第三話 別れ

(零)


 半年ぶりにガリオン船が寄港することとなり、テノティチトランの港はあわただしくなった。入港船は地球テラへの巡礼船だという。だが、レィヴンはそれどころではなかった。地上では異変が起きていた。

 天然痘。この試験管のなかにしかあり得ない疫病で、地上のいくつかの村が消失した。レィヴンの生まれ育った村もまた。

 疫病と前後して、飛蝗ひこうが大地を食らいつくし、吸血虫が人と家畜を襲い、雹嵐が形あるものを容赦なく打ち据えた。やがて、砂塵が星全体を暗闇に覆い、人工の海は腐潮に赤く染まった。天変地異の様々な変奏曲ヴァリエーションが、たて続けにこの白い辺土を襲った。


 レィヴンは二年半ぶりに地上に帰還した。衰微の星、白き闇の支配するテオティワカンの大地へ。

 久しく会うことはなかった女は老いていた。

 姿形こそいまだ妖精の女王のように可憐だったが、その精神はすでに老境にあった。レィヴンは地上の変わり様をただした。


 「お前の言うとおり、いくつかの災いは人為的に起こしたものだ。だが、終末が近いことに変わりはない」

 憤るレィヴンと対照的に、冷ややかな答えが返ってきた。

 「我らの人工太陽、プルトニウムの火が遠からず燃え尽きるのだ。地上は少しずつ冷えていく。人類が生存できぬほどに。もはや結末はみえている。苦しみは短い方がよかろう。私が生まれて来た意味があるとするなら、この星に終わりをもたらすためだ」

清らかな湖面のように澄んだ瞳で、幼な子に言い含める口調で女は続けた。

 「我が熾える天使よ、逃げるところなどないのだ。解らぬのか。人類の種としての寿命は尽きようとしている。どこへ逃げても遅かれ速かれ同じ運命が待っている」


 「だが、お前は特別だ。お前には逃げ道を用意してある」


女は告げた。

 九天―――。かつてのクンルーンの要塞である人工惑星に今もって生命すら自在に操る高度な文明が残っている。それが、お前の行き先だ、と。


 レィヴンは、飛び出しそうな恐怖の念を胸にしまい込んで、彼の頒土に、テノティチトランの宇宙港、小惑星の砦に逃げ戻った。

 そして、半年後に寄港する巡礼船の詳細について調べ始めた。いまや死せるテオティワカン脱出の唯一の活計たつきとおもわれた。


 積み荷は、彼らの太陽系が属するラグーンズよりもはるか辺境の星から運ばれた生きた人間たちだった。

 低温仮死状態で人生のほとんどを強制的な眠りについている彼らは、定められたプログラムによって笑気ガスの多幸感から離脱したとき、地球の成れの果てを見つめることになるのだ。

 レィヴンらの遠い祖先が後にした地球は老いさらばえて死に瀕していた。もはやとうに死に果てているだろう。ひとつの太陽系の残骸を目にするためだけに、巡礼者たちは無意味な眠りのなかでゆるやかに老いながらその生涯を賭けて亜光速の旅をつづけているのだ。


 レィヴンは、巡礼者たちのあまりの愚かさを、暗くつめたい柩のなかで彼らの見る夢を、その非生産性を鼻で嗤った。

 彼らの資源を利用しない手はなかった。

 時間は半年しかなかった。過酷だった少年時代の名残りからか、およそ同情とは無縁の男だった。幸か不幸か、頭脳の方も実務的な造りで巡礼者たちの運命に対する余分な想像力は持ち得ていなかった。レィヴンは生来の狡猾な知性をめまぐるしく廻らせた 


(壱)


 雪風はつづく。

 氷河地方から吹き下ろす滑降風は、幾波にもなって怒濤のように谷底へと押し寄せた。

 重く立ちこめる紫がかった黒雲は青白い稲妻を孕み、閃光が瞬くたびに雲間に潜む巨大な竜の影を映し出した。地上では、疾風が目にみえぬ魔物となって、粉雪を巻き上げながら、くぐもった咆吼をあげて谷間を駆け巡っている。


 世界はいまや猛り狂っていた。


 雪颪ゆきおろしの遠雷が天と地を貫いて轟くと、大地の狭間に取り残された者たちの魂はちいさく、よりちいさくなって震えるのだった。


 御者のふたりによって寸秒を争うかのように穿たれた雪洞のなかで、ゲイルはイムナン・サ・リの手当を受けた。

 魔術師は無残な噛み痕に火酒を吹きかけると、灯明皿の灯りのみで裂かれた皮膚を器用に縫った。縫合の痛みに耐えると、少女は目を閉じ、精気のない面を魔術師の肩に預けた。

 あの夏の終わりに、永遠と信じた愛はもはや彼女の心を満たさなかった。愛は今も確かに存在した。

 以前よりずっと深く、耐えきれぬほど重みを増して。

 こうして触れあえばその温もりは断ちがたく、感覚は溶けて混じりあうのに、それでも心は狂おしくかつえてゆく。


 北へ進むにつれ、夜は長くなっていく。夜明けまで間があった。吹雪のなかで犬たちは先刻斃した野獣の肉を喰らっていた。その群れにザックもおずおずと混じっていた。


 「何故、東の奴らばかりではなく、コーダがアピを狙うのか」

 ナビヌーンは、魔術師に問い掛けた。

 この男なら答えを知っているに違いない。サイラスの動向のみならずこの冬のすべての異変の理由も。先刻の妖狼の襲撃から、おぼろげな懐疑が確信に変わった。

 「ガムザノンが雪に埋没した今、おそらくは、アピこそが氷河地帯への唯一の進入路だからでしょう。この荒れた冬空では、彼らの飛行船はしばらく飛ぶことはないでしょうから」

 質問を予測していたのか、魔術師はよどみなく答えた。

 「なんでまた、氷河なんぞへ向かうんだ」


 「それは、」

 魔術師は、いったん言葉を置いたものの説明をつづけた。

 「膨大な熱量を発生させる古代の兵器で氷河を決壊させて、谷を岩と氷の濁流の底に沈めんがため。欲に溺れた東タルー族は利用されているだけです」

 「おい、そこまで知っていて、何故お前のあるじを説得しなかったんだ。もはや、谷全体の問題だろう」

 「知ったところで、何もできません。サイラスとダール・ヴィエーラでは大人と子どもほどに装備が違います。まともにぶつかっても勝ち目はない。ゲリラ戦など悠長なことをする時間もない」

 魔術師の面は冷たかった。

 「前向きに考えましょう。彼らは、これまでオトスの本道ではなく裏街道を補給路に選んだ。おそらくは目立ちすぎるからでしょうが。ギム・ア・ポトスの辺りで野営しているということは、好天を待ってイ・ヴァン・カラクの峠を越えて本街道に合流するつもりでしょう。好都合です」


 「おい、イ・ヴァン・カラクの峠は冬のあいだ通る者なぞおらん」

 「通れぬことはありません。さすがにサイラスの雪上車は無理ですが、人と犬橇であれば可能でしょう。彼らを殲滅させるとしたら、峠越えのその瞬間のみ。時を逸してはなりません」

 「殲滅って、少なくみても五千人規模の軍だ。俺たちだけでどうやって……」

 「彼らのしようとしていることを先にやってのけるだけです。局地的にね」

 

 「無駄だ。この雪が毎年つづけば、遅かれ速かれ、我らは水底に沈むのだろう」

今まで眼を閉じていた少女が口を開いた。

 「そもそも、この危機を乗り越えても、春になれば飛行船が飛ぶ。もはや我らに手出しはできぬ」

 少女は男の肩から頭をはずすと、男の貌をまっすぐにのぞきこんだ。男は決して認めようとはしなかったけれども、霜狼は死の間際に確かになにかを示唆していた。

 「賢いお前のことだ。我らの運命をすべて承知しているのだろう」


 少女の問い掛けに魔術師は無言で返した。その場の全員が暗黙の肯定と取った。

 「ナビヌーン。いつか死の光線をさえぎる光の幕の話をしていたな。どうすれば、その光の幕が取り戻せるのだ」

 「さあ、俺には解らん」

 三対の光る眼が、再び一点を注視した。暗がりのなかで闇よりも暗いひとりの男を。


 「光の幕、オーロラは現象に過ぎません」

 やがて、男の声が応えた。いつにもまして空疎な響きをもって。

 「問題は磁界です。惑星の磁力が昼間の無慈悲な太陽から我らを守ってくれる。この星の磁界を制御しているのは、最果ての離宮に据え置かれたメインフレーム。いわば、巨大な頭脳です。巨大といっても性能をあらわす比喩で、実物は両手に抱えるほどのちいさな物体ですが」

 所詮蛮族どもには理解できぬことと高をくくっているのか、それとも先刻斃した霜の狼の最期に知らぬうちに陶化されたのか、男は素直に語り始めた。

 「皇帝が磁界を消失させて空を封印したときには、ふたたび磁界を形成するプログラム、手順が用意されていました。そのプログラムを発動する鍵は皇帝の機械の頭のなかにしまい込まれた。だが、あの男の壊れかけた頭のなかで天空の封印を解く鍵は失われてしまった。メインフレームの膨大な情報の海原のなかに」


 男は低く乾いた声音でつづけた。

 「鍵をさがすために、いくつかの策が取られたが成功することはなかった。そして、皇妃は生身の人間をメインフレームの内部に送り込むことにしたのです。圧倒的な情報量とめまぐるしく飛び交うパルス。その探索の果てにあるのは、狂気か死か。並の人間では耐えられぬ戦いです。選ばれたのは、実験室のなかで産み出されたひとりのヌークでした。超絶なる意志と限界を極めた肉体を持ち、彼女は、そう彼女は女性でしたが、生まれながらの戦士でした。赤きたてがみをもつ荒ぶる軍女神いくさめがみ。なによりも強靱さが優先されたため、欠陥があった。ヴァンパイアとしての忌まわしき属性を持っていた。だがどれほど優れた能力を持とうと、所詮は人工の産物。谷を知らぬ者に谷の封印を解くことはできなかったのです」


 ゲイルは、魔術師の告白の終わり近くになって、その大きな瞳を見開いた。闇のなかでヌークの瞳が一瞬の閃光となって虚しく輝いた。


 遠い空で雷鳴が響く。 


 「その女がわたしの母なのだな。わたしの母が鍵を開けるための手立てだったのか」

 「かつてはそうでした。だが、果たせなかった。皇妃はその能力を受け継ぎ、谷を真に愛する者を産み出そうとした」


 そのつづきは語られることはなかったが、それで充分だった。ゲイルは自らのレッド・スワンの伝説さながらの宿命と魔術師の不可解な逡巡を理解した。


 わたしの手に谷の命運が握られている。

 わたしがこの暗闇の檻を抜け出し、光を解き放つ鍵なのだ。

 あの獲物をまえにしたときの昂揚感、あのゾクゾクとした血流、心臓の高鳴り、冴え渡る意識のすべては、この宿命のためか。

 すべての力を解放すれば、わたしは狂気に呑まれるだろう。もはや、人ではない何かに変化するだろう。


 そう、事実を受け止めるだけで精一杯で、それ以上何も考えることはできず、いかなる感傷も湧かなかったが。

 いずれ、時間が答えを与えてくれるだろう。最後に勝るのは、希望だろうか、それとも絶望なのか。


 「それがお前がわたしに隠していた秘密か」

 「今まで問われることはありませんでしたので。それに、わたしとて駒のひとつ。全容は最近知ったのです」


 ナビヌーンにとって、魔術師の語る世界は全く未知の領域だった。だが、永劫を生きるアズールの為人ひととなりを知った故か、魔術師の言葉の大部分を本能的に理解した。

 「お前は、何故それほど多くを知っているんだ。お前とアズール様とは、旧知の間柄にみえたが、一体どのような関係なんだ」



 魔術師は目を閉じた。

 そして、彼が受けたひとつの裁きを思い起こした。


 あの日、タルクノエムを放逐された少年が目覚めると、セピア光の薄闇のなかにいた。見知らぬ異形の女が冷たく彼を見下ろしていた。

 そのぞっとするような瞳の冷酷さは、彼をこの地下の迷宮に送り込んだイルラギースの比ではなかった。記憶のなかに封じ込まれたあの恐ろしげな魔王ですら、すべてが負の側に属するとしてもまだ人間らしさがあった。

 「我が名はアズール、この地下の都を治める皇帝の代理人にしてその妃。そして、お前の祖母でもある」

 はっと気がつくと、彼の身体はバスタブのようなタンクを満たす液体に浸され、いくつもの管につなげられていた。

 女の手が少年のあぎとをつよく押さえた。

 「ずいぶんと手を汚したようだな。お前が今後生きるにふさわしいか、見極めてやる」

 強い力で、インキュベーターの液体のなかに押し込まれた。少年は狂ったようにもがいた。だが、どんなに暴れても、女のか細い手から逃れることはできなかった。もがくほどに、液体は口から流れ込み、冷たく肺を満たしていく。

 このまま溺れ死ぬのか。

 そうおもった瞬間、女の声が聞こえた。

 「安心しろ、そのなかには呼吸できるよう液体酸素が含まれている。最後の一息を吐き出せば、楽になろう」

 「今から、お前は強制的な眠りにつく。眠りについたところで、お前の意識は別の世界で目覚める。特別な戦闘プログラムが、お前の心の奥底を読み取り、お前にふさわしいゲームが始められる。勝ち抜かぬ限り、永遠にその虚構世界から離脱できぬ」


 再び目覚めると、少年は見知らぬ星の密林のなかにいた。

 今まで味わったことのない熱く湿った空気。汗と泥にまみれた身体の感覚がどんな現実より現実らしかった。

 彼はオリーブの迷彩を纏った年若い兵士だった。吸血昆虫に悩まされながらも、アサルトライフルを背負い、地を這うように密林の先にある村落へ向かって進んでいく。任務はおそらく斥候だろう。

 気がつくと目の前に三つ、四つばかりのあどけない少女が現れた。

 その少女の手には、まるで貴重な果物かなにかのように手榴弾が握られていた。そのちいさな指はすでにレバーを弾きかけていた。

 「やめろ」

 少女の顔をもう一度見る。少年は、驚愕し、恐怖した。それは彼が惨殺したヴェネド家の当主ザイレの孫娘のものだった。

 絶叫とともに、少年はその光景すべてをなぎ払うようにライフルを連射した。


 意識が、闇のなかにすとんと墜ちてゆく。

 そして、また悪夢が始まる。


 砂埃と排ガスに覆われた乾いた都市。

 内戦がつづくなか、都市機能のすべてが疲弊していた。この現状に苛立っているかのように警笛が絶え間なく響き渡る。

 彼は、民兵の少年として哨戒中だった。腕には八端の東方十字が縫いつけてあった。その腕に抱くのは、やはりアサルトライフル。

 雑踏のなかにその女はいた。全身を覆う黒い装束は喪服なのか、晴れの衣装なのかはわからない。

 女の手はゆっくりとその腹部に巻いた爆薬の起爆装置をまさぐる。

 女は恨めしげに少年を凝視する。

 女は晩餐の席で怯えていたザイレの若き後妻だった。

 少年がたじろいだその瞬間。

 閃光が走ると同時に爆音が轟き、もうもうとけぶる黒煙が女の破片を、世界の破片を包んだ。


 煙幕が消えると、生ける死者たちが彼を取り巻いていた。濁った瞳で彼を恨みがましく見すえながら、物言わぬ口で無言のまま彼を糾弾する。弛緩した手にささやかな凶器を、晩餐のカトラリーを握りしめて。


 耳と鼻を削がれ、目をつぶされ、全身血だるまになりながらも、空をつかむように彼の方へむかって手を伸ばす男がいる。だが、その手の指はあらかた落とされていた。

 腹を切り開かれ、臓腑を引き出されて、断末魔にあえぐ男もいた。


 「お願いだから、もうやめてくれ」

 少年はたまらずに悲鳴をあげた。もはや恥も外聞もなく、その美貌を醜くゆがませて、駄々をこねる頑是無き幼児のように泣きわめいた。


 やがて、闇の向こうから厳格な声が聞こえた。


 「何を恐れることがある。お前は絶望という美酒に酔いしれるままに怒りと激情に身を任せて、その禁じられた力を暴発させた。その挙げ句、余人には思いもつかぬような残忍な手段で多くの者を殺めた。罪のない者すら躊躇なく巻き添えにした。お前の手はすでに血にまみれている」

 女は一言一句噛みしめるように、言葉をつづけた。

 「お前の犯した罪は、決して償うことはできぬ。贖罪などありえぬ。だから、せめてお前を有能な兵士に仕立ててやろう。これは、冷静沈着な暗殺者になるための試練だ。使い物にならなければ、それまで。自ら創り上げた幻覚のなかで永遠にさまようがよい」

 気がつくと少年はただひとり、ぽっかりとした闇のなかに、永遠に循環ループする狂夢のなかに取り残された。 



 魔術師は、再び目を開けた。

 「あのひとは、」

 魔術師は、かつてその出生に纏わる一切を生涯口にすることはないと確信していた。その時までは。

 「わたしの祖母。そして、機械の頭脳を持つ、最果ての地に眠る皇帝こそ我が祖父。皇帝と皇妃は、ながらくそれぞれのクローンを産み出すことで肉体をつないできた。その記憶を機械のなかに封じ込めて。ずっと以前から彼らの遺伝子の断片をもちいて、さまざまな異形の者たちが造られてきた。黒い瞳を持つ呪われたケスの一族もその一部。そして、その総仕上げに、彼らのあいだに初めての遺伝上の実子が造られた。おそらくは実験室の産物でしょうが、男女の双子でした。ファラミスとズールムンデ。それぞれが、わたしの母とルー・シャディラの父。あなたたちの生まれるまえに、ケスの一族は滅ぼされ、生き残ったのは幼子ふたりだけ。わたしとあの巫女、ルー・シャディラがその生き残りなのです。わたしはタルクノエムの父の許に引き取られ、彼女はサイラスの皇宮で育てられた。わたしは、幼い頃の記憶を失っているため、彼女の存在すら忘れていた」


 ゲイルは、魔術師の心のどこかで変化が生じていることに気がついた。あれほど自らの血統を憎んでいた男が、淡々とその本当の素性を語り出すとは。

 その瞳の虚無に映るのは、やるせない運命への諦念か、あるいはすべてを受容したうえの安寧なのか。


 生き残りのふたり。

 失われた記憶。

 では、記憶を取り戻したとき、お前は誰を選ぶのか。


 「これで、好奇心は満足されましたか」


 シノロンは、灯明皿のほのかな灯りに照らされた魔術師の物憂げな表情を生涯忘れることはなかった。その異国的で端正な顔立ちから若さは失われ、老境にあるかのような諦念と父祖から引き継いだ千年の孤独がうつろに漂っていた。


 もはや語るべきこと、質すべきことは何ひとつ残されていなかった。

 静寂がつづくなか、魔術師は火皿の炎をそっと吹き消した。


(弐)


 イ・ヴァン・カラク。

 夏期でも氷河がその舌先を覗かせるこのけわしい峠を越えれば、オトス街道の本流に合流し、オズク族の都アピに至る。

 ナビヌーンの一行が、ギム・ア・ポトスの廃址はいしに野営する敵軍を偵察して五夜が経とうとしていた。


 日没とともに、イムナン・サ・リは、降り積もった雪をものともせずに、峡谷のなだらかな斜面を登ると遠い空を見上げた。

 吹雪は嘘のように止んでいたが、魔術師は東から昇るラ・ウの瞳をとりまく月暈つきがさをみた。その兆しに魔術師は満足した。

 清純な乙女のヴェールのようにうっすらと空を包む絹雲は荒天の先触れであり、今後天候はゆるやかに下降してゆくだろう。風の匂いと大気の湿しとり具合もその予測を裏付けた。この不安定な雲行きは、彼らがもたらす混乱に一層の効果を与えてくれるはずだ。


 イ・ヴァン・カラクの峠は、岩壁を縫うように走る天然の桟道さんどうをたどって墓道のごとく狭くうねった隧道ずいどうへと至る難所だった。もはや奇峭きしょう極まる魔所と呼んでいい。夏のあいだは多くの峠と同じように夜盗どもの巣窟だが、さすがにこの季節には引き払っているだろう。

 敵軍は、今宵、この吹雪の絶え間に峠を越えるはずだった。

 数は五千余。だが、迎え撃つ彼らは四人。うちひとりはまだほんの子どもだった。いや、迎え撃つのはイ・ヴァン・カラクの嶮岨けんそなる地貌ちぼうそのものなのだ。

 彼らは混乱を仕掛けるだけ。準備はこの数夜のうちにすませた。後は時が満ちるのを夜の静寂に紛れてひっそりと待つだけだった。


 いつの間にか、ナビヌーンも姿を現した。

 眼下には、ひとつの巨大なクレバスとなった徒渉不可能な峡谷が深遠なる口を開けている。犬橇がやっと通れる程度のへつり道はしばらく上り勾配がつづき、その先にあるのは、雪の庇に覆われた岩山を貫く隧道だった。

 山越えして地表の道無き道を行くという命知らずのルートを除けば、アピの往還に抜け出るたったひとつの脱出路だが、厳寒期でなければ夜盗どもの要撃のもっとも多い地帯である。

 地表を覆う氷床は、新雪を巻きこんでいつのまにか隧道の真上までその白い舌を伸ばし、いまにも渓谷に滑りこみそうだった。

 すでに、ゲイルとシノロンは渓谷がもっとも狭まった地点にかかる雪橋順玉・ブリッジまで大きく高巻きする経路をとり、すでに対岸の断壁へ向かっている。


 ナビヌーンは眼下の深淵をのぞき込んだ。なんと深いのだろう。青白い氷壁は、ぬらぬらとほのめきながら底つ闇に溶けていった。その淵は、ヌークの眼をもってしても闇、底なしの闇がぽっかりとした口を開けていた。

 多様な生命の奔流に溢れていた凍土の楽園も今は深い雪のした。

 谷はもはや巨大な霊廟マウソレウム

 冷たい雪花石膏アラバスターのごとき氷雪の奥津城おくつきは、その地下に底方無き埋葬室を隠して、夜空の闇を照り返す。

 今、世界に横たわるのは、切り刃のようなほの白い崖縁エッジとその胎中に内包された死の静邃せいすいだった。

 あまりにもその淵が深く闇が暗いためか、あるいは霜の狼の思惟の残滓がいまだあたりに漂っているのか、ナビヌーンの心のうちにも、かたちなき死の形象が緩慢に浸食しはじめた。

 死の予感は甘い絶望に変容しながら、五体と五感すべてを麻痺させて魂を彼方かなたの国へ、常夜とこよの国へと誘う。


 くすしきかな、ほのかに闇に滲む光よ。

 妙なるかな、夜の奏でる秘めやかな静寂しじまよ。

 いとちいさきかな、さかしくも、頑是がんぜなく惑う魂よ。


 やがて、闇の粒子は凝集して黒き塊となり、ひとりの男の形を成した。

 今宵、かの魔術師はまさに良心の呵責かしゃく無きままその本分に忠実な死に神だった。大地の裂け目は、この夜さらなる命を呑み込むだろう。五千余の西タルー族の兵士を。彼らが引導を渡すのだ。 

 ナビヌーンは、ふと心にひっかかるものを感じた。だが、それはなにかは解らなかった。

 悲劇の舞台にふさわしい壮麗なスペクタクルのなかで、冷たい笑みさえ浮かべて空の果てを見つめる男と言いしれぬ不安を抱えながら地の底に引き寄せられる男があった。目的を同じくしながらも、その胸中は決して重ならなかった。


 「なあ、人は死んだらどうなると思うか」

 唐突にナビヌーンは尋ねた。

 「わたしたちの肉体は突き詰めれば、原子という名のちいさな粒子、宇宙の塵(ちり)、いわば星屑から出来ています。故に塵から生まれて、再び塵に戻るだけでしょう」


 みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。


 かつて耽読した古典の一節を心中でそらんじながら、醒めた様子で魔術師は答えた。(祖父の精神世界の根幹を成している聖なる書物(ホーリー・バイブル)は、彼にとってもはや希少なる収集物のひとつ、耽美なる文学に過ぎなかった)

 「じゃあ、魂はどうなるんだ」

 「魂というものがあったとしても、また煙のようなもの。同じことです」

 「お前は魂というものを感じないのか。こんな風に感じたり、思ったりする心の在処を」

 ナビヌーンは、あまりのすげなさにおもわず魔術師の肩をつかんだ。

 「感情も思考も脳のさだめられた回路を高速で伝わる神経パルスの所産に過ぎない。人間も機械もそれほど違わない。一見複雑にみえようとも、全か無かの悉無律しつむりつに支配された記憶の海を駆け巡る単純な関数(サブルーティン)の連続。あなたは謎掛けめいた弁証で煙に巻かれる方がお好みのようだ。あなたばかりではなく万人がね。ですが、わたしはわたしなりに誠意をもってお答えした」


 我々は偶然に生まれ、死ねば、まるで存在しなかったかのようになる。鼻から出る息は煙にすぎず、人の考えは心臓の鼓動から出る火花にすぎない。

 それが消えると体は灰になり、魂も軽い空気のように消えうせる。


 肩に置かれた手を払うと、魔術師は若者の瞳をまっすぐと覗きこんだ。薄ら髭がかえってなまめかしかった。


 「何故、死を恐れるのですか。はるか太古の昔、生命の始まりに死など存在しなかった。生物は常に己自身を複写して永遠の命を生きていた。だが、まだ若い地球テラの環境は移ろいやすく、生命は常に絶滅の危機と隣り合わせだった」


 「だから、大方の生命は死ぬことにした。雌雄に分かれて混じり合い、常に変化するために。常に移り変わる惑星の環境と自らの属性を変幻自在に変えながらホストの体内への侵入を繰り返すパラサイトが、外と内から生命の有り様を変化させる。この星の闇とちいさき神々のように。そして、エロスタナトスの起源はまったくもって同一、あざなえる縄のごときもの。男女の交合が隠微で禁断の味がするのは、歓びとともに苦悩をもたらすのは、常にその陰に個体の死が潜んでいるから。この二者が複雑に絡まり合って、各々の人生を形成かたちなしていく。生命に本当の輝きを与える」


 その性と死を、いや命そのものを弄ぶのが性分とみえる魔術師は冷たく笑った。ナビヌーンは、その男の血筋の暗さを意識せざるを得なかった。


 「あの娘でないと鍵は開けられないのか」

 「我が手でなせることならば、とうになしていました。十年前にね」

 「何故あいつに話したんだ」

 「何故でしょうか。彼女の不信感をかわすことが限界だったからかもしれません。隠し通すのもいい加減疲れた……」

 ゲイルの不信の理由はそれだけではあるまい。すべてにおいてこの男は信用ならない。ひとの期待を裏切ることはもはや天分なのだろう。

 まったくもって、おかしなものだ。信用ならない相手に少女も自らも生涯を、命運を賭けているのだから。


 なによりも、この星の真の後継者ともいえる彼のような貴人が、あやしげな魔術師に身をやつして、わざわざあの赤毛の兄妹のもとに仕えているのも偶然ではないはずだ。

 皇妃の密命を帯びているにしては、この男の道程は迂遠うえんすぎる。薄暗い任務の途中でその使命を翻意したか。そして、さらにまた揺れているのか。


 「あの娘に話したということは、天空の封印を解く気があるのか」

 「さあ、わたしが解くわけではありませんし、彼女がどう受け止めるか。それに解くと決めても、皇帝の眠る最果ての地まで道のりは遠いのです。それに気の進まぬ相手の手を借りねばならない」

 ナビヌーンは、とりつく島もない言葉の裏に最後まで残された迷いを感じた。


 (そして、たどりついたとしても、圧倒的な悪意にみちた世界で、ひとり戦わねばならない。抜け出すには狂気におちいるしか他に道がないほどの)


 彼がかつて経験したのは、あの異世界のほんのとば口、擬似的な戦闘プログラムに過ぎなかった。にもかかわらず、それは人格さえ打ち砕くほどの過酷な体験だった。その本丸に愛する者をすすんで送り込むことができようか。


 感傷を振り払おうとするかのように暗い空を仰ぐ魔術師を横目に、ナビヌーンもまた、今回の作戦についてなにかが引っかかっていた。

 自らの民を守るために敵を殲滅することに、いかなる逡巡もないはずだ。

 だが、この拭(ぬぐ)いがたい違和感。俺はなにか途方もない間違いを犯しているのか。

 答えは出ぬままに、時は過ぎた。

 どこからか風に乗って運ばれた雪片が、はらはらと散り始めた。もうすぐ空の気配も変わるだろう。


(参)


「おい、さっさと進め」

 先陣を切るガスキールはいつにもまして気が立っていた。

 イ・ヴァン・カラクの峠の足場は悪く、踏み固められた圧雪は夜間の冷気ですぐさま鏡面のように凍りつき、兵士たちは彼らが雪上戦に欠かすことのない輪橇順玉シュー雪艇スキーを靴底に取り付けることはできなかった。したがって、トーチを掲げた隊列はのろのろと進んだ。


 「兄者、」

 ヌイヤックは、思案気に兄の顔色をうかがった。

 「何も今晩でなくともよいのではないか。そもそも、こんな深雪の年に冬のイ・ヴァン・カラクを超えるなんて無理があろう。いったんここを退いてオトスの街道に廻ったらどうだ」

 「だめだ。電撃戦で一気に制圧せねば意味はない。ここのところの悪天候でずいぶん足止めされた。本街道から廻れば、兵も疲弊し、本格的な戦のまえに兵糧も尽きる」


 ガスキールの魂は戦場にすまう魔物に心底取り込まれてしまったようだ。そうヌイヤックは感じた。狡猾さが取り柄の兄が北方部族の統一という歴史的な武功をまえに我をうしなっている。


 「だが、やつらとて勝ち目のない戦はせぬはずだ。こちらの威力をみせつけて、アピを無血開城させればよかろう。兄者にはその技量が存分にあろうよ」

 「そのような生ぬるい支配では、あやつらは雪解けとともに降伏の条件など反故にするだろうさ。ナビヌーンに至っては、恥知らずにもウズリン族に近づいて不穏な動きを見せている。コーダによると、ギム・ア・ポトスの謎の襲撃者は、ギ・イェクの砦を落としたのと同じウズリンの妖術使いだったそうだ。北の内紛が始まって百余年。我らのながい停滞は、ウズリン族を始めとする出自も知れぬ部族の台頭を許してきた。やっとこの不毛な戦いに終着のときをむかえるのだ。大願成就のまえには多少の危険はつきものだ」


(何をいおうと、兄者のはやる心にはもはや通じぬ)

 ヌイヤックは、心のうちでため息をついた。

 コーダといえば、雪上車ではこの先はゆけぬと峠越えのまえに姿を消したが、数夜前におかしなことを言っていた。

 彼らの重機や前哨基地のための塗料をいれた大型のコンテナがまるまるひとつ無くなったのだという。武器庫には一切手がつけられていなかったから盗賊の線はうすい。小規模の雪崩でコンテナごと押し流されたのか。だが、そんな形跡もなかった。


 ヌイヤックが思案しているあいだにも、戦列は峠一番の難所へと向かった。


西タルー族の兵士たちが行軍に難儀している頃、矢筒を背負ったゲイルとシノロンは、若さと俊敏さで渓谷に架かる雪橋を渡っていた。

 先導するのは抜群の身体能力をもつゲイルだった。

 シノロンは思わず眼下をのぞき見た。この使命感に満ちた少年にもさすがに恐れの感情がおそってくる。

 凍った雪に足を取られて思わずよろめいた。

 そのときゲイルから譲られた矢筒の矢が一束こぼれ落ちたのを少年は気がつかなかった。すくむしかない少年にゲイルは手を差しのべた。


 「こわいのか、少年」

 ゲイルが声をかけた。

 いいえ、と言いかけたが、ゲイルが求める答えとは違う気がした。

 「はい、恐ろしいです」

 「それでよい。戦いの場で恐怖を感じなければ、人は自滅する。恐怖は我らの愚かさを抑制する。戦場でもとめられるのは勇猛さだけではない。優れた自制心こそが敵を制するのだ」

 自らに言い聞かせるように、ゲイルは諭した。

 「ですが、ゲイル様。あなたはとても勇敢にみえます。恐怖を感じることはあるのですか」


 (屠れ。惨殺せよ。その手にとどくすべてを)

 (ただ殺戮のみが、魂をうち振るわせて歓喜を呼び覚ます。絶頂の極みでのみ到着しうる忘我の境)


 シノロンの問い掛けに、ゲイルはギ・イェクの牙城で脳裏に響いた声を思い出した。いつの日か、人間らしい感情とは無縁の、あの尋常ならざる精神の高揚に呑まれてしまうのだろうか。

 「……ああ、あるさ」

 「さきほどのお言葉は、サ・リ様からお聞きになったのですか」

 シノロンは子どもらしい無邪気さをよそおって質問をかさねた。

 「まさか、あの男がそのようなまともなことを言う訳ないだろう」

 そう答えながらも、愛する男の血に染まりながら凄艶にきらめく黒い瞳を想った。うちに抱えた矛盾そのままに、熱く、冷めた瞳を。 


ゲイルの胸に投じられた波紋を読み取ると、シノロンは再び足を踏み出した。

 彼女の揺るぎない強さと愁いを帯びた美貌、その繊細な心の動きすべてが、彼がいつか手に入れると固く決めている彼の王国とぴたりと重なった。

 そのちいさな胸をおさない恋慕とありったけの野心で満たしながら、少年はイムナン・サ・リに命じられるままに仕掛けた単純にして大がかりな罠を思い出した。


 アルミニウム───。この蛮族の生活には縁がなく、コーダの地下工場ではありふれた物質こそが、コーダから盗み出した塗料の正体だった。

 すでに隧道の入口にありったけの金属缶が積んであった。にわか仕立ての牆壁しょうへきは、雪で塗り固められた。あたかも、邀撃者ようげきしゃの拠点を連想させるように。

 

 「おい、こんなものを拝借してどうしようっていうんだ」

 いわれるままに塗料の大缶を運び出す時、ナビヌーンが問い掛けた。コンテナの頑丈なパドロックをこともなげに破る魔術師の手業にまず驚かされたのだが、錠前破りの前歴も数ある旧悪のひとつなのか、という問いはかろうじて呑みこんだ。

 「この物質は塗料として使えば単なるさび止めですが、雪や氷に触れると、激しい水素爆発が起きる。アルミニウムと氷の組合せは古代ではそらへいく船の推進剤にも使われた威力のある火薬です。中身をこぼさぬよう気をつけてお運び下さい」

 イムナン・サ・リは澄まして答えた。

 「火薬だとしてもどうやって都合良く発火させるのだ。雷管はどこにある」

 「ご心配なく。いまに彼ら自身が起爆剤となりましょう」


 シノロンはイムナン・サ・リに命じられた手順を何度も頭のなかで反芻した。

 空へむけて連矢つるべやを放ち、敵陣に矢の雨を降らせる。ただ、射込むのではない。うまく風に乗せて正面からの攻撃と錯覚させなければならない。相手の銃火を誘うために。

 それがこの巨大な破壊装置の口火だ。皮肉にもコーダから与えられた近代兵器が彼らを滅ぼすのだ。


 容器を穿たれ吹き出したアルミニウムの粉末は、雪と反応して激しく燃焼するだろう。爆発は連鎖し、そのすさまじい衝撃は積雪や氷河を揺さぶり雪崩を誘発し、眼下のすべては雪煙のなかに消えるだろう。少なくとも、隧道は塞がれ、アピへの道は遮断されるのだ。


 どのような原理でそうなるのか、理屈はさっぱりわからなかったが、これも魔術師のみせる目眩めくるめく魔法のひとつであることは理解できた。

 少年は生まれつきさとく、王者の果断と冷徹をその精神にそなえていた。また、彼の若すぎる使命感は、敵軍への惻隠の情などとは同居し得なかった。


 それ故に、―――心など痛まなかった。


(四)


やがて、峠道をちろちろと舐める炎の蛇が眼下に現れ、西タルー族の到来を告げた。その辺りの道幅は広く、広場のように大きく張り出した岩棚は、アルミニウムが仕込んである隧道への格好の狙撃場所になるだろう。風が強まり、粉雪が舞い始めた。

 「もう、そろそろ仕掛けて良い頃合いでしょう」

 魔術師がそう静かにつぶやくのを聞き、風花が若者の頬にやさしく口づけたとき、ナビヌーンは視た。彼らの陥穽にはまった軍勢が闇と雪に呑まれる壮絶なる光景を。そして、それは氷河に押し流される谷の運命とぴたりとかさなった。


 青白く眠る大いなる氷河。

 突如天地を鳴動させる爆音が轟く。

 時空すらゆがませるような熱波が、一瞬にして氷塊を沸き立たせる。

 衝撃が環状に波及する。

 大量の泥流が逆巻いてほとばしり、谷のすべてを、生きとし生けるものを跡形無く押し流す。

 ナビヌーンは生命の揺籃、ダール・ヴィエーラの運命をなまなましく感じた。そして、初めて自らの過ちに気づいた。彼らの父祖が犯してきたこの百年の過ちに。


 (ナビヌーン)

 氷床から吹き下ろす風に乗って、何ものかの呼び声がした。

 粉雪が舞い踊り、その悪戯なひんやりとした指が頬に触れる。若者は、一族に伝わる母なる氷河の伝説を思い出した。

 (ナビヌーン)

 風に乗って、原初の女神が呼びかける。

 (おやめなさいな。流血はさらなる流血しか呼ばない。お前たちは、皆ひとしく我が懐より流れ出る乳白の雪解水で養いし、わたしの愛し子たち。なのに、何故殺し合わなければならないのか) 

 母なるナンナよ。俺は憎しみの連鎖をこれ以上後生に残したくはない。この手で殺戮を止めたい。まだ、間に合うだろうか。

 風花がくるくると笑う。

 闇のなかに、一縷の光明が、問い掛け自体分からぬまま求めていた答えがみえた気がした。澄み渡るように、心を覆っていた迷夢の霧が晴れていく。


 彼の一射を合図にすべてが始まるはずだった。

 「すまぬが、この作戦は中止だ」

ナビヌーンの言葉に、イムナン・サ・リは耳を疑った。

 「俺にはできない。決着は俺自身でつける」

 「一体、どうされたのです」

 魔術師の手がナビヌーンの肩にふれようとしたが、もはや間に合わなかった。若者はその手を振り払って、雪の傾斜を一気に滑り降りた。敵軍の火線のただなかへ。


 止めなければならないのだ。これ以上命を失ってはならない。

 ナビヌーンは、己の目的をやっと見いだした。命にかえても、抗争はここで終わらせなければならない。ニュクスのすべての民があたらしい光に満ちあふれた時代を迎えるためにも。


 イムナン・サ・リは、ナビヌーンの衝動的な行動に完全に虚を突かれた。引き留める間もなかった。

 無謀な若者を追いかけようとしたが、思いとどまった。ゲイルとシノロンをこの破局へ向かいゆく舞台の一方の桟敷さじきに残して、彼まで死境に向かうことは出来なかった。


 なんという愚かなことを。


 無論、状況に応じた退路も幾通りか用意してあった。魔術師の手には味方にも悟られぬようコーダの車両から抜き取った物が、ただひとつあった。

 敵軍を自らに惹きつける信号銃ファイアー・ガン。少女らを逃すために使うべき瞬間がやってくるだろうか。それにしても、なんたる不覚だろう。

 怒りはもっぱら自分自身に向けられた。何故、ナビヌーンの心情のゆらぎをもう少し理解してやらなかったのか。予兆はあった。魔術師が空疎だと断じた先ほどのやり取りのなかにも。

 だが、イムナン・サ・リは他人の感傷に過敏であるがために、反ってそれを軽視する傾向にあった。それ故、旅のあいだにふたりの間に生じていた隙意(げきい)にまったく気が回らなかった。


 他者の心が読めて、心を自在に操れる力を備えているとは何という皮肉だろう。そのような力が何になろう。より一層心を閉ざし、何ものにも頑なな態度を貫くだけだった。他者の感情が流れ込まぬように。


 深い後悔の念に沈みこみながらも、救うべきものと切り捨てざるを得ないものとは魔術師のなかで残酷なまでに明白だった。彼の能力をもってしても、もはやナビヌーンは救えなかった。


 自己犠牲、愚かしいことだ。


 そのように魔術師が判じるのは、この雪中行で二度目だった。

 この危機を抜け出す切り札があるとしたら、それはナビヌーンの力量にしかない。いや、切り抜けようという意志があるのかもわからなかった。


 魔術師はルー・シャディラから与えられた箴言を苦く思い起こした。


 (風は与え、風は奪う。すべては、雪と風の随意まにまにことは進みましょう)


 (人の賢しらな恣意なぞ及ばぬ領域。せいぜい流れを見誤らないよう、その魂を研ぎ澄ますことです)


 そう、あなたにはこのとんだ茶番劇の結末が初めから見えていた。今この時も無力さに歯噛みするわたしを涼しい顔で眺めやっているのだろう。せいぜい、わたしの愚かな道化ぶりを笑うがいい。


 雪風が渦巻き、魔術師の頬をなぜていく。彼を惑わす女の白い手のようにひやりと冷たかった。


その時、ガスキールは、山腹を滑り降りてくるその招かざる使者を目を眇(すが)めてみつめた。輝くヌークの瞳で。

 それが何ものか認識したとき、残忍な笑みをこぼすと、銃を構える配下を制した。

 ナビヌーンもまた陣頭に父の仇敵の姿を見いだした。この血の気の多い男が大人しく陣後に収まっているはずが無いことは明らかだった。


 「ガスキール、俺の命をくれてやる。だから、退け」

 ナビヌーンは仇敵にむかって叫んだ。風が踊るように駆け抜けた。

 「錯乱したのか、ナビヌーンよ。なるほど、奇襲には申し分のない地勢だ。だが、出てくるのが少しばかり時期尚早だったな」

 「他に軍勢などおらぬ。俺が望むのは、和睦だ。俺たちが戦うべき相手はコーダだ。利用されているのが分からぬのか。俺の首が欲しければくれてやるから、いい加減目を覚ませ」


 「我らの勝利は目前だ。帰順するには遅すぎよう。それにしても、命を投げ出すとは、ずいぶん気前が良いな。だが、俺を相手に楽に死ねると思うな。若造よ、死はお前が考えるほど生ぬるいものではない」

 トーチの灯りを背後にして、口許に残忍な笑みを張り付けながらも、千軍万馬の古強者の風格でガスキールは応じた。

 「父親と同じように八つ裂きにしてやるから、剣を取り俺と戦え。貴様の死に様で俺の答えが違ってこようぞ」


 峠道の足場は悪く、すぐ真下には奈落が広がり、一方は逃げ場のない氷壁に隔てられていた。

 折しも、雪風は強まり、吹雪いてきた。

 剣が峰のごとき絶体絶命の窮地が、おそらくは自らの最期の舞台になることをナビヌーンは悟った。

 勝機などもはやあり得ない、端から捨て身の突入だった。

 そして、こののっぴきならない状況にあって、目の前の男の心を揺さぶる手立ては己の死力を尽くす以外ないことも解っていた。

 ナビヌーンは腰に帯びた刀を、その慎ましやかな矜持を、生硬せいこうなる気骨を、抜き放った。彼の愛刀はなによりも雄弁に彼自身の言葉を語ってくれるだろう。


 ふた腰の偃月刀―――眠たげなラ・ウの瞳を写し取り、炎と氷で鍛えられ、鋼の低温脆性すら超克した、よく似た曲刀が前後して抜き放たれた。

 戦いの作法もまた同じ。

 剣戟の響きと共に、朴訥さと狡猾さの入り交じった技が交錯する。

 かつて、イムナン・サ・リがこの刀を拝借した時は、芸術的な双刀術をみせ、次々と敵を優美に撫で斬りにしたものだった。

 だが、氷点下であっても滅多に刃折れすることないこの硬く粘る刃は、満身の力をこめて骨肉を断ち切り、あるいは槍のごとく突進し、時に投斧のごとく投げつける代物なのだ。

 無論、闇のなか、凍りついた地表という制約もある。だが、彼らは夜の民、氷河の申し子であり、氷上の戦いもまた彼らの流儀だった。がっしと斬り結びながら、無駄のない足さばきで一足一刀の駆け引きが進められた。

 それは、火の山を舐める氷河のごとき交わりだった。溶岩は火柱をあげて氷の河を溶かし、氷河は火口を覆い尽くさんと押し寄せた。


 双方の蛮声じみた気合いを折り交ぜながら、剣戟の音が谷底に響き渡った。

イムナン・サ・リは耳を塞ぎたくなるほどの絶望のなかで、それでもなかば義務的に勝負の行方を読み取ろうとした。

 対岸では、ゲイルとシノロンが何が起きたかは解らぬまでも異変を感じていた。ゲイルは不安を感じている少年の肩を抱いた。


 消耗戦だった。

 力はいつか尽きる。

 持久力、強靱さはまったくもって互角。だが、ガスキールの技量はわずかに、ほんのわずかに若者よりも上手だった。

 寸分の差が勝敗を決めるのだ。ずるずると後退して時間を稼ぐつもりはなかった。起死回生なぞ望める場面でもなかった。


 ナビヌーンは覚悟を決めた。

 一歩退くと同時に、刀を上段に構えた。

 霜を纏った切っ先は、炎を受けて白く浮かび上がった。ナビヌーンは、失われた故郷の精霊たちにおもわず加護を祈った。

 すると、風の使者たち、姿なきガムザノンの守り手たちによって何らかの力が励起されたのか、彼の愛刀は地上の月のようにほのかに発光して一種の神秘性を帯びた。闇と虚空を裂くような猛々しい叫声が放たれると、月の刃が大きく斬りかかった。


 せめて、腕の一本でも落としてやる。


 渾身の一太刀は相手の防御に敢えなく弾かれると同時に、じりじりと切っ先から迫り上げられた。

 鼓動は早鐘を打ち鳴らすというのに、時は刹那に封ぜられ、あるいは緩慢化し、あらゆる音は途絶え、無限の一秒のなかで、力と力、技と技がせめぎ合う。


 瞬刻の鍔迫合いをかわすか、押し返すか。

 何をどうさばけばいいのか、積み重ねた鍛錬で身につけた返し技の、どれをとっても老獪なガスキールに読まれてしまうだろう。

 しばしの躊躇ののち、以前対決したファディシャの意表を突いた離れ業を思い起こした。また、コーダ兵と遭遇したときのゲイルの神業めいたあざやかな身のこなしが浮かんだ。さらには、アズールの幻惑の剣が脳裏をかすめた。そして、イムナン・サ・リの相手の裏を掻く奇謀。

 この場面で、彼らならどのような奇手妙手を放つのか。


 答えは出た。ならば、これならどうか。

 ナビヌーンは刀をほんのわずかに逸らせ、退くとみせてぐっと左手を伸ばして相手の利き腕をつかむことに成功した。そのままむんずと押さえ込み、虚を衝かれた相手の両腕を制すると、間髪を入れず強烈な頭突きを浴びせた。

 ガスキールが呻き声をあげる間もなく一気に押し倒してから、その喉許に刀の切っ先を向けた。


 そのすべてが、瞬息の間であり瞬殺の業。


 終えてみれば拍子抜けするほどあっけなかった。

 凝縮された濃密な時は縛めを解かれて、再び粛々と流れ出した。ただ、ただ粛々と。再び聴覚が戻り、ひゅるひゅると風が踊る音が耳許をくすぐった。


 一対一の刀のうえでの勝敗はついた。

 ナビヌーンの背に百の銃火が向けられていることに変わりはなかったが。


 「おい、どきやがれ」

 倒されても、ガスキールは尊大だった。促されるまま、ナビヌーンは刃を収めると、ガスキールを起こしてやった。あっという間に、いくつもの腕に捕捉された。ガスキールは赤黒い貌をさらに怒気でゆがませていた。


 「まぐれ勝ちだ。二度と同じ手は使えん。図に乗るな」

 ガスキールは、かつてないほど業腹であったが、無鉄砲な若者の腕前と胆力に確かに感嘆もしていた。

 自らの偉大さに過敏であった故に、部下の面前で完膚無きまでに失墜した面目を情けある処遇で回復せねばならないことも解っていた。

 芝居じみた大仰な仕草で刃をナビヌーンに向けながら、狡猾な頭脳をめぐらせて落とし処を探っていた。ガスキールは素振りで配下に若者の拘束を解くよう命じた。


 「よかろう、貴様の命は助けてやる。アピで貴様の従兄弟ナディヤムに無血開城を説得するのだな。うまくいくかどうかは貴様の度量次第だ」

 ナビヌーンの命を賭けた哀願は奇跡的に受け容れられたかにおもえた。


 だが、その時。

 運命の気まぐれであり必然でもある冷たい指先が雪橋でよろめいたシノロンが落とした矢を摘みあげると、掌に乗せてふっと白い息を吹きかけた。矢羽根は風に乗り、ふわふわと降下していった。まさに東タルー族の陣地のただ中に。


 「ガスキール様」

 流れ矢を手にした雑兵が恐る恐る前に進んできた。

 ガスキールは受け取ると、顔色を変えた。

 まだ新しい鉄の鏃に長握ながつかの矢柄、特徴ある大鷲の矢羽根。

 あきらかに北の部族とは異なる仕様は、ウズリン族のものに間違いなかった。

 この峠のどこかに敵の弓兵が潜んでいるのか。その所在は伏撃の好発地帯である隧道の入り口以外には考えられなかった。

 なんのことはない。愚直なほどの誠実さを装った若造にまんまと計られたのだ。

 ナビヌーンめ、二枚舌もいいところ、よりによってよそ者に彼らを売り渡したのだとガスキールは了解した。

 「おい、これはウズリン族のものだ。こやつが我らを裏切ったのだ。伏兵は正面だ。弓矢隊など恐れることはない。存分に銃弾を浴びせてやれ。蜂の巣にしてくれよう」

 「誤解だ。説明させてくれ。やめろ、撃ったらお終いだ。これは罠なんだ」

 我ながら支離滅裂だった。最後まで言い終わらぬうちに、憤怒に真っ赤に燃えるガスキールが一度納めかけた刀を引き抜くと飛びかかってきた。


 ガスキールが命じた通り、千の銃口が一斉に火を噴いた。

 そして。

 その口火を合図に魔術師による万全たる破滅装置が作動した。その余りに単純で完璧な絡繰は、仕掛けた当の本人にももはや止めることは出来なかった。

 死のバリケードが穿たれると、爆発は瞬時に連鎖した。視界を奪うほどの白熱の閃光がほとばしると同時に、世界を揺るがすほどの大爆発が起きた。


 アルミニウムと氷雪の激しい化学反応によって、すさまじい爆轟波が谷を、峠を包み込んだ。爆音が谷底をつたって谺する。

 見る間に氷壁が割け、二方向から切り崩された氷雪の塊が東タルー族の部隊に迫ってきた。そして、隧道の真上から氷床の舌がゆっくりと滑り始めた。

 もうもうたる白煙をあげながら、雪塊の大瀑布が傾れこみ、ナイフで切り分けたように垂直に雪の壁が落ちてくる。

 崩落が新たな崩落を呼び、すべては、雪煙のなかに虚しく消えるだろう。


 だが、ナビヌーンはその凄惨極まりない光景を目にすることはなかった。

 怒りで我を忘れたガスキールともみ合ううちに、岩棚の縁に寄りすぎた。破滅装置が作動するまえに、一瞬早く彼らの足許が崩れ落ちたのだ。

 真っ逆さまに闇の淵の奥底に呑み込まれる彼らの絶叫は、銃声とそれにつづく大爆発、土崩瓦解の大雪崩、兵士たちの叫喚地獄にかき消された。

 それが、オーロラを夢見た若者、母なる氷河の養い子、ナビヌーンの最期だった。


 崖上の一方の際。

 魔術師の仕掛けの壮大さに驚愕しながらも、ゲイルは崩落を感じると雪崩に巻き込まれぬようにシノロンを連れて凍てつき凍え果てた雪原の内部へと逃れた。

 仕掛けは完璧だった。

 だが、何かが狂っている。峠で何が起きたのだろう。再び、ふたりに再会できるだろうか。

 そして、目の前に起きた惨劇の向こうに二重写しに連想せざるを得なかった。遠からずダール・ヴィエーラを襲う運命、破滅的な氷河の決壊を。

 イムナン・サ・リは、谷底に渦巻く巨大な思考の集合体から、支離滅裂の混乱、騒擾、動揺、恐慌の極みのなかから、ナビヌーンの思考のみを識別することができた。

 我が身に何が起きたのか判らぬまま四肢をばたつかせ、底つ闇に降下していく魂を。衝撃とともに意識が途絶える様を。手に取るように感じた。

 いつのまにか、それほどのつながりが生まれていた。

 だが結局、若者の心情を酌み取ることができなかったのだ。


 己の無力さ、想像力の欠如、無策ぶりに、どれほど打ちのめされただろうか。

 魔術師にできたのは、あらゆる思考を停止し、虚脱のなかで茫然と立ち尽くすことだけだった。

 我ながら卑怯だとおもいながらも、絶望の大いなるカタルシスが、罪悪感や後悔の念といった出口の無い雑多な念慮を呑みこみ、洗い流すのを待った。


 どのくらいそうしていただろうか。ぽっかりと口を開けた混沌が銃口も炬火の灯火も生命の輝きもすべてを呑み込み尽くし、死と沈黙が世界を完全に支配したその時。

 イムナン・サ・リはいまや懐かしさすら覚える幻影を視た。


 魔術師は一瞬はっと目を見開いたが、すぐに動揺を消し去ると恨みがましくその幻に語りかけた。 

「安っぽい正義感に突き動かされ、自ら死地に飛び込んでいったあなたが、この世になんの未練をお残しか。青臭い信念を貫徹できて満足であろうが」

「お願いだ。シノロンに伝えてくれ。決して俺の仇は打たせるな。もう血で血を洗う報復は終わりにしてくれと。和睦と統一こそが我らに残された唯一の方策」

 「……。それが命を投げ出してまで得たあなたの答えか。ならば、しかと伝えよう」

 喪失の耐え難さ、認めがたさに、魔術師は目を伏せて唇を噛んだ。

 

 「我が友よ」

消えゆく若者の魂は双翼のごとく両の腕を拡げた。

 「天空の鍵を開けて、どうか世界を救ってくれ。白鳥の娘とともに」


 世界の終わりに、その真白き翼を紅く染めた聖戦士。

 ナビヌーンの潜在意識に一幅の絵として刻み込まれた光景が、イ・ヴァン・カラクの砦を墜とした直後に夢見た幻視が、魔術師の脳裏にも映し出された。

 

 レッド・スワン。


 いつとはなしに吹雪は止み、暁暗の薄闇にはかない白い弧がかかった。

 月の虹は、天上と地界をつなぐかのようにしばし空にその姿をとどめた。

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