青い線

加藤よしき

第1話

 福岡県北九州市の門司港は、船乗りの街だった。本州と九州を分かつ関門海峡に面し、かつては本州や中国大陸への玄関口として栄えた。


 その頃、街に暮らす男は二種類しかいなかった。

 海に出た者か、陸に残った者か。


 「東京で声優になる」

 高校卒業を三か月後に控えたある日の午後。春日部 良人(かすかべ りょうと)は山城 幸一(やまぎ こういち)にそう打ち明けられた。

 春日部は思わず「はぁ?」と間の抜けた声を漏らし、くわえていたタバコをベランダの床に落とした。コンクリートの上で、タバコの小さな火花が散った。

 「おかしいか?」

 そう言う山城は、あくまで真剣である。「待て待て」そう言って春日部は、落としたタバコを拾って、吸い直した。

 大きく煙を吸い込み、吐き出す。そして聞く。

 「東京ってマジ?」

 「うん。親戚の家に居候する。そこから専門学校に通う」

 「専門学校? よう親が許したな」

 「学費はバイトで貯めた。そしたら納得してくれた」

 「おまえがバイトをやたらしてたのは、そのせいか」

 「そう」

 春日部はタバコをまた大きく吸った。チリチリと音がした。

 二人のいる学校は、比較的偏差値が低い。春日部は髪にパーマをかけていたし、ピアスも一つ開けている。山城は黒髪を伸び放題にさせていた。二人とも完全に校則違反だし、今この瞬間も授業をサボっていたが、特に問題にはならなかった。

 「声優目指したら悪いか?」

 山城が銀縁の眼鏡を直しながら、やや怒りの混じった声で言った。低いが、独特の甘ったるさのある声だ。

 「まぁ、前から言ってるけど、お前いい声してるし、案外、向いとるかもしれん。少なくとも、オレみたいな汚い声よりは……あっ!おまえ、声優目指しとったから、オレがいくら勧めてもタバコ吸わんかったんか?」

 「それもある。けど……おまえ、それ以前にオレら未成年やぞ。どうせ川上先輩に教わったんやろうけど、あんまり堂々と吸うなよ」

 川上とは、二人の二個上の先輩である。

 「しかし……なんで声優?」

 「アニメ好きやからな」

 「えっ、理由それだけ?」

 「うん」

 「……ごめん、やっぱ想像できんわ。本当に仕事になるんか、それ?」

 「オレも分からんよ」

 「分からんのかちゃ」

 「分からんから行くんよ。とりあえず、この街におったら分からんからな」

 山城はそう言って、関門海峡の向こう側――下関の方を見た。だが、春日部は山城が下関の更に向こうを見ているような気がした。自分には想像もできない、ずっと向こうだ。

 「まぁ、この街だと百パー声優なれんもんな」

 春日部は、またタバコを大きく吸う。すでに三分の二は灰になっていた。

 「春日部、お前はどうするんか?」

 「オレか、オレは……普通に就職」

 「川上先輩の店か?」

 山城の一言に、春日部は息を飲んだ。濃いニコチンとタールが、一気に肺に侵入してきた。思わず咳き込みそうになる。だが、それを噛み殺して山城に聞き直した。

 「先輩の店のこと、知っとるんか?」

 「川上先輩ほど目立つ人はおらん。あんな身長高くて、金髪で、やたらピアスしとる人、小倉でも目立つ。この前聞いたけど、あの人、今ゲイバーの店員やろ?」

 小倉とは、北九州の中心街である。

 「だから?」

 春日部は、タバコを持つ指先が震えているのを感じた。

 自分は動揺している。混乱している。

 頭の中で、糸が絡まる感覚がした。

 「その店で働くんか?」

 「分からん」

 春日部が答えた。

 「川上先輩と暮らすんか?」

 「……小倉南に、あの人アパート借りてるから」

 「いいんか?」

 山城が春日部の二の腕を掴んだ。

 その道はいけない――そう止めるように。しかし、

 「離せ」

 春日部が言った。腹が立った。

 なぜ、今になってこんなことを山城は言うのだろう。

 前に自分が好きだと言ったとき、涙を浮かべながら断ったくせに。

 なんでこんな、希望を持たせるような真似を――。

 「ごめん」

 山城は手を離した。

 その強張った顔を見て、春日部は咄嗟に笑顔を作った。ここで笑わなければ、本当に二度と埋められない溝ができる。たしかに断られた。しかし、それでも友人でいてくれた山城との間に――。

 「ははは、ごめん。でも、いいんちゃ。俺は好きな人と同棲して、好きなように生きる。おまえと同じ。やから平気っちゃ」

 「……そうか」

 山城が言った。春日部はさらに大きく笑った。「暗い顔すんな」そう言ったとき。

 「なぁ、春日部。タバコ……いいか?」

 山城が吸いかけのタバコを指さした。

 「え、なんで?」

 「頼む」

 春日部は吸いかけのタバコを山城に渡した。

 山城はそれを軽く吸うと、すぐに咳き込んだ。そして、春日部にタバコを返した。

 「げほっ。ごめん、タバコってこんなんなんやな」

 「おまえ、声優はノドが命やろ」

 「一回だけなら平気だろ。ありがとな」

 山城が笑った。山城とは小学校からの付き合いだが、その笑顔は……今までのどの笑顔よりも清々しかった。

 「なんか踏ん切りついた。オレ、絶対に声優になる」

 「おう、売れろよ。そしたら未成年でタバコ吸ってたって、ネットに書いて炎上させてやる」

 「……ふっ、ははは。分かった。炎上するくらい売れるわ」

 「約束だぞ!」

 笑いながら、山城はベランダから出て行った。だが春日部は「この一本を吸い終わってから」と言って、ベランダに一人残った。


 山城が出て行った途端、春日部は壁に寄り掛かったまま、膝からズルズルと崩れ落ちた。口にはあのタバコがある。もうあと一息で、吸いきってしまうだろう。

 「遅いんちゃ……なんが踏ん切りか、バーカ」

 春日部はユラユラと空へ登るタバコの煙を見ていた。その煙の向こうには、関門海峡がある。関門海峡は今日も青い。まさに本州と九州の間に引かれた真っ青な線だ。

 頬を伝って、水滴が床に落ちる音がした。

 そして吸いきったタバコが口元から零れ落ちた。

 しかし春日部は、ずっと関門海峡の向こうを眺めていた。

 

 門司港は船乗りの街である。

 船乗りの街には、海に出た者と、陸に残った者しかいない。

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