ビール

 ふいに、わらしべ長者を思い描いた。

 あれは確か――わらがみかんに、みかんが反物に、反物が馬に、馬が屋敷になり、最後は幸せに暮らしましたチャンチャンというよくありそうな幸福までの道のりを謳った物語だ。いや、わらが蓮の葉に、蓮の葉が三年味噌に、三年味噌が名刀に、名刀が大金に。そして、結婚という種類もあったような気がする。


「美味しいものを前にして、難しい顔してますね」


 胡坐を掻いて、ホールのピザを切り分けているのは言うまでもなく隣人の中村さん。

 部屋の隅に追いやられた長方形の机にふたりで向かい合った。足を伸ばすことも出来ないほど狭い机だが、買ってからまともに使うのはこれが初めてだ。


「……わらしべ長者って、なんだろうって」

「え、急に? なんで? なぞなぞかなんかですか……?」

「いや、ちょっと思っただけで」

「わらしべ長者ねぇ……懐かしいなぁ、そういうの。――ところで、亮チャン。冷める前に食べちゃいませんか?」


 領収書を届けてからも何十分か捕まって立ち話。その間にも、数秒に一度は発せられる〈亮チャン〉。何度聞いても酷く似合わないあだ名を訂正することにも疲れてしまった。それに、丁寧にしようと意識していた口調も徐々に崩れてきた。慣れというのは恐ろしい。


「いただきまーす!」

「いただきます」


 ココアシガレットのお礼が領収書になり、領収書のお礼がピ

ザになり、ピザのお礼がビールになり、そのお礼が――――。


「それにしても……なんでピザ? しかも、なんで俺の部屋…………」


 汚い自室を見渡して、げんなりした。

 クリスマスかサークルか、はたまた大人数で集まるか。一緒にイタリアン料理を食べに行く女性もいない独り身成人男性としては、縁遠くなってしまった食べ物だ。

 小汚い狭い部屋に成人男性が二人。片方が中性的だからといってむさ苦しさに変わりはない。


「まぁまぁ、そんな顔しないで。亮チャン、明日こそお休みでしょ?」


 月初めの土曜日。五時間程度の休日出勤を終えて帰宅した。疲れた体を早く休めたくて食欲よりも睡眠を選ぼうと、布団に転がった瞬間――事件は起きた。


「休みだけど、休みだから早く寝たかったのに。あんなにうるさくされたら出るしかないじゃないですか」


 借金の取り立てよろしくインターホン連打。無視できたのは十秒程度だった。それでもよく耐えた方だと自讃するほどだ。


「貧乏暮らしだからおすそわけです。食べ盛りなんだから、ちゃんと食べないとダメですよ」

「いやいや、何言ってんすか。同じ家に住んでいるんだから中村さんだって同等でしょ?」


 ドングリの背比べでしかない発言に、彼が今まさに食べようとしたピザへタバスコを振った。


「ああっ!! ちょっと! おれのピザにはかけなくていいですから。辛いのはダメです……!」

「だと思いました」

「わざと?!」


 目をまんまると見開き、ピザの端を齧った。中村さんは器用にタバスコを避けながら食べている。


「そうです。ちょっとした仕返しです」


 いくら店長とはいえ、花屋の仕事が儲かるなんてことは考えにくい。それに、こんな髪色をしていてプリンにもなっていないということは、美容にかける金額もそれなりにありそうだ。


「おれ、亮チャンよりはずーっと稼いでると思うんだけどなー」


 どこかひとりごとのようなニュアンス。売り言葉に書い言葉なだけで彼の給与に興味があるわけでもない。

 それ以上掘り下げることは面倒で、いただきますと手を合わせた。


「ピザ大好きなんですけど……ひとりで食べると種類が少ないので、これからも時々付き合ってくださいね。あとこれ、残り食べてください。おれには辛すぎます」


 ネズミの齧った跡がついたピザは半分以上残っている。

 仕方ないかと大口に噛みつけば、上に乗っていたチーズがとろりと落ちかける。慌てて顔を手前に引くとぐんぐん伸びた。どこまでも伸びるチーズは、さすがにチェーン店のそれとは違う。


「……んまい」


 素材の味を活かすにはピッタリ、シンプルなマルゲリータ。

 照り焼きチキンが食べたいとゴネたのに聴き入る耳を持たなかった中村さん。「ここのマルゲリータは本当に美味しいんですよ」と言って譲らなかった理由も今ならわかる。

 厚切りトマトは軽く焦げ目がついて香ばしく、飾りつけ程度のバジルは摘まむ程度にしかないのにしっかりと香りがする。そして、贅沢にトッピングされたチーズは五種類も使っているとチラシに書いてあった。

 小瓶に入ったオリーブオイルをかけると、先程よりも香りがたってなんだかオシャレな味がする。酸味は弱くないが、喉にくるような刺激はなく、どこかフルーティーな香りが漂うオイル。これもまた、安物ではなさそうだ。


「……すみません、ご馳走してもらって」

「いえ、気にしないでください。こちらこそ、突然押しかけて申し訳ないです」

「それは本当に反省してください。今後控えていただきたいところです」

「えー!」


 申し訳ない、が撤回されたのはものの一秒後だった。



 三人前のピザをぺろりと平らげ、ローテーブルには発泡酒ではなくビールが並んでいる。既に何本か空になっているが、中村さんは飲み始めとあまり変化はないように見えた。


「辛いもの苦手でも、苦いものはいいんですか?」

「ビールは別です。だって、おっさんという生き物からビールという娯楽を抜いたらカラッポになっちゃいますから!」 でも、焼酎はダメです。苦いので」

「……どういう味覚ですか」


 苦味としてひとくくりにすれば同じようにも感じるが、そうではないらしい。それどころか、ビールに比べれば焼酎なんて苦いものではないだろう。


「焼酎は喉に直接攻撃してくる感じがダメなんですけど、わかりませ……あー……、わからないって顔してる……」

「はい、全く」


 中村さんは、拗ねたようにぐいとビールを煽った。その飲み方は、確かに酒慣れしている気持ちのいいもので、些細なことながら初めて年上だと感じた。

 世間には、アラサーなんて言葉もあるように三十歳というのは仕事も生活もなかなかの大台だ。結婚をする人も随分増えると聞くし、昇進もそのあたりであるのだろう。全て想像でしかないけれど。

 ――グビッ、グビッ……。

 しっかりとした喉仏が白い喉を上下する様は、妙な色気を醸しだしている。こんなにもじっと見ていたら何だと言われる。不思議と目が離せない。見てはいけないとわかっているのに、囚われてしまったみたいに身動きができない。

 口の端から一筋零れていくのを目の当たりにした瞬間、背中にぞくりとしたものが走り、思わず息を呑んだ。


(っ……なん、だこれ…………)


「あっ、はは、垂れちゃいました。ティッシュください」

「…………なに、してんですか。子どもじゃないんですから」


 手近にあったティッシュを乱暴に何枚か引き出して、ピザの上空で手渡した。発した声はどこか遠くて、自分のものではないようだった。

 鎖骨まで見えるVネックの緩いシャツ。脚のラインを隠せるボーイズデニム。細ベルトの黒い腕時計。片耳だけのピアス。――そして、似合わない喉仏。


(いやいやいや! しばらくシてないにしても、さすがに……)


 体中の熱という熱が全て一ヶ所に集まっていくのを感じてしまい、冷や汗が止まらない。異性にときめくことはあれど、同性にそういった類の感情を持ったことなどないというのに。

 机には三本目の缶ビール。酔いが回るにはまだまだ早い。一体どうしたというのか。

 耳のすぐ後ろに小さな心臓ができたみたいに、バクバクと脈打っている。先程感じたぞわりとした感覚も、未だ消えずに燻っている。


「……亮チャン? どうしました?」

「ぁ……いや、なんでもない」


 気づけば、中村さんの持っていたビールは空になっていた。


「あれー? もう酔っ払いですか?」

「まだいけますよ」


 わかりやすく煽られて、半分以上残っていたものを胃へと流した。熱くなる喉も胃も、下半身に集まっていくそれに比べたらなんでもないくらい気にならなかった。

 あんなに美味しいと思ったはずのピザの味は、すっかりわからなくなっていた。

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ハナ 中川那珂 @nakagawanaka

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