5.


 僕の生まれた家は、決して裕福ではなかったのだろう。いちおう一戸建てではあったが、庭はついていなかった。住宅街に位置し、すこし歩けば国道と呼ばれるものがあり、さらにもうすこし向こうには高層ビルが並んでいた。人間的には立地がよく、中古だったというその家と土地を買って、貯金はすっからかん、なんてその家のあるじは言っていた。ごく普通の会社員だった。

 その主にはちゃんと奥さんがいて、子供は三人。長男、次男、その妹。まだ成長期の三兄弟には喧嘩が絶えなかったが、僕がいつも仲裁してやった。子猫の僕が、しっぽを振りながら体をすり寄せれば、大抵平穏が訪れる。

 僕は僕で、僕自身の母親と、姉とがいた。猫には幸せも不幸せもないが、自由か不自由かと聞かれれば、自由だった。

 そんな生活が終わりを迎えたのは、僕のせいだ。

 ……いや、人間のせいだ。

「オスの三毛って、ものすごく珍しいんだって!」

 専業主婦の奥さんは、昼間にパソコンを使って情報収集をするのが趣味だった。そこで得たのだろう、ある日興奮気味に、夕飯時、その話を持ち出した。

 それからというもの、僕の名前とともに、云百万、云千万円という単語が家庭に飛び交い、僕の処遇について揉め始めた。なんだか毎日、雰囲気が張り詰め、一番下の妹は、話も分からないのに泣きわめき、父親と母親はそれを嗜めつつも、二人のときには僕をお金に換える話を進め、勘の冴える長男は、反抗期を通り越して、そんな二人に軽蔑のまなざしを向けた。

 静かに崩壊していく家庭。僕は居た堪れなくて仕方がなかった。

 いやだ。あさましい。だめだ、こんなのは。

 べつにその家族が悪い人たちでないことは十分知っていた。だから、それが逆に僕には耐えられなかった。猫一匹、可愛かろうが、大金に換わるのなら、誰だってそうするのだろう。人間なら、たぶん誰だってそうする。そしてそれは、当然と言えば当然だ。すべての人間が、時折、あさましくなる、そう知って、消えてしまいたくなった。


 僕は逃げだした。皮肉なことに、以前より丁重に扱われ、やけに頑丈なかごにいれられていたから、それは容易くなかったけれど、僕にはいなくなる義務があった。

 その家で、僕は何と呼ばれていたのか、もう思い出せない。そんな記憶は、頑丈なかごに入れて逃げ出せないようにしてしまうのが、一番だ。


 僕は青い猫の、青い瞳をじっと見つめ、まばたきを繰り返した。警戒を解いた、という合図だ。

「ああ、よかった」

 安心しきった声で青猫はそういうが、相変わらず表情は無い。僕よりこいつのほうが、壊れてしまっているのかもしれない。聞かなくたってわかる。

 そういう意味では、僕らは言葉なくして通じ合えるのだと思う。だが――

「僕はべつに、友達はいらないから」

 そう言って、隣にビビがいることを思い出し、「これ以上は」と付け加えた。

「まあ、それでもいいよ。でもぼくは、なんだかさみしくて。ここがなわばりなら、たまに遊びに来てもいいかな」

 青猫は作り笑いでそう言う。好きにしろ。僕は三つ、まばたきをした。

「さみしくなる猫なんて、聞いたことないな」

「たしかにね」

 そう言って今度は、いくらか本当に笑ってみせた。笑顔を顔に貼り付けたまま、青猫は続ける。

「そろそろ戻るよ。みんな、待ってるから」

「あのおかしな連中のところにわざわざ帰るのか」

「うん。まあ、こうなったからにはしょうがないさ」

「そんな義理はないだろ」

「でも彼らはきっと、ぼくがいないと、だめになる……気がするんだ。義理はないけど、義務だよ、これはぼくの」

 僕はビビのほうを見た。ビビ、これをどう思う?

 ビビは小難しそうな顔をした。よく分からない、と言いたいらしい。

「宗教にはまる猫も、知らないな。どうかしてるよ」

「本当だよな。大変だよ。カリスマがあるふりしてさ」

 ニヒルな表情のままそう言う青猫は、普通にしていてもミステリアスな雰囲気を湛えていて、もともとカリスマがある。が、なんだか癪に障るので、それは教えてやらないことにした。

 ビビが座って、口を開く。

「ぼくはビビって言うんだ。こっちは光合成。よろしくね」

 勝手に僕の自己紹介も済ますビビの肩を小突いた。すると青猫は笑った。

「名前がある野良猫なんて、一番聞いたことないよ」

 ……だよな。



 〇



 もともと猫に名前はいらない。仮に人間がつけたって、それを本当に自分の名前だと思い込むやつはいないだろう。だってそれは、あだ名じゃないか。

 人間の付けた名前を気に入って、自分のものにしてしまうなんて、どうかしてるよなあ。


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猫はさみしくなりません 海未屋あんこう @youkanumai

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