パンジーとビオラ

 ボロアパートに住んでおきながら生活音と無縁の生活を送ってきたため、生活音がこんなにも気になるものだとは全く知らなかった。


「あー……なんじ、だ……?」


 今時、古風にめざまし時計など置いているはずもなく、スマートフォンの画面を点灯させると深夜とも早朝ともとれない"四時"という時刻。


「……はやっ…………」


 トイレに行って洗濯機を回して、それから窓が開いた。しばらくして窓が閉められた。洗濯物でも干していたのだろう。立てつけの悪い窓は、その中でも最も大きな音に聞こえた。

 それを寝ぼけた頭でぼんやりと聞いていると、少しも経たないうちに玄関の開閉音。


「早いって言ってたけど、本当に早いな……」


 答えてくれる人もいないのにぼやいてしまう。

 同じ名字を持つ、見た目だけは若い三十路の男。髪は明るく顔は整っていて、愛嬌があって。距離を詰めるのが上手で、甘党で、何の仕事をしているのか知らないが、朝の早い仕事。

 現状、わかっている情報は並べれば並べるほど何者かわからなくなる。


「土曜日なのになー……」


 半強制的な出社は、体も心も重くする。面倒だなと思いながら、もうひと眠り。瞼の裏には、ココアシガレットを美味しそうに咥える彼の姿が浮かんで、滲むように消えていった。




 休日出勤を拒むように正面玄関は開いておらず、ICカードを翳(かざ)して社員通用口から社内に入る。


「お疲れ様です」

「お疲れ様――って、あれ? なんで中村くんが?」

「昨日の資料まとめが終わっていなくて……」


 他の社員はとっくに終わっていると聞いていた。口にするのも不甲斐ない内容に、答えを聞いた隣の課の先輩も思わず苦笑する。


「ま、無理しないようにな。お前んとこの上司、なかなか厄介だから」

「……はい、がんばります」


 この歳になって「がんばる」という言葉がより嫌いになった。

 幼い頃、がんばっている人が「がんばる」を使うとき、それはどういう心情なのか考えて「がんばって」という言葉が苦手になってしまい、以後あまり使わなくなっていたが、最近は「がんばります」が嫌いになった。


(結果が出ないのに「がんばります」と答えるのは……)


 言えば言うほど、情けなくなる。

 明るい場面での「がんばります」ならともかく、明るくない場面での「がんばります」は社会人としてふさわしくないのだろう。きっと。


「おっつー」

「お疲れ様です」

「あれ、中村じゃん! なんで来たの?」

「え……? あの、昨日作ってた資料を、」

「月曜日の午前でいいって言ったよね? 言わなかったっけ?」

「えっ……」


 冷や汗が伝う。


(そんなこと言われてない。いや、言われていた? 覚えがないだけ?)


 ――ぐるぐると頭の中を巡る可能性。

 何か話さなくてはいけないのに、吃ってしまい何も出てこない。


「今いてもやることないし、帰りなよ」

「しかし、」

「いいっていいって」

「……ありがとうございます。お先に失礼します」


 上司は、とても気分屋だ。

 今日は驚くほど機嫌が良いが、こんな日は滅多にない。ここで「しかし」を貫き通したら、機嫌が急降下する可能性もある。


「おー、じゃあなー」


 彼がイエスといえばイエスで、ノーといえばノー。彼の下に就くものはそれを呑みこまなければいけないのだ。隣の課の先輩が「面倒」だと表現するのも、わからなくない。日によって時間によって言うことが変わる。売上こそ社内一だが、なかなか好くことはできない。

 深く頭を下げて全員に挨拶をして扉をくぐり、銀色に装飾された社名プレートを横目で見遣った。


「間違ってたのかな……」


 考えないようにしても、考えてしまう。

 この会社に就職して正解だったのか。入社一年目のペーペーがこんなことを考えてると知れたら「そんな暇あったら働け」と言われてしまうのが関の山だが、入社一年目のペーペーだからこそ考えてしまう。

 エレベーターを降りると、外はまだ明るかった。


「うわ……」


 明るいうちに会社を出るなんて、何ヶ月ぶりだろう。まだ桜が残っていた頃ぶりかもしれない。

 時刻はおやつ時。オシャレなカフェに付き合ってくれるような女性もいないので、まっすぐ家に帰ろうかと歩を進めてからふと思いたって、最寄り駅の近くにある百円均一を目指すことにした。


 通勤時とは違う空気に驚いた、

 通勤電車は通夜と間違うくらい空気が重い。椅子取り合戦をする面々は瞳をギラギラさせているが、それ以外の疲れた社会人はただただ棒立つか、スマートフォンでニュースを見るくらいだ。

 楽しそうに団欒(だんらん)する大学生や、遠征してきたのだろうかキャリーバッグを引き摺って地図アプリを開く者や、寄り添いあって仲睦まじいカップル。

 もちろん、同じような境遇のサラリーマンもいるが、彼らはやはり死んだ魚の瞳。通勤時と同じ瞳。


 電車を降りると、都内にしては過疎が進んでいる小汚い駅に到着。電灯も少ないこの地域は、一人暮らしに向かないような気がするが家賃の安さで男性から地味に人気らしい――不動産会社に言われた言葉の受け売りだ。


「ハナちゃん、また髪の色変えたのかい?」


 十数時間前に覚えたばかりの名詞に、思わず足を止めた。


「そうなんですよ~~! 明るい方が似合うでしょ?」


 色とりどりの花が並ぶ店先で、杖をついたおばあさんと会話を楽しんでいる青年。日の光を浴びて輝く飴色の髪は、記憶したものよりももっと明るく見えたが、その声もその姿も見間違うはずがない。

 紛れもなく、昨晩会ったばかりの――。


「中村さん!?」


 思ったよりも大きな声が出てしまい、一気に注目を浴びてしまった。


(ウッ、最悪だ…………)


 正直、関わりたくない。百円均一に行って、早々に眠りこける予定だった。

 だが、相手は隣人。ここで逃げるわけにもいかないと店内に近寄る決心を固め、訝しげな視線から逃れるように頭を下げながら身を屈めて店先に向かう。


「えっ? あーーーー!? 亮チャンじゃないですか!」

「ども……」


 むしろ、気づいていなかったのかと拍子抜けだ。

 彼と話していたおばあさんは遠目で見るよりもずっと小さかった。曲がった背中が実家の猫のようだ。杖には、孫にもらったのかたくさんのシールが貼り付けられていて微笑ましい。


「りょう、ちゃん? ハナちゃんの知り合いかい?」

「お隣さんなんです。いい人なんですよ」

「ほほー、そうかいそうかい」

「こんにちは」

「はい、こんにちは。私は、近くでお茶屋を営んでいる伊藤です。よろしくどうぞ」


 彼女が口を開くと、花屋にいることを忘れるほどノスタルジーに包まれる。涙が出るほど懐かしい。軒先でお茶を啜った祖母を思い出して、鼻の奥がツンとした。


「中村です、よろしくお願いします」

「中村……? ん、あれ……? ハナちゃんも中村じゃなかったかい?」

「そうなんです。二人とも中村なんです、素敵な偶然でしょ?」


 エッヘン、と言わんばかりに胸を張る姿を目の当たりにして、そんなに威張ることがあるのかと思わず噴きだした、


「そうかい、素敵な出会いだね。じゃあ、おばばはこのへんで帰るよ。ハナちゃん、胡蝶蘭の入荷があったら連絡してちょうだいよ」

「はい、もちろんです。お気をつけて!」


 高価な花ということは知っているがそれ以上の知識はないので、ふうん、以外の言葉が出なかった。伊藤さんに手を振ってから中村さんは「ところで」と向き直った。


「お仕事、お疲れ様です」


 どちらが「お疲れ様」なのか。下げられた頭に釣られて、こちらも頭を下げた。

 明るい場所で見る中村さんは、暗い場所で見るよりももっとずっと若く見えて、本当に年上なのか本当にアラサーなのか怪しいところだ。体毛も薄いのかヒゲ跡すらないのが、より若く見える。


「いや、中村さんこそ。仕事中にすみません」

「いえいえ、とんでもない。今日はあまり忙しくないので来てもらえて嬉しいくらいです」

「店長ーー! 領収書切れちゃいました!!」


 店の奥から、若い男性の声が響いた。


「えーー? うわぁ……発注忘れた……」


 それを耳にしてわかりやすく項垂れると、ちょっとすみません、と中へ入っていく。


「完全におれが忘れてたから、ちょっと買いに行ってくるよ。店任せてもいい?」

「え、いいっすよ。俺行ってきますって。店長、もうすぐ講座始まるじゃないっすか」

「講座はあるけど……走れば間に合うし、いいよいいよ、自分のお尻は自分で拭かないとね」


 中で話している声は結構聞こえてくるもので、完全に帰るタイミングを逃した俺は名前もわからない花を眺めて、値段を見比べることくらいしかできない。

 店先に出ていたパンジーとビオラが同じにしか見えなくて、名札と花を見比べながら眉を顰めた。


「ごめん、話してる途中に……」

「あの、領収書って、どんなのでもいいんですか? 百円均一でも?」

「うん、むしろいつも百円より安いやつ使ってるくらい」


 そういえば、ココアシガレットのお礼をしていなかった。そういうのはちゃんとしておかないとモヤモヤが棲みつくから"借りを返す"だけだ。

 何故かひどく言い訳染みていることに、少しの違和感を持ちながらも言葉を続けた。


「今からちょうど百円均一行く用事あるんで、買ってきますよ」

「ええっ!? いや、でもさすがにそれは悪い……というか、悪すぎるというか……」


 紺色のエプロンを手繰り寄せて困惑する姿は、小さい子どものよう。背丈も――十センチは違うだろうか、若干見上げてくるあたりが一層子どもを連想させるのだろう。


「ついでにココアシガレットも買ってきますか?」

「わーー! ダメダメ、おれが甘党なのナイショだから!」

「なんで」

「見た目通り過ぎるから」

「……? いいこと、じゃないんですか?」

「おっさんでもかっこつけたいの」


 頬を膨らませても似合うおっさんなら、甘党でもいいだろう。


「……よく、わからないですけど。まあいいや、とにかく行ってきますよ」

「本当に?」

「はい」


 プランターの間に隠してあった霧吹きをエプロンのポケットにしまいながら唸る。土の湿り気を確認しているのか、手は動かしているのに、まだまだ唸る。


「――じゃあ、後日お礼させて」

「それはいいです」

「どっちの、いい?」

「いらない方の、いい、です」

「店長ー! 電話!!」

「えーー、急に忙しいなぁもう……!」

「じゃ、後で持ってきます」


 ごめん、だいじょうぶ、ごめん――押し問答を繰り返すのが面倒で、踵を返した。

 百円均一はここから五分とかからない。本当に買い物があるからそこまで気にすることでもないだろうに。


「本当ごめん! ごめんね、亮チャン!!」

「亮チャンはやめてくだ、……って、いないし」


 振り返ると、カラフルな長靴をパタパタと鳴らして中に入っていく中村さんがいた。電話を受け取って何か真剣な顔をしているが、こちらに気づくと何度も頭を下げていた。

 なんとなくむず痒くて、後ろ手を振った。

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