賃金より僅かに多いだけの食料をもって、労働の指揮をできている。彼らに頼らねばならない極貧層の人々は、小作人として仕事を始める。事態は急速に変化している。

注意深い観察者が1891年に書いた、外国の事務所に送ったイランにおける報告の第207号―私が前述の事実を転写した―には以下の記述がある。”河岸地区に住む全アラブ人は、降り注ぐおびただしい雨水を利用して激しく働くだけの存在という見方が支配的だった。



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鋤を引かせるのに使える動物といえば、馬、ラバ、牡牛、ロバ、そして畦道を通る子供を連れた牝ロバさえも使役されていた。”

このような事実上のカールーン川におけるイランとの交易開始は、望ましい事態とはいえ予想されたことではなかった。9ヶ月に及んだイラン旅行の後、私はイランの将来に強い意見をもつに至った。もしこの帝国が永続的かつ確固とした再興をしようとするならば、それは企業心に富んだイラン人によってなされねばならない。そのために、外国からの技術ないし資金援助があるだろう。もっとも後者がより少ないだけ私はよりイランの未来について希望をもって保証できるのである。ナシリ社及びリンチ商会は、統合する可能性がある。ニューロード社は、テヘランまでの水陸での定期輸送業を営むため、彼らと一緒になるかもしれない。このルートは、イギリスが北イランにさえもその工業製品を供給するための交易路として、バグダッド及びトレビゾンドの両ルートと、有効に競争を進めるであろう。

既に、人々の生活水準が改善されたことにより、イギリス・インドの綿製品と砂糖の輸入は増加している。特に後者は、フランスより1ポンドたったの2.5ドラクマと非常に低価格なものが、スルタナバードまでの北部地域に浸透している。不幸なことに、ロシアの影がイランの未来に暗雲を垂れ込めているが。

現在二隻のイギリス船籍及び4隻のトルコ船籍の船が、チグリス川上を航行している。それら船は、喫水線を浅くする必要がある。というのも、川は一定期間浅くなり、場所を変える砂州だらけになる。Mejidichは、あふれるほどの美食の揃った、快適な船である。そのサロン、特等室、操舵室は、船首から船尾まで開かれたメインデッキにある。その上にはりっぱな最上甲板があり、客船の船首部分の甲板の一部として、たむろする雑多な乗客で混み合っている。船はイギリス製品を満載していた。



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最初に興味が移ったのは、コルナであった。アラブ人の間でエデンの園と評判の、チグリス・ユーフラテスが交差する細長い岬であった。その”エデンの園”には村があり、土壁の家々の前では明るい篝火が焚かれていた。赤・白の服に身を包んだ女性、ターバンをした男性たちが火明かりに照らされていた。極めて多くのベジタリアンがおり、主としてヤシの樹の幹に括りつけられた地元の小舟、傾きかけたミナレットがある。白い月明かりが湖沼の濁った水面を、荘厳に照らしていた。コルナとユーフラテス川は陰に入り、キラキラ光るチグリス川の水路が現れた。その夜は、楽園を夢見るにはあまりに厳しい寒さであった。古代カルデアの地にあってさえ、また”信仰深いアブラハム”の子孫ほどではないとしても、数え切れないほどの輝く星が水面に映しだされているにも関わらずである。

コルナを発って4時間すると、預言者エズラの墓と言われる旧跡を通り過ぎた。遠くからだったのと、月光のせいで、ほんの小石にしか見えなかった。川岸のほうに突き出た控壁と、その上部に幾つかの長い平屋根の建造物があり、中心にはタイル張りのドームがあった。チグリス川の流れは、とても激しい速さで、沖積土を貪欲に飲み込んでいく。ユダヤ人旅行家トゥデラのベンヤミンが、記述した12世紀に存在した幾つかの建造物は、遠い昔に流されてしまったことだろう。この陵墓は、ユダヤ教徒のみならずムスリムやクリスチャンにさえ、大きな崇拝の対象となっている。ユダヤ教徒の巡礼者にとって偉大な地であり、アラブ人にとっても崇敬されていることから護衛の必要もない。

原注2:A.H.レナード先生の記述によれば、ドーム建築の内部は2つの部屋から成っているという。外側のほうは空洞であり、内部のほうには預言者の墓がある。化粧漆喰を塗られた煉瓦建てで、木製の入れ物または箱状のものに覆われている。その上部には大きな青い布がかけられており、黄色い飾り房が点けられている。寄進者の名前は、その上にヘブライ文字で書かれている。―レナード著「初期の冒険」第1版、214ページ



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次の日の朝、ハジは朝食―いや彼が言うにはグラブ―を持ってきた。そして、私は、「アブラハムの子」にびっくりし、考え込んでしまった。彼は、ターバンとアバを脱ぎ捨て、腰にはナイフと数珠を収め、一般的な砂漠の未開な「イシュマイル」の風貌をしていた、それで、頭を赤い線の入った黄色い絹のショールであるクーフィーヤで覆っていた。先端には飾りが着いており、半ヤードほど布を後ろに垂らしていた。それらを、3つのラクダの毛の留め具で、頭につけていた。華やかな帯のついた緩めの羽織、ある種のズボン、つま先から膝まで届きそうなダブダブのブーツ、あちこちに見える脱ぎ捨てられた下着、これらが彼の衣装の全てである。

最上甲板からの眺めは、これといった心を打たれる多様性に欠けるものの、単調であるには詩的すぎる光景である。チグリス川からほんの数フィートの高度しかない、カルデアの平地は、ずっと遠くの地平線まで続いている。それは今日まで無傷のままである。低い丘陵群は、冬の初雪によって雪化粧されると、混じりけのない青空の空高くにうっすら映る。 平原は、黄褐色かつ茶褐色であり、時折村のそばで水しぶきが上がっている。ナツメヤシ林の濃緑色、または冬小麦畑の明るい緑色があるところの地表は、その外側と同じく黄褐色かつ茶褐色である。目にするのは極めて稀な、これら手の入った野の中の例外に、木々に侵されていない極めて広々と開けた平原もある。僅かにあったのは貧相な潅木だった。それらは聖ヨハネのパンとも言われるキャロブ(mimosa agrestis)、ちっぽけなギョリュウであり、また甘草、ニガヨモギ、セイヨウフウチョウボク、ラクダが好むアルカリ土壌を好む植物は、極めて水分が少ない状態でも確認できる。

正方形の土壁に囲まれた掘っ建て小屋からなる幾つかの村があった。またむしろの小屋からなる村落もあった。むしろは織り込まれたスゲやアシの類によって作られており、ヤシの葉によって強度が高められている。しかし、矩形に曲げられたよく生育した背が高く強いアシの茎が、より一般的に使われる。また、水生植物の長い葉が一緒に織り込まれる。それには、主としてイグサが使われる。掘っ建て小屋は、巧みに建てられており、アラブ人達と家畜が無差別に利用している。


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我々が村を通りかかったとき、中から女性と子供たちがぞろぞろと出てきた。どの村も川から揚水するための装置を備えていた。

航行中の小舟は、急いで下るとき、それ以上に通常より強風がふくことによって、一時的に速くなることがある。そうでなければ、両側のアラブ人漕手が、逆方向に針路を変えるため苦労している。

より遠くの大地では、幅広く背の低い茶色のテントの一群が、まばらにちらほら見える。クーフィーヤを被ったアラブ人羊飼いの下にある、大きく茶色い羊の群れが、点在していた。どの羊飼いも、長い小銃を肩から下げ武装していた。家畜の群れとラクダの列は、赤茶けた大地の上をゆっくりと移動していた。馬に乗った男たちの集団は、長い銃と槍を手にして、炎のように赤い馬の尻を叩きながら土手まで駆けていった。それから暫く馬を乗り回し満足してから旋回し、元いた砂漠のほうまで戻っていった。ひと続きの耕作可能地は、最も原始的な犁を小さな耕牛にひかせることで、耕されていた。ただ、大抵の土地は牧畜用にされており、テント及び畜群がこの地の主役である。 この主役は、偉大なる族長アブラハム―その一族をカルデアのウルからそう遠くないところに残し、カナンの地への長旅を始めた―の子孫であり、彼の時代から僅かな変化があった。

水鳥が群れているアシの茂った沼沢地、耕地、黄褐色の不毛の大地、茶色いテント、茶色い畜群、藁葺きの小屋、土と煉瓦の家の村々、女性と子供の集団、武装した牧人の一旅…は直ぐに移り変わっていく。変わらない光景といえば、電信柱と電信線である。

チグリス川は、部分的に不思議な蛇行をしている。”悪魔の肘”と言われる最大の湾曲地点は、徒歩だったら一時間もかかわないのに、船だと4時間かけてやっと抜けることができる。



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現在の流れはとても強くかつゆっくりとした前進は、この季節の低水位もあって、さらにノロノロとした絵面になる。頻繁に遭遇する砂州は、常に揺れを引き起こすことで初めて気づかされる。ギシギシとした音をたて、しばし動きを停め、船尾を回転しそれから全速力で発進する。しばしば、困難を克服しながら航海は続く。数時間の遅れと、外輪の一つの水かき版が損傷したこと、これらが最も深刻な災難であった。この時期の浅瀬にも関わらず、チグリス川は高貴な川であって、航行は本当に魅力的だった。人目を引くような物が多いわけではないが、砂漠の雰囲気、砂漠の自由は、それ自体素晴らしい。砂埃や砂礫は、雄大な帝国の一部としての塵芥なのである。有史以来の過去に多くの記録があるような、無数の協同組合が存在する。

勃興しつつあるトルコの町アマラ(Aimarah―誤字?)は、住民は7,000人余りで、河川が左方に鋭角を描く地点に建設されている。興味深いことに、この地でも20年未満で商業が可能になったことを、見ることができる。イランへの隊商路は開かれており、アマラは日々商業に勤しんでいる。張り出した格子窓のある、のっぺりしたレンガ建築群が、川の左岸の良好な沿道に立っていた。汽船が速度を出すと、群衆が詰めかけてきた程、まっすぐかつ不揃いであった。長身で素晴らしい体躯であり、よく装飾されたターバンで知られ、かつアラブ的要素が優勢な、オスマン人、ギリシア人、イラン人、ユダヤ人 達に、偉大なる進歩というものを見せつけただろう。

私たちは、中央に破損した水路がある、長く広いアーケードつきバザールを歩いた。そこにあったのといえば、ただ男だけの群衆と、肉、遊戯、パン、果物、穀物、レンズ豆、蹄鉄、鞍、マンチェスター綿、両替屋、銀匠、写本業者だった。聞こえてくるのは、取引の叫び声、馴染みのないヨーロッパ人女性の姿見た少年の好奇の小さな声だった。



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人を押しながら進んだりついてきたりしてきた群衆は、服を掴んできたり、歓迎の意があるようには思えない歌を口ずさんでいた。私はチャドルと顔布に身を包むのではなく、帽子と面紗を身に着けていたが、それが現地の厳格な習慣を冒していることについぞ気づかなかった。しかし、その失敗は不快な形で明らかになった。ムスリムの集落で女性は、集団で歩くことはあれど、男たちと歩くことはまずない。

私たちは、壁に囲まれた広場を訪れた。そこには、ザプティエ(警官*オスマン語で警官の意)の詰所、カーディル(法官)の法廷及び監獄があった。その監獄は、さながら動物園の檻のような外から見える鉄格子、隠された背後の空間、それに入り口が面する暗い監房または独房、からなっていた。それら全てが、小作人の小屋よりマシだった。幾人かの囚人は、よい服を着て、明らかにいい食事をしていた。あからさまな私たちへの見世物だった。ただ、守衛は手を振り大声を出し、脇の武器を見せつけ威嚇した。鉄格子の前まできて眺めることは、禁じられているのだとやっと悟らせたのである。大きな兵営を見た後、またも群衆に追い立てられながら歩き、アマラ郊外へと惨めに追い払われた。そこにはサービア教徒の集落があった。私たちは、サービア教徒が工房で働くところの金銀細工店を訪れた。彼らは、かの地域で独占営業を許されている。彼らは、町にあるアラブ人の一時野営地のみならず、その定住地までも訪れる。彼らは常に、女たちが身に着ける装飾品の、製作者および修理屋として歓迎されている。これら職人たちや同種族のその他の人々は、外見において明らかにアラブ人とは異なっていた。茶褐色というよりか白いということ、すなわちとても色白で色が薄い。漆黒の髪、大きく優しげかつ利発さを感じさせる瞳、小さくまっすぐとした鼻立ち、小さくよく整った口周り、がその特徴である。この端正な顔立ちをした”聖ヨハネのキリスト者”たちは、感情表現豊かなことを好む。そして、その身体にはおしゃれで小ぎれいさがあり、極めて頻繁な白衣での沐浴がある。両方とも、彼らの信仰の大きな特徴である。



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アマラの子どもたちは、一般的に川辺の集落におり、優美さを追い求めるような銀の鎖飾りをつけている。どれも朝食時のカップのてっぺんほど大きく、腰紐を締めるのに使われる。

アマラの後背地にあるアシの茂る沼沢地は、ペリカンと豚の生息地である。低背のギョリュウと甘草は土手のほうに見える。クットゥルアマラ(Kut-al-Aimarah)において、小規模な駐屯地と、天日干しレンガの家々からなるアラブ人集落が、チグリス川の高い土手の際にある。私たちは、そこへ再度上陸した。みすぼらしい格好の子どもたちは、私たちに強く迫り、恐ろしいほどにヨーロッパ系とは違う服装の貧相なザプティエは、子どもたちに石つぶてを浴びせた。石を取って招かれざる客に投げつけるのは、東洋の後進地域ではよくある好ましくない人々を追い払うあり方である。

*原注1一年後訪問したクルディスタンにおいて、ザプティエは全て退役軍人であった。兵士としてよくできており、身なりの良い濃紺の制服を着用し、長い乗馬用ブーツを履いていた。

ザプティエの署、広いが整備されていない練兵場がある兵営、豊富な商品が並ぶアーケード付きバザール、小口や窓が見えない家々、ゆったりとし敷物がしかれた長椅子の喫茶店、ヒング(asafoetida)、大きな体つきのアラブ人男性の集団、絵になる良馬上のアラブ人、まったく女性の姿が見えないこと…これらがクットゥルアマラでよく目につくところである。帆が大きくマストが高い船、大通り、遠くの岸にまで黄色の川砂が広がる濁ったチグリス川、"風にそよぐ"アシ、とても曇よりとした風吹く空…これらが土手からの景色を構成している。新参者が初めて見物したものに、世界最古とも言える小舟があった。それらはヘロドトスが、クファス(kufas)またはゴフェル(gophel)と言及したほど古い。それらは瀝青で覆われた非常に深みのあるカゴ状のもので、内側へ湾曲している。そしてそれは一人の漕手が、オールによって航行する。人モノ、まして動物をも運ぶ驚くべきタライである。



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私たちは当地を発つ前に、アラブのハーンかシェイフの家を訪問した。彼は私たちを中々入れない上階へ案内した。かなり見事な絨毯が敷かれており、長椅子にも同様のものが使われていた。しかし、壁は漆喰ではなく土であった。彼の立ち振る舞いは、威厳に満ちかつ丁寧であり、極めて鋭い表情をしていた。床に座ってる何人かの男たちは、その気位の高い表情と美しい体躯によって、アブラハムの息子イシュマエルの後裔としての純血性を示しているように見えた。かのハーンは、自部族は野戦に3000人の戦闘員を動員可能だろうと語った。しかし、もはや独立性が失われていることは明らかであり、部族民の戦士たちは、オスマン帝国非正規部隊またはバシ・バズウク(Bashi-bazouk)として数えられているすぎない。ハーンは、”イギリスとは友好関係をもちえない”ことを認め、加えて”困難が生じたら見捨てるに違いない”と言った。汽船上では、アラブ人の状態について、


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大層議論がおこった。年配の乗客たちは、それについてオスマン帝国当局による圧政と腐敗によって、日に日に状況は悪くなっているとした。役人どもは、農業をまったく取り分がないくらいの重税を課して、川辺の部族立ちを消滅させようと全力を尽くしている。それによって何千もの人々が、生活の糧を求め都市及びペルシャ湾岸へと移動している。彼らは、先祖伝来の自由な暮らしを、不慣れな環境にあっての先の不確かさと僅かな収入と引き換えにしている。砂漠のアラブ人たちは、未だトルコ人の征服を受けてはいないのである。



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一章(補遺)

チグリス川航行最後の日は、先人たちがそうであったのと同じく愉快なものであった。早朝に雨が降り後に、氷点下により甲板上で凍っていた。朝7時に、客室の水銀計は華氏28°(摂氏-2.2°)を示していた。

午後になると、一定区間をおいて藁葺小屋の村落があり、通る地方は徐々に賑やかになってきた。藁葺集落の壁の外にあるテントの群れは、ある種の不変性を感じさせる。耕作地が植える毎に、人口も増えていた。いくつかの場所は、鉄の刃がついてない原始的な木犁で地表を掘り起こしていた。犁というか、申し訳程度の手入れがされた枝で、2インチほどの深さの堀り跡を残していた。それらは畝のスジから10インチほど離れた農道である。キャメルソーン、ギョリュウやその他の低潅木が、作物の邪魔をするかのような間に立っていた。種は今蒔かれている最中である。種は発芽すると速やかに成長する。

掘り返しの浅さ、畝間のキャメルソーンやギョリュウにもかかわらず、実際、農夫達が牛やヒツジにを2、3週間鋤き返しをさせていることから、耕起性は豊かである。それから実ができるまで放っておく。彼らが言うには、この作業の結果、一つの種子から18から35花梗ができるとのことだ。収穫は、水が大地を覆う4月になされる。

別の方式の栽培も、この地において取り入れられている。それは、私たちの見るところ、超低地かつ毎年氾濫し大体において永久的湿地を中心にした環境下では、良い計画であった。



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この地は、水が干上がると草木に乏しく、平面で水分を含んだ地表はひび割れている。後に、それは乾燥してボロボロになる。この土壌は掘り返す必要がない。種は地表に広く蒔かれ、鳥に食べられてしまうのではなく地割れに入ってしまったものは、実をつけない種となってしまう。この豊かな堆積土壌には、まったく石がない。しかし、セレウキアからバビロンに、草木やレンガ、陶器の破片はもたらされる。人工的盛土もまた数多く、運河も残存している。また地味豊かな大地は、古代に一定の大きな人口を維持していたことをしのばせる。かつてあった全てのものの中で、この渦を巻く川のみが残っている。渦やさざ波が、”人々が来てまた去るとしても、私は永遠に流れ続ける”と歌っているように…

夜執筆をしている時、不意に座礁に伴う揺れによって椅子から投げ出された。外輪の損傷は、私たちをして修理のため、夜間に古代クテシフォン宮殿遺跡付近での待機を余儀なくした。川の右岸にあるセレウキアは、単に歴史上有名という以上のものがある。100フィートもの高さがある壮観アーチ道がある、タキカスル(Tak-i-Kasr、不詳)宮殿は、今遺跡を見ても充分にペルシア帝国王たちの栄光に思いを馳せることができる。ギボンによれば、かつて”ホスロー・ヌーシーラワーンは、荘厳な内部の間において各国の使者と謁見していた。”その閑散さと残る崩れた部分でさえ、ぺについて悲しみを誘う雄大さのようなものがある。しかし、それらは巨石の野蛮な破壊及びそれと同様に消滅している入り口部分の崩壊によって、深刻な被害を受けている。

クテシフォンを発って直ぐに、耕地は増え、バクダッドから数マイル圏内に入り、川岸には大きな道路も見え、にわかに賑やかになった。



p23カリフの街

女部屋の”宮中女官”は、殺風景な壁によって行くべき先を示されていた。その住居は、土壁小屋と羊毛のテントのごちゃまぜであった。牛や馬の放牧地を伴った広大な農場施設がある。ナツメヤシ園およびかんきつ類果樹園は周縁をかざり、揚水装置は川沿い地域に間隔をとりながら水の汲み上げを知らせていた。この国の産品を積んだロバの列、馭者の一団及び数えきれない徒歩の人々は、市街地へ入っていった。凍える温度のなか太陽は昇り、血だまりか業火のように空をオレンジに染め上げた。しかし、朝は霧がかかり曇よりとしていた。それゆえ、アラビアンナイトの舞台ということは、いささかも壮麗な後光を街の風景に充満させることはなかった。いくつかのタイル張りミナレット、ある種の青いドームのモスク、見栄えの良い家々―その中のいくつかはヨーロッパ系居留民の家であり、黄金の実をつけたかんきつ類果樹園に半分隠れている―、絵画風な渡し船、右岸のほうの密生したヤシの木々、遠くにきらめくカッディミヤ及びズベダイの墓、時代遅れのイギリス砲艦コメット、二隻の汽船、クファス及びゴフェルを含むおびただしい現地工芸品の数々、ひときわ目立つ税関施設、水に面した退廃した裏路地…これらがMejidichの甲板から見えるバクダッドの景色を構成している。

私たちが散らばったクファスがたくさん浮いているところに投錨すると、直ぐさま官憲およびハマル(ポーター)の一群が甲板上に入り込んできた。数人の乗客は二時間前既に上陸しており、その他はすぐに、それぞれの目的地に向けて進行していた。 我が道連れたちは降りることがなかったので、酷く聞き慣れない言葉による喧騒のただ中に、取り残されることになった。ハジは、子供のような無力さを装っていた。ある英語を話す者が、荷物を開けられることなく通過させると話してきたことで、賄賂役人が気前のよさを見せてきた。



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それから、帯剣した高位の役人がハジの肩を叩き、例の男が言うには、後1リラほど支払えば万事大丈夫ということになった。この時、思いやりのあるドアティ艦長がサットン博士を伴って、砲艦コメットの小舟でもって、岸まで送ってくれたのは、本当に有り難い思いがした。荷物は、別の小舟に載せられ、直ぐに視界から消えてしまった。そして、税関へ連れて行かれた。そこには、彼らが銃と言い張るテントの柱が、あった。また、潰れたデーツが箱に入ってると思ったらなんとタバコだった!

私が歓待を受けた教会の伝道施設は、現地の建物が使われていた。建築及び装飾はイラン人が行ったが、そのうち何人かの領事館員だった。そこは、無地の壁でヨーロッパ人地区の狭い道にあった。小王国への入り口たる、それなりに硬いドアがある。その周りには、召使いの詰め所があり、ムスリム訪問者のための応接間がある。小王国のそれ以外の空間には、台所、執務室、そして東洋の生活で重要な役割を演ずるセルダブ(serdabs)がある。

セルダブとは半地下室で、半円形の入り口があり、地面から上は格子模様が描かれている。それらは格調高く、アーチ形天井は裕福な男の家の柱によって支えられていた。主婦の幸福な様子はそこかしこに確認された。この部屋が与える一般的印象は、ある種の秘密めいたものであり、私を歓迎するためのイギリス式祭事を行うにはうってつけだった。しかしながら、その冷たさはぞっとするものだった。一回だけだったが、私は聖餐式の後にリボルバーと弾倉がを帯びた外套を着ていたことに気づいた。それは、ハジが押収されないように着ていてくれと懇願されたものであった。



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これらアーチ形天井の地下室で、ヨーロッパ人及び現地人は暑い季節を過ごし、夜は屋上で寝るのである。この下階より上は冬の客室となっている。石造りの立派なバルコニー付きで、3方向それぞれ中庭に面している。川沿いの方には、オレンジ園があるが、丁度今は「ヘスペリデスの園」(リンゴ園の意)になっているかもしれない。そして、眼下に高貴かつ渦を巻いたチグリス川が流れるテラスがる。その先には、黒い帯状のパーム林がある。川に面した部屋には、上げ下げできる網戸がついた広い滑出し窓が一列6つある。なお面する中庭の風景は美しい窓枠細工によって切り離されている。共同部屋になっている客間は、素晴らしい部屋だ。 優雅で美しい天井、金によってより美しさを増した淡黄褐色の陰影の壁装飾、窓枠細工…どこをとっても東洋情緒を醸し出している。この部屋の石膏細工は、tイラン的特徴があると言われ、とても可愛らしい。この家は、広いにもかかわらず、医療および聖職分野で伝道活動を行う家族たち、二人の女性宣教師、二人の客人といった具合で、不便にも混み合っている。それぞれの客室は、二列の湾曲した壁龕があり、上にとても見栄えの良いコーニスがある。部屋を温めることはできないが、冬は短く太陽は照っている。 それに、アルスターコート、厚地の外套、毛皮のコート、といったのを朝食時に着ていれば、太陽が温めてくれる。



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イザベラ・バード「ペルシアとクルディスタンの旅」第一巻 @norifumi1992

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