『逃げ出したくなったんだ、全てから・・・』

次の日。

どたどたどた。

ガチャ!

「なる!腹減った!飯食おうぜ!」

「きゃああ!えっち!!」

海が二階のなるの部屋に急に入ったので、着替えている最中のなると鉢合わせてしまった。

「わぁっ、悪ぃ悪ぃ」

海はすぐ出てドアを閉めた。

「もう嫌い!最低!デリカシーゼロ!勝手にトーストでも焼いて食べてよ!」

なるは恥ずかしさも相まって部屋の中から強めに怒鳴った。

着替え終わったなるがぷりぷりしながらドアを開けると、海が肩を落として立っていた。

「?!」

なるはまさかいると思わずぶつかった。

「海?!いたの?」

なるが驚いて言う。

「なる・・・・ 」

海がなるを見て呟く。何だか泣きそうだ。

「え・・・?」

なるが戸惑って聞く。

「嫌いになっちゃった・・・?」

「えええぇ」

なるは驚いた。

「嫌いになんてなってないよ、言葉のあやってやつで・・・」

なるがそう言うと海はぱぁっと明るい顔に戻った。

「良かった!じゃ、飯食お飯!」

海はそう言うとなるをお姫様抱っこして階段を降りだした。

「わぁっ!何!?自分で降りれるよ!」

なるは顔を赤らめて足をパタパタさせる。

「♪」

海はそのままなるをキッチンへ連れていった。



「・・・海さん」

なるがわざとさん付けで読んでみた。

「んふ?」

二人はダイニングテーブルで向かい合って朝食を取っている。海がパンを頬張りながら返事をした。

「何だか、調子が狂うのですが」

「え?何で?」

「少々キャラが違うような・・・」

「ん?そうか?」

海は二枚目のパンに手をつける。

「朝からそんなにラブラブされると・・・」

なるは自分で言って恥ずかしくなりゆでダコになって俯いた。

「いーじゃん、俺ら恋人同士だろ?」

海はにこにこ言う。

「ううう」

なるは返事に困った。

「・・・さてはなる」

海がちらっとなるを見た。

「俺のこと、そう言えばそんなに好きじゃなかったとか思ってる?」

なるは驚く。

「そんなことないよ!」

「そうかぁ?なるちゃん、メールそんなにくれなかったもんな」

海が疑うように目を細めてなるを見る。

「それ・・・文通のこと言ってる?」

「うん」

なるは罪悪感を感じた。

「あれは、まぁ、ちょっと子供だったから・・・」

なるはしどろもどろに弁解する。

「俺、待ってたんだぜ。なるちゃんからのメール」

「え・・・?」

なるはまた驚いた。

「海・・・」

なるは海を見る。海は二枚目のパンにマーガリンを塗っている。

「やっぱりロリコンだったの・・・?」

海はずっこけた。

「違う!断じて違う!」

海は必死に否定した。

「そういう意味じゃない!この家で過ごした二週間が懐かしかったんだよ」

なると海の目が合った。海が真面目な顔になった。

「俺にとってここは、二週間しかいなかったけど、本当に大事な場所だったんだ。お前の存在もな」

海が微笑む。

10年前のお兄ちゃんの笑顔だった。



今日は日曜なので、海はオフをとっていた。

海は出かけるかなるに聞いてきたが、なるは断った。

久しぶりに家で二人で過ごす時間を、なるは楽しみたいと思ったのだった。

海も「俺もそうしたい」と微笑んだ。



「なるがあんなにタイピングが速くなってて、驚いたんだ」

海はソファに寝転がって雑誌を読み、なるはその横でテレビを見ていたところで、おもむろに海が言ってきた。

「あぁ・・・お兄ちゃんにパソコン教わってから、タイピングソフトばっかりやってたから・・・」

なるは少し恥ずかしそうに言った。

「キーボードで初めて字が打てた時、凄い嬉しかった」

そう言うなるを、海は微笑ましく見つめた。

『あ!お兄ちゃんの名前も書けたんだね!』

小さななるが自分に満面の笑顔を見せて言った言葉を海は思い出していた。

「あ・・・」

なるはあの時のディスプレイを思い出した。

『なる かい くう』

なるは海を見る。海は微笑んでいる。

「私・・・あの時、海の名前も書けたんだね」

「ああ」

二人は微笑みながら、少しずつお互いの記憶が繋がるのを感じた。



「・・・お前のご両親が言ってた」

海が言う。今度はダイニングテーブルで雑誌を読んでいたところだった。

「男の子だったら『カイ』、女の子だったら『なる』にするつもりだったって言葉」

なるはキッチンで昼ごはんを作りながら聞いている。

「あれ、嬉しかった」

なるはキッチンから海を見た。海は雑誌を置いて前を向いていた。

「俺・・・たまに、俺は本当は誰なんだろうと思うことがあるんだ」

「・・・?」

海がなるを見ると、なるはきょとんとしていた。

海は雑誌に目をやりながら言った。

「毎日空と海を入れ替えて、空と記憶を共有してたからだと思う。頭ではわかってるつもりなんだけど、たまに感覚があやふやになるんだ。空なんだろうか、海なんだろうかって」

「そんなことってあるんだ・・・」

なるは不思議な気持ちになった。

「そんな時に、この家での二週間を思い出すんだ」

海は部屋を見渡した。

「そうすると、なぜか、ああ俺は『海』なんだって思えた。『空』として会ってたのに、不思議だよな。でも・・・」

なるは話を聞きながら洗い物をしている。

「お前とお前のご両親は、俺の存在を認めてくれたような気がしたんだ。『海でいていいんたよ』って」

なるは手を止めてもう一度海を見た。

「海は、海だよ」

海はなるを見る。なるの目は穏やかだった。

「ありがとう」

海は微笑んだ。



その頃、空は得意先との昼食会に出るために坂崎の車で会場に向かっていた。

「またいつもの日々に逆戻りか」

空はため息をつく。

「空様、海様に戻ってきていただいてはいかがでしょう?」

坂崎は運転しながら提案した。

「あいつは戻りたがらないよ」

空は静かに答えた。

「ですが空様・・・」

「それに・・・」

空は外を眺めながら言った。

「海がいると、また『交代』したくなっちゃうから」

坂崎は前を見たまま目を見張った。

「気づいてたんだろ?坂崎は」

空が静かに聞く。

坂崎は少し躊躇しながらも「・・・はい」と答えた。

「坂崎は、空様と海様を見分けられますので」

「さすが一日中仕えてるだけあるな。親父だって間違えるのに」

空が侮蔑気味に言うと、坂崎が静かに返した。

「旦那様はお忙しい方ですので」

「はっ!どうだか」

空が吐き捨てるように言った。

「あのタヌキ親父、ちっとも仕事してないぜ」

「空様・・・」

「なぁ、坂崎」

「はい」

「俺と海の違いって、何だ・・・?」

坂崎は少し考え、言った。

「たくさんありますので、どれか一つを申し上げて空様が誤解なさらないか心配です」

「心配?」

「『それだけしか違わないのだ』と」

空は外を眺めながら目を見張った。

「空様と海様は、交代するために、お互いの個性を消し合っていたのではないかと坂崎は思います」

「・・・」

「でも、坂崎には区別がつきます。恐らく、なる様も・・・」

空は外を眺め続けている。

「そして、玲子様も」

『見分けって、つくものなのね・・・』

玲子・・・

空は外を眺めながら呟いた。

「『存在する』って、そういうことなのかな・・・」

坂崎は少し考え、「そういう側面もあるかもしれません」とだけ言った。

話している間に車は会場に到着し、駐車場で停車準備を始めた。

「『神宮寺空』を始めますか・・・」

空は独り言のように呟いた。




「なるは、どうしてあの時、空の気持ちがわかったんだ?」

今度はソファで寝転がって宙を向いていた海がおもむろになるに聞いた。なるは横で雑誌を読んでいた。

「あの時?」

「俺との関係も壊したくないけど、とか何とか」

『海との関係も壊したくない、でも玲子さんが好き、そんな気持ちになっちゃったんじゃないですか?』

「あー」

なるは思い出した。

「空、かなり驚いてた。あれは図星だ」

海は宙を向いたまま、細い目をした。

「・・・私が、そうだったから」

なるは少し俯いた。海がなるを見る。

「私、玲子さんのこと好きだし、海とお似合いだと思った。でも、海の彼女になりたいと思った。彼女になったら、私のことだけ見てほしいと思った」

「なる・・・」

「だから、辛くなって逃げちゃったの」

なるは悲しげに微笑んだ。

「ごめん・・・」

海は起き上がって抱きしめた。

「ひゃぁぁあ」

なるはいつもながらゆでダコになる。

「なるだけだから、本当に」

なるは微笑んだ。

「うん・・・今はそう思える」

「よかった」

海はほっとしてなるから離れた。

なるはふと思って、言った。

「空さんも、そうだったのかな・・・」

海はソファに深く腰かけて宙を向いた。

「玲子さんが自分だけを見てくれる自信がなかったのかも・・・それと・・・」

なるも宙を向いて言った。

「海と空さんは、きっと私が思うよりもっと複雑な関係だと思うから、よく分からないけど・・・」

『俺達ずっと、二人で一人だったじゃないか・・・俺は、そうじゃないと生きていけないんだよ・・・』

「空さんは、交代してる日々さえ、本当は壊したくなかったんじゃないかな・・・」

なるがそう言うと、海が驚いてなるを見た。

「二人で一人のまま、ずっといたかったとか」

「そんな・・・俺に家を出ろって言ったのはあいつだぞ・・・」

なるは驚いてる海を見て微笑んだ。

「私も、別れたくないけど別れようって言ったよ」

海は驚いたままなるを見つめた。

「心にもないこと言っちゃうことって、あるよね・・・」

『どうしたらいいか、わからなくなっちゃったんだよ・・・逃げ出したくなったんだ、全てから・・・』

海はソファに深くもたれ、また宙を向いた。

「そんな・・・」

二人で一人のまま・・・

海は戸惑っていた。



昼食会が終わった空が坂崎の車に戻ってきた。

今度は秘書が一緒に乗ってきた。

「副社長、次は先日調印した合弁会社の経営陣との打ち合わせになっております」

「ああ」

「坂崎さん、出してください」

秘書が言うと坂崎は「かしこまりました」と言って車を発進させた。

「調印式自体は海さんが出席されましたが、この中でご存じのない方はいらっしゃいますか?」

この秘書は空が入院中海をフォローした秘書だ。そのため海の存在を知っている。

秘書が調印式の写真を数枚空に渡した。

空は写真を眺める。

「・・・一通り海から聞いてるから大丈夫だとは思うが・・・この女性は?」

空が秘書に写真を渡す。女性が老人と写っている。老人は調印式の時に海と握手した共同出資者の会長だ。

「こちらは佐藤商事の会長の御令孫の祥子様です」

「俺の見合い相手か・・・」

空は答えた秘書からまた写真を受け取り、眺めた。

「次の打ち合わせの後、そちらの佐藤会長との懇親会があります。副社長さえよろしければご祥子様をご紹介くださると先方は仰っています」

「・・・」

空は少し考えて、言った。

「紹介・・・してもらおうか」

秘書は無表情の中に少し驚きを混ぜた表情になった。

「よろしいのですか?」

「ああ」

空は静かに答えた。

坂崎が運転席で目を細めた。




「玲子さんと空さん、すれ違っちゃったんだね・・・」

なると海が遅めの昼食を取っている時に、なるはふと言った。

海が食事を止めてなるの方へ目を向ける。

「空さんこそきっと、本当の自分を見てほしいって、心の中で叫んでたのかもしれない」

なるは俯く。

「そうだな・・・」

海も俯く。

「そうさせたのは、きっと俺なんだ」

なるが海を見る。

「俺と交代なんてしなければ、こんなことには・・・」

なるは静かに言った。

「でも空さんは、交代を望んでいた」

「・・・」

海がなるを見る。

「それはそれで、空さんにとって必要なことだったのかもしれないよ」

なるは切ない顔で海を見た。

「・・・確かに、『神宮寺空』でいるって、凄い重圧だった」

海が遠い目をした。

「英才教育も辛かったし、親戚の目も取り殺されるんじゃないかと怖かった。親父の得意先との懇親会に連れて行かれたり、パーティーもあったが、いつも見られているような気がして居心地が悪かった。俺は外に出れると思えると頑張れたが、でもそれは『外に出れない自分』がいたからなんだよな」

海は俯いた。

「逆に空は、『海になるとほっとする』と言ってた」

なるは海を見つめる。

「俺が空の代わりであったように、空の中にも『海』がいたんだ。俺は、空からそれを奪ってしまった。残ったのは、空が望んでいない日々だったのかもしれない」

海はまたなるを見つめる。

「でも空はどうしてそこから出ようとしないんだろう」

なるは少し考えて言った。

「自分が『神宮寺空』であると思えば思うほど、出れなくなってしまうのかな・・・」

『お前には『海』として生きる道がある。俺から『空』を取ると何もないけど』

海は空の言葉を思い出した。

「空を助けたいけど・・・」

海は俯く。

「俺はもう、『空』には戻りたくないんだ」

海はなるを見つめる。

「代わりなんてもうやめよう?自分の道は、自分で探さなきゃ。でも・・・」

なるも海を見つめた。

「空さん、助けたいね」

海は頷いた。

「・・・玲子さんと空さん、会わせちゃう?」

なるは思いついて言った。

海が驚く。

「二人が別れた当初、空を何回か説得したんだけど、会いたがらなかったんだ」

海が思い出すように言った。

「俺も会いたがっていない空を無理やり玲子に会わせてさらに玲子を傷つけるのが怖くて、無理強いできなかった。でも・・・」

海が力強く言った。

「玲子なら、空を救える気がする」

そう言った後、海が力なく続けた。

「玲子に、その気があればだけど・・・」

なるは海を見た。

「俺達は散々玲子を振り回してしまった。もう玲子はさすがに、前に進みたいと思ってるんじゃないかな」

なるははっとした顔をして言った。

「そうだね・・・」

なるは申し訳なさそうに肩を落とした。

「ごめん・・・こんな話ばかりで」

海も申し訳なさそうに言った。

なるは顔を上げて言った。

「ううん」

なるが少し躊躇ってから、続けた。

「私、海のこと知ることができて、嬉しいの」

海が少し目を見開いた。

「お兄ちゃん、昔から自分の話をしたがらなかった。海、自分の話をしたくない時の顔があるの、自分で分かってた?」

海は驚く。

「いや・・・」

「私もお父さんもお母さんも、海がそういう顔をした時は、何も聞かないようにしてた。聞き分けのいい家族でしょ?」

なるはふふっと笑う。

「海と再会した後も、たまにあったよ。空さんの話をする時と、昔の玲子さんの話をする時」

海が申し訳なさそうな顔をする。

「でも今、こうやって海が話してくれるの、凄い嬉しい。認めてもらえたみたいで」

「なる・・・」

「あと、海は嬉しくないかもしれないけど・・・海が『お兄ちゃん』だって分かったことも嬉しいの」

なるは微笑む。

「私の思い出に、海がいたことが嬉しいの」

「なる・・・」

海は少し考えて言った。

「・・・10年前の俺は、俺じゃないと思ってた。『神宮寺空』を演じてたから」

海は少し申し訳なさそうに続ける。

「なる達にいかに俺と空で作った『神宮寺空』を見せるか、そればかり考えていた。だから、俺にとっては、偽物だった」

なるは静かに聞く。

「でも、あの時感じた気持ちは、俺の中に残って、俺を形作ってる。なるに告白してわかったんだ。あの時の俺も、俺だったんだって」

海が微笑む。

「俺も嬉しいよ。なるちゃんと再会できて。きっと俺は本当は、この日が来るのを心のどこかで待ってたんだ」

「お兄ちゃん・・・」

なるは胸がいっぱいになるのを感じた。




空は打ち合わせが終わり、坂崎の車で移動していた。

秘書は「次の懇親会は社長と伺いますので、現地でお会いしましょう」と言い別れ、後部座席には空のみ座っていた。

「懇親会までお時間がありますが、一旦ご自宅にお帰りになりますか?」

坂崎が運転しながら言った。

「いや・・・あの海に行こう」

「空様、砂浜はスーツが汚れないか気になりますが」

「大丈夫、爺さん達は足元なんて見ないさ」

「お気をつけて下さい」

坂崎はそう言いながら車を海へ走らせた。




車は海の見える公園に着き、空は浜辺に向かった。

坂崎は少し離れた場所から空を追って歩く。

夕暮れ時の浜辺の空。僅かに残る夕焼けが海に消えていこうとしていた。

空は、前方に消え行く夕日を見つめる女性がいることに気がついた。

綺麗な黒髪が風でなびいている。

空は、動悸で心臓が苦しくなった。

立ち止まり、動けない。

女性が気配に気がついたのか、振り返った。

「空・・・?」

女性が小さく言う。

「玲子・・・」

空は驚く。

「運命的ね」

玲子は微笑んだ。

「どうしてここに?」

空が驚いたまま言った。

「昨日も来たんだけど、今日も一人で来たくなっちゃって」

玲子がふふっと笑う。

「あなたとの、思い出を感じに」

6年前と変わらない笑顔だった。

空は思わず玲子を抱きしめた。

玲子は驚いたが、そっと腕を回した。

「どうして、来たんだ・・・」

「あなたが私を押しつけた海に、フラれちゃったのよ」

「もう会わないって決めてた」

「あなたこそ、何で来たの?」

「・・・玲子と見た夕日を、見たかったから」

「あなた、とっても矛盾してるわ」

「ああ・・・自分でもわからないんだ」

「そんなあなたを、昔の私はわかってあげられなかったのね」

「・・・玲子・・・」

「海のおかげで、まだ私、『神宮寺空』のこと、忘れられないのよ」

「・・・それは俺じゃない」

「・・・でもこうして私を抱きしめてるのは誰?」

「・・・」

「海は私を介抱してくれたことはあるけど、抱きしめたことはないわ」

「・・・」

「私とキスしたのは、どっち・・・?」

玲子が少し身体を反らす。

二人は見つめ合った。

空は玲子から離れて、背を向けた。

「お前が好きだったのは、俺じゃないんだ・・・」

玲子は空の背中を見つめる。

「あなたが忘れられないのも、私じゃないわ」

空は驚いて静かに振り返った。

「だって私たち、6年も会ってなかったのよ?私だって、昔の私とは違うわ。顔が一緒でもね」

「玲子・・・」

「私も、この夕日を見終わったら、空を忘れて前を向いて歩こうと思ってた。・・・でも女って、こういう運命に弱いのよ」

玲子はふふっと笑う。

「私たち、ここから、また始めればいいんじゃないかしら」

空が目を見開く。

「初めまして、神宮寺空さん」

玲子が手を差し伸べてきた。

空も手を出し、握手をする。

その途端、空は玲子を抱き寄せ、キスをした。

「・・・!」

玲子は少し抵抗する素振りを見せたが、やがて身を任せた。

坂崎は遠くからその光景を驚いた表情で見つめ、そっと車へ引き上げた。




しばらくして、坂崎の待つ車に空が乗ってきた。

「待たせたな」

「いえ。会場に向かいます」

坂崎は車を発進させた。

「・・・車に戻ってたんだな」

空が躊躇いがちに言う。

「はて。坂崎は最初から車でお待ちしておりましたが」

坂崎がそう言うと、空はふっと笑った。

「そうか・・・」

車は海の見える公園を、静かに離れた。

空は少し溢した笑みをすぐ戻し、遠い目で窓の外を眺めた。




「今日は1日のんびりしたね!」

なるがソファでうーんと伸びをしながら言った。

「そうだなー俺こんなオフ久々だよ」

横で寝転がって雑誌を読む海が言った。

「明日からまたお仕事頑張らないとね」

なるが微笑む。

「お前も来るんだぞ」

海がなるをちらっと見て言った。

「・・・うん」

なるが頷く。海が微笑んだ。

「よかった」

なるが海を見る。

「お前に作ってもらってたホームページ、あのまんまなんだからな」

海がふんっと鼻息を荒くして言う。

「はーい、頑張りまーす」

なるがてへっと舌を出して言った。

海は微笑んで聞いていたが、はっと思い出して言った。

「あっ、お前、試験は大丈夫だったのか?」

なるはぎくっとした。

「だ、大丈夫でしょ、まだ結果わからないけど」

なるははははぁと笑う。

「お前?成績落ちてたら・・・」

海がなるを睨む。

「まぁまぁまぁまぁ。じゃ、夕御飯の支度するね!」

なるは逃げるようにキッチンへ行った。

「ったく・・・」

海はそう言って幸せそうに雑誌を読み始めた。



空は懇親会の席に着いていた。

空の父と秘書も同席している。

空達から少し遅れて、佐藤会長と祥子がやってきた。

「これはこれは大変お待たせしました」

佐藤会長は在り来たりな社交辞令を言う。空達も「いえいえ」と在り来たりな返事をする。

「今日は孫共々ご招待いただいてありがとうございます。これが孫の祥子です」

空は紹介された女性を見た。

身長はそこまで高くない。体型は全体的にふくよかだ。髪は少し染めているようで茶色く、天然パーマのようでややウェイヴがかかったセミロングだ。

・・・身長は『なるちゃん』に近いな。でも『なるちゃん』より丸いかな。

・・・玲子とは全然タイプが違うな・・・

空はさっきの浜辺の光景を思い出していた。

「よ、よろしくお願いいたします」

祥子が恐る恐る挨拶した。

「よろしくお願いします」

空は微笑んだ。

空と目を合わすと、祥子は途端に顔を赤らめた。

「祥子は副社長と同い年なんですよ、ほっほっほ」

佐藤会長が二人を微笑ましく眺めて言った。

佐藤老人はひょろっとした痩せ形で、少し白い髭を生やしている。好好爺という例えがぴったりくる、感じの良い老人であった。

「せっかくのご縁と思いましてな」

好好爺佐藤会長がそう言って笑う。空の父と秘書も合わせて微笑んだ。

空も微笑んでいた。なるが見たら『お兄ちゃんスマイル』と言うであろう、穏やかな笑みを浮かべていた。




「はい!今日もお鍋!」

なるが鍋の具材を準備してテーブルに持ってきた。

「いいね!冬はやっぱり鍋!」

海が喜ぶ。

「あ、でも海、空さん、お鍋初めてだって言ってたよ?」

海がぎくっとした。

「いやぁ、実は俺も・・・」

海が頭を掻いた。

「一人暮らしの時やってみようかと思ったけど、一人でやってもなぁと思ってやめちった」

なるは驚く。

「そうなんだぁ」

「うちの食卓は、料理人が作って皿に盛って出てきちゃうからさ」

「おおお、さすが」

「いやぁ、つまんないもんだぜ?俺、なると鍋つついてたほうが楽しい」

海は火にかけた鍋を待ち遠しそうに見つめる。

なるはそんな海を微笑ましく見つめた。



「いやぁ、おいしゅうございました」

好好爺佐藤会長が満足そうに言った。

「ご満足いただけたようなら良かった」

社長である空の父が言う。

「面白いお話もたくさんできて、爺は満足ですよ。・・・あとは、若いもんに任せようかの、ほっほっほ」

空は戸惑った。祥子がとろんとした目で空を見ていた。

「それが・・・」

空が言いかけたのを遮るように空の父が言う。

「そうですね。祥子さんは空に送らせますが、よろしいですかな?」

「構いませんよ。楽しくても初対面からあまり遅くならないようにお願いしますよ、ほっほっほ」

佐藤会長は酒も入りご機嫌だ。

「では最後にもう一度、合弁事業の前途を祝して」

乾杯と、会長がグラスを掲げる。

他の面々もグラスを掲げた。

祥子は空からとろんとした目を離さない。

空は複雑な気持ちでグラスを掲げていた。



空達は店を出、それぞれの迎えの車に乗り込もうとしていた。

祥子は会長と話しているようだ。

その間に空は父親に駆け寄った。

「親父、祥子さんの件は・・・」

「お前が紹介しろと言ったのだろう?」

「そうなんだけど・・・」

「合弁事業は、お前が進めてる事業だろう?」

空は言葉に詰まる。

「今回は社運もかかってるんだ。『前』みたいなことになれば、私の顔に泥を塗るだけでは済まないぞ、わかってるんだろうな?」

「・・・」

空は何も返せなかった。

「空さん!」

空と父親が振り返る。祥子だ。

「では祥子さん、また」

空の父が笑顔で会釈して去っていった。

祥子も笑顔でお辞儀をした。

空は取り残されていた。



坂崎は車の横に立って待っていた。

そこに空が女性を連れて戻ってきた。

坂崎は後部座席のドアを開ける。空が女性をエスコートして乗せ、自らも乗った。

坂崎がドアを閉め、運転席に乗り込んだ。

「・・・坂崎、こちら佐藤会長のお孫さんの祥子さん。祥子さん、私付きの執事の坂崎です」

空が紹介する。

「坂崎さん、よろしくお願いいたしますぅ」

祥子がとろんとした声で挨拶する。少しお酒が回っているようだ。

「祥子様、宜しくお願い申し上げます」

坂崎は丁寧に挨拶した。

「空さん、空さんの好きな場所に、案内していただきたいですわぁ」

祥子は空に少しもたれかかりながら、とろんとした声で言った。

空がちらと祥子を見る。祥子はこれまたとろんとした顔で空を見つめていた。

「・・・」

空は宙を見て少し考えた。

「・・・坂崎、すぐそこの公園につれてってくれないか」

「かしこまりました」

坂崎は静かに答え、車を発進させた。



公園に着き、空と祥子が散歩を始めた。

「夜の公園も、良いものですねぇ」

祥子は足下が少しふらついている。

「寒くありませんか?」

空が祥子を支えながら歩く。

「大丈夫ですわぁ、空さんとお話しできて幸せなんですぅ」

祥子が空を見つめる。空は微笑んだ。

空に見とれた祥子が躓き、思わず空に抱きついた。

「大丈夫ですか?」

空が心配そうに聞く。

「このままでいたいですぅ」

祥子がさらに強く抱きついた。ブラウスの胸元が少しはだけているが、祥子は気にしていないようだ。

「祥子さん・・・」

空は困惑していた。



「海ーお風呂空いたよー」

なるが風呂から出ると、海はソファの定位置でテレビを見ていた。

海が振り返り、なるを手招きした。

「ドライヤー持ってきて」

「?」

なるがドライヤーを持ってきてソファに来ると、海が自分の隣を手でぽんぽん叩き「座って」と言う。

なるが座ると海がドライヤーを取り上げなるの髪を乾かし始めた。

「えええぇ、自分でできるよぉ」

「いーの、たまにしかやらないから」

なるはゆでダコになりながら、髪をくしゃくしゃにされるがまま、幸せを感じていた。





空は何とか祥子を振り切り、車に戻った。

祥子は残念そうな顔をしていたが、空は「夜は寒いですので、今日はもう帰りましょう」と言って祥子を自宅に送った。

祥子を玄関まで見送り、坂崎の車に空が戻る。

坂崎は自宅に戻ろうと車を発進させた。

「・・・坂崎」

「はい」

「玲子の家に行ってくれ。知ってるんだろ?」

「ですが空様・・・」

「いいから」

坂崎はバックミラー越しに空を見た。

空は険しい顔をして窓の外を見ていた。

「かしこまりました」

坂崎は玲子の家に車を走らせた。

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