一章 1 紙魚の核
俺は頭を抱え、ついでに頭に良いらしい頭皮マッサージもしてみたが、出てくるのは小説の発想ばかりで、悪魔の書架への帰り方が浮かんでくる気配もない。
「頭皮マッサージはこういう健忘症には効果ないのな、知らなかったわ。それはいいとして、紙魚が俺たちの記憶いじれたりすると思うか?」
「どうなんだろう。紙魚に襲われたとしたら普通、物理的な怪我だろうけど、紙魚に襲われたんじゃなくて、紙魚に汚染されたとしたら……」シュウが暑そうにネクタイを緩めた。
紙魚に侵されたクリエイターの姿がふと頭に浮かんだ。黒く、紙魚と見間違えるほどの異形の姿。破綻した物語、紙魚を生み出し続け、最後には自身も消失しかねないものだそうだ。
紙魚が多すぎる場所にいるとなると体調が悪くなったりするらしいが、もし顔が青白くなるのが汚染の前兆だったとしたら、シュウは……。
身体の芯が冷え込み、胸奥に溜まった不安が内側で暴れだした。
「そ、それはないだろ? あんなに黒くなってないもんな、大丈夫だよな? ついでに俺たち二人して覚えてないってのはどういうことなんだろうな? そうだ! 帰り方、レディ達に聞いてみようぜ」
視界の端でレディがヤシの木に登り、ライラとカンパネルラと名乗った少女が根元付近で応援している。ライラが翼で飛べば済むだろと突っ込みに行きたくなるにぎやかな光景だ。
「とりあえず落ち着こう。それに、無理だと思うから」シュウが肩を落とした。「浩太郎が起きる前に聞いてたんだ。帰り方とか、紙魚の核はどこだって。でも、浩太郎が言ったのと同じ感じで、もう倒したから紙魚の気配はもうないって……。帰り方もわからなくなってたみたいだけど、帰れなくてもいいって言うんだ」
「つまり、キャラクターに頼らずに、俺たちの手で紙魚の核を倒さないとやばいって状況か?」
「そうだと思う。たぶん」
紙魚に侵されたキャラクターはやっつければ紙魚をはがせる。紙魚の核を持つキャラクターも同じくだ。紙魚の核を消すことができれば、破綻しかけた物語は元に戻る。
だが、たいていすんなり上手く行ったりはしない。創作上の存在と戦うなんて生身の人間がやったらボロ雑巾にされかねないからだ。
おかしくなったキャラクターたちを元に戻す方法があれば直接やり合わなくて済むだろうが、さっぱり思いつかない。
「わかるようでわからん! 理解したくない! かりん早く来てくれ! 俺たちの腕っぷしじゃダルタニアンの右手だけでも腕相撲に負けるレベルだって!」
空に向かって叫んでみたが、お決まりのヒーロー参上! なんてことはなかった。
「あの、どうしたんですか?」
声のする方を見ると、水着姿の少年がビーチボールを抱えて俺を見上げていた。日焼けして真っ黒な肌に黒髪で愛想の良さそうな顔つきをしている。
「なんていうか、家に帰ろうとしたら鍵がどんなものかもわからなくなって帰れなくなった、みたいな状態で合ってるよな?」シュウに同意を求めると苦笑いで返された。
「えっと、よくわかりませんが大変そうですね。何かお手伝いできることはありませんか?」
「……君は?」シュウが一歩前に出た。
「ジョバンニです。はじめまして」ジョバンニはボールを抱えながら深々とお辞儀をした。
はからずもシュウと目が合う。
今まで紙魚の核があったのは、物語の主人公か主人公に強い結びつきのある関係者が多い。『銀河鉄道の夜』の主要人物といえばジョバンニとその友人カンパネルラ。変な言い方をすれば、最有力紙魚の核保有容疑者が揃ったことになる。
ジョバンニは原作と大きく変わったりしていないように思える。正直、『銀河鉄道の夜』は漠然としか覚えていないが、前半のジョバンニは割りと礼儀正しくて、真面目そうな子だ、という印象だったはずだ。紙魚に侵されれば、登場人物の性別はもちろん、性格、趣向すら変わってしまう。カンパネルラがいい例だ。汚染の酷い作品世界で、作品の主人公が、紙魚の核どころか紙魚に侵された作品世界からも影響を受けていない、なんてことはあるのだろうか。
「はじめまして! 俺は甲斐浩太郎で、こっちの顔が青いのが主人公って変な名前のやつ。言いにくいだろうからシュウって呼んでやってな」
「よろしく」シュウは一呼吸を入れてから話を続けた。「ジョバンニ君、聞きたいことがあるんだ。大丈夫?」
「はい、大丈夫ですよ」
「近くに鉄道はある?」
「鉄道はないですが、他の乗り物なら船がありますよ。大きな豪華客船なんです! あと乗れるとしたら、サーフィンのボードくらいですね」
背筋がぶるりと震えた。
『銀河鉄道の夜』で客船といえば氷山に衝突して沈没――いわゆるタイタニック号に似た海難事故だ。近くに氷山はないだろうから海に沈むことはまずありえないから乗っても悪くない、はずだ。
でも、乗りたくない……。
この世界で死ねば、元の世界の身体も死ぬ。賭けに出たら最後。失敗すればこの世とお別れってこともありえる。
俺は物言いたげな目を向けるシュウに、大げさに肩をすくめてみせた。
シュウは船を銀河鉄道に見立てようとしたがっているようだ。
紙魚の汚染を遅らせる、つまり作品世界の消失を遅らせるには、破綻しかけた物語を元の軌道に戻せばいい。キャストだろうが、舞台だろうが、役に穴があるなら、代役を立てさえすれば破綻を遅らせられるらしい。子供だましくらいの時間は稼げるはずだ。
何も手を出さないよりも、時間稼ぎしながら核を探す方がいいに決まっているのは確かだ。……さくっと死ぬかもしれないけど。
シュウに頷き返してゴーサインを出した。
「ジョバンニ君、悪いけどあそこの女の子たちと一緒に船に乗りたいんだ。あとジョバンニ君も一緒に……いい?」
シュウの問いにジョバンニは首を傾げる。
「どうしてですか?」
「状況が状況だから全部話してもいい? どちらかはまだわからないけど、今は協力してもらわないと」シュウが青白い顔を向けてきた。
どちらか、とはおそらくジョバンニが紙魚の核を持っているかどうかだ。
シュウはまだ顔色が悪いのに淡々と話している。情けない俺を見て無理して頑張っていてもおかしくない。
むちゃくちゃに膨れ上がったモヤモヤをまとめ、息と共に不安を深く吐き出し、腹をくくった。
「おっし、俺が話す。任せすぎてすまんな。もう大丈夫! まあ、なんとかなるよな!」
笑い飛ばしてみたが、身体の芯はひどく冷えたままだった。
『銀河鉄道の夜』編 安藤内 @Atuch
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