第一話 雪と風と(上)

(零)


 小惑星テノティチトラン。

 その宇宙港が男の行き着いた地だった。王配となる身を約束されながら、専用のシャトルをあてがわれ、港湾の治安をつかさどる傭兵たちの指揮官として華々しく赴任した。

 

 国一番の駿馬を潰して、高額な輸入品である特装のハーレイをスクラップにしたかと思えば、国家予算ほどのシャトルを強請ねだるとは、我らが女王陛下はずいぶんと金のかかる情人を囲っているものだ。


 そう宮廷人は噂すると同時に、目につく場所からやっかい払いできたことを心から喜んだ。


 やがて、男が名ばかりだった宇宙港の総督の職位を得たときに彼らは気がつくべきだった。むら気で薄情で強権的な女王よりも、彼こそが彼らの存在を覆す脅威だと。革命の騒乱よりもたちの悪い手段でこの星を滅ぼす人のかたちをした災厄であると。


 宇宙港テノティチトラン。

 この巨大な星のかけらでできた天空の埠頭は、男にとってすべてが驚異であり歓びだった。

 大気圏への突入にも耐えうる恒星間シャトルの停留する桟橋。

 レィヴンは胸を躍らせて、管制塔からその発着を見守った。

 だが、圧巻は何といっても巨大なガリオン船。人とも獣ともつかぬ異教めいた波浪神フィギュアヘッドを船首に戴いた銀色の船が、幾重もの集熱パネルの帆を拡げて入港する光景の何という壮麗さ。この亜光速の商船が整備される船渠ドックは、千年紀を幾つも超える昔には造船所そのものだったという。

 レィヴンは帆船の檣楼しょうろうに立つ己の姿を密かに夢見た。


 年に数回ほど、時空のひずみを旅してきた巨船が停泊するたびに、ゲートには次々と荷がおろされ、コンテナヤードを埋め尽くす。無限軌道クローラであちこちを這いずり回りながら立ち働くクレーン。マグネットのアンカーで地につなぎ止められたコンテナは、やがて恒星間シャトルでそれぞれの星に運ばれてゆく。

 小惑星の地下には市街があり、港湾労働者や乗務員のための遊技場も設えられていた。このような文明的でテクノロジーに満ちた世界は彼の母星には存在しなかった。おそらくはこの一帯の居住可能な星のどこにもなかった。この世のものとは思えないほど豪奢だった宮廷ですらも中世の世界に留め置かれていたのだから。


 ここでは、女たちも男たちも様々な色を持っていた。


 人生で初めて、友もできた。

 猜疑心のかたまりだったことがまるで嘘のように、レィヴンは最古参の傭兵と打ち解けた。ピノというその男は、レィヴンよりもずっと浅黒い肌色を持っているガリオン船の船員だったこともある兵士だった。つまらぬ軋轢あつれきで自分の船から追い出され、この宇宙港に住み着いたのだという。

 ピノの語る宇宙の旅、さまざまな人種、その星々の文化は、夢のようにうつくしかった。そして、荒涼たるテノティチトランもまた夢の世界だった。


 ピノの宿舎の小部屋には、旧教の信者なのか、悲しみの聖母(マーテル・ドロローサ)の聖画が掲げてあった。その魂を七つの苦しみの剣で突き刺されながらも、甘美ともいえる苦悩の表情は、地上に残してきた女を思い起こさせた。

 レィヴンが見るともなしに眺めていると、ピノはしずかに語り出した。

 「このお方が、偉大なる精霊ロア、エルズリー・フレイダだ。愛の女神で、海の娘。いわばヴォドゥンのアフロディーテさ。色白のたいそうな美女で、三人の夫を持ち、すべての男たちが彼女の情人、矢で射貫かれた心臓が彼女の象徴ヴェヴェだ」

 レィヴンが怪訝な表情をみせると、ピノは笑った。

 「愛とは突き詰めれば苦悩そのものだ。エルズリーは、満ちることのない情熱、愛の苦しみを引き受ける女神ゆえにこのようなお姿をされている訳さ。もうひとりの黒い聖母(ブラツク・マドンナ)、エルズリー・ダントールは母と子の守護者。母性、嫉妬、虚栄心といった愛の別の相をつかさどる荒ぶる戦いの女神だ。片頬に傷を持つムラートで、レスビアンやシングルマザーからも愛されている。象徴ヴェヴェは剣で一突きされた心臓」

 

 「神は遠すぎる。アフリカの地で人類と共にうまれたヴォドゥン(ヴードゥー)はすべてが逆しまだ。天上の至高神に代わって、地底の岩漿マグマわだかまる原初の蛇ダンバラーが浮上して宇宙を造った。深淵に眠る蟠蛇ばんだが一条の熱き剣となり天の虚空を貫くと、原始の星が次々と生まれ数多の火花を散らした。蛇は、大地にあって川となり、雨となって川を満たし、血潮となって生命を満たし、溶鉄となって流れ出した。そして、立ち昇って虹となり、雷となって降り立ち、再び上昇して太陽の航路を描いた。また、尻尾を咥えて陸地を取り巻く大洋となった。やがて、蛇は虹と睦み合って愛が生まれ、鎌首をもたげながら男女に愛を教えた。虹蛇こうだの聖なる交合は、天と地を結ぶ螺旋の階段となった。人間に性愛を与えたとがによって、ダンバラーは後の宗教でサタンとして貶められたが、遥か遠い諸大陸、新しい神が及ばぬ領域で虹の蛇は記憶され続けた。ヴォドゥンはすべての宗教の古層だ。その証拠に、奴隷船とともに新世界に渡り、あらゆる宗教と混合しても、ヴォドゥンはヴォドゥンのままだ」

ピノは十字を切って見せた。父と子と聖霊の御名において、と唇が動いた。

 十字架は、強大なる精霊ロアレグバの十字路。人形ひとがたを写し取ったもっとも単純な依代よりしろであり、四方位が、四元素が結合する素朴で禍々しい太古の魔術の祖型。地上において天界と冥府が交差する異界への入口。運命の門。


 ピノは、十字の刻まれたチタン製の六角錐のロケットを首からさげていた。

 彼は宇宙の海原を時空を超えて航行していた頃に忘れがたい恋をした。そのつかの間の出会いのよすがが込められているのだという。


 相手の名はメリー・ルー。

 ミルクのような肌と見事な赤い髪をもったアイリッシュ・ローズ。シャトルの売買から様々な修繕と詐欺を家業とする宇宙時代の馬喰ばくろうであり万屋よろずや、星間世界をあてどなく旅する漂泊者トラベラーの一族の一員だった。


 出会ったときには彼女はすでに花嫁だった。ピノの船の乗客のひとりとして、一族の掟によって決められた許嫁のもとに嫁ぐ旅の途上にあった。彼らは愛を交わすかわりに、船内の医務室でお互いの遺伝情報を交わした。採取された生殖細胞は融合し胚の状態で凍結された。そしてそのときも凍結胚のまま真空のロケットのなかに収められていた。


(壱)


 季節は移ろいゆく。

 ウズリン族の冬都であるザラスの荒涼宮は、玄冬素雪の単彩画モノクロームの世界に厳かに座していた。狭隘なザラス回廊の両側の断崖、その鉄色の玄武岩バサルトを幾世紀にもわたって切り出し、突き抜いた空中都市。

 この年の冬の湿りは南方のザラスですら雪で覆ってしまった。くろがねの巨人にも比される重厚な都は、いまや白銀の甲冑をよろって闇のなかで冷たく輝いていた。 


 雪は思いのほか温かく、以前の冷たく乾いた朔風よりずっと温かくザラスの都を包んだ。だが、同時に湿った重雪はそれ自体が住人を閉じ込める檻となった。

 切岸からひときわ張り出したバルコニーは、王族たちのものうげな謁見台となり、決闘場あるいは処刑台として冬の無聊ぶりょうをなぐさめるあらゆる見世物の舞台となったものだが、もはや雪に埋もれるに任せて久しい。


 絢爛たるまぐさ石で装飾されたファサードを過ぎれば、そこは毛皮が敷き詰められ、骨細工の調度に埋まり、雲母きらの輝きをもつ岩壁に玻璃の結晶が燭台の代わりに嵌め込まれた野蛮で壮麗な設えの王宮。

 このクリスタルの輝きを放つ蛮族の宮廷に、冬将軍さながらに招かざる異国の客が訪れた。降り積もる雪と同じように北方から。


 オズク族の長ナディヤムを伴ったナビヌーンの一行だった。

 吹雪のなか犬橇で二十夜の行程を南下した彼らは、旅装を解く暇も饗宴の席も設けられぬまま謁見の間に迎えられた。随行を従えることすら許されず、族長ふたりのみが王の目前に通された。

ひざまずく彼らのまえには矩形に削られた岩の火床が横たわっていた。とばりのように焚かれた篝火の向こうに貴人たちが座していた。


 炎の冠を戴いた若い王ファディシャは、例のごとくその面に剣呑さを浮かべて、不意の客人たちに一切関心なさげな様子で玉座にあった。その非の打ち所がないうつくしい身体を平服と緋色で裏打ちされた銀毛のマントにつつんで。

 岩を穿ち玉を鏤めた壮麗な玉座を囲むように、彼の眷属たちが毛皮の敷き詰められた壇上に座していた。予言者だという王妃と身重の愛妾、王妹ゲイルと今はその婚約者である件の魔術師。


 強い魔力を秘めた黒い瞳のふたりはおろか、その場に会する誰もが凄惨なまでにうつくしく、魔物めいていた。


 夜緑色モスグリーンの異国的なドレスを純白の貂の毛皮のマントでつつんだ王妃ルー・シャディラ。その容貌は魔術師と通じるものがあったが、見かけの艶やかさの向こうに強靱な意志の力が垣間見えた。予言者として醸し出す神秘のアウラも魔術師には無いものだった。

 一方の妾妃ドゥルサーラはケープのついた雪豹のドレスを纏っていた。身重とはいえそのしなやかな野性と美貌は尋常でない趣があった。


 ゲイルといえば、野の狩人そのままのなめし革に毛皮の縁取りのついた狩猟服姿だった。ふたりの妃たちがきらびやかな宝玉で身を固めているのに対し、少女の身につけているアクセサリーといえば、羽とビーズで出来た髪飾りだけだった。以前と変わらぬ飾り気のなさで少女は現れ、ナビヌーンをみると軽い笑みを投げかけた。

 だが、その面に浮かぶかすかな翳りは彼の知る彼女にはないものだった。そして、拭(ぬぐ)いがたき憂いが生のままの美貌をさらに深めていた。


 そして、王を取り巻く女たちの誰よりも艶然たる色香を放つのは、ナビヌーンのひそかな盟友であると同時に目前の狂気の王とよじれた愛憎でむすばれた魔術師イムナン・サ・リ。

 ナビヌーンが最も頼りにしながら、この場で最も当てにならない男であった。瀟洒なタルクノエムの冬の衣服のうえに、まるで悪い冗談のように蛮族の魔術師らしい狐の一枚皮が継ぎ合わされたマントと骨細工のガラガラ響く首飾りを首に巻きつけ、その先に吊り下げられた干し首の呪物を弄んでいた。いまや薄ら笑みすら浮かべて、事の成り行きを見守っている。


 すべては、篝火の向こうに揺らめく。その熱と燻りのなかに秘められた媚香に煽られて、客人たちの頬は火照ほてった。


 炎に湿しとった黒い岩肌のマティエールは、雲母きらの輝きを帯びて、洗練とはかけ離れた造作でありながら、四辺あたりに神殿のごとき神秘の趣を与えていた。そして、水晶塊のなかに揺らめく燭火は、その深い陰翳で魔物めいた一族により複雑な表情をもたらしていた。


 「オズク族のナディヤムと西タルー族のナビヌーンか。北の蛮族が雁首をそろえて、何の用だ」

 長い沈黙のあと、剣呑の王は物憂げに会見の口火を切ると、ナビヌーンに眼を向けた。

 「果たし合いの続きでも所望か」

 わずかに小首をかしげると、腰の剣に手をあてた。ナビヌーンは胸に手を当ててひざまづき、頭を垂れたままだったが、横を見ずとも年長の従兄が青ざめたのがわかった。

 「その節の非礼をどうかお許し下さい」

 ナビヌーンはゆっくりとその面をあげた。

 「重ねて聞く。西タルー族はいまやガムザノンの地を捨て去り、オズク族の客分となったと聞くが、その敗残の将が何用だ」

 「兵をお貸しください」

 「この大雪に我が配下に下りて、糧を求めんとの請願が続いたが、兵を要望するとは厚かましいにもほどがある」

唐突で突拍子もない申し出に、若き王は苦く笑う寛大さをみせた。

 「が、理由くらい聞いてやろう」

 「この白魔のごとき大雪に乗じて、サイラスがいまや臆面もなく北方に多くの軍事力を投入しています。このままではオズクの都アピも奴らの後ろ盾を得た東タルー族の手に落ちること必定。もはや、一部族の問題では有りますまい。このような局面にただ拱手傍観とは貴殿の御名が廃りましょう。ここは是非とも、ダール・ヴィエーラの盟主たるウズリン族の力をお借りしたい」

 「北方の地に何が起ころうと我らの知ったことではない。サイラスがどう絡もうと、貴様らの確執は内紛に過ぎぬ。せいぜい血で血を洗うが良い。第一、我らはこれまで本格的な雪上戦など経験したこともないゆえ、そもそも戦力にならん。十分な兵站もなく果たして戦地まで辿りつけるものかもあやしい。いずれにしても、この冬はこの地に籠城するので精一杯だ。無駄足を踏んだな」

 ファディシャは鼻であしらうと、振り返ってゲイルに目配せした。

 「貴様の友人の濡れ鼠に湯と食事を与えてやれ。無下にすることもないが、歓待する必要もない。明晩には発ってもらおう」

 赤毛の王はもはや興をそがれた様子で立ち上がろうとしたが、ナビヌーンが引き留めた。

 「お待ちを。兵が叶わぬなら、麾下の魔術師にて当代随一の策士、イムナン・サ・リ殿を借り受けたい。その機略縦横たる手腕は万軍に値しましょう」

 そう一気に言ってしまうと、ナビヌーンは息を呑んでファディシャの反応を待った。 

 「ほう、なるほど狙いはそこか。この性悪なる優男こそ何ものにも代えがたい我が爪牙ゆえ、他のものには軽々しく貸し付けぬ。俺のものに手を出すと、どうなるかまだ理解していないようだな」

 眼をぎらつかせると、ファディシャは剣の柄に手を掛けた。今度は本気だとばかりにカチリと鞘鳴りがした。

 当のイムナン・サ・リは、相変わらず目を伏せて薄氷を踏むがごとき交渉を愉しんでいるばかりだ。口添えなど到底望めない。


 そのとき、ゆっくりと白い影がよぎった。

 王妃ルー・シャディラが、玉座の背から王の肩にそっと手を回した。怒りに逸る心を鎮めるように。

 「良いではないですか。この雪に閉じ込められて、我らが魔術師殿も腕を鈍らせておりましょう。我らに関わりなき戦なれど、そこに起きる風は、この冬の停滞を吹き飛ばすほどの嵐を起こしましょう。時を失ってはなりません」

 言い終えると、王妃はファディシャの耳に何事か囁いた。赤毛の王はしばらく思案気な様子だったが、やがて決断がくだされた。

 「よかろう。では、特別にイムナン・サ・リを貸し付けよう。ついでだから、我が不肖の妹もつけてやる。命じなくとも行くだろうし、止めるだけ無駄だからな」

 あっさりと命じると、ふたたび王妃を仰いだ。

 「なあ、巫女よ。予言者なら予言者らしく、戯れにこの者たちにそなたの箴言でも与えてやれ」

 ファディシャはその肩を抱く手に自らの手をかさねた。


 残りの三人はそれぞれ三様の反応を示した。

 妾妃はたゆげに目を背け、魔術師の双眸は炯々けいけいと王妃を射貫いた。

 ゲイルはその大きな瞳を伏せながら、愛する男をひっそりと窺った。その長い睫毛を細かく震わせて。


 巫女は心得たとばかりに啓示を告げた。

 「ガムザノンの守り手は精霊の吹き起こす霊妙なる大気の流れと聞きます。風は与え、風は奪う。すべては、雪と風の随意まにまにことは進みましょう。人の賢しらな恣意なぞ及ばぬ領域。せいぜい流れを見誤らないよう、その魂を研ぎ澄ますことです」

 女は悠然と笑った。

 だが、その瞳から隠しようのない冷酷さは単純性ゆえに謎掛けじみた予言に不穏な含みを与えた。あたかも、死の宣告のごとき翳りを。


(弐)


 「わたしに直接連絡くださればいいものを、真正直にもほどがある」

 衝立の向こうから不機嫌な声が聞こえる。


 ナビヌーンは、あてがわれた一室でウズリンのみめよき侍女たちに身体を浄められているときにイムナン・サ・リの訪問を受けた。

 産湯ですら、氷河の雪解水をそのままもちいる北の蛮族にとって身体を熱い湯に浸すのはまったく初めての体験だった。身体中の神経を針で刺されるような感覚に驚きながら、ウズリン族の美女たちにちらちらと目を走らせていたが、男は客人にしばしの休息を与えるつもりはないらしい。

 「連絡を取ろうにもその手立てなどなかった。お前のあるじに直接頼んで何が悪い」

 「本当に学ばぬお方ですね。もう決闘沙汰はごめんです。なにより主君以外に我が命運を握られることも好みません」


 ナビヌーンは、思いがけない王妃の取りなしを思い出した。ファディシャを完全に制することができるのはサイラスから嫁いできたという王妃だけのようだ。側近中の側近である魔術師すら差し置いて。魔術師が先ほど見せたわだかまりの表情といい、込み入った事情がありそうだった。


 「あの王妃とお前はどういう関係なんだ。アズール殿といい黒い目のものはみな異能者なのか」


 ナビヌーンの問いを見事なまでに黙殺してから、魔術師は反対に問い掛けた。

 「それで、薄雪の舞うなかでの脱出劇はどうたったのです」

 「ああ、あの時分は世話になった。お前のように非情にはなれなかったが、老人や病人、身重の女をおいて行かざるを得なかった。食料と燃料はいくばくか残してきたが、この大雪に耐えられたとは思えない。それでも、道中置き去りにしなければならないものたちが出た。三日と四夜不眠不休であるいて、最後の晩は吹雪だった。そのなかで倒れたものも多い。もはやこれまでと思ったとき、アピの灯りがみえた」

 「それは難儀な旅でしたね。ですが、どれほど犠牲を払おうと、共倒れよりはいいでしょう。生き残るものの苦悩に較べれば、死者の無念などたかが知れています」

 その決死行の指南役でありながら、まるで人ごとのように魔術師は言い捨てた。

 「それに、犬橇の旅では、飢えをしのぐために時に力尽きた橇犬を食らうことがあると聞きます。あのままとどまれば、同じことが雪に閉ざされたガムザノンで起きたかもしれませんよ。犬ではなく人間同士で」

 「それで、慰めているつもりか」

 衝立のむこうに、魔術師のすました顔がみえるようだった。だが、その薄情さも懐かしく、心地よかった。


 「あの娘と婚約したそうだな。あいにく何の選別もないが、心から祝ってやる」

 祝福に偽りはなかったが、そう言いながらも、ふたりを知るものが誰もが感じる危惧を彼もまた抱いていた。

 理由はただひとつ、この男に纏わりついた悪徳の翳り。ひとの薄暗い欲望を引き出すことに長けた男は、おそらく愛することにも愛されることにも向かないだろう。艶然と咲き誇る妖花の棘と蜜の向こうには、幼な子のように柔らかな部分が残されていると知っていても。

 「あなたからは、温かいお言葉をいただけるだけでありがたい。警句のひとつやふたつ投げつけられるかと覚悟していました」


 湯浴みにつかった銀の大盥がさげられ、髭剃り用の道具が一式運ばれようとするのを制すると、イムナン・サ・リは自ら受け取り、侍女らを下がらせた。

 「時間が惜しい。北の情勢を詳しくお話ください」

 故郷では決して使われぬやわらかな石鹸の泡が頬に伸ばされて、ナビヌーンは落ち着かない気持ちになった。湯浴み後に羽織った絹のローブの感触もなじめなかった。

 「コーダどもは、大型の雪上車で日夜かかわらず北の雪原を我が物顔に跋扈している。今のところ、東タルー族への物資の補給だけにとどまっていて、コーダ兵とは直接交戦していない。彼らの拠点はお前が落としたギム・ア・ポトスの廃墟だ。だが、兵糧とともに、かなりの量の銃器が運び込まれているようだ。東タルー族の兵士は、少なくとも五千。こちらは両部族をかき集めてもその半分以下。装備もコーダの支援を受けている東に較べると赤子以前。もはや我らは滅亡を待つばかりだ」


 (サイラスと接触されましたね。あなたは少し派手に動きすぎました)

 (ひとつ教えてやろう。俺の知る限り、サイラスの司祭とウズリンの新しい王妃は近しい間柄だった)

(良いではないですか。この雪に閉じ込められて、サ・リ殿も腕を鈍らせておりましょう)


 すべては、雪中で長い蟄居をやり過ごす彼自身を誘い出すための巧緻な罠か。

 受けて立つことに異存はなかったが、愛する少女を巻き込むことは論外だった。北方の動乱に乗じたことも許せなかった。

 何よりも、ルー・シャディラの思惑の計りがたさ。

 この事態に彼女が一枚噛んでいることは疑いようがなかった。それにしても、あのようにファディシャを手なずけるとは。愚弄されたことへの怒りと、また違った種類の憤りが二重に彼を捉える。重ね合う手を見ただけで、抗いがたい欲情が魔術師を貫いた。


 押し黙ったまま、細長い銀の剃刀を巧みに滑らせる男の腹立ちを間近に感じながら、刃の冷たい感触をひそかに愉しみながら、ナビヌーンはふと思い当たった。

 先ほどの光景、ウズリンの王族たちが綾なす真の関係性を。


 外廷おもてはともかく内廷ハレムの頂点は、あの赤毛の王ではない。今目の前にいるこの男だ。


 以前剣戟を交わし合うなかで感じた通り、王は魔術師の人形であり、その妖艶なる魅力の囚われ人、精神的な情人だった。その領域を巫女は侵食したのだ。

 そして、あのあてつけがましさからみて、巫女もまた魔術師と関係しているに違いない。立場を別にすれば、惹かれ合うのも無理もない、まるで双生樹のように似合いのふたりだった。


 だが、何という醜聞だろう。


 絡み合い、あるいは弾き合う視線の意味がすべて解けたように思えた。

 不義と背徳とが、かの男の周りで渦巻く。主君の女と通じて平然としていられるとは、ある意味この男らしい。ゲイルの不可解な態度もそれを裏付けた。ナビヌーンは、暗惨たる気持ちになった。


 「おい、お前あの巫女と寝ているのか」

 途端に、頬にひりひりとした痛みが走った。

 「手が滑ったようです。わたしの手に刃があることをお忘れ無く」

 温かい手巾で乱暴に顔を拭かれた。一点の血の滲みを除けば完璧な魔術師の手業によって、すっきりとした若者の顔があらわれた。

 「一時はあの娘を競った仲だ。俺にお前の不義を糺す権利はあるはずだ。これを機に身ぎれいにしたらどうだ」

 仕舞いかけていたナイフの縁が再びナビヌーンの首筋に押し当てられた。

 「わたしに誠実たれなどと説くものは、誰であろうと反吐が出る」

 怒りを湛えた双眸は、ぞっとするほど妖気を帯びていた。

 「十二である男の玩具となり、十五で身を売って以来、愛などというものには無縁。快楽を共にすることに剣を交わすほどの意味があるかないか。情を交わした相手を殺めることに躊躇なぞ無い。あれはわたしの掌中にあるべき女。それだけのこと」


 刃は愛撫するかのように喉許をゆっくりと滑った。かすかに皮膚を引っ掻いた感触があった。ナビヌーンは、口中の渇きに耐えかねて、ごくりと唾を飲み込んだ。

 タルクノエムでの何不自由ない生活を捨てたからには薄暗い過去をもつだろうことは予測していたが、この男が自ら明かすとは思わなかった。伝え聞くヤ・バル・クーンの最期が思い起こされた。この男に寝首を掻かれたというのは、やはり真実なのだろうか。


 「愛などとは無縁と言ったな。だが、今は違うのだろう。少しは誠実になってやれ」

 ナビヌーンは、イムナン・サ・リの瞳をまっすぐ見つめ返した。怒りはやわらぎつつあり、その向こうの柔艶にして凜たる精神が透けて見えそうだった。ナビヌーンは刃を持った手を静かに押し返した。

 「それに、これで三度みたび、我らの命運をお前に託すのだ。お前の策士としての手腕は言うに及ばない。だが、信じたいのだ。お前の心のうちにある真情まことを」

 「ならば、あなたはわたしを買い被り、見誤ってます」


 (お前の魂なぞとうの昔に汚れておろう)

 魔術師のなかで久しぶりに再会した祖母の言葉が虚しく響いた。


 魔術師は、ゲイルとの不幸な出会いを思い起こした。そもそもの始まりは、まだ幼い少女に甘い恋の罠を仕掛けたことだった。

群衆のなかに初めて赤毛の少女を見いだして、まっすぐと彼女の瞳を捉えて微笑みかけたとき、我ながらうまくやれたと思った。

 さすがに、寝覚めの悪い、気乗りのしない役だったが。

 そして、長い星霜のうちに、傍らにあった純粋なちいさな魂は彼にとってかけがえのないものとなった。

 いずれにしても、標的と恋に落ちたのはおのれの懶惰らんだであり不覚。


 何故、拍子抜けするほどたやすい任務を見事にしくじったのだろう。何故、ずるずると深みにはまる前に、彼女を逃がしてあげられなかったのだろう。


 暗い任務から始まった常に後悔と逡巡がつきまとう不幸な恋だった。奇しくも、自ら仕掛けた罠に捕らわれることになったエフェルメと立場が入れ替わったかのように。

 そして、ルー・シャディラこそが遅れてやってきたおのれの運命だった。ずっとその影と喪失を感じてはいた。暗い情熱はやがて彼を捉えるだろう。死と同じくらい確実に。いつまで抗えるのだろうか。


 イムナン・サ・リは先に眼をそらした。

 「あなたが、初めからしっかりと彼女を捕まえておけば良かったのだ」

 去り際にそう言い捨てると、思い出したように付け足した。

 「内輪の晩餐の用意がされています。呼びによこしますので、しばし御休息を」


(参)


 白皚々はくがいがいたる氷雪原を犬橇のそは走る。

 雪が闇を照り返すなか、十頭前後の犬に曳かれた橇が六台、隊列を組んで疾駆する。

 はらはらと舞う雪影は無音のさざめきを交わし、積もる深雪はあらゆる生命の気配を呑み込んでいく。ただ、時折鳴り渡る鞭声、そして犬たちの喘ぎと雪を掻き分けるように馳せる響きだけが、瀕死の世界でひときわ精気を放っていた。


 愚かなりと、闇があざ笑う。

 こちらへおいでと、死が手招く。

 雪明りの微光に抱擁された世界は、仄暗き幻夢の詩を紡ぎ出す。


 雪紋がさざ波だつ大地は銀の海原わたつみとなり、陸の舟は雪煙を蹴立てて広大なる夜を航行する。

 舟は、北の部族が佩する刀と同じく弦月ルネットの形。

 そして、頭上の月も、ラ・ウの眼もまた密やかな薄目。


 ゲイルは身じろぎもせず、滴水成氷の厳寒が身を切るなか、吐く息はおろか涙すら凍るに任せた。立てた膝のうえには愛狼のザックが頭をもたせかけている。ザックは優雅な無関心を装いながら、橇犬たちの熱気あふれる気配を窺っている。

 橇の乗り手は少女と獣のみ。御者は、年若いシノロンだった。最後尾に立ち、見事な綱捌きで身軽に橇を操っていく。

 遠い北の空では、時折、青白くひかる雪雷が旅人たちの行程を導くように、雲間を染めあげていた。雪の静寂にさえぎられて、こちらまで雷鳴は届かなかった。

 夜の狼ラ・ウはいまや見事な雪毛に生え替わり、白銀の闇と化して地上に降臨していた。ゲイルは烈風と共に雪原を駆けるラ・ウの胎内にいるかのごとく感じた。少女と獣はしばし夜の仔となって、銀狼の高貴なる魂とともに風を切り、大地を滑った。


 雪中行もすでに七夜目。

 ゲルムダール街道を北上し、二大都市の表玄関、隊商宿やタルクノエムの商館が立ち並ぶカシャを素通りして、懐かしいフィポスメリアの手前で東の捷径へと迂回した。そのまま東へ進めば、ゲルムダールと平行する東側の本道、オトス街道に行き当たる。


再びギム・ア・ポトスの廃墟へ。


 ゲイルは、彼女と恋人をつよく結びつけた夏の終わりの冒険譚を思い起こした。もはや夢のように遠かった。イムナン・サ・リは冬が深まるにつれ、心ここにあらずという風情で考え込むことが多くなった。

 堅牢な荒涼宮の守りとタルクノエムからの支援によって、ウズリン族はこの冬を乗り越えられるだろう。だが、近隣の部族は次々と窮乏を訴えてきた。諸王の王たるファディシャもさすがに心を痛めているようだった。

 冷酷が通り名の恋人の魔術師ですら、ひそかに嘆息をもらしていることを少女は知っていた。例年になく万端だった夏のあいだの備えも、タルクノエムからのあり得ない善意も、この雪害が予測されたものだと物語っていた。


 この危機にあって、彼らは何を成したのか。あるいは、何を成さなかったのか。


 幾度となく問うてみても、心配いらぬことと、イムナン・サ・リはにこやかに笑うばかり。この男が惜しげもなく笑顔をみせるなんて、よほどやましいに違いないと思う。

 それ以上問い詰めると、しなやかな腕に捕らわれて官能の扉の向こうに連れ去られてしまう。甘美なる言葉なき世界に。


 解りきっていたことだが、男は手慣れていた。少女の未知なる歓びを難なく探り当てていく。また、その男女を問わぬ情事が、おしなべて刹那的で往々にして血腥(ちなまぐさ)いものだということもかねてから承知していた。

 だが、これほどまで自らを苦しめるとは予測し得なかった。その指先が彼女の肌を溶かすたびに狂おしく。


 嫉妬は、必然とひとりの女の姿を取った。

 兄の妃であり予言者である、ルー・シャディラ。

 あの男と同じ黒い瞳の持ち主。

 彼らが引かれ合うことも初めから解っていた。出立の前ですら、男は共に過ごさなかった。宴の終わりに早く休むよう少女に告げて消えた。おそらくはあの女の許へ。


 少女の魂は肉体を離れ彷徨う。彷徨って、憎むべき女を捜し出す。

 女は挑発するかのように艶然と笑い、その白い胸を開く。少女はその胸にナイフを突き立てる。深く、深く突き刺す。女の胸から、温かな血が流れる。

 再び女の顔に目をやると、そこには女ではなく愛する男の顔があった。光を失った瞳が少女を見つめる。真黒の瞳はぽっかりと口を開けた虚無となり、もはや燦めくことはない。

 夢であれと願い、目覚める。目覚めて、この苦しみに終わりがないことを思い知らされる。


 「ゲイル様、もう少しで野営の準備をします」

 後ろから、シノロンが声を張り上げた。

 いまやナビヌーンの子飼いとなった少年は、子供っぽさも幾分かぬけていたが、聡明さと気立ての良さは変わらなかった。

 雪庇を避けて野営地を選ぶと、あっというまに屈強な幾つもの手によって橇の数だけの雪洞が設えられた。犬たちはつながれたまま、陽の差さぬ崖下に寝床となる雪坑を掘っていた。


 懐炉の火種で灯明皿に火を入れ、もうひとつの皿で喉を潤すための雪を溶かす。空気がほんのりと暖まった。勧められるままに、ゲイルは小量の獣脂を口にした。北のものたちは、道中あまり食事らしい食事を摂らなかった。犬たちはもっと食さなかった。

 貴人たちは不測の事態に備えて別々に行動しているため、イムナン・サ・リやナビヌーンともあまり話す機会はなかった。もっとも、雪は万人を無口にさせるが。


 眠りにつく前に、ゲイルは旅立つまえの宴の席で聞かせてくれた古い物語をせがむのが入眠の儀式となった。シノロンは静かに語り出した。


 遙か昔のこと。

 季節は冬しかなく、一日は夜しかなく、世界には一柱の巨大な女神ナンナしか存在しませんでした。 ナンナは、北の山間に冷たく横たわり夢見ていました。ナンナの孕んだ夢はいつしかちいさな生命となり、気が遠くなるほどの年月をかけて少しずつ成長していきました。ナンナの冷たく青白い腹のなかで。


 ネムルタ。それが腹の子の名でした。


 ナンナは、ネムルタに話しかけます。だが、ネムルタは言葉を返しません。ナンナは孤独でした。ずっとずっと孤独でした。

 やがて、月満ちて、ちいさな娘、ネムルタが産まれると、ナンナの孤独はやっと癒されました。

 ナンナが産み出したのはネムルタのみでしたが、ネムルタは地上の数多くの事物を産み落としました。ネムルタのもたらす清らかな細流と冷たく心地よい風が、あらゆる生命を潤し、魂を吹き込みます。


 いまや世界に満ちあふれた子孫うまごたちを養うために、ナンナはやせ細りました。それでもナンナは幸せでした。


 ナンナは、眠れる氷河。冬、夜、闇の化身。ネムルタは、覚醒であり雪解け水。春の訪れ、暁光の精だとシノロンはつけ加えた。

 大抵は話し終えるまでに、ゲイルは膝を抱えて眠りについていた。

 シノロンは、少女の凍れる睫毛からずる涙をそっとぬぐってやった。それ以上は彼女の愛狼が許さなかった。


 シノロンは故郷を、雪と氷と極夜に閉ざされたガムザノンを想った。氷のガムザノンを温かい腕でつつむ春を、暁光を心から願った。春暁の精は、赤毛の少女の姿を取ると夢見る少年をやさしく抱きしめた。


 どれほど、長く残酷な夜がつづくこうとも、暁光の女神はやがてこの地上に姿を見せるだろう。そのみずみずしい肢体に纏った光の衣をそよがせながら。


 少年は、未来を信じた。

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