最後のノック
二石臼杵
六文スープ
「二〇四」と書かれたアパートのドアの前に、私は立っていた。
こんこん。控えめなノックを数度、繰り返す。
ドアの横にはインターホンが設えてあるのだが、それは使わない。
「はい?」
ドアが開き、中から若い男が出てきた。面長で、両耳にピアスをしている。金髪と黒髪のストライプヘアも相まって、シマウマのような男だった。
「失礼。間違えました」
私は帽子を取って会釈をし、ドアから離れる。「っだよ……」と、不機嫌そうな声と、ドアの閉まる音が後ろから聞こえた。
帽子をかぶり直した私はすぐ隣にある二〇五号室へ向かい、ノックする。
こんこん。三十秒ほど待ったが、返事はない。中に人のいる気配もなさそうだし、この部屋の中には誰もいないのだろう。私は二〇五号室を後にした。
二〇六号室。二〇七号室。二〇八号室。二〇九号室。二一〇号室……。
どの部屋にも、私の望む相手はいなかった。
アパートの扉はすべてノックした。管理人室のときは、管理人から不審げな視線を投げられた。よくあることだ。もう慣れた。
私はアパートを去り、次の物件へ向かうことにした。
この作業を続けて、もう三十年ほどになる。
セールスマンと間違えられたこともあるし、不審者扱いされることも珍しくはない。塩を撒かれたこともあった。
私はあらゆるドアを叩いてきた。しかし、その先にいる人物は、たいてい私の目当ての者ではない。
歩いていると、次の目的地が見えてきた。空に溶け込むほど青く、うず高いホテルだ。
入り口の自動ドアをくぐり、何食わぬ顔で一階の端にある部屋の扉の前に立つ。しらみ潰しの始まりだ。
こんこん。ノックをするも、返事はない。
だが、扉の向こうに人がいることは手に取るようにわかった。
「失礼」
ドアノブをひねり、開ける。オートロックなど私の前では意味がない。
部屋の中では、包丁を持った男が部屋の主であろう若い女性を脅していた。
「なんだ、てめえは!」
男は怒鳴り、女を睨んだ。
「お前が呼んだのか!」
女は必死に首を振り、こちらを向いた。
「お願いします、助けてください!」
「失礼。間違えました」
私はそっとドアを閉じた。
閉められるドアの隙間から女の叫びが漏れ出てくるが、心配はないだろう。じきにどうにか助かるはずだ。
強盗か、それとも昔の男が逆恨みでもしにきたのか、あの二人の男女がどういう関係なのかはどうでもいい。私には関係のないことだ
私のやるべきことは人助けではない。次のドアをノックしに行くと、ちょうどパトカーのサイレンが近づいてくるのが聞こえた。
一階のドアをすべてノックし終わったとき、最初に訪ねた部屋から、さっきの男が警察官に連行されていくのが見えた。ちなみに私の方の成果はゼロだ。
別の警官に付き添われ、涙ながらに事情聴取を受けている女と目が合った。
「この薄情者!」
女は私をきつく睨んだ。私は帽子を目深にかぶる。
なぜ怒りが私の方に向くのか。なぜその怒りを犯人にぶつけないのかが不思議でならない。
これ以上ここにいると、私まで事件の関係者と思われるかもしれない。まだ二階から上の部屋を確かめていないのだが、しかたない。また日を改めるとしよう。この仕事に期限はないのだから。私は空色のホテルを引き上げた。
次に立ち寄ったのは四階建てのマンションだった。ベージュ色の落ち着いた外装で、ほどよく生活感があふれている。
こんこん。また一階の端からノックをする。
私は中から住人が顔を出すたびに「間違えました」と言って立ち去った。みな、疑心に満ちた目で私を見てくる。
三階の三〇三号室の扉をノックしたとき、その瞬間は訪れた。
りーん、ごーん、と、ノックの音が荘厳な鐘の音に聞こえたのだ。
「失礼」
私は返事も待たずにドアを開ける。
「いらっしゃい。お待ちしていました」
中に入り、リビングへ行くと、やや前髪の長い青年が椅子に腰かけていた。
「はじめまして」
帽子を取って私が会釈すると、青年は立ち上がった。
「ちょっと待っててくださいね」
彼はキッチンへ向かい、鍋に火をかけた。それからしばらくして、食器同士がこすれる音が聞こえてくる。
「お待たせしました」
彼はオニオンスープと、一切れのトーストとインスタントコーヒーを持ってきてくれた。料理を載せた皿とスプーン、それにスティック棒の砂糖やミルク、マドラーが次々とテーブルに置かれる。
これが、彼の最後の食事か。
私は匂いをかぎ、たゆたう湯気を目で楽しむ。オニオンスープを一口飲み、スプーンを置くと、青年に笑いかけた。不謹慎だと思われるかもしれないが、営業スマイルだ。
「では、行きましょうか」
「そうですね」
青年の手を握り、握手をする。彼の手首にはいくつもの赤い線が走っていた。
「遺書は残していますか?」
「はい」
青年の姿が、足元から薄れていく。
「心残りはありますか」
「……あります」
「でしたら、今度は必ず生きてくださいね」
「……はい」
青年の声が弱弱しくなる。気づけば、彼は下を向いている。
「僕は、馬鹿なことをしたんでしょうか」
彼の声には、涙が混じっていた。
「どう評価なさるかは、あなた次第です。私が口を出すことではありません。ですが――」
私は青年の目をまっすぐ見つめる。
「あなたを見つけられて、よかったと思っています」
本心だった。嘘をつかないのは私のポリシーだ。
「どれが正しいとか、間違っているとか、よくないとか、しょうがなかったとかいうのは、等しく言い訳にすぎません。おそらくこれから後悔するかもしれませんが、そうなるよう選択したのはあなた自身であるということだけは、忘れないでくださいね」
青年の体が次第に色を失っていく。完全に消える前に、私はあと一つだけ、どうしても伝えたいことがあった。
「ただ、あなたの作ってくれたスープは美味しかった。それだけです。私の口から言えるのも、私があなたという人間に対して思うことも」
青年はうつむかせていた顔を上げ、ぎこちなく微笑んだ。
「そっかあ。美味しかったんですね。味なんて、わからなかった。もったいないことしたかなあ」
そう言い残して、彼は跡形もなく消えていった。終わりとはこういうものだ。余韻も何もない。ここに彼がいた証といえば、テーブルの上のスープとトーストとコーヒーくらいだ。
さて、仕事終わりの一服だ。
私はコーヒーにミルクを垂らし、マドラーで軽くかき混ぜる。
ゆらゆらとコーヒーの水面をただようミルクの線が、顔のような模様になった。
「ご苦労だった」
ミルクの顔がしゃべった。私もコーヒーカップを持ち上げて話しかける。
「彼は地獄行きですか?」
「それはお前の知るところではない」
「できれば辺獄あたりに送って、様子を見てやってください。あの青年は地獄を味わうには優しすぎる」
ミルクが怒りのような呆れ顔のような表情に変わる。
「お前は人間に感情移入しすぎだ。元来天使というものは――」
説教が長くなりそうだったので、私はマドラーでぐるぐるとコーヒーとミルクをかき回した。顔のような模様はすっかりなくなり、コーヒーは均一に薄茶色になって沈黙した。
薄茶色に焼けたトーストを手でちぎる。サクッという音がして、まるで綿のように真っ白で柔らかな中身が現れた。私はそれをかじり、口に含んだままオニオンスープを飲む。こんがり焼けたパンにスープが染み込み、口の中でほどけていく。
天使。と、人間は私をそう呼ぶ。私の管轄は自殺者で、魂だけとなった彼らを見つけてあの世へ送り届けることが使命だ。
昔は羽を生やし、建物の中をすり抜けていったものだが、プライバシーの侵害だとかでそれは禁止された。
だから、一軒一軒家をノックして回っているというわけだ。
たまに、天使に見られた人間は加護を得るといううわさを聞く。個人差はあるものの、ついさっき男に襲われていた女性には、その加護が働いてくれたはずだ。ただ、直接手出しをするわけにもいかないので、こればかりは本当に運次第となる。天使は困っている者を見捨てはしないが、見逃すこともあるのだ。
私はオニオンスープをスプーンですくい、口元に運ぶ。じんわりと体が温まった。
最後に死者が用意してくれる料理は、いわゆる六文銭がかたちを変えたもので、あの世へ運ぶ天使へのチップのようなものだ。そのメニューは、彼らが死ぬ前に最後に食べたものと決められている。
死んだあとに許される最後の行為は、料理なのだ。私たち天使はそれらを食べて肉体を維持していく。
しかし、と私は思う。
このオニオンスープは本当に美味しい。何より温まる。私は料理はできないが、レシピぐらいは聞いておけばよかった、と少し後悔した。
黄金色のスープの中に差し込まれた銀のスプーンが屈折し、揺らめく。そのまま持ち上げると、中を泳いでいた飴色の玉ねぎがふらりとスプーンの上に乗り、私の口の中にゆるやかに流れ込む。優しい味がした。あの青年にぴったりだと思った。
最後にコーヒーを飲み、優雅なブレークタイムを終えた私は、マンションを出る。
ノルマは達した。これで、しばらくは何も食べなくても大丈夫だろう。
歩きながら、沈みかける夕日を眺める。
私は太陽のまばゆさに目を細め、ふと願った。
できれば、今以上に自殺者が増えませんように、と。
食べ過ぎて、あまり腹がいっぱいになっても困る。食べるのが苦しくなったら、仕事に手がつかなくなってしまうではないか。
それに、多くの料理を味わって舌が肥えてしまうと、死者の作ってくれた最後の料理に満足できなくなるかもしれない。
天使と死と料理は、常に程よいバランスを保っておくべきなのだ。
先ほど味わったスープと同じ金色の夕陽が、ビルとビルの間に呑み込まれていった。
背後のマンションに明かりが灯り始めるのがわかる。だが、あの部屋に光が宿るのは、もう少し先のことになるだろう。
私は夜に向かって歩き出す。今日の仕事はもう終わった。だから帰ろう。寄り道や間食などせずに、まっすぐに。ノックをしなくともよい、自分の家へ。
最後のノック 二石臼杵 @Zeck
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