第四話 夜の女神(上)

(零)


 用意周到かつ恐るべき陰謀をあらかた張り巡らせてしまうと、レィヴンはその見えざる蒼黒の翼を羽ばたかせて、再び地上に舞い降りた。


 女を説得するためだった。

 だが、その破滅的な計画を女に告げ、女の妖精のような面に拒絶と絶望が浮かんだとき、レィヴンはたったひとつの愛を失ったことを悟った。

 彼女のあまりに子供じみた奇形の肢体に欲望を感じたことはなかった。

 だが、どれほど遠く離れようとも彼女の凪いだ大海のごとき穏やかな愛に包み込まれていると感じていた。強いていえば、姉であり友人のような存在だった。だが、己の人生に不可分なものとして、凍てついた心に存在する打算を差し引いても、性愛を超えて深く深く愛していた。

 すでに王国崩壊の歯車は廻り始めていた。謀反者の数は、テノティチトランの住人のほとんど。いまや残り少なくなった地上の農奴たちも数百人ほど呼応していた。現実に生き残り、今後も生き残る気概があるものが。

 レィヴンこそが反乱の首謀者。彼は愛する女を裏切り、彼女の王国に牙をむいたのだった。一方で、終末から本当に救いたかったのは、彼女だけだった。この地上に終末を導いている当の本人だとしても。


 「女王レジーナ、こんな死にかけた星など捨てて、俺と一緒に驚異に満ちた世界へ航海に出よう。未知なる戦慄と歓びを道連れに、宇宙の果てまでも行くんだ」


 男は、女に拾われた少年の頃と変わらぬ暗い瞳で訴えた。なかば無意識に演じていた不器用で訥々とした印象はここ数年の放蕩ですっかり失ってしまったが、それでもふたりがより親密だった頃の自分を取り戻そうと、せめてこの場だけでもかつてそうであったように取り繕おうと努力した。


 「無理だ、セラフィム。私は大地に縛り付けられている。我が心臓はもはや大気圏を突破することにも耐えられぬ。仮にこの星を脱したとしても、お前が彼の地で囲っている愛人たちと肩を並べろというのか」


 その淡い色の瞳に侮蔑の色が映ろうのを見たとき、レィヴンの頬はかっと熱く染まった。これまでの恋慕とはまるで違った感情の爆発だった。それは、むしろ怒りや暴力に近かった。その狂おしさは太古の魔術のように彼を支配した。

 もはやどう足掻こうと少年の日には、あの楽園には戻れないのだ。衝動にまかせて女を抱きしめた。それでも、いまだ愛が勝っていた。陵辱するには忍びなかった。彼は最後の良心で押しとどまろうとした。だが、意外なことに女もうちなる情熱をもって応えた。

 レィヴンはふたりの間にそのような激情が存在したことに驚きながらも、女の少女のような肉体を愛した。


 それが、今生の別れだった。


(壱)


 シノロンと別れた後、イムナン・サ・リとゲイルは犬橇の一台を譲り受けて、アピの街道を南下した。

 御者はイムナン・サ・リ。

 ザックは橇犬どもに混じって、北の果てから思い出したように降りてくる地吹雪に急き立てられるように雪野をひた走った。


 おぼろかに明るい夜だった。

 さやさやと降り注ぐ月光が白い雪原を満たしていく。

 照り合う宙と大地。

 その狭間に横たわる闇を犬橇のそは往く。

 退廃と享楽の商都、タルクノエムへと向かって。


 犬たちは新しいあるじたちの微細な心の変化を感じていた。

 喪失のカタルシス、そしてふたりの間で積み重ねられた愛と嘘とが、すべて綯い交ぜに縒れて絡みついて、ついには魔物めいたアウラになって恋人たちを押し包んだ。

 そして、そのうちにあるふたつの精神は暗く脆く崩れ落ちんばかりだった。抱える闇の計り知れなさへの畏怖の念が、形無き鞭撻となって犬たちを駆り立てた。


 彼らは、人も犬もなべて知らなかった。大いなる変異が巨大な墓場と化したイ・ヴァン・カラクの谷間に生じていたことを。


 その前夜。

 惨事の後、発光銃を放って己の所在を明らかにし、ゲイルとシノロンと再会したイムナン・サ・リは、ナビヌーンの最期をふたりに告げた。

 シノロンは表情無くうつむいたままで、心のうちは見えなかった。魔術師はその柔らかだが決然たる峻拒しゅんきょの向こうにある刃先のような気概に触れることを恐れた。

 一方のゲイルは蒼白な面をあげて、自らの決意を告げた。


 「ナビヌーンの死を無駄にはせぬ。彼の望みどおり、我が手で天空の鍵を開けたい。地の果てまで行こう。サ・リよ、どこなりと導いてくれ」


 魔術師は、もはや己の感情を封じて、少女の意志に従った。ナビヌーンの遺した言づてもやはり重かった。そして、彼の死とともに、魔術師のなかのなにかも死んでいた。それは、運命に抗しようという気骨の最後の一片だったかもしれなかった。


 一日の三分の二ほどを占める長い夜が明けようとしていた。

 彼らは遅い日の出と争うように氷塊だらけの氷河の舌先を超えてアピの街道へ向かった。

 極夜に近い白んだ日差しとはいえ、氷河のうえでは致死的な太陽光線はより威力を増すが、隧道が雪に埋もれた今、他に道はなかった。

 氷塔セラツクやクレバスをかわしながら、薄闇の氷床を超速で犬橇は走った。時に雪稜を超えるために、犬たちを枷から解放して、人間たちが橇を担いだ。シノロンの雪面を読み取る第六感とイムナン・サ・リの知恵とが黎明のなかの導だった。

 アピへの街道が走る谷まで犬橇が一気に駆け下りるのと、暁光が空を染め上げるのとがほぼ同時だった。崖下の窪みで日中をやり過ごしたが、誰もがほとんど眠れず、交わす言葉もなかった。

 夜の訪れとともに、彼らは北と南の二方向に袂を分った。

 魔術師は予知者としての能力は持たなかったが、少年が未来の覇者のひとりとなることをすでに知っていた。


 一方、一行がまだ決死の覚悟で氷原を越えているその頃、谷間では氷河期の冬にあらざるべき奇怪な光景が展開されていた。


 それは、のったりと雪上を爬行する巨大な蟇蛙ひきだった。


 この得体の知れぬ両生類のあやかしは氷点下の気温をものともせずに、円匙えんしのような両掌で雪塊を掻き出し、やがて折り重なった屍体の山にたどり着いた。

 蟇は満足げに喉を鳴らすと、死者の鼻腔に蟇毒がまどくをたっぷりと注ぎ込んだ。強心と幻覚をもたらす猛毒にいかなる魔法が加えられたのか、死者の心臓はドクンと鼓動を打った。

 この冷血動物は再び喉を鳴らして、次なる死者の蘇生に取りかかった。この妖蛙が雪原を掘り起こすたびに生ける屍の小隊が生まれた。


 この屍もまた生前と同じように日の光には弱く日中は坑のなかに埋もれたままだったが、日が暮れるがいなや超人的な動きをみせた。

 死者の軍は驚異の跳躍力で跳び上がり、近代兵器は性に合わぬのか、使いこなすには頭が足りぬのか銃器を次々と投げ捨てて、刀や槍といった野蛮な得物を手に取ると、雪原を疾走した。四つ足で駆けるものもあった。それこそ、蛙のように飛び跳ねるものも。


 さて、当の蟇蛙はちゃっかりとちいさな荷橇を四つ足となった兵に牽かせて、時折楽しげに前肢を合わせたり、歌うように喉を鳴らしたりした。


(弐)


 追われていることは解っていた。

 だが、何ものなのか。

 犬橇は雪上をひた走る。しかし、それ以上のスピードで恐るべき魔の一団が背後から迫ってくる。積もる雪に覆いつくされているとはいえ、オトスの表街道を鬼神のごとき異形の群が堂々と闊歩、いや疾駆しているのだ。


 イムナン・サ・リは、その能力を最大限に解放して、迫り来る気配をつかもうとした。

 未知なる敵であることは明らかだった。

 その情動の原始性。あまりの数の多さ。有象無象の思念なき思念がいまや彼を呑みこもうとしていた。

 何ものであっても、この孤立無援の状況、この無きに等しい装備では勝ち目はなかろう。

 男は瞬時に答えを出した。彼の取るべき方策はただひとつ。この破滅的な状況から少女を逃すことだけ。


 「サ・リ」

 強い想念に吸い寄せられるように振り返ったゲイルが呼びかけた。闇のなかで、地吹雪のむこうで確かに目があった。

 「……」

 ゲイルは、魔術師の双眸に冷たく妖しい光をみた。

 途端に、抗いがたいなにかに捕らわれた。それは霧のようにふわふわと実体がないくせに、鉄の鎖のように彼女の思考を縛り上げた。


 (わたしは、世界の鍵。どれほどの犠牲を払おうとも、生きてタルクノエムにたどり着かねばならない。たとえ、愛する男を置き去りにしても)


 そうすることが正しかろう。だが、それはわたしの気持ちではない。わたしは決してサ・リを見捨てたりはしない。


ゲイルは我が身に起きたことをいまやはっきりと理解した。あろうことか、魔術師の術にかかったのだ。

 男は迫り来る脅威への楯となり、彼女だけを逃して死ぬ気なのだ。


 なんという裏切りだろう。猛然と怒りがこみ上げてきた。


 少女はナイフを引き抜くと、右手の甲に突き立てた。痛みが覚醒をもたらした。

 これで術は解けたのか。

 いや、解けなくとも、気概は勝っているはずだ。卑怯にも断りもなく彼女の前から消え去ろうとした男よりは。


 「馬鹿なことは、おやめなさい」

 イムナン・サ・リが吐き出した言葉を風が運んだ。言葉の端から怒りとあきらめが伝わってきた。

 「お前こそ、わたしを支配するな。わたしを操ることなど金輪際許さぬ」

 ゲイルの叫びは、はたして愛する男に伝わったのか。

 イムナン・サ・リは行き場のない腹立ちをぶつけるかのように鞭を振り立てて拍車を掛けると、次善の策を求めて四方を見回した。

 広い谷底にどこまでもつづく平坦な雪野原。身の隠し場所などどこにもない。


 はたして、勝機はあるのか。秘策はあり得るのか。

 問い掛けすら愚かしかった。この状況で、戦いの死命を制する術(すべ)など望むべくもなかった。

 もうすぐ、雪煙の向こうに敵の影が見えてくるだろう。


 破滅の時が、刻一刻と近づいてくる。

 イムナン・サ・リは犬どもを制して橇を止めると、すばやくタール紙で包んであった炬火トーチに懐炉の火種をつけた。そして、もはや武器らしい武器として愛用の狩猟ナイフしか持たぬゲイルに戦棍メイスの代わりに一束渡し、自らも一束左手に携えると、鋼も凍る厳寒期の戦闘に用いるにはあまりにも繊細過ぎる長剣を抜いた。

 少女はぴたりと寄り添って、すでに臨戦態勢である。


 未知なる敵は炎を嫌うだろうか。試してみる価値はある。だが、それよりも一刻も早く初めて相見える敵の正体を見極めたかった。


 地吹雪を巻き上げながら現れた魔物たちが、曲がり刀や槍を振り上げては滑稽無糖に飛び跳ねたり、多少の知恵が残っているのか、携帯した雪艇スキーを装着して滑り来る群影が、昨夜葬り去ったはずの兵士らだと気づいたとき。

 この期に及んでもはや驚異など存在し得ぬはずだったが、それでもイムナン・サ・リは彼らの正体に意表を突かれた。

 驚愕したと言っていい。

 あるまじきことに、兵士たちは明らかに異形のものと成り果てていた。頸や手足が奇怪な木の枝のようにねじけている。爛々と光を放つ眼球もちぐはぐな方向を向き、口許はだらしなくゆがんでいた。


 生きてはいまい。死んでいるのだ。


 信じがたいことだったが、それでもふたりは瞬時に理解した。


 そして、敵は死者。

 そう判明したときから、魔術師は微かな、ほんの微かな期待を抱いた。ならば、どこかに彼らを操る術者がいるはずだ。

 兵士らは人形に過ぎない。そして、彼もまた呪われし人形遣い(マニピユレーター)だった。


 「これは、何なのだ。やつらは死んでいるのだろう。古代の科学で死者を蘇らせたのか。サイラスの仕業なのか。サ・リ」

 「このような甦り術は、わたしの知る限り、神話や伝承のなかのもの。太古の地球にもクンルーンにも実在しませんでした」

 「では、一体何ものの手によって甦ったのだ」

 「おそらくは、この星本来の所有者の手によって」

 「……」

 「ちいさき神々。いまや地下の水流にひっそりと潜む夜の女王。人類に新しい血を与えたのと同じような道理で死者を操っているのでしょう。おそらく直接操っているのは、彼女の使い魔。十中八九、水辺の生物のはずです」

 「ならば、その使い魔とやらを倒せば良いのか」

 「理屈はその通り。だが、言うほど簡単ではない」

 

 一方、蟇蛙ひきは荷橇を玉座として後方に陣取ると、そのいぼだらけの喉をふくらませて歌った。

 光満ちるまえの太古の闇を、母なる夜の調べを。

 無辺の宇宙を、地中深き深淵をも満たすように高らかに、ひそやかに。

 それは、あまやかな恋の歌にも似た原初のふるえる旋律で、すべての生物と無生物の無意識に滲みこんだ。

 一片の岩すらも、ほうっとため息を吐くように。


 いまや、夜は、世界は、一匹の蟇蛙に支配された。


 魔術師はおのれを呪縛しようとするもう一方の術者の存在を強く感じながら、我さきにと抜きんでて飛びかかってきた屍兵を炎で薙ぐと同時にその腹を剣で貫いた。

 そのままでは容易に死なぬだろうと、なにしろすでに死んでいるのだからと、動きを封じたまま油脂でなめされた毛皮の防寒具に炎を押しつけた。


 案の定、火だるまになって転げ回り、やがて動かなくなったが、この方法ではそうそう数をさばけない。

 あっという間に包囲は狭められた。ゲイルとともに炬火を振り回して威嚇するが、無数の刃に切り裂かれ、野蛮な腕で引き千切られるのは時間の問題だった。

 犬たちは良く訓練されているのか、恐怖で身がすくんでいるのか、おとなしく雪原に身を伏せていた。ザックもまた逸る気持ちを抑えて、群れに同化した。


 イムナン・サ・リは、空を睨むと、再び気配を、この忌まわしい屍兵の総大将の所在を読もうとした。魔術師の密かなる攻勢に応じるかのように、再び地吹雪が吹き下ろした。風に混じって邪悪な魔術の匂いがした。

 いかなる毒素が、いかなる幻覚剤が含まれているのか、雪煙は幾筋かの旋風となって巻き起こると、太古の巨獣の形をなした。


 長毛象マンモス剣歯虎スミロドン大懶獣メガテリウム大角鹿メガロケロス


 地吹雪に刻まれた彫像は、青みをおびてほの白く夜の闇に浮かびあがった。

 幻獣たちは、その桁外れの巨体をいからせて、いななきとも呻きともつかぬ声をあげ、あるいは咆吼し、おのが武器を、重量級の肉体そのものを、剥き出しの長い犬牙を、大鎌のような鉤爪を、ひとつ森のようにみみに分かれた枝角を、これ見よがしに振りかざした。

 巨獣が足踏みするたびに、あたかも実体をともなっているかのように大地が揺れた。


 幻覚の獣が猛り立つ。死者の群れが迫ってくる。二重の包囲。

 双剣のように炎と剣を操りながら、くらくらとする意識のなかで魔術師は見えざる敵の姿を求めた。ゲイルは目眩ましのスペクタクルをものともせずに、見事な棍棒術でトーチを巧みに操って、敵兵の嫌らしい歯や顎をかち割り腰骨を打ち砕いている。


 あえて、術中にはまるのだ。

 イムナン・サ・リは、精神の半分で夢幻の世界をたゆたった。屍兵と戦う肉体に後の半分を残して。神の児戯にも似たばかげた被造物もてあそびものに、同調し同期するのだ。

 魔術師の半魂は、もう一方の術者の放つ妖気にうまく乗って、屍兵たちのあいだをすり抜けた。幻の剣歯虎スミロドンのかたわらに見えざる肉体で寄り添うと、そのふとい喉をくすぐるようになぜた。


 「お前の主人は何ものなのかい。どこにいるのか教えてくれないか」

 魔術師は、うっとりとするような声でささやいた。


 剣歯虎スミロドンのわずかな目の動きで、答えは得られた。満足げに反り返って歌い続ける蟇蛙ひきの道化た姿が心象として浮かび、そこへ至る道筋がぼうっと光って見えた。


 魔術師の魂は、瞬時に肉体に戻った。

 ゲイルは、いつの間にか敵兵から奪った刀で、当たるを幸いに届きうる圏内に入るすべてを斬り払っていた。流血淋漓、死屍累々の凄惨な風景のなかで、戦場の狂気に身をゆだねた軍女神いくさめがみが凍りつくほどの凛冽さで世界をなぎ払う。

 魔術師はそれまで夢うつつの状態でいなしていた屍兵に向き合い、その身首をあざやかに両断すると、少女に告げた。


 「ゲイル様、敵の本丸が、使い魔の所在が解りました。風上にむかって突入します。掩護を願います」


 魔術師は目指す方角に剣先を向けた。少女は男の剣に軽く刀を合わせ、凜とした刃音を了解の合図とした。


 孤立無援の戦いのなかで、ひたすらに群がり寄せる敵を斬って斬って斬りまくる狂気。ぞくぞくと総毛立つような肉体の昂揚と冴え渡るほどに醒めて凍えていく感覚がもたらす無感動。

 その熱情と鈍麻の混沌のなかをふたりは無我夢中で泳いだ。

 戦いのなかで、男はおのれの使命の本質を取り戻しつつあった。生き延びて、愛する少女とともに、天空の鍵を開けるのだ。愛は確かに存在する。悲劇など恐れることはない。ふたりであればやり遂げられる。もはや、思い悩むことはないのだ。


 生死の狭間で、背中合わせに互いの生命を預けながら、男の手練れた技巧と少女の超速の荒技が息もぴったりと調和を奏でた。

 死中に生を求め、敵中に一条ひとすじの血路を開きながら、ゲイルもまたこれまでの疑心が洗い流されていくのが解った。

 霧が晴れるように、心の奥底の迷暗が解かれていく。もはや、愛だけがこの決死の道行きのしるべ、信頼だけが生き抜くすべだった。


 音もなく、色もなく、無駄な五感一切が消失した一刹那、百万分の一秒を捉える研ぎ澄まされた感覚のなかで、自らの胸の鼓動だけが高く、高く鳴り響いた。ただ、生きていると実感した。ゲイルは、その純然たる事実に対して喜びすら感じた。

 あまりに幸せだったので、破滅に誘いかける蟇蛙の歌が知らず知らずのうちにおのれの精神を侵犯しているとは夢にも思わなかった。

 戦場にそぐわないその浮揚感、幸福感こそが、残心とは対極にある慢心の、注意力欠如の警告だとは気づかなかった。敵兵に挟み込まれた男の窮地を救おうと一方の首を刎ねあげた途端、左脇に致命的な斬撃を受けるまでは。


 すべてが遅かった。

 気がついたときには、鉈のような刃に、厚い毛皮ごとぱっくりと切り裂かれていた。(どれほど厚かろうと、防寒着は鎧ではないのだ。)


 きらめく生の歓喜も、満たされた愛の記憶も、すべては夢幻泡影。掻き消えていく。


 イムナン・サ・リがゲイルの異変に気づいたのは、すさまじい殺戮の果てに目指す本丸にたどり着き、歌う蟇蛙ひきの王を一刀のもと叩き斬ったまさにそのときだった。

 魔法は解けた。

 吹雪の幻影は煙のように消散し、幾許の尊厳もなく生死を弄ばれた木偶たちは、糸が切れたようにばたりと倒れた。そして、目のまえでゆっくりと崩れ落ちていく少女もまた虫の息だった。


 「ゲイル」


 屍が山となす地獄の景色のなかで、魔術師は最愛の少女を強く抱きしめて、光の失せた虚ろな瞳をみつめた。少女の命はもはや指の間からさらさらと零れ落ちていく一掬いっきくの水だった。

 我知らず吐き出された呪詛の叫びは、凍えて空疎な闇を裂いて、夜をどす黒い憎悪と行き場のない怒りで満たした。

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夜行獣Ⅲ~玄冬編~ 齊藤 鏤骨 @ghost-love

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