ハナ
中川那珂
シガレット
駅から三分、発泡酒一缶。対するは、駅から十五分、ビール二缶。――俺は簡単に駅近の誘惑に負けた。
田園風景の広がる田舎を出発して住宅街を抜けた先にあるだだっ広いキャンパスを往復する生活から、クーラーなしの六畳一間と高層ビルが立ち並ぶオフィス街を往復する生活をスタートしてから半年が経とうとしていた。
越してきてから随分と世話になっているこのコンビニも、親会社の合併によりもう少しで名前が変わってしまうのだという。
赤い制服を着た店員はやる気など微塵も感じない接客で、レシートを差しだした。
「……ども」
レジ横に設置されたプラスチックの小さな箱に詰めればいいのにそれが出来ず、貰ったレシートをコンビ二袋に突っこんで鞄を持ち直した。
「あざっしたー」
コンビニを出ると街灯の少ない方へと曲がる。
虫の声が聴こえると実家を思いだす。覚えることだらけで、郷愁に浸っている場合ではないのに何もかもを投げ捨てて実家に帰りたくなる。自営業でも農家でもないから、帰ったところで出来ることもないのだが。一人で生きるというのは、思っていたよりもずっとずっと大変だ。
どんどん暗くなっていく道をまだまだ進む。
シャッターの降りた静まりかえる商店街を横切り、細道に入ってすぐのボロアパート。小さな羽虫が集る自動販売機を通り過ぎ、発泡酒三缶の入った袋を揺らしながらアパートの階段を上っていく。駆使しすぎた安物の靴は踵が削れて、数ヵ月前よりも甲高く階段を奏でている。
新社会人一年目、靴の替え時がわからない。
「……ただいま」
一番奥に位置する我が家。ふと目をやると、一つ手前の家に可愛らしい表札が掛けてあった。四隅には小さな造花。丁寧にデコレーションしてある。こんな治安の悪いところに女性が越してくるとは思わず、思わず見入ってしまった。目を凝らしたところで暗くて名前まで読むことは出来なかったが。
とどのつまり、実家以外で生まれて初めて"隣人"が出来たらしい。越してくるなんて今の今まで知らなかったが、そんなことはどうでもいい。
キーケースから鍵を引っ張りだして、立て付けの悪い扉を開く。
まだ見ぬ隣人に気を遣い、慎重に扉を閉める。
引越し準備に疲れて早々に眠っているかもしれない、と思ったのも束の間、空気の入れ替えのために窓を開けると、隣の部屋から僅かに明かりが漏れていることに気がついた。
(初日である程度やるタイプだったか……。わかるわかる、片付けって終わんないよな……)
就職祝いで貰った布団は忙しさを理由に平日の間敷きっぱなしになり、リユースショップで買った机は部屋の隅に追いやられている。そんな布団に向かって袋を投げつけ、社用携帯とタブレット端末と資料が詰まった重い鞄を壁に立て掛けて、堅苦しいスーツを脱いでパンツ一枚に。上はパジャマ代わりのタンクトップで事足りる。
プルタブを引けばプシュッ、と小気味いい音がした。引き寄せられるように飲み口へ口づければアルコールを含んだ香りが鼻腔いっぱいに広がり、微炭酸が喉を下っていく。コマーシャルばりに音を立てて飲むとつい止まらなくなって、最初の一口で半分くらい減らしてしまった。
「はぁー……」
喉越しを味わうなんて表現があるが、正にそれだ。とにかくこの喉越しが最高だ。付き合っている人もいなければ仕事もうまくいかない。何に楽しみを見出せばいいのかわからない"今"、最も幸せを感じる瞬間だ。
「ん……?」
つまみもなく、ただただ発泡酒をあおっていると外から何か聴こえた気がした。耳を澄ましてみるも虫の声――ではなさそうで、網戸を開いてスリッパをつっかけた。
「あ」
「あっ、こんばんは……! 初めまして、今日越してきました中村といいます」
暗がりの中で得られる情報は少なく、髪の量が多くて声が少し高く、煙草を吸っているということくらいだった。表札を見て早合点してしまったが、男性らしい。
そして、もうひとつ驚いたことがある。
「どうも……。コントみたいだけど、その、俺も中村です」
「わあっ!! すごい、偶然ですね!」
彼の声が閑静な住宅街に響いたと同時に、生暖かい風が吹いてカーテンが揺れ、透き通る金に近い髪が照らし出される様はスローモーションのようで「ビックリしましたね」と言われるまで呼吸を忘れていた。
(――きれい、だ…………)
睫毛が長いのか、目元に落ちる影はどうにも色気が漂う。飴色のような金色のような髪色は、テレビの中でしか見たことがないほど非日常的な色をしていて、整った顔立ちと丸い目も相まって"芸能人"というワードが頭を過ぎった。ふわふわの綿菓子のような髪も、それだけ明るければ重みを感じない。
「あ、そうだ……」
「え?」
こちらに向き直ると、小さく頭を下げた。
「お仕事、お疲れ様でした」
職場以外の誰かに言われたのは、本当に久しぶりのことだった。先輩への挨拶として習慣化した「お疲れ様」とは違う、あたたかい労い。
「えっ、あ、ありがとう……」
ただの挨拶なのに、あまりにも突然のことでみっともなく吃ってしまった。
その言葉を機に会話が途切れてしまい、部屋に戻ればいいのになぜかそれも出来なくて、遠くを見つめる横顔をちらちらと覗き見るような事態に陥り、突破口を探していた。そこで、口に咥えていた煙草が自分の吸っているものよりも細く見えて「それ、どこの?」なんて、どうでもいい質問を投げかけてしまった。
「へ?」
営業という仕事をしながら、自らのコミュニケーション能力を疑うレベルだ。
「煙草」
「…………ああっ、違います。これ煙草じゃないですよ。ちょっと待っててください」
忙しなく家の中へ入っていったが、すぐに戻ってきた。小さい箱を差しだして「お待たせしました」という声は明るいものだった。
「どうぞ!」
差し出された箱には、確かに見覚えがあった。懐かしいパッケージに思わず頬が緩んでいくのがわかる。
「ははっ……。懐かしいな、これ。一本貰っても?」
「どうぞどうぞ。まぁ、昔はホンモノも吸ってたんですけどね。仕事に害があるからやめなきゃいけなくなっちゃって、代理のシガレットです」
彼のペースに持っていかれて、ついつい普通に団欒してしまう。肩の力は完全に抜け、作り笑い以外で歯が見えるほど笑っている自分が新鮮だ。
「昔は、って……まだ若いのに」
箱から抜き取ったそれを口に咥えて「昔より甘い気がする」と呟けば「やだなぁ」と声が聞こえる。顔を上げると、二本目を齧りながらいたずらに口を開いた。
「若くないですよ、もうアラサーです」
「…………え?」
時間が止まる――とは、このことだろうか。生暖かい風が頬を撫ぜて、大粒の汗が背中を伝う気配がした。
「こんな髪してるから若く見られますけどね。そのあたりは自由な仕事なので」
「えっ……、中村さんおいくつなんですか」
「フランクでいいですよ。堅苦しいの慣れてないんで」
「いや、でも」
「まぁまぁこれでもどうぞ」
二本目を食べ終わり、三本目のシガレットを咥える。広い銃口は再びこちらを向いて、動揺を誤魔化すようにもう一本手に取った。
「さんじゅう……」
「三十?!」
「足す、いちです」
「…………ウソだろ……」
「ウソじゃないんですよねぇ、これが」
「…………す、すごいですね」
「すごいでしょ。卒業アルバムからずっと変わってないんです、髪色以外」
自信たっぷりに言ってのける。嫌味のない自慢に、たたただ頷く。
「改めて……中村英(ナカムラヒデ)、ハナって言われてます。よろしくお願いしますね」
「ハナ……?」
上質な紙に包まれた箱を貰い受け、お礼を述べる。中身を気にする素振りもしなかったのに「すみません、無難に洗剤です」と言われてしまった。
「いや、洗剤助かります」
「それは良かった。英語の英でハナブサって読むでしょ? 昔からです。そういえば、中村さんの下の名前は?」
「亮です。こちらこそ、よろしくお願いします」
「亮チャンですか」
「チャン付けはやめてください、いい年なんで」
「――あっ、話しすぎちゃいましたね……! すみません、こう見えて朝早い仕事なんです、じゃあ!」
帰り際に「おやすみなさい、亮チャン」と言っていったところを見る限り、全く聞き入れるつもりはなさそうだった。
時刻は二十五時。仕事の疲れを癒す発泡酒は気がつけばココア味に染まり、嵐のような隣人の訪れを楽しんでしまっていた。
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