その三分は短くて

壱ノ瀬和実

その三分は短くて


     1


 暮れ泥む、八月の午後六時四十分。


 僕は夕焼けに染まる長良川を横目で見ながら、長良橋を北から歩いていた。


 真ん中辺りで立ち止まった。数秒とかからずにその人は南からやって来る。


「こんにちは、先輩」

「こんにちは、祐也くん。また会ったね」


 先輩は肩から肌を見せていた。白く美しいそれは、僕の目を魅了して憚らない。


 そして先輩の声は、僕の耳をふわりと撫でた。


「たまたまですよ」僕は嘘をついた。


 高校を卒業した先輩は、大学に通いながらアルバイトを初めた。実家の門限が厳しいらしく、暗くなる頃にはもう、先輩は帰路につく。それを知っている僕は、下校を少し遅らせて先輩と会うのだ。


 今日こそは想いを告げよう――毎日そう、決意しながら。


 何気ない話に終始する時間。笑い話に、悲しい話。それだけで、時間はいっぱいになった。


「祐也くん受験生でしょ。わたしと世間話なんてしてていいの?」

「いいんです。息抜きですから」


 ほんの少しなのだ。先輩と過ごせる、僅かな時間。この、一瞬。


「そういえばそうだね。あ、ごめんもう門限だ。帰らなきゃ」


 先輩は、夕暮れに小さく笑う。


「じゃあ、またね」

「はい……また」


 今日は、たったの三分だった。今日も、三分だった。


 先輩は北に向かって長良橋を歩く。ふわっと吹いた風は先輩の黒髪を揺らして、しかし風は、僕の胸を殴った。


 僕が勇気を振り絞るのに、三分は少し、短すぎるのだ。



     2



 雨降りの金曜日。午後五時。傘をさして歩く長良橋は、少し滑りやすかった。受験生には嫌な響きだ。


「また会ったね」


 長良橋の真ん中。傘の下の先輩はそう言って、にっこりと笑った。真冬の今、周囲は既に真っ暗で、さらに傘の影に隠れたとあっては、その表情はより掴みにくかった。

 見上げでもしなければ、分厚い雲が被さっていることを忘れてしまう。夜は、それほどに暗い。帰宅を急ぐ車の列が長良橋を埋め尽くすけれど、ロービームばかりで、そう明るくはなかった。


「冷えますね」

「雨だからね。凍えちゃうよ」


 先輩の声はいつも通り柔らかい。微笑みを混ぜたような声音に、いつもみたく僕は頬を熱くさせた。


 心臓の鼓動が早い。誰かが握っているのかと思うほど、心臓が早く動く。けれど、いつものことだった。


「――ねえ、ゆーやくーん。聞いてる?」

「へぁ?」


 僕の顔を、先輩の顔がのぞき込んでいた。心臓が胸を突き破るのではないかと思うほどの衝撃が、僕を襲った。


「どうしたの。ぼーっとして」

「あ、えっと、いや。なんでしたっけ?」


 顔が真っ赤だ。自分の顔色なんて分からないけれど、耳の熱さは分かるから、きっと当たっている。


「明日も雨だって話。川、増水するかな。ちょっとこわいね」

「大丈夫ですよ。降るのは夜中だけみたいですから」

「そっか。一安心だ。ありがと」

「そんな。天気予報まんまです」


 今日も昨日もその前も。僕はこの人に、恋をしている。


「もう時間だ。ごめんね。じゃ、また。月曜日に会おうか、なんてね」


 からかう調子で言って、先輩は胸の前で小さく手を振った。きっと笑顔なんだろうな。夜雨のせいで、僕には、見えなかったけれど。



     3



 土曜日。雨上がりに書店に行こうと思い立って、僕は南から、長良橋を歩いた。向こう側に行きたかったのだ。


 登下校でもないのに歩く長良橋は、少し新鮮だった。

 けれど、ここが通学路だという認識はなかった。僕にとっては、先輩と会える唯一がここだったから。


 すると、いつもとは反対の方角から先輩が小走りで向かってくるのが見えた。


「先輩?」声が裏返った。

「あれ、祐也くん。どうしたの」

「先輩こそ」

「あは、ちょっとね」


 いつもと違う。今日はやけに、笑顔がはっきり見える。そっか。今日はまだ、太陽が高いんだ。


「珍しいね、休日に会うなんて」

「そうですね」


 先輩のくしゃっとした笑顔に、僕は照れ隠しのつもりで笑った。


 先輩は、白のニットに青のジーンズ、紫のカーディガンで。いつもより、華やかな雰囲気があった。心なしか、香りも甘い。


 あまりにも可愛かったから、無理矢理に視線を逸らして、長良川を見た。川面が陽の光に照らされて光っている。眩しさに心を落ち着けて、僕はまた、先輩の笑顔を見つめた。


「変、かな?」

「いやそんな。似合ってます。……凄く」

「そっか。良かった。変だったらどうしようかと思った」


 照れ笑いのようなものが零れていた――先輩の頬は、ほんのりピンク色だった。


「ごめんね祐也くん、わたしちょっと急いでて。お話出来なくてごめん」

「どちらへ?」

「岐阜城。地元にいると案外行かないでしょ」

「そうですね」

「じゃあ、行ってくるね」

「はい」


 先輩は小さく手を振った。


「ばいばい」


 と、言いながら。


「はい。また」


 そして先輩は、長良橋を南へと走っていく。


 僕はその背中を見つめた。小さくてかわいい、大好きな、その背中。


 ――その先に。一人。手を振る人が見えた。


 背の高い男性だった。


 突然のことに、喉が詰まって、何秒も、僕は息をすることを忘れていた。


 遠くで笑う先輩がいた。今までで一番、光っていた。


「はは」なんて乾いた笑いを漏らしながら、橋の真ん中で欄干にもたれた。ついさっきまで降っていた雨のせいか、服に水が染み、背中が濡れた。


 なんで今日は、あの笑顔が見られたんだろう。

 太陽のような、それでいて儚げな、その笑顔。


 いつもは見られなかったんだ。どの季節でも、夕暮れは少し寂しくて、夜は暗すぎるから。

 僕が彼女に会えるのはいつも、太陽が陰る頃だったから。


 すれ違うばかりだった。隣には、立てなかった。


 快晴の空を見上げて、肩を震わせる僕は、骨が抜けたかのようにその場に腰を下ろした。


 想いを告げるには、少しばかり短かった、三分間。


 先輩が橋を渡り終えるのには充分過ぎた、三分間。


 冷たい風が吹く。


 僕は、叫びたい想いも叫べずに、声もなく泣いて、昨朝からの雨に濡れた長良橋を、ふらつきながら、顔を濡らしながら、歩いた。


 渡り終えるには、三分じゃ、全然足りなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

その三分は短くて 壱ノ瀬和実 @nagomi-jam

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ