第二話 雪と風と(下)

(壱)


 再び、夜が訪れた。

 いつになく胸騒ぎがして少女は寝覚めた。外を見回すと、冷たい空気のなかに悪意を感じた。ゲイルは、いつもと同じ習性で弓に弦を張り、指でなぞるように慣らしていった。


 「サ・リ」

 少女は、火を囲む一軍のなかに男を見出した。地上に降り立ったラ・ウと同じように、魔術師もまた黒衣を脱ぎ捨て、白銀の冬衣を纏っていた。いつにもまして他者を寄せ付けない冷淡さとともに。

 「敵は近いのか」


 「いえ、人の気配はしません。ただ、何ものかの、飢えた獣かあやかしかの視線は感じます」

 少女の問いかけにすげなく答えると、魔術師はナビヌーンをまっすぐに見つめた。

 「このような部隊で移動するのは目立ちます。これからは一層の悪路がつづく。隘路で襲撃されれば、身動きできません。ナディヤム殿にはオトス街道に抜けてそのままアピに帰還していただきたい。ギム・ア・ポトスには我々だけで充分でしょう」

相変わらず口調は慇懃かつ無礼で、ナディヤムらを足手纏いのお荷物と断じるに等しかったが、もはや異議を挟む余地などなかった。


 どうせ、この男のことだ。ギ・イェクの牙城やギム・ア・ポトスの砦を墜とした時のような無手勝流むてかつりゅうの奇策で敵に挑むのだろう。


 むしろ、それこそがナビヌーンの求めたものだった。

 「我々」には、ギム・ア・ポトスの捕囚であった年少のシノロンも含まれて、このまま峡谷の捷径を進むのは四人となった。イムナン・サ・リはナビヌーンと組み、ゲイルはひきつづきシノロンの橇に乗った。


(弐)


 本隊と別れてから、追跡者の気配は露骨になった。


 狭矮な谷底を縫う悪路を二台の犬橇はすり抜けていく。

 先頭は熟達したナビヌーンが操り、シノロンの橇が後につく。枝道もなく、抜け出すことはかなわなかった。頭上には雪庇せっぴが大きく張り出し、崩落を予感させる。

 折しも、夜半から吹雪。風は逆風むかい


 「やはり」

 魔術師は、振り向いて後方を、ついで背後で橇を馭するナビヌーンを仰ぎ見た。

 「どうしたのだ」

 ナビヌーンは声を張り上げた。どちらを向こうと闇と地吹雪で視界は無いに等しく、ヌークの眼をもってしても敵の姿は捉えられなかった。

 「狙いはどうやら、わたしらしい。むき出しの悪意を感じます」

 「心当たりがあるのか」

 「闇の輩の恨みは人一倍買っていますから。ですが、今回の気配に思い当たる節がないのです」


 獣、獣、獣の群れ。


 おそらくは変化へんげした妖獣が、原初の太母にも似た闇の胎中にその身を潜ませて刻々と近づいてくる。地吹雪のごとく疾駆し、風の咆吼をあげながら。


 敵の来襲はもはや隠しようがなかった。

 後ろに続くシノロンの橇では、ザックもまたいち早く異変をかぎ取っていた。ゲイルの肩にもたれるように後方をうかがっていたが、その警戒のレベルを低い唸り声から甲高い吠え声に変えた。

 少女は、ザックの頭をひと撫でして、振り向きもせず矢をつがえた。そして、橇上によろめくことなく立ち上がると、身体を後ろによじった。


 「伏せろ、シノロン」

 橇の後ろの御者席で綱を捌き、鞭をふるう少年に少女は命じた。少女はもはや少女では無かった。

 その有無を言わさぬ口調は猛き武人のもの。その細身の身体を貫く怒りと気迫は、迫り来る恐怖をはるかに凌駕していた。


 ゲイルの目は吹雪の彼方の赤く光る眼をすでに捉えていた。

 シノロンが身を低くすると同時に、後方の闇に矢が放たれた。

 矢は順風おいてのなかを游ぎながらも勢い猛に、超絶なる威力で獣の額の真ん中に射込まれた。少年は、氷の塊にみえるものがもんどり打って倒れたのをかろうじて見た。


 暁色の髪を持つ軍女神いくさめがみよ。

 ああ、どうかこの壊れかけた世界の闇をはらい、あらゆる魔を破りたまえ。


 祈りと憧憬どうけいが少年を支配した。


 だが、続々と災厄はやって来る。次の瞬間には、暗闇から血の眼をもつ氷塊が間近に飛び出してきた。


 氷塊は、冬の狡猾な狩人、雪毛に覆われた狼だった。

 その巨体と血のごとく赤き眼は幻妖たる確証あかしなのか。

 

 矢継ぎ早に射かける少女の早業をかいくぐり、一頭の妖狼が迫ってくる。

 シノロンの熟達した鞭がうなった。しなやかに、したたかに、急所を、そのギラギラした赤眼を狙ったが、致命傷にはならなかった。


 「立ち上がるな。そのまま伏せていろ、シノロン」

 せめて少女の楯になるつもりだったが、当の本人に肩を強く押さえ込まれてかなわなかった。


 為す術のない少年の頭上をか細い腕が伸びる。あまりにも無防備に。


 差し出されたのは、少女の右腕だった。

 瞬く間に、巨狼が喰らいついた。その腹にザックが飛びかかった。少女の顔がかすかにゆがんだが、それだけだった。驚くシノロンの目前で、左手に握った狩猟ナイフがあざやかに喉を深く掻き切った。ほぼ両断といっていよいほど深く。

 血潮は蒸気のように吹き出すと、少年の毛皮の衣類やむき出しの頬、そして睫にねっとりと粘りつきたちまちのうちに凍りついた。あっと思うまもなく、少年は軍(いくさ)の庭にふさわしい血の洗礼を受けた。ぞくぞくとした高揚感が、戦場にすまう狂気が彼を捉えた。

 事を終えると、少女はまだ右手にかじりついたままの死骸を大きく振り払った。残りの狼たちがひるんだのが解った。

 しかし、牙は厚い皮の防寒具を引き裂き、袖口には鮮血の塊がへばりついていた。


 「ゲイル様」

 「かすり傷だ。案ずるな。それよりも切り離されたら、奴らの思うつぼ。遅れを取るな」

 かすり傷でない証拠に、骨が砕けたのか少女の右腕はだらりと脱力されたまま、その面は蒼白さを帯びていた。シノロンは鞭をしならせた。


 「おい、援護しなくていいのか」

 後方の異変を察したナビヌーンが問うた。

 「彼女は大丈夫です。それに、追い手はいわば雑兵ざこ。我々を威嚇して疲弊させるのが役割でしょう。頭目は先回りして我々を今や遅しと待ち構えています。我々はすでに袋の鼠のようなもの」

 魔術師は闇の彼方を見た。敵はもう間近だった。

 「いいですか。わたしが飛び降りたら、軽くなった分全力で疾走してください」

 ナビヌーンの金の眼を覗きながら、いつにもまして強い語気で魔術師は嘆願した。もはや命じたと言ってよかった。

 「おい、どういうことだ」

 「やつらを討ち取っても、この地で犬を失っては死を待つばかりです。まずは、あなただけでも逃げ切って下さい」

 その言葉が終わらぬうちに、魔術師は雪原に驚くべき俊敏さで跳躍した。ナビヌーンは唖然としながらも、言われるままに犬たちを駆り立てた。


 振り返りながら、ナビヌーンはほんの一瞬だけ垣間見た。魔術師に対峙するように漆黒の闇から姿を現した魁偉かいいなる巨獣を。並の狼の優に十倍はあるかと思われるその巨躯を。


 爛々と輝く赤き眼は血と炎と狂気の色。

 その体毛は逆毛を立てた白霜であり、ダイヤモンドの針。

 赤き口から零れる牙は垂氷たるひの剣。足許からは地吹雪が渦巻く。


 妖狼、魔獣、白魔の使い。


 もはや言葉は無力だった。

 どのように呼ぼうとこの恐怖は言い尽くせないだろう。北の谷の奥深くに、霜と氷の化身たる狼の王が住まうと聞くが、姿を見たのは初めてだった。

 あらゆる思考を停止させたまま、ナビヌーンは橇を矢のように疾駆させた。あたかも、魔術師の術に掛かったがごとく。


 一方、残された魔術師は目の前に迫った巨獣を冷たく見据えた。


 (なにゆえ、我が行く手を邪魔立てする)


 (貴様が何もせぬからだ。貴様がどれほど傍若無人に我が狩り場を荒らそうと黙認してきたのは、貴様がいずれ我らをこの闇から解放すると信じたからこそ。だが、この危機にあって手を差しのべるのは、身内と昵懇じっこんの者のみ。貴様は我らを救うのではなく、ただほしいままにほふるだけ。ただ、涼しい顔で我らがめっするのを眺めやるだけ。ヤ・バル・クーンにも劣る)


 (霜の狼がわざわざ姿を現したかとおもえば、そのような女々しい怨言えんげんを吐き出しに来たか。あいにくと卑劣さをそしられるのは慣れているゆえ、何ひとつ心を打たぬ。絶望の余りその首を差し出しに来たのか。ならば、願いを叶えてやろう)


 魔術師はゆっくりと剣を抜いた。後方から迫る橇がはやくこの場を過ぎ去って欲しいと願いながら。


 だが、魔術師の期待は見事に裏切られた。

 橇が過ぎ去る間際に、闇に踊る影ふたつ。

 二対の金の眼は地吹雪の狭間を軽々と飛び越えた。魔術師の祈りに反して、ゲイルとザックはその傍らに正確に着地した。

 彼らを追う獣の気配は四頭。少女はすでにその倍以上を射殺していた。


 「相変わらず、愚かなことを」

 「加勢に来てやったのに、その言いぐさは何だ」

 手持ちの矢は尽きたのか、ゲイルの携えた武器は左手の狩猟ナイフのみ。魔術師の手が少女の右肩に触れた。少女はちいさなうめき声をあげた。

 「右手は使い物にならないようですが、その御様子では援護に来たのか足を引っ張りにきたのか解りませぬ」

 

 四対の赤い眼が彼らの周りをぐるぐると旋回し始めた。だが、もはや真の脅威は獣どもではなかった。この期に及んでは、戦うべき相手は刻々と精気を奪っていく凍てつき凍えた吹雪の峡谷そのものだった。


 痛みすら感じぬ極寒の世界。

 雪風に身体の熱は奪われ、五感はもはやあって無きがごときもの。

 闇のなかで生起し、流出する意識。

 聞こえるのは、風のすさびか、獣の咆吼か。

 瞑目の彼方には、はらはらと散る雪影の幻舞。


 凍えゆく世界はいつしか現世うつしよ常世とこよの境界を飛び越えて、すべては極限状態がもたらす錯乱と狂気に収斂していく。


 異界化した世界はそれ自体が息づき、人も獣も生けるものすべての鼓動は同期してどくどくと脈打った。あたかも、あらゆる森羅万象を組成する全一なる有機体に取り込まれて、その器官の一部となったかのように。


 いまや世界を統べるのは、おのれの存在をすら揺るがす恐怖。すなわち死。


 巻き上がる地吹雪の包囲網は、獲物を少しずつ蹂躙するかのように小刻みに狭まってゆく。魔術師らは逆巻く雪煙の旋風に完全に封ぜられた。

 身軽な少女も深い雪のなかでは思うに動けないだろう。少なくとも、魔術師はそう決めてかかった。


 それほど、わたしが憎ければこの身体ごとくれてやろう。魔獣どもよ、その嫌らしい牙で我が身を思う存分切り裂いて、せいぜいむさぼるがいいさ。


 魔術師が緩慢化した意識のなかでおのれの死を静かに決意したその時。


 「足手まといかどうかは、その眼で確かめるが良い」

 凛とした声が響いた。


 魔術師の予断に反して、少女の野性的な直感は獣どもの包囲網に微かな揺らぎを生じさせている離心円りしんえんの軌道を読み、その僅かな破れを見い出していた。


 (見切った!)


 その刹那、あり得ないほどの跳躍力をみせた少女は、凍てつく闇のなかに身を躍らせた。彼女の狼も後に続いた。

 あっと思う間に、四頭のなかで一番ちいさな雌狼の背に飛び乗ると、少女は長い手足を優雅に絡ませて左手のナイフで瞬時に喉を掻き切った。血塊が氷となって刃に凝着する間もないほどにすばやく。


 視界は無きに等しかったが、魔術師の心眼は、少女のあまりに無謀で捨て身な戦法を、その一挙一頭即を捕らえていた。その鮮やかな手並みは流星の放つ光芒こうぼうのごとき残像を残してまざまざと魔術師の心に焼きついた。


 他の三頭も慌てて、少女に襲いかかった。

 ザックがそのうちの一頭をなんとか押さえつけている間に、少女はやみくもに飛びついてきた狼の腹を渾身の力を込めて蹴り上げた。

 断末魔の悲鳴と同時にぐしゃりと内臓のつぶれる音がした。(靴裏の堅固な鉄鋲での一蹴りは、致死的な戦棍メイスの一撃となることを少女は熟知していた)

 蹴り上げるのとほぼ同時に、すばやく身を反転させて、遅れて飛びかかってきた残りの一頭の心臓をナイフで突き刺した。

 「ザック。良くやった」

 愛狼の後ろ肢に喰らいつく妖狼の喉首を掻き切ると、全ては終わった。


 瞬殺。その疾風迅雷しっぷうじんらいかつ流麗典雅な早業に、人も獣もただ瞠目どうもくするばかり。


 (レッド・スワン)

 血染めの白鳥よ。と、巨狼が舌なめずりする。その舌は燃える火だった。すべてを舐め尽くす炎。生命の火。

 (レッド・スワン)

 霜の巨狼は、いまや少女の方へ歩みを向けた。


 「ふざけるな」

 魔術師は、剣の切っ先のごとき容赦ない視線を巨狼の赤い双眼に向けた。


 魔術師は巨狼の思惟の内部へと踏み込む。

 その巨大な思考装置のなかに。深遠なる概念の迷宮に。


 霜の狼の心象は、虚ろな谷そのものだった。

 逃げ場のない重い雪に深く、ふかく埋もれた千尋せんじんの谷。そこに渦巻くのは、数多の命の悲嘆であり怨嗟えんさであり慟哭だった。


 風はふうっと嘆声たんせいを漏らしながら、魔術師をなぶるように絡みついてくる。

 

 啼哭悲泣ていこくひきゅうの声はいつしか途絶え、風も凪いだ。

 いまやすべての雑音は捨象されて、死の沈黙が世界を包み込み、無言の嘆息が魔術師をさいなむ。


 そこにあるのは死、白い死。

 すべては、漆黒の帳に覆われた、音も無く蒼白な氷雪の檻のなか。


 この世界のすべてを救わぬと、共に滅ぶと決意したのは自分自身。愛する者と引き替えに得るものなど何ひとつないと。

 すでに決断は下した。このような揺さぶりなど無意味。そして、迷いは死。

 だが、魔術師の心はすでに動揺しているのか。外界と同じく雪と闇に閉ざされ、もはや出口は見えなかった。


 我が術に、我がうちにある迷妄に、自ら捕らわれたか。所詮、早晩滅ぶ身。今となってはどうでもよかろう。

 そう思い定めた瞬間だった。

 「サ・リ」

 微かに少女の声がする。

 「サ・リ」

 今度はもっと力強かった。

 魔術師は、身震いすると目が覚めたように我に返った。


 巨狼はゲイルへと向かっていく。少女は麻痺したように動かなかった。巨狼が頭を垂れたように見えたその時、魔術師の剣がその首と胴を両断した。


 (死をもってわたしに警醒けいせいしたつもりだろうが、全くの無駄死にだ。自己犠牲、そのような愚かしい行為でわたしをいさめようと心なぞ動かぬ)


 (貴様の腑抜けた心なぞ端から興味はない。だが、その娘は、レッド・スワンはどうだ。己の定めを知らされておらぬように見受けられるが)


 巨体がどうと倒れた。

 雪原が弔意をあらわすかのようにうち震え、雪風がひゅるひゅるといた。転げ落ちた首のその双眸は、切り離されても光を失わず少女をかっと見据えたままだった。


(参)


 吹雪に閉ざされた世界にも遅い黎明が訪れようとしていた。

 重く立ちこめた暗雲の端を暁光が茜に染め上げていく。 


 「サ・リ。この獣は邪な感じはしなかった。何故我らを襲ったのだ」

 薄闇のなかで少女は静かに問いかけた。


 「さあ、わたしにも畜生の心は解りかねます」

 「だが、この獣は我らの旅の始まりから、ずっとそばにいた。まるで地上のラ・ウのように我らを見守っていた。いいや、ずっと昔から、狩りにさすらうたびにあの古びた神のごとき視線を感じていた」


 イムナン・サ・リは少女の砕かれた右腕を手に取った。もう一方の手がそっと無惨な噛み痕をなぜてゆく。痛みがすっと引いていく気がした。


 「魔物といっても、たかが走獣。考えすぎでしょう。それよりもあなたは何もかもが無謀すぎる」

 「お前があまりにも愚かで無策だからだ」

 「わたしのことなど捨て置けばいいのに。最近はどうやら憎しみが勝っているかのように、顔に死ねと書いてある」

 霜の狼の死、いわば谷そのものの死に対する自らへのやり場のない怒りが思わず少女に向けられた。言った端から男は悔やんだが、すでに言葉は口を衝いたあとだった。

 少女の眼が潤んだ。

 「何故、そのような悲しいことを言う。たとえそうだとしても、お前を獣の餌食にはさせぬ」

 「わたしが選んだのはあなただ。信じられないのなら、さっさと愛想を尽かして見限ればいいのに」

 何を口にしても言葉は鋭い刃にしかならず、自らの言に自縄自縛になりながらも、魔術師は少女を強く抱きしめた。

 ゲイルはその腕を解いて、男をまっすぐにみつめた。

 「思い違いをするな。お前に選ぶ権利などない。わたしがお前を望んだのだ。お前の魂を躍動させ、命の輝きと歓びを与えるのはわたしだけ。お前のたどるほの暗き道を共に歩むのはわたししかおらぬ。お前の痛みすらわたしのもの。わたしがお前と共に生きると決めた。お前は勝手に惑っておればよい」


 強気な言葉とは裏腹のしがみつくような眼差しにイムナン・サ・リは愛しさを覚え、同時に胸がするどく痛んだ。

 世界は滅ぶに任せ、自らの使命を捨て、少女をその過酷な運命に引き渡さないと決めた。

 それほどの代償を払った愛すら全うできぬのかと、雪風はわらうように、そしるように魔術師の周りをすさびながら吹き抜ける。


 魔術師は少女を抱いたまま、雪のなかに仰向けに倒れ込んだ。そのまま、雪に埋もれて、雪の蒼白さに浄められてすべてを終わらせたかった。

 最愛なる少女をかき抱きながら、男は秘められたもうひとつの暗い想いをなぞった。


 ルー・シャディラ。永らく欠けていたみずからの半身。

 どれほど振り払おうと纏わりつく、呪われた運命の白い手。


 出立前、イムナン・サ・リは自らを望まず、かといって拒みもしない女に相対した。断ち切るべきだった。だが、会わずにはいられなかった。男を前にすると、ルー・シャディラはすべてを予知できないのか、死霊をみたかのように青ざめた。

 「もはや、ただしもとがめもしない。あなたの駒として甘んじよう」

 女をとらえると、その血の気の失せた唇に口づけた。男の貌もまた蒼白だった。

 「ただし、対価をいただく。今一度だけ、我らの関係にふさわしい、衣擦れのように密かな戯れを」

 男と同じように、絶望の底に情熱をたたえた瞳がまっすぐに見返した。

 「あれは一時のこと。二度目がないのはあなたも承知の上だったはず。これ以上踏み込めば、声をあげましょう」

 男は冷酷かつ放逸無慚な本性をあらわすと、女のささやかな抵抗を嗤った。

 「どう抗おうと結果はおなじ。互いの闇の力を解き放ち、ここで死闘を尽くすも一興。だが、それはあなたの本意ではあるまい。あなたにわたしは殺せない。屈辱におののくあなたを愉しみ、また違った趣向となるだけ」

 その細い肩を抱く男の手に微かに憎悪が混じった。

 「これが最後だ。わたしとて、これ以上つづけたくはない。あなたが先に仕掛けたのだ。この恋の火を消すには、燃やし尽くす以外ないと」


 確かに情熱の火はふたりを焼き尽くした。

 それは青白く冷たい燐の炎。かそけき死者の魂の色。滅びよ、滅せよと囁きながら、この恋を終結どころかさらなる破滅へと駆り立てていく。


 常闇に閉ざされた、彼らの魂のうちにある故郷。暗く、紅い谷底で、闇の血族うからが眠る化野あだしので、彼らは愛し合った。

 欲望の極みにあって、ふたりはもはや生者であることを忘れた。その結合は、暗夜に共に踊る幽鬼のそれか、塚のなかで朽ちて交じり合う二体の骸か。

 絶望は甘露のごとく浸み渡り、罪深さもまた苦き酒だった。もはやうちなる神をさいなむこともなく、陶然と酔いしれるだけ。すべての波が引いたのちの微睡みは、ちいさな死の訪れそのもの。


 微睡みのなかで男は夢見た。

 紅い闇のなかで、無心に遊ぶ幼い男女の姿を。

 彼らは、凍て解けの泥のなかでちいさな土人形ゴーレムを造っては打ち壊していた。愛を知らぬ子どもたちが支配する泥土ひづちの楽園。呪詛と憎しみが彼らの子守歌。ただ悪を為すためだけに産み出された魔性の子。


 失われた記憶はいまや甦るのを待っていた。彼が望めば、手に届くところに。

 紅い闇の世界には、いつぞやの聖櫃がぽつりと残されていた。イムナン・サ・リはなかば無意識に手をかけようとした。


 (だめよ。まだその時ではないわ)

 いつの間にかちいさな少女が櫃のうえに座っていた。

 表情の一切失われた黒い虚脱の瞳が無言で語りかけた。

 (あなたは、まだ何ひとつ使命を果たしていない。今あなたがこの聖櫃を開けて本当の自分を取り戻せば、真の闇が解き放たれる。この荒涼たる深紅の地獄が現実を支配する)


 善と悪は混沌のなかで溶け混じる。闇のなかで燦然と輝き、その魂を惹きつけてやまないのは、果たしてどちらの側なのか。


 雪よ。

 あえかなる雪よ。

 その残酷な清浄さで、この世界の全てを消し去るがいい。


 やがて、魔術師は夜明けをまえに犬どもが跫然きょうぜんと雪原をどよめかせて戻り来るのを感じ、その御者らが運んでくる精神の健全さをひそかに嫉み憎んだ。

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