悲しい坂の袂にある東郷寺
駅員3
東郷元帥とニミッツ元帥
『悲しい坂』を下ると、右手前方にこんもりとした森が見えてくる。日蓮宗聖将山東郷寺だ。桜の季節にここを訪れると、見事な枝垂桜が門前に迎えてくれる。
敷地は、『はけ』をうまく利用した造りになっていて、数メートルの階段を昇ったところにある山門は、下から見上げるとその存在感に圧倒される。山門の下に立って見上げると、山門の向こうには空しか見えない。
青空を背景に、質素でありながら、荘厳さを併せ持つ山門を眺めているだけで、自身の内面から力強さが沸き上がってくるような昂揚感を感じさせてくれる。
階段を登りきり屋根を見上げると、鬼瓦と狛犬が乗っていて、柱は無垢の木材が屋根を突き破るような勢いで立っている。
さもありなん、この山門は、かの黒澤明監督の『羅生門』の舞台となった山門のモデルとなったものだ。映画では二階建てに描かれているが、東郷寺の山門が平屋建てになっていることを除けば瓜二つである。さらに『羅生門』に続く『美女と盗賊』でも使われている。
今一度この寺の山号と名前に注目していただこう。『聖将山東郷寺』・・・なんとも勇ましい名前ではないか。
東郷寺は、東郷平八郎の別荘跡に建てられた日蓮宗の寺で、山門は1940年(昭和15年)に建立された。非常に大きく質素でありながら荘厳な雰囲気を漂わせている見事なつくりだ。
日露戦争の英雄である東郷平八郎元帥の死後、東郷元帥を慕うもの達がここ別荘跡に集まり、1939年(昭和14年)末に東郷寺は開山された。
この山門前の枝垂桜は、桜の季節には見事な花を見せてくれるが、これ等の枝垂桜は身延山久遠寺から苗を移植したものと言われている。
東郷元帥は、1934年(昭和9年)に86歳で亡くなった。千代田区三番町にあった私邸跡は、現在は東郷元帥記念公園となっている。
東郷元帥については、次のような逸話が残されている。
太平洋戦争時のアメリカ海軍の猛将達は若き日に東郷元帥と接した事があり、その人柄に東郷元帥を崇拝しているものが多かった。
1905年(明治38年)に、日露戦争の戦勝祝賀会に来日していたアメリカ戦艦オハイオの士官も招待された。特に当時兵学校を卒業して士官候補生として任官したばかりのチェスター・ニミッツは、仲間と東郷元帥を胴上げした後、東郷元帥をテーブルに招き、10分ほど親しく歓談したと言われている。東郷元帥の人柄に心酔したニミッツは、後に「東郷元帥の血筋は、山本五十六ではなく、ニミッツへと受け継がれた」とも言わしめるくらい傾倒していったと言われている。
1934年(昭和9年)の東郷元帥の国葬・家族葬に、当時アジア艦隊旗艦の艦長となったニミッツは、来日して参加をしている。
第二次世界大戦後、GHQによって日本の軍事的モニュメントの撤去作業が行われたが、米国海軍は東郷に関するものには手を触れさせなかったという。
さらにニミッツは、戦後荒れ果てて米軍のダンスホールとして利用され、荒廃していく三笠の姿を見て驚き、海兵隊に歩哨を立たせて保存に努めるとともに、1958年(昭和33年)に文芸春秋に「三笠と私」という一文を寄稿した。
さらに、ポケットマネーで当時の2万円を寄付し、アメリカ海軍に働きかけて、廃船にした揚陸艦を日本に寄付し、そのスクラップ代3000万円を三笠保存に当てさせた。
1961年(昭和36年)に無事三笠の復元が完成すると、その開館式にアメリカ海軍代表として参加したトーリー少将は、「東郷元帥の大いなる崇敬者にして、弟子であるニミッツ」と書かれたニミッツの肖像写真を持参して参加した。
またニミッツは、米軍の空襲で全焼した東郷神社の復興にも寄付をしている。
1976年(昭和51年)にテキサス州に『アドミラルニミッツセンター』が建設されると、日本は日本庭園を送っている。
チェスター・ニミッツは、日本として忘れられない、そして忘れてはならない米軍人の一人であろう。
悲しい坂の袂にある東郷寺 駅員3 @kotarobs
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